ロレンツ夫妻の夜の秘密

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1.夫婦喧嘩

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 ディアナ・ロレンツは、激昂していた。
 月の女神の名に負けない端正な白い面は紅潮し、豊かな茶の巻髪は逆立つようだ。
 凛々しい翠玉の双眸を尖らせ、唇をわななかせて、彼女は怒りの源を睨んでいた。

 ステファン・ロレンツは、帰宅早々、居間で待ち構えていた妻に気圧された。元々の下がり眉が、さらに気弱に垂れる。

「遅くなってすみません。でも仕事で」
「嘘つき!」
 ディアナは即座に切り捨てた。
「もう、私、貴方が何をしているか知っていますわ!」

 王立衛生研究所の医官であるステファンの仕事熱心は知っていたから、ディアナは度々帰宅が遅くなると告げられても、疑わなかった。
 通いの家政婦に教わりながら、家の中をせっせと整え、料理のレパートリーを増やして彼を待った。
 昼、ローストビーフが綺麗に焼きあがったのに気を良くして、夜食に届けようと思いついた。
 サンドイッチにしてバスケットに詰め、彼の職場を初めて訪ねた。

「ロレンツはおりますか?」
「おや、残念。入れ違いですね、奥さん」

 結婚披露パーティーで顔を合わせていた同僚が教えてくれた。

「彼はあなたを迎えてから本当に幸せそうだ。ほとんど職場に住んでいるような生活だったのに、このごろ毎日定時帰りです」

 ディアナは踵を返した。何かの勘違いだと思いたかった。彼は往診に出ることもあるし、今日はきっと朝と事情が変わって早く仕事が片付いたのだ。家路を急げば、見覚えのあるコートの背中を見つけた。
 声をかけようとした時、彼は角を曲がり、迷いなく裏町に踏み入った。

「待ってたわ、先生」

 底冷えのする夕暮れに、露出の多いドレスを纏った女が彼を出迎えた。

「風邪を引きますよ」
「ふふ、そしたら先生が治してくれる?」

 媚を売る女を腕に絡ませて、彼はけばけばしい娼館に吸い込まれていった。
 あまりの衝撃に、追うことができなかった。籐のバスケットの柄を、折れそうな程握りしめて、ディアナは立ち尽くしていた。






「ディアナお嬢様と結婚させてください」

 ディアナの実家リヒター子爵家の応接で、ステファンが突然頭を下げたのは、まだほんの数ヶ月前のことだった。
 父たる当主テオドールは、あっさりと答えた。

「いいですよ」

 まるで猫の子でも譲るように、長女の嫁ぎ先を決めた。

「即決ですか」

 あまりの話の早さに、ディアナは二人して何かの冗談を言い合っているのではないかと疑った。
 しかし父は本気だった。

「君、十六で社交に出したのが、もう二十だろう。尊敬できる相手でないと嫌だなんて、散々求婚者のプライドをへし折る断り方をして、高慢だと敬遠されている自覚はあるか。いくらなんでも縁がなくなるのを、大変有り難いお申し出だ。母を救った医師を尊敬できぬとは言うまいな」

 ディアナはぐうの音も出なかった。
 元凶のステファンまでオロオロしている。
 父ばかり平然として、娘の夫と決めた男に向き直った。

「で、婚礼はいつにしましょうか」

 彼は前のめりになって答えた。

「……すぐにでも!」

 その後、ディアナと二人になって、ステファンは我に返ったのか、恐る恐る伺いを立ててきた。

「お嬢様、僕は身分もぎりぎり姓を許されるくらいで、財産もありませんし、見てくれもこんなで、先生なんて呼ばれるようになったのも全部貴女のお父様のおかげの情けない男ですが……本当に、宜しいですか」

 ディアナは呆れた。

「父に許可を貰っておいて今更ですわね?」
「だって、貴女に直々に振られたら心臓が張り裂けます。お父様に却下されたほうが諦めがつくと思ったんです。まさか許してもらえるなんて」
「気弱なこと!」
「すみません」

 ディアナより十六も年上のくせに、ステファンは叱られた子供のように縮こまった。彼は体格に恵まれた方ではない。女性としては長身のディアナが少しソールのある靴を履けば、彼より目線が高くなってしまうくらいだ。金色の頭髪は柔らかすぎていつもくしゃくしゃだし、瞳の色が判じ難いほどの糸目だった。視力に問題はないとのことだが、考え事をしながら歩く癖があってよく物にぶつかっていた。
 はっきり言って、風采が上がらない。
 一方のディアナは、社交デビュー以来、才色兼備の評判を欲しいままにしていた。これまで選り取り見取りの縁談があった。
 身分の高いものも、見目の良いものも、頭の切れるものもいた。それでも、何かしらの欠点に気がいって、受け入れられなかった。
 しかし、今回ばかりは、不思議と拒む気持ちが起きなかった。
 ディアナは、認めた。

「……私、父の言う通り、先生を尊敬しております」

 六年前、ディアナの母、リヒター子爵夫人マリーは大病を得て生死の境を彷徨った。父が呼んだ高名な医師が次々と匙を投げる中、唯一諦めず添ってくれたのがステファンだった。彼が試行錯誤した薬で、母は一命を取り留めた。
 父は以来、ステファンを手厚く後援している。彼は一種の天才だった。研究資金を得たここ数年、治療が難しかった病に効く薬をいくつも見出していた。

「この世で最も尊いお仕事をなさっていると思います」

 ステファンの目が薄くだが、見開いた。ディアナは、そのとき初めて、彼の瞳は深い藍色なのだと知った。
 ステファンはふらりと跪いて、ディアナの手をとった。

「……夢のようです……お嬢様、僕は、一生涯、全身全霊をかけて、貴女に尽くすことを誓います」

 ディアナは、くすぐったいような心持ちになった。
 彼の興味は病んだ人を癒すこと、よりよい治療法を探し、薬を作ることにのみあって、めったに風邪すらひかないディアナに用などないのだろうと思っていた。
 それが、いつからこんな風に恋うてくれていたのだろう。

「嬉しいですわ、ロレンツ先生」

 彼となら、情熱的なロマンスは望めなくても、きっと深く信頼しあえる夫婦になれると期待して、ディアナは承諾したのだ。




 しかし、共に暮らして一月にもならないというのに、結果はこれだった。
 振り返れば、心当たりはあった。
 貴族の箱入り娘だったディアナは、家事に疎かった。
 パンや肉を消し炭にし、ドロドロのスープを作り、野菜についていた虫に悲鳴を上げた。紅茶も珈琲も信じがたく苦い何かになった。
 湯浴みの用意のつもりが地獄のような熱湯釜を沸かした。掃除も洗濯も、道具や洗剤の扱いが分からずに手間取った。
 はっきりした物言いも、朝夕顔を合わせてみれば、鼻につき始めたのかもしれない。
 閨事も充実とは程遠かった。彼は片手で数えるほどしかディアナを求めていなかった。避妊の飲み薬と、破瓜の痛みを和らげるという塗り薬まで使った行為は、経験のなかったディアナにも負担は少なかったが、何かの施術のように義務的で短かった。彼はまだ、彼女の内に精を射してもいなかった。
 そういったことには淡白な気質なのだろうと、納得しようとしていた。結婚する段になって、積極的に子を求めない彼の事情も聞いていた。寂しくても、女の方から欲しがるなど、はしたないと諦めていた。
 色々と至らなかったのは認める。しかし、彼は文句どころか慣れぬことを頑張っているからと労ってくれていたのだ。
 なのに、新妻を差し置いて、隠れて商売の女を買っていた。
 ディアナの握り拳が震えた。

「私に不満なら、そうおっしゃってくれればよかったのに……!」
「ディアナ、落ち着いて。僕は貴女に不満なんか」
「いいえ、貴方の言葉、信じた私が愚かでした!」

 求婚すら、こうなっては愛情ゆえには思えなかった。善良を装って、結局は強力なパトロンを繋ぎとめたかっただけなのだろう。
 ステファンが伸ばしてきた手を、払いのけた。

「触らないで、穢らわしい!」

 裏切ったのは彼の方なのに、哀しげな表情を浮かべるのが、腹立たしかった。
 ディアナはとうとう言い捨てた。

「実家に帰ります。こんな思いをするくらいなら、結婚なんてしなければよかったわ!」

 ステファンの顔が、今にも泣き出しそうに歪む。

「……だって、不満があるのは、貴女のほうでしょう」
「なんですって」

 ディアナは弓形の眉を吊り上げる。
 ステファンはようやく彼女をまともに見返した。

「嘘をついて出かけていたのは悪かったと思います。でも、僕は、貴女を満足させられる男になりたかったんです」




 妻が、仮にも夫の最後の言い訳くらい聞いてやろうと思った数分後、彼らの形勢は逆転する。
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