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最終話 テイクアウトのスープカップ
2. ノッカーのゴブレット
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午後になって、急に風が強くなりはじめた。雨が近いのだろう。ネリマ保安部施設の埠頭から新トウキョウ湾を臨むと、東の空に暗い雲が集まっているのが見える。
ケイが左手首の時計を確かめると、針は14時18分を示していた。普段はケータイの時刻表示を見ているから、まだ少し慣れない。腕時計は、ケータイが先の〈落とし仔〉との戦いで故障していたために、海浜警備隊から支給されたものだ。
今、もしケータイが手元にあったら、僕は何をするだろう? ケイは自問した。誰かに電話? それともメール? 心に一瞬、二人の顔が浮かんで消える。打ち棄てられた遊園地で出会ってから六年。母さんの回復と、病気の再発と、幸と不幸が目まぐるしく入れ替わった日々を、どうにか拗ねずにいじけずに生きてこられたのは、きっと二人といたからだと思う。
ケイは頭の左の傷痕に手を当てた。この傷はあの日に負った罪だ。幼い全能感で何でもできると思い上がって、二人を危険に晒した。もしかしたら今もまた、同じ過ちを繰り返そうとしているのかもしれない。
一緒にテスト勉強をしていたあの夜、この傷に触れたメイハは何を言おうとしていたのか。ケイは無性に訊いてみたくなった。そんな時
「Ciao! Sir Cai!」
威勢よく陽気な異国の挨拶が、背後から投げかけられた。チャオってブリタニアじゃなくて、確かEUの、どこだかの挨拶じゃなかったっけ? ケイがそんなことを思いながら振り返ると、翠色の目を持つ髭のブリタニア人がそこにいた。
「キース隊長」
ついさっき、ケイはアルビオンの彼の部隊と、シミュレーターで作戦行動の確認を終えたばかりだった。
「何を黄昏れているんだ。戦いはこれからだぞ?」
彼は流暢なニホン語で話しかけてくる。今朝、ウルスラから本場の軍人の人と一緒に戦うと聞いて、どんな恐い人だろうと緊張したのが記憶に新しい。でも会って話して、シミュレータを使ってみたら、すごく気さくな人物だった。
「やっぱり恐くて」ケイは正直に言った。「キース隊長は、平気なんですか?」
「平気なわけない。死んだことがないからな。死を恐れないのは、狂人と死者だけだ」飾らない言葉で、キース隊長は答える。「若者よ、正しく恐れよ。恐れながらも、立ち、動け。さすれば勝利を得るだろう」
「誰か有名な人の言葉ですか?」
「そうとも」キース隊長はニヤリと笑う。「この私の言葉さ」
この人流の冗談なんだろうか。ケイは自分の口元もゆるんでることに気づいた。気を遣ってもらってるなあと思って、話題を変える。
「チャオって、ブリタニア語の挨拶じゃないですよね?」
「キミに何となく似ている友人がローマにいてね。てっきりそっち系なのかと思ったのだが。違うのかい?」
「僕は生まれも育ちもニホンですよ」
ケイ自身、同級生の顔と比べると、少し彫が深いかなくらいは思っている。しかし家系に外国人がいるなんて聞いたことはない。
「そうかね」そう言うものの、キース隊長の顔は納得していなかった。「ま、そういうことにしておこうか」
ケイがキース隊長と他愛もない話をしていると、ジャラジャラと鋼同士がぶつかる音が近づいてきた。
まず目につくのは腹まである黒髭と、眼光鋭い灰色の目。隆々とした筋肉で膨れ上がった太い右腕に、幾つもの鋼の輪が嵌っている。今朝この人物をウルスラに紹介されて、ケイが連想したのは"手足の生えた達磨人形"だ。
左脇に小さな樽を抱えてやって来た彼は、クレイノン。ブリタニアのミスティックレイス。髭もじゃ短躯の鉱工妖精《ノッカー》だ。なんでもウルスラがお世話になった人の息子さんらしい。
当のウルスラは今、試験場で〈夜明けの風〉を始めとした再突入部隊の星辰装甲、方術甲冑の最終調整に没頭している。
「おう坊主、戦の前だ。呑んでおけ」
クレイノンは赤銅色のゴブレットに樽の中身を注ぐと、ケイに差し出した。
「ありがとうございます」
何だろう? ケイはゴブレットを受け取ると、中身をみて、匂いをかいでみた。色は透き通ったこげ茶。ミントのような澄んだ香りがする。
「ほらぐっといけ、ぐっと」
ケイはちょっと怪しい気もしたが、キース隊長が飲め飲めと目で言っているので一気に呷った。
「っ!?」
そして即、後悔した。ほのかな甘みのある灼熱に喉と鼻と胃を焼かれ、ゲホゲホと思い切りむせ返る。
「な、なんですかこれ? お酒じゃないですか!」
呼吸を整えながらケイが恨みがましい目を向けるも、キース隊長とクレイノンは吹き出しゲラゲラ爆笑している。
「ノッカーの薬酒さ。飲めばここが」訳知り顔のキース隊長が、頭を指さす。「少々鈍くなる」
「……ふぅ。って、戦いの前に鈍くなったらまずいじゃないですか」
「この世のモノが相手なら、な」クレイノンがニヤリと不敵な笑みを浮かべて言った。「〈古く忘れられた統治者〉を、その眷属を相手にする時は、少々頭が鈍いほうがいい。でないと、いらんものが頭に入ってきて戦うどころじゃなくなっちまう」
そういうものなのか? ふとケイは思い出す。そういえば前、ウルスラに「いい意味で鈍感だね」みたいなことを言われた覚えがある。待てよ、ということは。
「もしかして」ケイは空になったゴブレットを、クレイノンに差し出した。「界獣と戦うのに向いてる人って……」
「あっちのヤツらを殴るのに必要なもんは」ゴブレットを受け取りながら、クレイノンが言う。「鈍さと不屈、そしてちょっとの勇気だけだ」
「それって暗にバカが最適って言ってません?」
「そうとも言えるな!」
キース隊長は言うと、クレイノンと二人で再び爆笑した。
「何を皆で大笑いしてるんだい?」
大きな笑い声を聞きつけたのか。海浜警備隊一等警士の伊勢が、キース隊長率いるカレドヴール隊の残りの2名、セドリックとグリフと一緒にやって来る。
「おう、ちょうどいいところに来たな。エイジアの戦士よ」
クレイノンがゴブレットに薬酒を注いだ。
あ、同じことをやるつもりだ。ケイが皆を見渡すと、伊勢を除くこの場の皆が顔を引き締め無表情を装っている。
ケイが左手首の時計を確かめると、針は14時18分を示していた。普段はケータイの時刻表示を見ているから、まだ少し慣れない。腕時計は、ケータイが先の〈落とし仔〉との戦いで故障していたために、海浜警備隊から支給されたものだ。
今、もしケータイが手元にあったら、僕は何をするだろう? ケイは自問した。誰かに電話? それともメール? 心に一瞬、二人の顔が浮かんで消える。打ち棄てられた遊園地で出会ってから六年。母さんの回復と、病気の再発と、幸と不幸が目まぐるしく入れ替わった日々を、どうにか拗ねずにいじけずに生きてこられたのは、きっと二人といたからだと思う。
ケイは頭の左の傷痕に手を当てた。この傷はあの日に負った罪だ。幼い全能感で何でもできると思い上がって、二人を危険に晒した。もしかしたら今もまた、同じ過ちを繰り返そうとしているのかもしれない。
一緒にテスト勉強をしていたあの夜、この傷に触れたメイハは何を言おうとしていたのか。ケイは無性に訊いてみたくなった。そんな時
「Ciao! Sir Cai!」
威勢よく陽気な異国の挨拶が、背後から投げかけられた。チャオってブリタニアじゃなくて、確かEUの、どこだかの挨拶じゃなかったっけ? ケイがそんなことを思いながら振り返ると、翠色の目を持つ髭のブリタニア人がそこにいた。
「キース隊長」
ついさっき、ケイはアルビオンの彼の部隊と、シミュレーターで作戦行動の確認を終えたばかりだった。
「何を黄昏れているんだ。戦いはこれからだぞ?」
彼は流暢なニホン語で話しかけてくる。今朝、ウルスラから本場の軍人の人と一緒に戦うと聞いて、どんな恐い人だろうと緊張したのが記憶に新しい。でも会って話して、シミュレータを使ってみたら、すごく気さくな人物だった。
「やっぱり恐くて」ケイは正直に言った。「キース隊長は、平気なんですか?」
「平気なわけない。死んだことがないからな。死を恐れないのは、狂人と死者だけだ」飾らない言葉で、キース隊長は答える。「若者よ、正しく恐れよ。恐れながらも、立ち、動け。さすれば勝利を得るだろう」
「誰か有名な人の言葉ですか?」
「そうとも」キース隊長はニヤリと笑う。「この私の言葉さ」
この人流の冗談なんだろうか。ケイは自分の口元もゆるんでることに気づいた。気を遣ってもらってるなあと思って、話題を変える。
「チャオって、ブリタニア語の挨拶じゃないですよね?」
「キミに何となく似ている友人がローマにいてね。てっきりそっち系なのかと思ったのだが。違うのかい?」
「僕は生まれも育ちもニホンですよ」
ケイ自身、同級生の顔と比べると、少し彫が深いかなくらいは思っている。しかし家系に外国人がいるなんて聞いたことはない。
「そうかね」そう言うものの、キース隊長の顔は納得していなかった。「ま、そういうことにしておこうか」
ケイがキース隊長と他愛もない話をしていると、ジャラジャラと鋼同士がぶつかる音が近づいてきた。
まず目につくのは腹まである黒髭と、眼光鋭い灰色の目。隆々とした筋肉で膨れ上がった太い右腕に、幾つもの鋼の輪が嵌っている。今朝この人物をウルスラに紹介されて、ケイが連想したのは"手足の生えた達磨人形"だ。
左脇に小さな樽を抱えてやって来た彼は、クレイノン。ブリタニアのミスティックレイス。髭もじゃ短躯の鉱工妖精《ノッカー》だ。なんでもウルスラがお世話になった人の息子さんらしい。
当のウルスラは今、試験場で〈夜明けの風〉を始めとした再突入部隊の星辰装甲、方術甲冑の最終調整に没頭している。
「おう坊主、戦の前だ。呑んでおけ」
クレイノンは赤銅色のゴブレットに樽の中身を注ぐと、ケイに差し出した。
「ありがとうございます」
何だろう? ケイはゴブレットを受け取ると、中身をみて、匂いをかいでみた。色は透き通ったこげ茶。ミントのような澄んだ香りがする。
「ほらぐっといけ、ぐっと」
ケイはちょっと怪しい気もしたが、キース隊長が飲め飲めと目で言っているので一気に呷った。
「っ!?」
そして即、後悔した。ほのかな甘みのある灼熱に喉と鼻と胃を焼かれ、ゲホゲホと思い切りむせ返る。
「な、なんですかこれ? お酒じゃないですか!」
呼吸を整えながらケイが恨みがましい目を向けるも、キース隊長とクレイノンは吹き出しゲラゲラ爆笑している。
「ノッカーの薬酒さ。飲めばここが」訳知り顔のキース隊長が、頭を指さす。「少々鈍くなる」
「……ふぅ。って、戦いの前に鈍くなったらまずいじゃないですか」
「この世のモノが相手なら、な」クレイノンがニヤリと不敵な笑みを浮かべて言った。「〈古く忘れられた統治者〉を、その眷属を相手にする時は、少々頭が鈍いほうがいい。でないと、いらんものが頭に入ってきて戦うどころじゃなくなっちまう」
そういうものなのか? ふとケイは思い出す。そういえば前、ウルスラに「いい意味で鈍感だね」みたいなことを言われた覚えがある。待てよ、ということは。
「もしかして」ケイは空になったゴブレットを、クレイノンに差し出した。「界獣と戦うのに向いてる人って……」
「あっちのヤツらを殴るのに必要なもんは」ゴブレットを受け取りながら、クレイノンが言う。「鈍さと不屈、そしてちょっとの勇気だけだ」
「それって暗にバカが最適って言ってません?」
「そうとも言えるな!」
キース隊長は言うと、クレイノンと二人で再び爆笑した。
「何を皆で大笑いしてるんだい?」
大きな笑い声を聞きつけたのか。海浜警備隊一等警士の伊勢が、キース隊長率いるカレドヴール隊の残りの2名、セドリックとグリフと一緒にやって来る。
「おう、ちょうどいいところに来たな。エイジアの戦士よ」
クレイノンがゴブレットに薬酒を注いだ。
あ、同じことをやるつもりだ。ケイが皆を見渡すと、伊勢を除くこの場の皆が顔を引き締め無表情を装っている。
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