紙杯の騎士

信野木常

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小枝という名の断章

那珂澤博士の奮闘

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 第五紀機関(QPO:Quinary Period Organization)の専用端末に送られてきた資料に目を通すと、那珂澤アツシは眼鏡を外して眉間を揉んだ。中学生の頃、大海嘯の直後から右目の近視が進んだ。最近は近くを見るときも少し視界がぶれる。あれから30年。老眼か、もうそんなトシになるんだなあ。
 新トウキョウ湾に再び現れたC類起源体、クトゥルーの〈落とし仔〉は、アルビオン・海浜警備隊の合同作戦により殲滅された。20年前はその構成組織の96パーセントほどを滅却するに留まったものが、今回は"この次元世界"に在る構成組織、立脚する軸全てを消滅させた。これはアルビオンの実験騎体に実装されていた新機構、ニホンのクグツ舞の効力、プロテウスウィルス感染個体の異能力発現、徹界弾の効果等々の要因が絡み合って出た結果であり、何をもってこれを成し得たと主原因を一つに絞れるものではない。しかし言えることがある。
 人間という種は、新たな段階に足を踏み入れようとしている。今ある形に拘泥することなく。
 我々は被造物たる軛を外し、我々をデザインした造物主と同じ位階に手をかけつつある。アツシは眼鏡をかけなおすと端末のモニターに、改めてその資料を展開した。
 個体名は玖成メイハ。2008年4月20日に、玖成イクコの私生児として誕生。母胎妊娠初期第12週でプロテウスウィルスを投与。ウィルスのバージョンは6.49。アツシはその数字についての記憶を掘り起こした。バージョン6のシリーズは、母胎内での死亡率が高く、適用結果はあまり芳しいものではなかったはずだ。あれは確かデザインベクターとディバインシードパッケージの他に、"門"を……
 アツシは白衣の左袖をまくって時計を見た。現在18時21分。ここ、国立特種生物災害ツクバ研究所の書庫が閉まるのは19時だ。まだ間に合う。アツシが専用端末を畳むと、端末表面の螺鈿細工のような煌めきが消えた。また端末の側面から生えて脈打つ腸管状の器官が、中空の靄から抜かれて引っ込む。
 当時の記録を当たるべく、アツシは席を立って研究室のドアに向かおうとした。が
 喉に突きつけられた鋭い鎗の先端に、動きを止められた。
「ドクターナカザワ、ですネ」銀髪の、黒いパンツスーツの若い女が、訛りのあるニホン語と翠色の視線を突きつけてくる。「ミゲル・クオッカの画集を、渡してくだサイ。さもなイト……」
 アツシは左の"芽"で女をみた。常の目には見えない翼が、女の背にあるのがわかる。ノルド系の神族か。しかし左の翼が未発達で、機械式の義翼で補っていた。となると後天的に獲得した形質であろう。歳は、まだ二十歳には達していまい。2010年代のEUで、難民児童へのプロテウスウィルス投与が試みられたが、その被験体か。
「ふむ、これのことかな?」
 アツシは白衣の右ポケットから、マイクロフィッシュの入ったケースを出して見せた。
 ボストンの画家、リチャード・アプトン・ピックマンに影響を受けた画家、ミゲル・クオッカ。彼の描いた絵は、感受性の高い人間が見ると精神に変調、変容を来たす。感受性は勿論のこと、神性存在への親和性が高いプロテウスウィルス感染者がこれを見れば、高い確率で精神と肉体が変容-ザムザ症を発症する。アツシはマイクロフィッシュから転写したコピーをトウキョウ圏内の定期健診に混ぜただけだったが、単なるザムザ症発症者だけでなく、三名の"呼ばれて帰還を果たしたものリターナー"を確認できた。実験としては十分な成果と言えるだろう。再生途中のC類起源体に影響されて、トウキョウ都市結界の破壊衝動にかられたザムザ症個体が多かったことも、興味深い。
 このマイクロフィッシュ、第五紀機関が寄越したものだが、元はEUプロイセン国立図書館の絶対凍結書庫に保管されていたものだ。
「実験は済んだのでね、返却するのにやぶさかではないのだが」アツシは右手のケースを軽く振る。「渡して無罪放免、というわけにはいかないのだろう?」
「まずは、それを渡しテくだサイ」ノルドの女は左手で鎗を突きつけながら、右手のひらを差し伸べる。「その後は……」
 僅か数ミリ、鎗先が下がった。
 その瞬間、アツシは渾身の力で窓に向かって床を蹴った。私はまだ拘束されるわけにはいかない。しかし
「タケヤクン!」
「応!」
 ノルドの女の呼び声に、黒く大きな鬼影が窓を突き破って飛び込んでくる。フルフェイスの黒兜に短い双角を生やし、全身を黒い装甲で包んだその人型は、双手の剣を交差させるよう振るってアツシの首を挟み、切断した。
 逆さまになる視界で、アツシは頸部の断面から甲殻の擬足を生やして天井に張り付いた。衝撃に眼鏡と左の義眼が落ち、左の眼窩から"芽"が生え出る。
 ノルドの女の目が驚愕に見開かれた。黒い装甲の鬼もまた、こちらを見上げて戸惑っているのが見える。その視線が、アツシには少し心外だった。人の形にこだわっていないのは、君たちだって同じだろうに。
「この体になって随分経つよ。かれこれ30年くらいかな」アツシは二人を見下ろして言った。「私は呼ばれ、応え、帰還を果たした"人間"だよ」
「人間? 何や、バケモンやないか!」
「それは君たちも大差なかろう?」黒い装甲の鬼に向かってアツシは問う。「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか。"人間とは何か"という根源的な問いに、明確な解答を出せた者は有史以来存在しない。況やバケモノをや、だよ」
 この姿でこの場に留まるのは得策ではない。天井のアツシは擬足を使って破れた窓へと跳ね飛ぶと
「画集は惜しいが、この場は失礼する」
 言って、窓から夜の暗闇へその頭部だけの身を投じた。アツシは頭部と擬足だけで施設の庭園に着地すると、すぐに側溝から水路へと潜る。まずはセーフハウスへ向かって、ショゴス原基から新しい体を造らねばならない。新たな名前と身分は、第五紀機関が用意してくれるだろう。
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