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第5話 はじまりの場所
3. 彼女の追憶
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見上げた視線の先は、半球型の監視カメラ。ご苦労なことだ、と思いつつメイハは机に突っ伏した。アヤハが乗っ取った路駐のヨロイを使ってケイを追いかけ、その途上で海浜警備隊に捕捉・補導されたのが一昨日のこと。妹と二人、今に至るまでネリマ保安部施設の収監室に留められている。
幸い、ケイのヨロイがこの施設に運び込まれるのを見かけた。同じ建物の内にいる分、少しは安心だ。外は巨大な何かと界獣の大量出現で大きな騒ぎになっている。そのためか、こちらは簡単な聴取の後はほとんど捨て置かれていた。
ワタシは無免許繰傀で、アヤハは方術甲冑の違法起動か。ナスとか名乗った女の調査官に告げられた罪状が、メイハにのしかかる。聴取中、家族を、弟分を助けるためだった、界獣から逃れるためだったと訴えてはみたものの、さして取り合ってはもらえなかった。代わりにケイについてあれこれ訊かれた。最近、御幡ケイはどんな様子だったかと。
明らかにおかしかったと正直に答えてもよかったが、メイハはそうせず「別に」で通した。聴取中、アヤハが伝えてきたのだ。彼らは何らかの事情で、ケイの情報を知りたがっている。ケイの情報は、有利に話を進める取引材料になると。その間〈姉妹のことば〉がわからない調査官は怪訝な顔をしていた。
『外が、騒がしいですね』メイハの斜め向かいで、アヤハが虚空を見つめている。『この建物に、沢山の人が集まってきてます』
『大きなアレと、界獣どもを退治するためだろう』メイハは机から顔を上げた。確かに、外の足音が前より幾分騒々しい。『ケイはどうしてる?』
『心音、呼吸ともに正常です。うつらうつらと、寝ぼけたような感じでしょうか』
うっすらと微笑んでアヤハが答えた。妹は耳がいい。多少外が騒々しくても、同じ建物内ならば、一度聞き分けた音の判別などわけもない。
『なら、いいか』
言って、メイハは再び机に突っ伏した。
* * * * *
監視モニタの映像内で、少女が二人、言葉を交わしている。仕込まれたマイクは音声を拾い、録音しつつヘッドホンに伝えてくる。それを聞く那須タマミは、内心で頭を抱えていた。この子たち、何語で話してるの? ニホン語でもバラタ語でも、ましてやブリタニア語でもない。特安部の外事課保安官として、世界の主だった言語はほぼ習得している。しかし今、少女たちが発している言葉は生まれて初めて耳にする。所々に「keai」と少年の名前らしき音が入るのはわかるが、それだけだ。前後がまったくわからない。そもそも言語なのこれ? 獣が唸り合ってるだけじゃないの?
補導された二人の少女は、無許可で運用された他国の星辰装甲の騎手の縁者だった。そのため騎手の少年の確保後すぐに、特安部で調査報告書がまとめられた。玖成メイハと玖成アヤハ。姉妹。キョウトにて、玖成イクコの私生児として誕生。父は剣菱祭技工業の専務取締役、桂木シゲミチと推定される。遺伝子調整者。二人とも四歳時検診で不完全発現者と判定。6年前の2018年7月27日、ネリマ市第六封鎖地区で保護される。それまでの間、病院への通院記録、小等学校への就学記録ともになし。当時はトウキョウ圏の都市防衛システムが本稼働を始めた頃で、全国からトウキョウ圏内の各市に移転する世帯が多かった。彼女たちの書類は、市役所に集まる膨大な量の転居手続きの中で見逃された。
「そんなんだから役人は税金ドロボー呼ばわりされるのよ」
ごちながらタマミは報告書をめくる。保護された当時、二人はほぼ野生児と言ってよい状態だった。玖成姉妹の初等教育に当たった教員、山城フミコ女史の記録によると、姉妹は変形したニホン語の単語に唸るような音を組み合わせた、姉妹二人でのみ通じる独自の言語を発達させていたという。
独自の言語を発達させたということは、まともな話者が近くに皆無だったことの証左だ。保護されるまで、姉妹はどのような環境で生きていたのか。報告書には"隔離環境""重度ネグレクト"と書かれているだけで、後は想像するしかない。強いて想像したいものでもないけれど。
そんな言語で話をされたのでは、余人がわかるわけもない。多言語話者じゃなくて、言語学者とか、言い方は悪いけど動物学者とかの領分じゃないのこれ?
立て続けに現れたザムザ症発症者と、結界塔の襲撃。EU圏から来たと思われる仮称〈銀鳩〉と〈黒武者〉の活動。新イタミ空港で失踪したブリタニアの要人と、ブリタニア製星辰装甲の無届運用……今月に入ってから特安部外事課の仕事は凄まじく増えた。果たして今のトウキョウに何が起きているのか。海浜警備隊との協力の下、外事課要員は今をもって原因究明と対応に追われている。課長は、彼女たちからできるだけ情報を収集してくれとか言ってくるけど。
「こんなの、どうしろってのよ」
匙を投げたいタマミの見るモニターの中では、姉妹が食事を摂っていた。
* * * * *
出された夕食は、カレーピラフとワカメの味噌汁。缶詰のものと思しきフルーツポンチ。シェルター避難の際に出る定番のメニューだった。
栄養補給は大切だ。メイハはスプーンでピラフをかき込む。無駄に丈夫なこの体は、補給さえあれば役に立つ。これから何が起ころうとも。さっさとピラフをたいらげて、フルーツポンチを果物もろとも飲み干した。
「行儀が悪いですよ、姉さん」
アヤハはピラフを半分かた食べ終えたところだ。
「今は非常時だ、許せ」メイハは手の甲で口をぬぐうと、言葉を切り替えた。『最悪、ケイを確保してこの街を出よう』
無免許繰傀や違法改造の罪状は、平時ならきっと思い悩まねばならないのだろう。悪くすれば鑑別所なりに送られてしまう。しかし今はトウキョウ圏内すべてが界獣の、アヤハが言うところの「とんでもないモノ」の脅威に晒されている。とにかく生き延びることが最優先だ。
『そうですね。名残惜しくないと言えば嘘になりますが』アヤハは同意すると、ほんの少し、施錠されたドアに耳を傾けた。『ドア、壊せます?』
『わけもない。ケイの居所はわかるか?』
『もちろん。そろそろ目を覚ましそうです』ふとアヤハはピラフを掬うスプーンを止め、言葉をニホン語に戻した。「食べたいですね。兄さんの炒飯」
「そうだな」
思えば人の手料理を食べたのは、あれが初めてだったかもしれない。メイハはポケットを探ると、くしゃくしゃになった紙カップを取り出した。変色し皺の入ったそれは、傍から見ればただのゴミでしかない。六年も前のものだから無理もない。
メイハは紙カップを机に立ててみる。カップは潰れて細くなっているのですぐに倒れた。拾いあげて、手のひらに載せてみる。今、改めて見ると随分と小さい。これに触れたあの日には、もっともっと大きくて、何より暖かく感じたのに。それでもまだ暖かいような気がして、いまだに捨てもせず持ち歩いている。
あの日、ケイが差し出したこのカップがなければ、ワタシは、ワタシたちはどうなっていただろうか。メイハは想像してみた。食べるものもろくになく、人の言葉もまともに話せない子どもが二人。この歳まで生きていられたか甚だ怪しい。仮に生き延びても、今の自分たちとは異なる別の何かになり果てていたかもしれない。あの頃のことを思い出すと、よくもまあワタシたちなんぞに関わったものだとケイの行動に呆れるし、胸の内からうまく言葉にできない何かが湧いてきて、知らぬ間に口からこぼれ出しそうになる。
ごうごうばしゃばしゃと、ひどく強い風と雨が、暗い窓を叩いていたことを憶えている。
幼いメイハは眠って起きて、ドアを見る。また眠って起きて、ドアを見る。いつもなら、知らぬ間に食べものの入った箱がドアの前にあった。見知らぬ"似たもの"が、箱を置いてドアから出るのを見かけることもあった。なのに窓が暗いままになってからずっと、箱は現れなくなった。眠って、起きて、ドアを見る。次はある。きっとあると思って眠る。それでも箱は現れない。
飲むものはあった。出る場所があった。でも食べるものがない。毛布にくるまって転がる小さな"似たもの"は、か細い声で飢えを知らせてくる。
このままではいられない。終わってしまう。何もかも。動けなくなって、消えてしまう。時々見かける小さな小さな、ぶぅんと音を出すもののように、あるとき音を出さなくなって、動かなくなる。食べられなくなってから、ワタシも少しずつ動きにくくなっている。同じだ。
ずっと前、見たもの聞いた音を頭の中で追いかけた。それを記憶と呼ぶのだと、メイハはずっと後になってから知った。
ずっとずっと前、ここでないどこかから、オカアサンに手を引かれ、ここに入れられた。決してドアに近づくな、近づけば痛くて怖いことになる。そんなことを言われたと思う。その時口にした「ハイ、オカアサン」が、メイハが思い出せる限りで最初に口にした言葉だった。
ここでないどこかで、食べたことがあるのを思い出す。ここでないどこかには、ずっと食べてきたものよりも、気持ちよいもの、あたたかいものがあった。
ここではないどこかに行けば、食べものがある。でもドアには近づけない。痛くて怖いことになると言われた。
どうしよう、どうしよう。ものを知らず、助けを求めて声を上げることすら知らず、ただ惑うばかりの幼い顔を、一瞬、青紫の稲光が照らす。刹那の後に雷鳴が轟き風が唸り、メイハはびくりと体を竦ませた。
稲妻と風は、暗い窓の向こうから。
恐る恐る、幼いメイハは窓に近づいた。顔を寄せて窓の向こうをじっと見る。ごうごうと鳴る暗闇の中、下に小さく光るものが幾つも見えた。
メイハは窓を叩いた。小さな拳を握りしめ、力いっぱい叩きつけた。
窓にびしりと、蜘蛛の巣状に罅が入る。更に叩くとガラスが割れ、拳が外に突き出た。破片が手を裂き血が滴る。メイハは痛みに顔をしかめたが、血はすぐに止まり痛みは消えた。
幾度も叩いてガラスを砕き、穴を広げる。風と雨が強く吹きこんで、伸び放題に伸びたメイハの髪をなびかせる。ガラスを叩く手よりも、頬を叩く雨粒のほうが痛いくらいだ。窓の穴が広がるにつれ、吹き込む風雨も強くなる。はじめて触れる風と雨に、小さな"似たもの"が怯えるように「mE,Vuiuu」と鳴いた。
「ikNnnnAa,uyUrrrr,aY」
メイハは血濡れた手で小さな"似たもの"を抱えこむと、窓の穴を抜け暗闇の中へとその身を躍らせた。
初めて感じる浮遊の感覚も束の間。背を打つ衝撃にメイハは呼吸ができなくなった。背から全身を激痛が駆け抜け、呻き一つあげることができない。がふ、と口からぬるいものがこぼれる。しかし痛みはすぐに消え、代わりに飢えが一際強く襲ってきた。
食べものは、どこにある? 叩きつけるような雨の中、メイハは小さな毛布の塊を抱えて立ち上がると、遠い小さな光に向かって駆け出した。
それから何処をどう進んだのかは、あまりよく憶えていない。明かりの下に沢山の食べものが並んでいるのを見つけて、掴み取って、ニンゲンたちに追われて駆けて。アヤハを抱えて逃げ込んだのが、あの遊園地跡の建物だった。
メイハは紙カップを再び机に立てる。今度はうまくバランスが取れて、倒れない。頬杖をついて、その危ういバランスを眺めて思う。これはワタシの、ワタシたちにとっての起点。きっとここからワタシは始まった。
幸い、ケイのヨロイがこの施設に運び込まれるのを見かけた。同じ建物の内にいる分、少しは安心だ。外は巨大な何かと界獣の大量出現で大きな騒ぎになっている。そのためか、こちらは簡単な聴取の後はほとんど捨て置かれていた。
ワタシは無免許繰傀で、アヤハは方術甲冑の違法起動か。ナスとか名乗った女の調査官に告げられた罪状が、メイハにのしかかる。聴取中、家族を、弟分を助けるためだった、界獣から逃れるためだったと訴えてはみたものの、さして取り合ってはもらえなかった。代わりにケイについてあれこれ訊かれた。最近、御幡ケイはどんな様子だったかと。
明らかにおかしかったと正直に答えてもよかったが、メイハはそうせず「別に」で通した。聴取中、アヤハが伝えてきたのだ。彼らは何らかの事情で、ケイの情報を知りたがっている。ケイの情報は、有利に話を進める取引材料になると。その間〈姉妹のことば〉がわからない調査官は怪訝な顔をしていた。
『外が、騒がしいですね』メイハの斜め向かいで、アヤハが虚空を見つめている。『この建物に、沢山の人が集まってきてます』
『大きなアレと、界獣どもを退治するためだろう』メイハは机から顔を上げた。確かに、外の足音が前より幾分騒々しい。『ケイはどうしてる?』
『心音、呼吸ともに正常です。うつらうつらと、寝ぼけたような感じでしょうか』
うっすらと微笑んでアヤハが答えた。妹は耳がいい。多少外が騒々しくても、同じ建物内ならば、一度聞き分けた音の判別などわけもない。
『なら、いいか』
言って、メイハは再び机に突っ伏した。
* * * * *
監視モニタの映像内で、少女が二人、言葉を交わしている。仕込まれたマイクは音声を拾い、録音しつつヘッドホンに伝えてくる。それを聞く那須タマミは、内心で頭を抱えていた。この子たち、何語で話してるの? ニホン語でもバラタ語でも、ましてやブリタニア語でもない。特安部の外事課保安官として、世界の主だった言語はほぼ習得している。しかし今、少女たちが発している言葉は生まれて初めて耳にする。所々に「keai」と少年の名前らしき音が入るのはわかるが、それだけだ。前後がまったくわからない。そもそも言語なのこれ? 獣が唸り合ってるだけじゃないの?
補導された二人の少女は、無許可で運用された他国の星辰装甲の騎手の縁者だった。そのため騎手の少年の確保後すぐに、特安部で調査報告書がまとめられた。玖成メイハと玖成アヤハ。姉妹。キョウトにて、玖成イクコの私生児として誕生。父は剣菱祭技工業の専務取締役、桂木シゲミチと推定される。遺伝子調整者。二人とも四歳時検診で不完全発現者と判定。6年前の2018年7月27日、ネリマ市第六封鎖地区で保護される。それまでの間、病院への通院記録、小等学校への就学記録ともになし。当時はトウキョウ圏の都市防衛システムが本稼働を始めた頃で、全国からトウキョウ圏内の各市に移転する世帯が多かった。彼女たちの書類は、市役所に集まる膨大な量の転居手続きの中で見逃された。
「そんなんだから役人は税金ドロボー呼ばわりされるのよ」
ごちながらタマミは報告書をめくる。保護された当時、二人はほぼ野生児と言ってよい状態だった。玖成姉妹の初等教育に当たった教員、山城フミコ女史の記録によると、姉妹は変形したニホン語の単語に唸るような音を組み合わせた、姉妹二人でのみ通じる独自の言語を発達させていたという。
独自の言語を発達させたということは、まともな話者が近くに皆無だったことの証左だ。保護されるまで、姉妹はどのような環境で生きていたのか。報告書には"隔離環境""重度ネグレクト"と書かれているだけで、後は想像するしかない。強いて想像したいものでもないけれど。
そんな言語で話をされたのでは、余人がわかるわけもない。多言語話者じゃなくて、言語学者とか、言い方は悪いけど動物学者とかの領分じゃないのこれ?
立て続けに現れたザムザ症発症者と、結界塔の襲撃。EU圏から来たと思われる仮称〈銀鳩〉と〈黒武者〉の活動。新イタミ空港で失踪したブリタニアの要人と、ブリタニア製星辰装甲の無届運用……今月に入ってから特安部外事課の仕事は凄まじく増えた。果たして今のトウキョウに何が起きているのか。海浜警備隊との協力の下、外事課要員は今をもって原因究明と対応に追われている。課長は、彼女たちからできるだけ情報を収集してくれとか言ってくるけど。
「こんなの、どうしろってのよ」
匙を投げたいタマミの見るモニターの中では、姉妹が食事を摂っていた。
* * * * *
出された夕食は、カレーピラフとワカメの味噌汁。缶詰のものと思しきフルーツポンチ。シェルター避難の際に出る定番のメニューだった。
栄養補給は大切だ。メイハはスプーンでピラフをかき込む。無駄に丈夫なこの体は、補給さえあれば役に立つ。これから何が起ころうとも。さっさとピラフをたいらげて、フルーツポンチを果物もろとも飲み干した。
「行儀が悪いですよ、姉さん」
アヤハはピラフを半分かた食べ終えたところだ。
「今は非常時だ、許せ」メイハは手の甲で口をぬぐうと、言葉を切り替えた。『最悪、ケイを確保してこの街を出よう』
無免許繰傀や違法改造の罪状は、平時ならきっと思い悩まねばならないのだろう。悪くすれば鑑別所なりに送られてしまう。しかし今はトウキョウ圏内すべてが界獣の、アヤハが言うところの「とんでもないモノ」の脅威に晒されている。とにかく生き延びることが最優先だ。
『そうですね。名残惜しくないと言えば嘘になりますが』アヤハは同意すると、ほんの少し、施錠されたドアに耳を傾けた。『ドア、壊せます?』
『わけもない。ケイの居所はわかるか?』
『もちろん。そろそろ目を覚ましそうです』ふとアヤハはピラフを掬うスプーンを止め、言葉をニホン語に戻した。「食べたいですね。兄さんの炒飯」
「そうだな」
思えば人の手料理を食べたのは、あれが初めてだったかもしれない。メイハはポケットを探ると、くしゃくしゃになった紙カップを取り出した。変色し皺の入ったそれは、傍から見ればただのゴミでしかない。六年も前のものだから無理もない。
メイハは紙カップを机に立ててみる。カップは潰れて細くなっているのですぐに倒れた。拾いあげて、手のひらに載せてみる。今、改めて見ると随分と小さい。これに触れたあの日には、もっともっと大きくて、何より暖かく感じたのに。それでもまだ暖かいような気がして、いまだに捨てもせず持ち歩いている。
あの日、ケイが差し出したこのカップがなければ、ワタシは、ワタシたちはどうなっていただろうか。メイハは想像してみた。食べるものもろくになく、人の言葉もまともに話せない子どもが二人。この歳まで生きていられたか甚だ怪しい。仮に生き延びても、今の自分たちとは異なる別の何かになり果てていたかもしれない。あの頃のことを思い出すと、よくもまあワタシたちなんぞに関わったものだとケイの行動に呆れるし、胸の内からうまく言葉にできない何かが湧いてきて、知らぬ間に口からこぼれ出しそうになる。
ごうごうばしゃばしゃと、ひどく強い風と雨が、暗い窓を叩いていたことを憶えている。
幼いメイハは眠って起きて、ドアを見る。また眠って起きて、ドアを見る。いつもなら、知らぬ間に食べものの入った箱がドアの前にあった。見知らぬ"似たもの"が、箱を置いてドアから出るのを見かけることもあった。なのに窓が暗いままになってからずっと、箱は現れなくなった。眠って、起きて、ドアを見る。次はある。きっとあると思って眠る。それでも箱は現れない。
飲むものはあった。出る場所があった。でも食べるものがない。毛布にくるまって転がる小さな"似たもの"は、か細い声で飢えを知らせてくる。
このままではいられない。終わってしまう。何もかも。動けなくなって、消えてしまう。時々見かける小さな小さな、ぶぅんと音を出すもののように、あるとき音を出さなくなって、動かなくなる。食べられなくなってから、ワタシも少しずつ動きにくくなっている。同じだ。
ずっと前、見たもの聞いた音を頭の中で追いかけた。それを記憶と呼ぶのだと、メイハはずっと後になってから知った。
ずっとずっと前、ここでないどこかから、オカアサンに手を引かれ、ここに入れられた。決してドアに近づくな、近づけば痛くて怖いことになる。そんなことを言われたと思う。その時口にした「ハイ、オカアサン」が、メイハが思い出せる限りで最初に口にした言葉だった。
ここでないどこかで、食べたことがあるのを思い出す。ここでないどこかには、ずっと食べてきたものよりも、気持ちよいもの、あたたかいものがあった。
ここではないどこかに行けば、食べものがある。でもドアには近づけない。痛くて怖いことになると言われた。
どうしよう、どうしよう。ものを知らず、助けを求めて声を上げることすら知らず、ただ惑うばかりの幼い顔を、一瞬、青紫の稲光が照らす。刹那の後に雷鳴が轟き風が唸り、メイハはびくりと体を竦ませた。
稲妻と風は、暗い窓の向こうから。
恐る恐る、幼いメイハは窓に近づいた。顔を寄せて窓の向こうをじっと見る。ごうごうと鳴る暗闇の中、下に小さく光るものが幾つも見えた。
メイハは窓を叩いた。小さな拳を握りしめ、力いっぱい叩きつけた。
窓にびしりと、蜘蛛の巣状に罅が入る。更に叩くとガラスが割れ、拳が外に突き出た。破片が手を裂き血が滴る。メイハは痛みに顔をしかめたが、血はすぐに止まり痛みは消えた。
幾度も叩いてガラスを砕き、穴を広げる。風と雨が強く吹きこんで、伸び放題に伸びたメイハの髪をなびかせる。ガラスを叩く手よりも、頬を叩く雨粒のほうが痛いくらいだ。窓の穴が広がるにつれ、吹き込む風雨も強くなる。はじめて触れる風と雨に、小さな"似たもの"が怯えるように「mE,Vuiuu」と鳴いた。
「ikNnnnAa,uyUrrrr,aY」
メイハは血濡れた手で小さな"似たもの"を抱えこむと、窓の穴を抜け暗闇の中へとその身を躍らせた。
初めて感じる浮遊の感覚も束の間。背を打つ衝撃にメイハは呼吸ができなくなった。背から全身を激痛が駆け抜け、呻き一つあげることができない。がふ、と口からぬるいものがこぼれる。しかし痛みはすぐに消え、代わりに飢えが一際強く襲ってきた。
食べものは、どこにある? 叩きつけるような雨の中、メイハは小さな毛布の塊を抱えて立ち上がると、遠い小さな光に向かって駆け出した。
それから何処をどう進んだのかは、あまりよく憶えていない。明かりの下に沢山の食べものが並んでいるのを見つけて、掴み取って、ニンゲンたちに追われて駆けて。アヤハを抱えて逃げ込んだのが、あの遊園地跡の建物だった。
メイハは紙カップを再び机に立てる。今度はうまくバランスが取れて、倒れない。頬杖をついて、その危ういバランスを眺めて思う。これはワタシの、ワタシたちにとっての起点。きっとここからワタシは始まった。
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