紙杯の騎士

信野木常

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第4話 あなたと休日を

3. 黒鬼武者

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 地を踏み鳴らすはずの足が虚ろを踏み、転びかけてヒヨリは我に還った。高みから切り離され、拡がっていた感覚が、面の目穴から覗けるだけのちっぽけなものに戻る。合わせて音が、色彩が元の人の領域へと下降する。ああ、還ってこられた。安堵に深く息をつく。いつの頃からか、舞う度に思うようになった。行ったきり戻れなくなったらどうしようと。学んだ技が世の役に立つことは嬉しいけれど、あの高揚の中でとてつもなく強大なものの道具になる感覚は、大きく深い何かに自分が溶けて消えてしまいそうで、怖い。
 舞は、儀式は終わったのか。鼓の音が聞こえない。替わりに聞こえてくるのは、大きく重い何かをぶつけ合うような音。そして

 aaaAAA! AAiiiIIiiitaaaAA!!

 聞いているだけで気分が悪くなる、奇怪な呻きのような悲鳴のような音。そして潮と鉄錆に似た臭いが鼻を衝く。
 胸騒ぎに、ヒヨリは五炎眼の面を外した。
「え……何? 何なの?」
 目の前に繰り広げられる光景に、ヒヨリは戸惑う。巨大な蚯蚓の塊のような怪物と、踊るように戦う黒い鬼面の武者紛い。怪物が繰り出す幾本もの触手を、黒鬼武者は双手の剣で片端から斬って捨ててゆく。右手の長剣と左手の短剣を交差させ、挟み留めるように斬り、開き伸ばして斬る。その様はさながら、かつて古い映像資料で観た南洋の島の舞踊のようで。
「やらせへん! やらせへんぞおっ!」
 黒い鬼面の奥から聞こえてくるのは、意外と若い男の声だ。
 怪物の触手は相当に硬く鋭いのか。時にこの屋上のコンクリートに易々と刺さり抉る。黒鬼武者はそんな触手を斬り刻むが、触手の数が徐々に増えているのが目に見えてわかる。一本斬り落せば二本が襲いかかり、二本同時に斬り飛ばせば六本が襲いかかる。
 黒鬼武者は今、かろうじて怪物のペースに着いていけている。しかしそれもいつまでももたないだろうことは、戦闘など素人のヒヨリの目にも見て取れた。
 今、両者は決め手を欠いて膠着している。
 ヒヨリにも、周囲に目を配る余裕が出てくる。まず、自身の立つ演台が破壊されていることに気づいた。前面のほぼ中央から自身のいる足元まで、真っ二つに割り裂かれている。反閇で空を踏み転びかけたのはこのせいだ。振り向けば、鼓の奏者が頭から血を流して倒れている。そして演台の周囲を見渡せば、護衛の保安官たちが手足を欠き腹に穴を開け、血溜まりに倒れ伏していた。
 その一人、今夜の護衛任務のリーダーと名乗った多村タツキと目が合った。パクパクと口が開閉しているのが見える。ニ、ゲ……ロ?
 その意味を理解する間もなく、髪がゆれてヒヨリは戦いに目を戻す。怪物の無数の触手の一本が、こちらを向いた。鎌首をもたげる毒蛇のように。

 あ、死んじゃうんだ私。

 ヒヨリは直観的にそう悟った。瞬きの後に、触手に体を貫かれて血を噴いて倒れる自分の姿が想像できる。もうアスミとお菓子の食べ歩きに行くことも、門限破ってこっそり寮に帰ることもできなくなるんだ。今夜の務めが終わったら、一緒にシンジュク市に繰り出す予定だったのに。花も恥じらう高等部女子なのに。かっこいい男の子とデートとかもしてみたかったな……
 衝撃に体が揺れ、顔に赤くぬるい飛沫がかかる。死ぬって思ったより痛くない。
「痛く、ない?……って!?」
 鋭く尖った触手の先端は、ヒヨリの目の前5センチほどの位置で止まっていた。そんな彼女の視界を埋めるものは、黒く大きな戦鬼の背中。
「…やらせへん、言うとろーが……」
 静かな声音は痛みをこらえているせいか。触手は、武者紛いの装甲のない右胸を貫通していた。
 カランと乾いた音を立てて、学生服のボタンが演台の板床に落ちる。
「貴方……」ヒヨリは思わず手を伸ばす。彼の傷は、何がどうあっても人間なら死ぬものだ。「どうして」
 私を庇ったの? と問いかける間もなく、黒鬼武者は刺さった触手を双手の剣で切断すると、胸から抜いて放り捨てた。僅かによろけたものの、傷などないかのように剣を繰り出し戦いを再開する。血の跡をヒヨリの前に残しながら、前へ前へと突き進む。手を足を、胴を腹を、時に貫かれ時に裂かれながら、それでも前へ。
 徐々に、しかし確実に、黒鬼武者によって怪物が演台から押し出されてゆく。
 そしてそれは唐突に。
 夜の天空より銀光一閃、彗星のように。白く冷たい光が怪物を穿ち抜いた。

 a…A……

 かすかな呻きを漏らしながら、怪物が崩れてゆく。水に晒した綿菓子のように。
 塵となり夜の風に消えゆく怪物を前に、鬼面の武者紛い……否、武者は両膝を落とした。
「貴方!」自身でも知らぬ間に、ヒヨリは黒鬼武者の背を目指して駆け出していた。「大丈夫なの!?」
 右胸を触手で貫かれ全身あちこちをズタズタに裂かれ、普通の人間なら明らかに死んでいる傷だ。大丈夫も何もあったものではないが、ヒヨリは言わずにいられなかった。彼女は鬼面の黒い武者の、彼の背に手を伸ばす。理由などわからない。ただ、触れなきゃならない、触れたいと思った。指がかすかに、その血に濡れた学生服の背に触れる。
 その瞬間、彼の体は夜空へと舞い上がった。
 ヒヨリが驚きに上を見上げると、黒鬼武者は空にいた。中空に立つ黒い鋼の馬に襟首を銜えられ、ぶらーんと力なく項垂れて。今や、力強く怪物と戦っていた時の姿など見る影もない。
 鋼の馬はブルンと嘶くと、黒鬼武者を銜えたまま夜空を駆け去った。その姿は瞬く間に遠く小さくなってゆく。
 僅かな間に起きた出来事に、これは夢か何かじゃないかなと思う。しかし破壊された演台と、今なお苦痛に呻く特安部の護衛の面々が、ヒヨリにこれが紛れもない現実の出来事であることを教えてくれた。
 結界塔屋上のエントランスが開き、特安部の救助隊と思しき人々が駆け込んでくる。
「柊木技官! ご無事ですか!?」
「はい!」
 安否を問う声に答えながら、ヒヨリは足元に転がったボタンを拾うとたもとに入れた。
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