紙杯の騎士

信野木常

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第5話 はじまりの場所

4. 彼の傷痕

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 その日からケイは毎日、午後を遊園地跡で過ごすようになった。小学校から帰宅するなり、店の残りものをかき集めてバックパックに突っ込んで。二人の子とごはんを食べたり、二人が寝起きする瓦礫の穴の巣を、風雨が入らないようにブルーシートで補修したり。
 夜まで家を空けていても、ケイは父にも姉にも咎められなかった。父は店の仕事と入院している母の世話で、姉もまた学業と母の世話で忙しく、接する時間が僅かになっていたせいだ。店のある最寄り駅から母のいる病院までは、水陸バスを乗り継いで一時間以上かかり、小学生を連れての頻繁な見舞いは難しかった。
 それでも週に一度、土曜の午後にはケイも姉と待ち合わせて見舞いに行くことができた。

 治療の副作用で髪の薄くなった母を見て、痩せても努めて明るく振舞おうとする母を見て、ケイは言った。
「母さん、ぼくに何かできることはない?」
 そのたびに、母は言うのだ。
「ありがとう。でもお母さんは大丈夫。ケイはちゃんと勉強なさい」
 入院中の病者に、十にもならない子どもができることはさしてなく。せめて父と姉の邪魔にならないようにと、ケイは努めて一人で過ごした。

 だから、なのかな。ケイは今でも考える。困窮する二人の子に、メイハとアヤハに食べ物を与えたのは。遊園地跡で二人と過ごしている間だけは、何もできない自分を忘れることができたから。

 そんなある日に、姉と一緒に母の見舞いに行くと、ケイを見るなり開口一番、母は言った。
「ケイ、仲良しの子でもできた?」
「え、と……」ケイは言い淀んでしまった。二人のことは、何となく言ってはいけないことのような気がして。「まあ、そんなとこかな」
 その日の見舞い時間が終わるまで、母はずっと笑顔でいた。
 帰りのバスで、姉に言われた。
「ケイ、ちゃんと最後まで面倒見なさい。飼うなら一緒に父さんに頼んであげるから」
 毎日のように残り物を持って何処かに行く弟について、姉なりに思うところはあったらしい。
 面倒を見ているのは人間だとも言い出せず、ケイはただ「あー…うん」と頷くことしかできなかった。

 そしてその日はやってきた。台風続きのあの夏、最大の台風がやって来た日。
 学校は夏休みに入り、店も台風を前に終日閉店。居間のテレビは昨夜からずっと、強風注意報と大雨洪水警報をテロップで流していた。
 家は雨戸を閉め切っていて、外がどんな状況かケイにはわからない。ただ雨戸に叩きつけてくる雨粒が、家屋を揺らす強風が、外の嵐の凄まじさを伝えてくる。
 ケイはそわそわと落ち着かず、二階の自室と一階の居間を行ったり来たりした。二人は大丈夫だろうか。あの体育館みたいな建物、柱はまだまだ頑丈そうではあったけれど、ブルーシートを張った天井や壁はもうとっくに水浸しになっているだろう。寝床に水が流れ込んでないだろうか。きっと寒い思いをしているに違いない。行ってどうにかしたいけれど、辿り着ける気がしない。昨日、遊園地跡からの帰り道の時点で、何度も風に飛ばされ転びそうになりながら帰ったのだ。より風雨の強くなった今日、行けばどうなることか。道だって水没しているかもしれない。
 それでもやはり心配で、ケイは家の中をうろうろと歩き回る。落ち着きなさいと姉に叱られ、しぶしぶ居間のテレビの前に座った。

 ……決壊したトヨシマ市西部堤防について、現在、応急処置作業が急ピッチで……

 画面の向こうでは、暴風雨の中、丙種方術甲冑の作業員たちが忙しなく動き回り、軽々と土嚢を積み上げている。
 ガタンと物音がした途端、冷たい風と水の粒がケイの頬を叩いた。振り向くと、玄関を開け父が入ってくるところだった。
「帰ったぞお」飄々と言いながら、父は玄関を閉めると肩にかけた円筒を降ろす。「ちょっと外を見てきたが、この辺はまだもちそうだ」
 父は商店連合の人たちと一緒に、町内の水没地の確認に行っていた。
「こんな日に『ちょっと外を見てくる』って、死にに行くようなものよ?」
「商店連の人たちと一緒だから大丈夫だって。ヨロイもあるし……」
 姉と父が話している。しかし何を言っているのか、ケイの耳に入らない。ケイの目は、父が肩から降ろした円筒に釘付けになった。それはヨロイ、丁種方術甲冑。ミスティックレイスからもたらされた技術で造られたそれは、水を遮り、水面を駆けることができる。
 ケイはこれを繰傀することができた。免許を取得できる年齢ではなかったけれど。トウキョウ圏の再開発地域では、人手が圧倒的に足りないこともあり、丁種ならば無免許でヨロイを繰り軽作業を行っても見逃された。ケイも父に教わり、ヨロイで荷物の搬入を手伝うことがあった。

 トウキョウ圏の界獣の活性化を確認。護国庁より、特種害獣注意報が発令されました。今から挙げる地域にお住いの方は、外出を避け、海浜警備隊もしくは警察の指示に従ってください。トヨシマ市、ネリマ市……

 界獣、活発化。テレビの発した単語が頭に届いた瞬間、ケイは駆け出した。父のヨロイの円筒を掴んで玄関を飛び出す。
「ケイっ!」
 後ろで叫んだのは父か姉か。ケイは吹きつける風に抗って円筒を立て、組紐を引いた。
 瞬く間にヨロイが展開し、巨大な武者が姿を顕す。ケイは風雨に目を細めながらその背に登ると、身体を滑り込ませて一目散に駆け出した。



* * * * *



 巣穴に、冷たいものが流れ込んできた。
 あたたかさを少しでも得ようと、与えようと、メイハは小さな"似たもの"を抱え込んだ。上下左右に張った青いものは、初めこそ冷たいものを防いでくれたものの、上から下から染み出してくる冷たいものを抑えきれず、今は冷たいものそのものになっている。
「…nKaa,iIIit」
 小さな"似たもの"が空腹を訴えてくる。メイハはスウェットのポケットから"甘く心地よいもの"を出すと、二つに割って一つを与えた。
 何という音がこれを表すのだっけ。メイハは割れた欠片を見ながら、頭の中を辿った。確かkeaiはこれを指して、chokoとかいう音を出していたように思う。齧って口に含むと、とても甘く心地よく、僅かに体があたたかくなったように感じる。
 そもそもkeaiは何なのだろう。姿は似ているものの、小さな"似たもの"とも何かが違う。かつてあたたかかったオカアサンとも違う。あたたかなものを運んでくる、奇妙な"似たもの"だ。
 眠って目を開けたら、ずっと暗いままだった。明るければkeaiが姿を現すころだったけれど、今はいない。きっと暗いせいだ。前にも暗いときには姿を現さなかったことがある。ならば明るくなれば現れるのだ。あたたかいものを持ってくるのだ。
 だからメイハは目を閉じた。今は体中が冷たいけれど。眠って、目を開ければ明るくなる。そうすればkeaiがあたたかいものと一緒にやってくる。はやく明るくならないかな……
 不意に、小さな"似たもの"が毛布の中で身じろいだ。何かと思って見てみると、いくつもの小さな紅い光が巡る眼で、メイハに見えない何かを"みて"いた
「kaaAAeee,iiuUUu,hiiiuuuuUU!」
 痛くするもの。大きいもの。くる。
 ぞわ、とメイハを気持ちの悪い冷たさが襲う。メイハは小さな"似たもの"を置いて巣穴を這い上がると、外を見た。
 rururruRRUUUururuuaaaAAAahhahaaaaa!!
 痛くするもの。大きいもの。が、大きな口を開けてこちらを向いた。



* * * * *



 ヨロイを駆ってフェンスを跳び超える。いつもなら茂みに隠れて潜り込むところが、ヨロイの脚力ならば一瞬だ。
 急げ、急げと己に言い聞かせながらケイは走る。叩きつける風と雨は、ヨロイの表面に触れるとぬるりと滑って逸れていく。水に満たされた道も遠回りせずに駆けていける。
 すごいと思うのも束の間、遠くaaaahhhhhhRurururu……と奇怪な鳴き声が響く。ケイは前に海浜警備隊のテレビ番組を観て、その音を聞いたことがあった。界獣だ。
 体の芯を、冷たいものがすぅっと通り抜ける。震える足を強く踏みしめ、半ば水に没したローラーコースターを蹴って、ケイは鉄の船を横目に体育館を目指す。坂を駆け上がり、崩れた壁から中に飛び込んだ。
 目の前に、巨大なそれはいた。後肢を雨水に溢れた地面に浸して、大きな顎から粘性の涎を垂らしながら。鰭のある尾をゆらし水かき付きの肢で這うように進む。雨ざらしの、瓦礫の小山に向かって。
 小山の中腹に、濡れそぼった姿を出しているのは、あの子だ。
 頭が白熱し何も考えられない。意味のある言葉なんてはるか遠くにすっ飛んだ。ケイは飛び込んだ勢いのまま、瓦礫を蹴って左肩から界獣に突っ込んだ。
 ヨロイとほぼ同サイズの界獣は、ビリヤードの球のように吹き飛び体育館の壁を突き破った。
 iiiiiIiiGyYaaaa!!
「ハッ……」
 止めていた息が一気に吐き出される。同時に時間が流れ出す。早く、早く、二人を連れてここを出ないと。ケイはヨロイの上体を除装すると、目を丸くして見上げてくる年嵩の子に言った。
「早く! 小さな子を連れてきて! 早くっ!」ケイは焦り、繰り返す。言葉が通じているのかも怪しいのに。「早く! ああもうとにかく急いで!」
 それでもこの場に危機が迫っていることは通じたのか。年嵩の子は巣穴に戻ると、小さな子の包まる毛布を抱えて出てきた。
 ケイはヨロイを小山に寄せると身を屈め、左手を伸ばして年嵩の子を抱える。小さな子が、年嵩の子の腕の中で窮屈そうにもがいた。
「こっちで持とうか?」
 人ひとりを抱えて、ヨロイにしがみつくのはきっと難しい。上体除装の状態であれば、繰傀者の胸から上が空く。提案したケイが差し出した手に、意図を察してくれたらしい。年嵩の子は小さな子をケイに預けた。
 なんとか間に合いそうだ。でも、もたもたしてはいられない。すぐに二人を連れてここを出て、家に帰って……後は、父さんと姉さんに相談しよう。きっとすごく怒られるけど。仕方ない。ケイはヨロイの身を起こし、崩れた壁に向ける。そこを抜ければ、この封鎖地区の外まで一走りだ。きっと間に合う。この手は、何もしないよりも良い結果に届く。
「hiiiuuuuUU!!!」
 小さな子が、悲鳴のような甲高い唸り声を上げた。
 弾かれるようにケイが振り返ると、界獣が発条のように跳ね、襲いかかってきた。ジグザグ無秩序に並んだ牙の列がもう目の前だ。
 何かを感じる暇もなく。横殴りの衝撃は左から。その直後、ケイは意識を真っ白に塗りつぶされた。


 目を開けて、ケイは体を起こした。頭の左に少し違和感があるくらいで、他に痛む場所はない。消毒液の匂いが鼻につく。よく似た匂いを覚えている。あれは母の入院する病院だった。なら、ここは病室なのか。目の前にあるもう一つのベッドは空だった。周囲はどこもかしこも白かベージュで塗られ、ここが何処なのか示すものは何一つない。あるのはせいぜい備え付けの洗面台と小さな棚だけ。壁にかかったアナログ時計は11時を指している。窓がないので、夜なのか日中なのかわからない。空腹の度合いから、昼間なんじゃないかなと思う。
 頭がはっきりしてくると、こうなる寸前の記憶が蘇ってきた。〈夜明けの風〉で界獣と戦い、その首魁とやらを斬り倒しに行って……外した。いや、外されたのか。海に落ちたウルスラは、皆は無事なのか。界獣の大群は、巨大な〈落とし仔〉はどうなったのか。
 誰か人を探して、いろいろ確かめないと。そう思うとケイはベッドを降りて、ベージュのリノリウムの床に裸足を着けた。
 その時、部屋の扉がスライドして開くと、スーツ姿の男が入ってきた。
「御幡、ケイ君だね」
 穏やかな口調で話す男の背は高く、スーツ越しでも引き締まった体型がわかる。
「はい、そうですけど。あなたは……?」
「失礼、私は波瀬ヨシカズ。護国庁特種安全管理部に勤めている者だ。少し君に訊きたいことがあるんだが、いいかな?」
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