紙杯の騎士

信野木常

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第3話 食卓の風景

7. 今、僕が言いたいのは

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 メイハは国語が苦手だった。現代文は特に。テーブルの向かいで練習問題のプリントを前にする彼女は、昔、ケイの姉が入れたブラックコーヒーを興味本位で飲んでしまった時のような顔をしていた。
「『この時の作者の気持ち』なんて、わかるわけないだろう」
「この手の現代文の問題は、問題を作った先生が期待する答えを当てるゲームみたいなものだから」
 随分と前から、こんなやり取りを繰り返してるような気がする。眉根を寄せるメイハを見ながら、ケイはそんなことを思い出していた。定期テストが始まって、こうしてテスト前の勉強会を始めた頃からだから、中等部に上がったくらいからかなあ。漢字の書き取りや説明文、論文なんかの問題はそれほど躓かないのに、文芸作品や小説になると途端に混乱するらしい。他人の頭の中なんてわかるものか、というのが彼女の言い分だ。ケイもその言い分には一理も三理もあると思っているけれど、その理を主張したところで赤点を取れば追試だし、追試をクリアできねば補習、更に三学期末の試験をクリアできねば留年だ。
「現国の冨地原の期待なんて、それこそわかるわけがない。知りたくもない」ジャージ姿のメイハは不貞腐れたように言うと、シャーペンを鼻に載せて居間の天井を見上げた。「国語の点なんて取れなくても生きていけるさ」
 大海嘯で人口が激減した今の世は、どこもかしこも人手不足だ。ヨロイを繰れれば、建築土木運送その他の業界で働き口には事欠かない。
「まあ、メイハなら生きていけるとは思うけどさ」ケイはケイで苦手な数学、因数分解の問題に取り組んでいる。なんでわざわざくっついてるものを分解するのさ。と思わないでもないけれど。「できることは増やした方がいいよ。父さんの受け売りだけど『勉強は、未来の選択肢を増やすためにある』って」
「未来、ね」メイハは形の良い鼻先でシャーペンを放ると、右手でキャッチしケイの目を覗き込む。「ワタシは、今のままで十分満足なのだが」
 暖かみと言おうか慈しみと呼ぶべきか。そんな柔らかな青い瞳に見つめられ、ケイは鼓動が少し速まるのを感じる。メイハは美人だ。だから仕方ないことだ。でも彼女はほんの少し年上でも妹のような存在で、幼馴染で、家族のような関係で。えーと何だっけ、今、僕が言いたいのは
「でも、今が今のまま続くかどうかは、誰にもわからないよ」
 界獣の脅威に晒された世界ということだけではない。誰にでも、理不尽な困難に襲われる可能性はある。事故、災害、病……災厄には道理などなく、誰であろうと人を分け隔てしない。備えや準備を待つこともない。そのことを、ケイはよく知っているつもりだった。だから
「だから少しでも、できることは増やさないと」
「だから、乙種ヨロイの勉強をしてるのか?」
「えーと……」
 ケイは言葉に詰まってメイハの青い瞳から目を逸らした。予期せぬ問いをメイハに突きつけられて。別に隠していたつもりもなかったのだけれど。部屋の参考書でも見られたのか。学校の勉強以外に乙種方術甲冑技能試験の勉強をする動機には、メイハも少なからず関わりがあったりもする。気恥ずかしくもあり、知られることが少し怖くもあり。
「乙種の免許が必要な場面なんて、そうはないよな」メイハのどこか愉し気な言葉が続く。「海浜警備隊を除けば、海運会社の海上警備部門か、民間の対特種生物警備会社くらいだ」
 不意に、ひんやりとした柔らかな感触を頬に感じる。ケイが視線を戻すと、メイハの顔が目前にあった。テーブルに身を乗り出した彼女の右手が、左頬を包んでいる。目を逸らしようもなく、迫る美貌に心臓が跳ねる。長年見慣れた顔なのに、今はなんだか違って見えた。
「ケイ、何を考えている?」メイハの右手のひらはケイの頬をするすると撫ぜ登り、彼の額の左端で留まった。「ワタシは……」
 額に触れたメイハの右手が熱を帯びる。否、熱を帯びているのはこの僕か。覗き込んでくる目が優しい。今なら何を言っても大丈夫。急に湧き上がったそんな確信に衝き動かされて、ケイが口を開きかけたその時に
「あーメイハ、そこから先はケイが一八歳になるまで待ってくれないかしら?」姉のシグネが居間に現れた。髪をタオルで拭きながら。「隠れてやってくれるならまだしも、目の前でとなると止めざるをえないのよ。児相の霧島さんにも言われてるし」
 弾かれたようにメイハが手を引っ込める。ケイも仰け反るように顔の距離を遠ざけた。その拍子に後頭部を壁にぶつけ、ゴッと鈍い音が鳴る。
「痛っ、ね、姉さん……」
「何を慌ててるのよ。お風呂空いたから、どっちが先でもいいからさっさと入って寝なさい。特にケイ、まだ成長期なんだから。寝ないと背、伸びないわよ。それとメイハ」
「なんだ? シグ姉さん」
「現代文、作者の意図やらが難しければそっちは捨てて、漢字とことわざと故事成語だけでもしっかりやっておきなさい。それで赤点回避くらいはできるでしょ」メイハとのやり取りをいつから聞いていたのやら。シグネはそんなことを言った。「それに、せっかく一緒の学年で学校に行けたんだから、一緒に卒業しておきなさい。ね?」
「む……わかった。そうする」
 メイハ、昔から姉さんの言うことは割と聞くとこあるよなあ。ケイは打ち付けた後頭部をさすりながら思う。彼女は何を言おうとしたのか。自分は何を口走ろうとしたのか。知らずに済んで、少し安堵している自分がいた。知ったらきっと、これまでの関係が大きく変わってしまう。そんな気がする。
 その時、ケイのスウェットズボンのポケットで、ケータイが震えて着信を告げた。
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