紙杯の騎士

信野木常

文字の大きさ
上 下
27 / 63
第4話 あなたと休日を

1. 長生者-Elder

しおりを挟む


 久しぶりにクリニックの入るビルを見上げ、ほっと息を吐き出す。感慨深さから出たものだが、何度目かとなる、自分の日常に戻ってこられたのだという実感を噛み締めていた。
 和彦がいない間に済ませたという改装部分を、クリニックの再開前に自分の目で確認しておきたかったのだ。定期的に機器のメンテナンスや、清掃業者も入れていたということで、ずいぶん気を配っていたもらっていたようだ。いつ戻ってくるかどうかわからない和彦を待ちながら、クリニックを維持するのは、賢吾にとってずいぶん負担だっただろう。
 室内に足を踏み入れると、電気をつけてざっと見て回る。一番気になっていた仮眠室にも入ってみたが、ドアと窓ガラスが明らかに厚みが増しており、鍵も厳重になっているが、変化はそれぐらいだともいえ、ひとまず安心した。もっとも、見えないところで防犯システムのレベルを上げていたとしても、和彦にはわからないのだが。
 なんとなくベッドの下を覗き込むと、見覚えのないゴルフクラブが転がっていた。ずいぶん前に千尋とゴルフレッスンを受けに行こうと話に出ていたが、慌ただしさからすっかり流れてしまった。改めて誘うつもりなのだろうかと、首を捻る。
 非常階段に通じるドアも同様に頑丈なものになっていたが、他人から見て奇異に映るほどではない。あくまでここは、どこにでもある美容外科クリニックだ。
 清掃が行き届いているのはもちろんのこと、受付カウンターなどに飾られていた小物もさりげなく季節に合わせたものとなっている。
「ぼくの出番はなしだなー……」
 特に注文をつけたいこともなく、和彦は待合室に戻ってソファに腰掛け天井を仰ぎ見る。組員を駐車場に待たせているため、あまりのんびりもできないのだが、クリニックを再開したときのことをあれこれと考えていると、スマートフォンが鳴った。
『――子犬にじゃれつかれたそうだな』
 開口一番の賢吾の言葉に、なんのことかと眉をひそめたあと、顔を綻ばせる。仕事熱心な組員は、和彦が車を降りてすぐに賢吾に連絡を取ったようだ。
「あんたにかかると、若い子はみんな子犬なんだろうな」
『子犬は子犬でも、闘犬として育つか、猟犬として育つかの違いはあるがな。うちの千尋ですら、見てくれは可愛いが愛玩犬じゃないからな。お前ならよくわかってると思うが』
「……親バカ」
 電話越しに聞こえてきた低い笑い声にゾクリとする。
『クリニックで気になるところは? 今ならまだ、手を加えるにしても再開までには間に合うはずだ』
「いや、これで注文をつけたらバチが当たる。細かいところまで気にかけてくれたみたいで、感謝してる」
『だったらあとは、スタッフの補充だけだな』
 そちらも長嶺組に任せておくだけだ。
 いよいよクリニックの再開が見えてきて、また忙しい日々が始まることに、重圧と同じぐらい高揚感を覚える。美容外科医として立ち働く自分が、和彦は嫌いではないのだ。医者となるよう使命づけられた経緯を知ったあとでも。
「休んでいた分、バリバリ稼がないと」
『仕事にのめり込み過ぎて、俺たちをほったらかしにされるのも困るんだが』
「何、言ってるんだっ……」
 いまさら賢吾の軽口に動揺して、反射的にソファから立ち上がる。急に暑くなり、わざわざ空調を入れるまでもないので、通りに面した窓を開ける。
 見下ろすと、いつもは車で待機している組員が、通りに立って慎重に辺りを見渡している。
「――……ぼくが動くと、周りがピリピリするな」
『お前のせいじゃなく、お前を口実にして動きたがる連中がいるということだ。好き勝手やらせて、高みの見物を決め込んだらどうだ』
「ぼくの神経を舐めないでほしいな。普通の人間より柔なつもりだ」
 賢吾は意味ありげに、ふっと短く息を吐いた。
『今日、総本部で会った二人は、前からの顔見知りなんだろう。一人は、三田村がたまに面倒見てると話していたが』
「どちらも千尋とほぼ歳は変わらないはずだ。三田村が気にかけている子は、加藤というんだ。見た目は強面だけど、言われたことは一生懸命やるタイプかな。まあ、三田村がよく知ってるから、気になるなら聞いてくれ。もう一人は……生意気。あと多分、ぼくは嫌われてる。小野寺というんだけど。今時の遊んでる大学生風」
『南郷がお前につかせたんなら、見た目通りのガキじゃねーということか』
「どういう形で護衛につくのかは、あんたのほうで総和会と相談してくれ。ものすごくありがた迷惑だけど、断るわけにもいかないんだろ」
『適当にじゃれつかせておけ。千尋にバレたら、キャンキャンとうるさいかもしれないが』
 それはそれで面倒だと、和彦は顔をしかめる。南郷が後見人になった以上、総和会が日常生活にさらに関わってくるというなら、許容できる範囲を、男たちを使ってすり合わせていくしかない。
『――総和会を甘く見るなよ』
 突然声音を変え、賢吾が囁いてくる。ざわりと肌が粟立った。
「えっ……」
『オヤジは、伊勢崎組を警戒している。組長である伊勢崎龍造は、北辰連合会というでかい組織で顧問にも就いてる。そんな重職についてる人物が、組員数人を引き連れてこちらに出張ってきているんだ。新しい商売を始めるとか秋慈には言ったらしいが、本当のところはわからない。面と向かって目的を問えれば楽だが、そういうわけにもいかない。で、伊勢崎組の連中が、うちの大事な〈オンナ〉をつけ回してるとなりゃ――』
「堂々と捕まえられるわけだな。ぼくは餌か」
『お前が若造二人を気にかけるのをいいことに、ちゃっかり別動隊が離れた位置で、網を張っているかもな』
 怪しい風体の男たちをぞろぞろと引き連れて歩く自分の姿を想像して、和彦はうんざりとして呟く。
「コントか」
『尾行の件から感じるのは、伊勢崎組からお前に対して、敵意も害意も乏しいということだ。だからこそ、薄気味悪い。できれば俺は、直接は手を出したくない。総和会が進んで厄介事を引き受けるというなら、ありがたく押し付ける』
「……ぼくも、勝手に片付いてくれるなら、それで……」
 そうは言っても、伊勢崎組や伊勢崎龍造は忌避したい存在であっても、彼の息子について考えるときは、胸が妖しくざわつくのだ。尾行については、和彦が〈変な虫〉扱いされ、息子に近づくなと牽制されているという可能性もありうる。口が裂けても賢吾には言えないが。
 すべて終わったことだと自分に言い聞かせながら、窓を閉める。用は済んだので、再び施錠してあとは帰宅するだけだ。
「あっ、そういえば――」
『どうした?』
「仮眠室のベッドの下に、ゴルフクラブがあったけど、あれ、なんだ?」
『野球バットのほうがよかったか? お前が振り回しやすそうな重さを選んだつもりだ。万が一の準備というやつだ。使わないに越したことはないが、いざとなったときに武器が必要だろ。スタンガンやナイフだと、お前自身が怪我する危険があるからな』
 絶句したあと、和彦は大きくため息をつく。過保護すぎると指摘したかったが、たった今、尾行だ護衛だと話したばかりで説得力もない。ありがたく賢吾と長嶺組の心遣いを受け取っておくことにした。




 半月近く前に恋人にめった刺しにされたホストの青年は、傷が塞がる間、禁酒と安静を忠実に実行していたらしく、いくらか毒気が抜けた顔つきとなっていた。
 そろそろ抜糸の頃合いかと気にかけていると、タイミングよく総和会から連絡が入り、高層マンションの一室に連れてこられたのだ。青年が暮らしている部屋なのかもしれないが、治療さえできるならどこでもいい。
 和彦が傷口を一つ一つ確認していると、間がもたないと感じたのか青年はホストを辞めると語り始めた。水商売から足を洗うのかと思いきや、話を聞き続けていると、なんと自分でボーイズバーを始めるのだという。ホストクラブとは違うのかという和彦の問いかけに、ホストの青年――元ホストの青年は、丁寧に違いを教えてくれる。あくまでバーであり、カウンター越しでの接客となるうえに、価格帯もホストクラブに比べて低めな設定だそうだ。
 男性客も歓迎なので、オープンしたら先生も遊びに来てくださいと言われ、逞しさに和彦は笑ってしまった。しかも店の資金は、彼をめった刺しにした恋人が出すという。つまり、組のヒモつきだ。語る本人に悲愴感はないため、嫌々というわけではないようだ。
 偉そうに語れる立場でもない和彦は、さっそく抜糸に取り掛かる。それが終わると、傷口が開かないようケアテープを貼っていき、このとき、自宅でもできるようやり方を説明しておく。まだ当分禁酒を続けるよう告げると、悲しげな顔で頷かれた。
「思いがけないところで、知見を得てしまった……」
 治療を終え、エレベーターで下りながら小声で洩らす。今度賢吾に、ホストクラブとボーイズバーの違いを話してやろうと思ったが、水商売も手広く手掛けている組なので、案外もう経営しているかもしれないと考え直す。
 一仕事終えた和彦は、まだ昼食という気分ではないため、時間つぶしのために書店に立ち寄る。一階に並ぶ新刊をざっと確認してから、エスカレーターで階を上がりながら、背後を振り返る。護衛の組員がついてきているのはいつものことで、気になるのはさらにその後ろだ。今日は総和会から回ってきた仕事ではあるものの、加藤と小野寺の姿は見えない。
 総和会と長嶺組の間でどんな取り決めになったのか、またはまだ相談の最中なのか、何も知らされていないのだ。和彦の視界に入らないところで護衛――というより監視がついていたとしても驚きはないが。
 野鳥に関する本を眺めていると、スマートフォンがメッセージの着信を知らせて短く鳴る。何げなく表示を確認して、次の瞬間和彦は、本を置いて売り場を離れた。文章でやり取りするのがもどかしくて、メッセージを送ってきた相手に電話をかける。
 手短に会話を交わし、電話を切ると即座に組員のもとに歩み寄る。本を眺めている場合ではなくなって車に戻ると、次に向かうのはデパートだ。昼時ということもあって混雑しており、並んでいる花見弁当を横目に、手の込んだ総菜を何品か買い込む。さらにアルコール類売り場では、自分のワインの他に缶ビールも選ぶ。
 慌ただしく買い物を終えて向かったのは――。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

魔法少女のなんでも屋

モブ乙
ファンタジー
魔法が使えるJC の不思議な部活のお話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

黄金蒐覇のグリード 〜力と財貨を欲しても、理性と対価は忘れずに〜

黒城白爵
ファンタジー
 とある異世界を救い、元の世界へと帰還した玄鐘理音は、その後の人生を平凡に送った末に病でこの世を去った。  死後、不可思議な空間にいた謎の神性存在から、異世界を救った報酬として全盛期の肉体と変質したかつての力である〈強欲〉を受け取り、以前とは別の異世界にて第二の人生をはじめる。  自由気儘に人を救い、スキルやアイテムを集め、敵を滅する日々は、リオンの空虚だった心を満たしていく。  黄金と力を蒐集し目指すは世界最高ランクの冒険者。  使命も宿命も無き救世の勇者は、今日も欲望と理性を秤にかけて我が道を往く。 ※ 更新予定日は【月曜日】と【金曜日】です。 ※第301話から更新時間を朝5時からに変更します。

スキル間違いの『双剣士』~一族の恥だと追放されたが、追放先でスキルが覚醒。気が付いたら最強双剣士に~

きょろ
ファンタジー
この世界では5歳になる全ての者に『スキル』が与えられる――。 洗礼の儀によってスキル『片手剣』を手にしたグリム・レオハートは、王国で最も有名な名家の長男。 レオハート家は代々、女神様より剣の才能を与えられる事が多い剣聖一族であり、グリムの父は王国最強と謳われる程の剣聖であった。 しかし、そんなレオハート家の長男にも関わらずグリムは全く剣の才能が伸びなかった。 スキルを手にしてから早5年――。 「貴様は一族の恥だ。最早息子でも何でもない」 突如そう父に告げられたグリムは、家族からも王国からも追放され、人が寄り付かない辺境の森へと飛ばされてしまった。 森のモンスターに襲われ絶対絶命の危機に陥ったグリム。ふと辺りを見ると、そこには過去に辺境の森に飛ばされたであろう者達の骨が沢山散らばっていた。 それを見つけたグリムは全てを諦め、最後に潔く己の墓を建てたのだった。 「どうせならこの森で1番派手にしようか――」 そこから更に8年――。 18歳になったグリムは何故か辺境の森で最強の『双剣士』となっていた。 「やべ、また力込め過ぎた……。双剣じゃやっぱ強すぎるな。こりゃ1本は飾りで十分だ」 最強となったグリムの所へ、ある日1体の珍しいモンスターが現れた。 そして、このモンスターとの出会いがグレイの運命を大きく動かす事となる――。

神様のミスで女に転生したようです

結城はる
ファンタジー
 34歳独身の秋本修弥はごく普通の中小企業に勤めるサラリーマンであった。  いつも通り起床し朝食を食べ、会社へ通勤中だったがマンションの上から人が落下してきて下敷きとなってしまった……。  目が覚めると、目の前には絶世の美女が立っていた。  美女の話を聞くと、どうやら目の前にいる美女は神様であり私は死んでしまったということらしい  死んだことにより私の魂は地球とは別の世界に迷い込んだみたいなので、こっちの世界に転生させてくれるそうだ。  気がついたら、洞窟の中にいて転生されたことを確認する。  ん……、なんか違和感がある。股を触ってみるとあるべきものがない。  え……。  神様、私女になってるんですけどーーーー!!!  小説家になろうでも掲載しています。  URLはこちら→「https://ncode.syosetu.com/n7001ht/」

メサイアの劣等

すいせーむし
ファンタジー
記憶喪失の少年チヨは真っ白な病室で目覚める。何かの病気で入院を余儀なくされたようだ。また、チヨその病のせいで特殊な力を持っていた。記憶を取り戻すため、他の患者を救うため、患者兼医者助手として"現の夢病院"で過ごす話。

荷物持ちだけど最強です、空間魔法でラクラク発明

まったりー
ファンタジー
主人公はダンジョンに向かう冒険者の荷物を持つポーターと言う職業、その職業に必須の収納魔法を持っていないことで悲惨な毎日を過ごしていました。 そんなある時仕事中に前世の記憶がよみがえり、ステータスを確認するとユニークスキルを持っていました。 その中に前世で好きだったゲームに似た空間魔法があり街づくりを始めます、そしてそこから人生が思わぬ方向に変わります。

聖女の力を隠して塩対応していたら追放されたので冒険者になろうと思います

登龍乃月
ファンタジー
「フィリア! お前のような卑怯な女はいらん! 即刻国から出てゆくがいい!」 「え? いいんですか?」  聖女候補の一人である私、フィリアは王国の皇太子の嫁候補の一人でもあった。  聖女となった者が皇太子の妻となる。  そんな話が持ち上がり、私が嫁兼聖女候補に入ったと知らされた時は絶望だった。  皇太子はデブだし臭いし歯磨きもしない見てくれ最悪のニキビ顔、性格は傲慢でわがまま厚顔無恥の最悪を極める、そのくせプライド高いナルシスト。  私の一番嫌いなタイプだった。  ある日聖女の力に目覚めてしまった私、しかし皇太子の嫁になるなんて死んでも嫌だったので一生懸命その力を隠し、皇太子から嫌われるよう塩対応を続けていた。  そんなある日、冤罪をかけられた私はなんと国外追放。  やった!   これで最悪な責務から解放された!  隣の国に流れ着いた私はたまたま出会った冒険者バルトにスカウトされ、冒険者として新たな人生のスタートを切る事になった。  そして真の聖女たるフィリアが消えたことにより、彼女が無自覚に張っていた退魔の結界が消え、皇太子や城に様々な災厄が降りかかっていくのであった。

処理中です...