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第4話 あなたと休日を
1. 長生者-Elder
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更けゆく夜に、泉の妖精が語りかける。赤いくせ毛を風に揺らして。廃ビルの給水タンクの上から、言葉の届く階層を変えて。この国この地の霊とカミに向けて。
「夷狄の水精が申しあげる。外つ国、赤い竜の末裔が申しあげる。今、貴方らの子が、若き戦士が、この地を護らんと戦っている。此の地で為された大逆の咎を清めんとしている。此度のこと、汝らは眺むるに留めるのみか?」
この身は妖精、魔女にして零落した女神。〈いと高きものたち〉去りし後、神秘と踊るミスティックレイス。異国の精霊であっても、発することばの意味は伝わろう。
「此の地の神々の命もあろう。此の国の民草との約定もあろう。されど、此度のことを座視するに留むるならば、此の地此の国の霊とカミは、怯懦にして惰弱なり。そう四方化外に吹いて回ろう。さにあらず、怯懦に非ずと、惰弱に非ずと申すなら、些かなりとも我と戦士に助力せよ」
ウルスラは挑発し、煽る。頭の固いこの国の精霊も、ここまで言われれば多少は力を貸すだろう。来訪初日はこの身一つ。彼らに異邦の妖精に力を貸す謂れはなかった。しかし今は違う。この土地に縁ある少年とともに戦っている。地霊、精霊たちも見ぬフリ聞こえぬフリはできまい。
目論見どおり、この地の風が囁き、この海の水面が波紋を返す。我ら葦原中国の霊、怯懦に非ず、惰弱に非ずと。
この土地の水が風が、指揮下に入った手応えを感じ取る。これでよし。この土地の精霊の協力は取りつけた。ウルスラは夜空を見上げ、背から落ちゆく〈夜明けの風〉を、その琥珀の瞳に捉える。
「我が騎士、ボクと〈夜明けの風〉はこの程度の冒険で騎士を死なせたりはしないぜ」
エーテルリンクを介して〈夜明けの風〉の反水機構を解除。ウルスラは両手を広げ、手のひらを廃ビル下の水面に向けてかざす。
「ボクは湖の貴婦人。水の魔法はお手の物さ」
水が、渦を巻いて立ち昇る。着水間際の〈夜明けの風〉を迎えるように。
暗闇に包まれたケイの視界は、瞬き一転、モノクロームの映像に切り替わった。
音、と言うより振動が軽く体を伝って、浮遊感が停まる。水底に〈夜明けの風〉の背が当たり、軽く浮いてまた沈んだ。目に入るのは、腐食しほぼ柱だけとなった家屋。水に沈んだ工場らしい建物の下階は、汽水に住まう魚たちの棲み家となり果てていた。
ケイは〈夜明けの風〉の身を起こそうと左手を水底についた。バリっと瓦礫か何かを折り砕く感触が、星辰装甲を介して手を伝う。ウルスラの魔法とやらで、挽き肉になることは避けられたらしい。しかしウィンディゴはまだネリマ市の上空にいる。早く水面に上がらなきゃ。
水の抵抗をかき分けて、ケイは急いで〈夜明けの風〉を立ち上げる。その勢いに、水底の堆積物が巻き上がって視界を覆う。煙のように砂泥が舞い、細かな瓦礫が浮かんで流れる。その中に
「……え?」
それが目の端に捉えられたのは瞬きの間ほどで、もう見えない。記憶に残ったそれを、ケイは三年前に見たことがあった。母の葬儀の後の火葬場で。だからそれが何なのか、すぐにわかった。
目の前をくるくる回りながら流れていったものは、無数の人の頭骨だ。
大海嘯当時のものだろうか。その正体をめぐって内に向きかけたケイの思考を、妖精の声が引き戻した。
「ケイ! 〈深きものども〉、D類も寄ってきた。登攀錨鎖《アンカー》を使おう」騎内映像のウルスラが〈夜明けの風〉の装備を図解する。「前腕袖口に射出口がある。ポイントをナビするから、どれかに撃ち込んで」
騎内映像に、錨を打つべき水上のポイントが幾つか光点で示されている。ケイはその内の一つ、廃マンションと思しき建物の壁に向けて左腕を上げ、錨を射出した。
錨は水上に出るとコンクリートの壁に刺さって鉤を展開。固定された錨に連なる鎖が巻き上げられる。水上に向かって〈夜明けの風〉が、鎖一本で高速で引き上げられてゆく。
その足下を、D類こと海棲型界獣が牙列を剥いて泳ぎぬけていった。水上で見ても恐ろしいが、暗い水中で活動しているその姿を目の当たりにすると、その恐ろしさもおぞましさも桁違いだ。巨大な顎が、その奥が、地獄の底にまで通じているように見える。
行き過ぎたD類界獣はその身をくねらせターンすると、再び〈夜明けの風〉目掛けて迫り来る。水上に出るのが早いか、泳ぐ界獣の牙にかかるのが早いか。
「ウルスラ! もっと速く!」
「もうやってる!」
急加速する錨鎖の巻き上げ。思うように動けない水中で、剣を持つケイの右手に力がこもる。剣が敵を認識し、刃に帯びる光が青から黄色へと変化した。
額に滲む汗が痒い。界獣の大顎が見る間に視界に大きくなる。間に合うか?
「水上に出るよ!」
ウルスラの声と同時に、ざぶん!と飛沫を上げて水面を割って〈夜明けの風〉は水上に飛び出した。その左腕の錨鎖で釣り下がった巨体に向かって、D類界獣も水中から踊り出る。
「このっ!」
ケイは足元に食らいつかんと顎を開けた界獣目掛け、大剣を振りぬいた。刃が界獣の頭部を斜めに断ち割る。
YYYyyyyyiiii……
か細い呻きのような音を発してD類界獣は砕け、水中に没していった。
バシュンと音を立てて錨が壁から抜ける。〈夜明けの風〉の水面への着地もとい着水と同時に、錨鎖は左腕に収まった。
「無事かい? 我が騎士」
「ルアーになった気分だよ……」ウルスラに返しながら、ケイは廃ビルの壁面を背に身構えた。W類、ウィンディゴに再び背後から襲われ、空に連れていかれてはたまらない。「状況は?」
「上空にW類が二体。内一体は手負いだけど、恐らくすぐに再生する。ヤツらは心臓を破壊しないと殺しきれない」ウルスラが翅翔妖精の観測情報を統合し、〈夜明けの風〉に送る。「おまけに水中から接近してくるD類が二体。亜種はいないけど、混戦になると面ど……来るよケイ!」
ケイが観測位置を把握しようとする間もなく、一瞬で、角を持つ怪物が〈夜明けの風〉の前に現れた。絶妙に〈夜明けの風〉の剣の届かぬ間合いを保ちながら、威嚇するように怪音を発して浮遊する。
keKKKKeeeeekeeekekekkeeeekk!!!
ケイは踏み込んで斬りかかりたい衝動を抑え込む。うかつに出れば、またもう一体に背後を取られかねない。
「原料が人間なせいかな。D類と違って、アイツらは多少の知恵が回る」忌々しげにウルスラが言った。「同族がやられるのを見て、警戒してるんだ」
目の前にウィンディゴ。更に水中からD類界獣二体が近づきつつある。うかつに寄れないのがウィンディゴも同じなら、一旦この場を離れて距離を稼いだ方がいい。そう考えて、ケイが駆け出そうと膝を緩めたその時
目前のウィンディゴが、骸骨めいた顔を夜空に向けた。
「ケイ! その場を離脱。急いでっ」
ウルスラの叫びに、重なり轟くウィンディゴの咆哮。身を竦ませずに動けたのは、彼女と経た戦闘経験のお蔭か。ケイは右に跳ね飛んだ。同時に、叩きつけるような衝撃を左半身に受け、足を取られて水面を転げる。四つん這いになりながら元いた場所に目を向けると、廃ビル壁面が大きく抉れて凹んでいた。
ケイが〈夜明けの風〉の左半身を動かすと、バラバラと何かが砕けて水面に落ちた。これは……氷?
「悪しきうわさよ、時の采配にふりかかるがいい」ウルスラが呪いの言葉を吐く。「アイツ、長生者(Elder)だ。厄介だよケイ、あれは氷雪の風を操る」
「そういうことは先に言ってよ!」
「ウィンディゴが皆、あの力を持ってるわけじゃない。というか、長生者《エルダー》なんて滅多にいない。ボクも記録で読んだことしかないんだ」ウルスラは古い書物の記録を映して見せた。「長い年月を経て主神に貢献した個体は、その超常の力の一部を分け与えられる……らしい」
「らしい、って。ミスティックレイスって、界獣に詳しいんじゃないの?」
神秘の種族、ミスティックレイス。彼らは世界を侵す界獣の生態に通じ、滅ぼす術を人類に与えてくれた神々にも等しい存在。ケイはそんな風に思っていた。
「買いかぶりだよ。ボクらの持ってるヤツらの知識なんて、無駄に長生きだから持ってるだけのほんの一部さ」ウルスラが自嘲する。「大海嘯以後に解明されたことの方が多いくらいだ」
弱音とも取れる彼女の言葉に、ケイは思う。彼らミスティックレイスは意外と、思っているよりも身近な存在なのかもしれない。人間が勝手に畏れ敬っているだけで。ウルスラとか妙に子どもっぽくて、はるか年上には思えない。
「近づく術はないかな。無策で突っ込めば、吹き飛ばされるだけだ」
「個体差はあるだろうけど、記録どおりならそう続けては使えないはず」ウルスラが書物のページの一部を指し示した。「急げば勝機はある。ボクとキミと〈夜明けの風〉なら、打倒できる。剣を、〈星に伸ばす手〉の刃をヤツの心臓に触れさせさえすれば、ボクらの勝ちだ」
浮遊するウィンディゴ目掛け、ケイは駆け出した。ウィンディゴとの間を遮るように、水面から飛び出したD類界獣を叩き斬る。崩れゆくその骸の中を抜けて、更に前へ。
「全力でいくよ! 深淵発動機深度最大。セット。星辰コード"R'LYEH"」
ウルスラが言うなり、剣から滴る濁った光が青く濃さと大きさを増し、その長さを更に延ばし始める。
彼女の意図を察したケイは、駆けながら右手の大剣の柄に左手も添え、切っ先を体側の後ろに流す。剣の長さを体に隠し、間合いを惑わすための構えだ。界獣相手に通じるかは怪しいけれど、やらないよりはマシだよね。
剣から湧いて延びる青くぬめる光は、元の刃渡りの三倍を優に超え、十メートル余に達した。
宙に浮くウィンディゴが、紅く燃える双眸で見下ろしてくる。
「届かせて! Sir Cai!」
ケイは呼気とともに大剣を肩に寄せ、ウィンディゴ目掛けて一気に斬り下ろす。青い光で延びた粘液のような刃が、浮遊するウィンディゴの左肩口から胸を捉える。はずだった。
ざばんと上がる水飛沫。D類界獣が水上に跳ね上がり、ウィンディゴの左脚に食らいつく。ウィンディゴの体勢が崩れ、青くぬめる光の刃は飛膜の一部を斬って灼くに留まった。
「いいトコ邪魔しやがってあの下等種族っ!」むきーとウルスラが髪をかきむしる。「いつか必ず絶滅させてやる!」
左脚を食らいつかれたウィンディゴが、水中に引き込まれまいと足掻く。その浮遊の力と、D類界獣の引き込む力が相殺された。ほんの僅かな、静止の瞬間
「まだだ!」ケイは〈夜明けの風〉左腕をウィンディゴに向けた。射撃は苦手だけど、的が動かないなら。「当たれ!」
射出された錨は一直線に、ウィンディゴの右飛膜の厚い部分を貫通。鉤を展開し自らを固定した。
KKKkeeeeeeEEEeeeeee!!
苦痛に似た叫びを轟かせながら、ウィンディゴは巨大な鉤爪をD類界獣の頭部に叩き込んだ。鉤爪がずぶりとD類界獣の眼列にめり込み抉る。
Gyyyiiiiiと呻くような唸りを発して、D類界獣は顎を放し、どぶんと音を立て水中に戻った。
ぐずぐずと体液をこぼしながら、ウィンディゴは上昇を開始する。錨を飛膜に固定したまま。
「ウルスラ!巻き上げて!」
「了解だよ、Sir!」
高速で錨鎖が巻き上げられ、〈夜明けの風〉はウィンディゴに向かって宙を進む。
己に釣り下がった重量物に気づいたのか。ウィンディゴは飛膜に刺さった錨に向かって鉤爪の左手を振り上げた。
「させない!」
ケイはウィンディゴの左腕目掛けて大剣を振るう。青くぬめる光の刃が、その手首から先を切断した。
ウィンディゴは再び夜空に向かって口を開ける。氷雪の風を呼ぶ前触れだ。錨鎖で釣り下がった中空では回避できない。間に合えと念じてケイは剣を突き出す。角を持つ怪物の、ウィンディゴの胸の中央に向かって。
唸りを上げて巻き上がる錨鎖。〈夜明けの風〉がウィンディゴに重なる。青くぬめる光が、ウィンディゴの背から天へと衝くように生え伸びた。eE……咆哮は一音を成しかけて、夜の中空に消えてゆく。崩れゆく長毛に覆われた巨躯とともに。
〈夜明けの風〉は再び夜の宙空に放り出されたものの、今度は高度が低い。ケイは着水するなり翅翔妖精の索敵情報を確認する。ウィンディゴはもう一体、さっき〈夜明けの風〉を空に連れていこうとしたヤツがまだいたはずだ。
案の定、そのウィンディゴはまだ近くの空に滞空していた。破壊したはずの右腕の部分に、短く細い未熟な腕のようなものが生え始めている。
ケイは青い光の滴る大剣を、夜空に残る最後のウィンディゴに差し向けた。ウルスラの言う通りなら、主神とやらの敵対者の力に引き寄せられるはず。
しかしウィンディゴは、〈夜明けの風〉の剣を一瞥するなり回れ右して飛んでゆく。
ネリマ市の、居住区画に向かって。
「アイツ、敵わないと悟って逃げ出しやがった」ウルスラが吐き捨てる。「行こう! 街に被害が出る!」
「わかった!」
駆け出そうとした瞬間、ケイは見た。
銀光一閃。白く冷たい輝きが、角ある巨獣の背から胸を貫いて抜けた。
呻き一つ上げることなく、ウィンディゴが夜空で崩れてゆく。
「この国に来てたんだ、あいつら」夜空を見上げるウルスラが憎々しげに呟く。「Valkyrja……海の狼の雌鴉」
ケイはウルスラの視線を追って、見た。
夜空に翼を広げ、銀の鎗を携えた甲冑姿の人型を。顔は兜と面頬に覆われて見えないが、大きく張り出した胸甲と全身のフォルムから女だとわかる。背には翼。右の翼は白鳥のそれのように秀麗で、左の翼は歯車の軋む黒鉄細工のようで。長く編まれた銀の髪が、夜風を受けてなびく。
甲冑の女は〈夜明けの風〉に向かって小さく一礼すると、翼をはためかせ飛び去った。
「夷狄の水精が申しあげる。外つ国、赤い竜の末裔が申しあげる。今、貴方らの子が、若き戦士が、この地を護らんと戦っている。此の地で為された大逆の咎を清めんとしている。此度のこと、汝らは眺むるに留めるのみか?」
この身は妖精、魔女にして零落した女神。〈いと高きものたち〉去りし後、神秘と踊るミスティックレイス。異国の精霊であっても、発することばの意味は伝わろう。
「此の地の神々の命もあろう。此の国の民草との約定もあろう。されど、此度のことを座視するに留むるならば、此の地此の国の霊とカミは、怯懦にして惰弱なり。そう四方化外に吹いて回ろう。さにあらず、怯懦に非ずと、惰弱に非ずと申すなら、些かなりとも我と戦士に助力せよ」
ウルスラは挑発し、煽る。頭の固いこの国の精霊も、ここまで言われれば多少は力を貸すだろう。来訪初日はこの身一つ。彼らに異邦の妖精に力を貸す謂れはなかった。しかし今は違う。この土地に縁ある少年とともに戦っている。地霊、精霊たちも見ぬフリ聞こえぬフリはできまい。
目論見どおり、この地の風が囁き、この海の水面が波紋を返す。我ら葦原中国の霊、怯懦に非ず、惰弱に非ずと。
この土地の水が風が、指揮下に入った手応えを感じ取る。これでよし。この土地の精霊の協力は取りつけた。ウルスラは夜空を見上げ、背から落ちゆく〈夜明けの風〉を、その琥珀の瞳に捉える。
「我が騎士、ボクと〈夜明けの風〉はこの程度の冒険で騎士を死なせたりはしないぜ」
エーテルリンクを介して〈夜明けの風〉の反水機構を解除。ウルスラは両手を広げ、手のひらを廃ビル下の水面に向けてかざす。
「ボクは湖の貴婦人。水の魔法はお手の物さ」
水が、渦を巻いて立ち昇る。着水間際の〈夜明けの風〉を迎えるように。
暗闇に包まれたケイの視界は、瞬き一転、モノクロームの映像に切り替わった。
音、と言うより振動が軽く体を伝って、浮遊感が停まる。水底に〈夜明けの風〉の背が当たり、軽く浮いてまた沈んだ。目に入るのは、腐食しほぼ柱だけとなった家屋。水に沈んだ工場らしい建物の下階は、汽水に住まう魚たちの棲み家となり果てていた。
ケイは〈夜明けの風〉の身を起こそうと左手を水底についた。バリっと瓦礫か何かを折り砕く感触が、星辰装甲を介して手を伝う。ウルスラの魔法とやらで、挽き肉になることは避けられたらしい。しかしウィンディゴはまだネリマ市の上空にいる。早く水面に上がらなきゃ。
水の抵抗をかき分けて、ケイは急いで〈夜明けの風〉を立ち上げる。その勢いに、水底の堆積物が巻き上がって視界を覆う。煙のように砂泥が舞い、細かな瓦礫が浮かんで流れる。その中に
「……え?」
それが目の端に捉えられたのは瞬きの間ほどで、もう見えない。記憶に残ったそれを、ケイは三年前に見たことがあった。母の葬儀の後の火葬場で。だからそれが何なのか、すぐにわかった。
目の前をくるくる回りながら流れていったものは、無数の人の頭骨だ。
大海嘯当時のものだろうか。その正体をめぐって内に向きかけたケイの思考を、妖精の声が引き戻した。
「ケイ! 〈深きものども〉、D類も寄ってきた。登攀錨鎖《アンカー》を使おう」騎内映像のウルスラが〈夜明けの風〉の装備を図解する。「前腕袖口に射出口がある。ポイントをナビするから、どれかに撃ち込んで」
騎内映像に、錨を打つべき水上のポイントが幾つか光点で示されている。ケイはその内の一つ、廃マンションと思しき建物の壁に向けて左腕を上げ、錨を射出した。
錨は水上に出るとコンクリートの壁に刺さって鉤を展開。固定された錨に連なる鎖が巻き上げられる。水上に向かって〈夜明けの風〉が、鎖一本で高速で引き上げられてゆく。
その足下を、D類こと海棲型界獣が牙列を剥いて泳ぎぬけていった。水上で見ても恐ろしいが、暗い水中で活動しているその姿を目の当たりにすると、その恐ろしさもおぞましさも桁違いだ。巨大な顎が、その奥が、地獄の底にまで通じているように見える。
行き過ぎたD類界獣はその身をくねらせターンすると、再び〈夜明けの風〉目掛けて迫り来る。水上に出るのが早いか、泳ぐ界獣の牙にかかるのが早いか。
「ウルスラ! もっと速く!」
「もうやってる!」
急加速する錨鎖の巻き上げ。思うように動けない水中で、剣を持つケイの右手に力がこもる。剣が敵を認識し、刃に帯びる光が青から黄色へと変化した。
額に滲む汗が痒い。界獣の大顎が見る間に視界に大きくなる。間に合うか?
「水上に出るよ!」
ウルスラの声と同時に、ざぶん!と飛沫を上げて水面を割って〈夜明けの風〉は水上に飛び出した。その左腕の錨鎖で釣り下がった巨体に向かって、D類界獣も水中から踊り出る。
「このっ!」
ケイは足元に食らいつかんと顎を開けた界獣目掛け、大剣を振りぬいた。刃が界獣の頭部を斜めに断ち割る。
YYYyyyyyiiii……
か細い呻きのような音を発してD類界獣は砕け、水中に没していった。
バシュンと音を立てて錨が壁から抜ける。〈夜明けの風〉の水面への着地もとい着水と同時に、錨鎖は左腕に収まった。
「無事かい? 我が騎士」
「ルアーになった気分だよ……」ウルスラに返しながら、ケイは廃ビルの壁面を背に身構えた。W類、ウィンディゴに再び背後から襲われ、空に連れていかれてはたまらない。「状況は?」
「上空にW類が二体。内一体は手負いだけど、恐らくすぐに再生する。ヤツらは心臓を破壊しないと殺しきれない」ウルスラが翅翔妖精の観測情報を統合し、〈夜明けの風〉に送る。「おまけに水中から接近してくるD類が二体。亜種はいないけど、混戦になると面ど……来るよケイ!」
ケイが観測位置を把握しようとする間もなく、一瞬で、角を持つ怪物が〈夜明けの風〉の前に現れた。絶妙に〈夜明けの風〉の剣の届かぬ間合いを保ちながら、威嚇するように怪音を発して浮遊する。
keKKKKeeeeekeeekekekkeeeekk!!!
ケイは踏み込んで斬りかかりたい衝動を抑え込む。うかつに出れば、またもう一体に背後を取られかねない。
「原料が人間なせいかな。D類と違って、アイツらは多少の知恵が回る」忌々しげにウルスラが言った。「同族がやられるのを見て、警戒してるんだ」
目の前にウィンディゴ。更に水中からD類界獣二体が近づきつつある。うかつに寄れないのがウィンディゴも同じなら、一旦この場を離れて距離を稼いだ方がいい。そう考えて、ケイが駆け出そうと膝を緩めたその時
目前のウィンディゴが、骸骨めいた顔を夜空に向けた。
「ケイ! その場を離脱。急いでっ」
ウルスラの叫びに、重なり轟くウィンディゴの咆哮。身を竦ませずに動けたのは、彼女と経た戦闘経験のお蔭か。ケイは右に跳ね飛んだ。同時に、叩きつけるような衝撃を左半身に受け、足を取られて水面を転げる。四つん這いになりながら元いた場所に目を向けると、廃ビル壁面が大きく抉れて凹んでいた。
ケイが〈夜明けの風〉の左半身を動かすと、バラバラと何かが砕けて水面に落ちた。これは……氷?
「悪しきうわさよ、時の采配にふりかかるがいい」ウルスラが呪いの言葉を吐く。「アイツ、長生者(Elder)だ。厄介だよケイ、あれは氷雪の風を操る」
「そういうことは先に言ってよ!」
「ウィンディゴが皆、あの力を持ってるわけじゃない。というか、長生者《エルダー》なんて滅多にいない。ボクも記録で読んだことしかないんだ」ウルスラは古い書物の記録を映して見せた。「長い年月を経て主神に貢献した個体は、その超常の力の一部を分け与えられる……らしい」
「らしい、って。ミスティックレイスって、界獣に詳しいんじゃないの?」
神秘の種族、ミスティックレイス。彼らは世界を侵す界獣の生態に通じ、滅ぼす術を人類に与えてくれた神々にも等しい存在。ケイはそんな風に思っていた。
「買いかぶりだよ。ボクらの持ってるヤツらの知識なんて、無駄に長生きだから持ってるだけのほんの一部さ」ウルスラが自嘲する。「大海嘯以後に解明されたことの方が多いくらいだ」
弱音とも取れる彼女の言葉に、ケイは思う。彼らミスティックレイスは意外と、思っているよりも身近な存在なのかもしれない。人間が勝手に畏れ敬っているだけで。ウルスラとか妙に子どもっぽくて、はるか年上には思えない。
「近づく術はないかな。無策で突っ込めば、吹き飛ばされるだけだ」
「個体差はあるだろうけど、記録どおりならそう続けては使えないはず」ウルスラが書物のページの一部を指し示した。「急げば勝機はある。ボクとキミと〈夜明けの風〉なら、打倒できる。剣を、〈星に伸ばす手〉の刃をヤツの心臓に触れさせさえすれば、ボクらの勝ちだ」
浮遊するウィンディゴ目掛け、ケイは駆け出した。ウィンディゴとの間を遮るように、水面から飛び出したD類界獣を叩き斬る。崩れゆくその骸の中を抜けて、更に前へ。
「全力でいくよ! 深淵発動機深度最大。セット。星辰コード"R'LYEH"」
ウルスラが言うなり、剣から滴る濁った光が青く濃さと大きさを増し、その長さを更に延ばし始める。
彼女の意図を察したケイは、駆けながら右手の大剣の柄に左手も添え、切っ先を体側の後ろに流す。剣の長さを体に隠し、間合いを惑わすための構えだ。界獣相手に通じるかは怪しいけれど、やらないよりはマシだよね。
剣から湧いて延びる青くぬめる光は、元の刃渡りの三倍を優に超え、十メートル余に達した。
宙に浮くウィンディゴが、紅く燃える双眸で見下ろしてくる。
「届かせて! Sir Cai!」
ケイは呼気とともに大剣を肩に寄せ、ウィンディゴ目掛けて一気に斬り下ろす。青い光で延びた粘液のような刃が、浮遊するウィンディゴの左肩口から胸を捉える。はずだった。
ざばんと上がる水飛沫。D類界獣が水上に跳ね上がり、ウィンディゴの左脚に食らいつく。ウィンディゴの体勢が崩れ、青くぬめる光の刃は飛膜の一部を斬って灼くに留まった。
「いいトコ邪魔しやがってあの下等種族っ!」むきーとウルスラが髪をかきむしる。「いつか必ず絶滅させてやる!」
左脚を食らいつかれたウィンディゴが、水中に引き込まれまいと足掻く。その浮遊の力と、D類界獣の引き込む力が相殺された。ほんの僅かな、静止の瞬間
「まだだ!」ケイは〈夜明けの風〉左腕をウィンディゴに向けた。射撃は苦手だけど、的が動かないなら。「当たれ!」
射出された錨は一直線に、ウィンディゴの右飛膜の厚い部分を貫通。鉤を展開し自らを固定した。
KKKkeeeeeeEEEeeeeee!!
苦痛に似た叫びを轟かせながら、ウィンディゴは巨大な鉤爪をD類界獣の頭部に叩き込んだ。鉤爪がずぶりとD類界獣の眼列にめり込み抉る。
Gyyyiiiiiと呻くような唸りを発して、D類界獣は顎を放し、どぶんと音を立て水中に戻った。
ぐずぐずと体液をこぼしながら、ウィンディゴは上昇を開始する。錨を飛膜に固定したまま。
「ウルスラ!巻き上げて!」
「了解だよ、Sir!」
高速で錨鎖が巻き上げられ、〈夜明けの風〉はウィンディゴに向かって宙を進む。
己に釣り下がった重量物に気づいたのか。ウィンディゴは飛膜に刺さった錨に向かって鉤爪の左手を振り上げた。
「させない!」
ケイはウィンディゴの左腕目掛けて大剣を振るう。青くぬめる光の刃が、その手首から先を切断した。
ウィンディゴは再び夜空に向かって口を開ける。氷雪の風を呼ぶ前触れだ。錨鎖で釣り下がった中空では回避できない。間に合えと念じてケイは剣を突き出す。角を持つ怪物の、ウィンディゴの胸の中央に向かって。
唸りを上げて巻き上がる錨鎖。〈夜明けの風〉がウィンディゴに重なる。青くぬめる光が、ウィンディゴの背から天へと衝くように生え伸びた。eE……咆哮は一音を成しかけて、夜の中空に消えてゆく。崩れゆく長毛に覆われた巨躯とともに。
〈夜明けの風〉は再び夜の宙空に放り出されたものの、今度は高度が低い。ケイは着水するなり翅翔妖精の索敵情報を確認する。ウィンディゴはもう一体、さっき〈夜明けの風〉を空に連れていこうとしたヤツがまだいたはずだ。
案の定、そのウィンディゴはまだ近くの空に滞空していた。破壊したはずの右腕の部分に、短く細い未熟な腕のようなものが生え始めている。
ケイは青い光の滴る大剣を、夜空に残る最後のウィンディゴに差し向けた。ウルスラの言う通りなら、主神とやらの敵対者の力に引き寄せられるはず。
しかしウィンディゴは、〈夜明けの風〉の剣を一瞥するなり回れ右して飛んでゆく。
ネリマ市の、居住区画に向かって。
「アイツ、敵わないと悟って逃げ出しやがった」ウルスラが吐き捨てる。「行こう! 街に被害が出る!」
「わかった!」
駆け出そうとした瞬間、ケイは見た。
銀光一閃。白く冷たい輝きが、角ある巨獣の背から胸を貫いて抜けた。
呻き一つ上げることなく、ウィンディゴが夜空で崩れてゆく。
「この国に来てたんだ、あいつら」夜空を見上げるウルスラが憎々しげに呟く。「Valkyrja……海の狼の雌鴉」
ケイはウルスラの視線を追って、見た。
夜空に翼を広げ、銀の鎗を携えた甲冑姿の人型を。顔は兜と面頬に覆われて見えないが、大きく張り出した胸甲と全身のフォルムから女だとわかる。背には翼。右の翼は白鳥のそれのように秀麗で、左の翼は歯車の軋む黒鉄細工のようで。長く編まれた銀の髪が、夜風を受けてなびく。
甲冑の女は〈夜明けの風〉に向かって小さく一礼すると、翼をはためかせ飛び去った。
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