紙杯の騎士

信野木常

文字の大きさ
上 下
21 / 63
第3話 食卓の風景

3. 狂気誘導媒体

しおりを挟む
 ストレスチェックで見たはずのその絵は、果たして何枚目だったか。
「この絵、何に見えますか?」
 臨床心理士を名乗る女に問われ、樋口シンイチは言葉に窮した。その絵を目にする前までは、感じたことをそのまま述べてきた。これは好きだとか嫌いだとか。あるいは綺麗だとか寂しい感じがするだとか。思うままに感想を述べてくれとの、臨床心理士の言葉に従って。それまでスクリーンに投影された絵の数々は、遊ぶ子猫たちや青々とした大樹、雪冠を頂く山嶺といった、良くも悪くも普通の絵で。いつかどこかで見たような気はするものの、絵画に詳しいわけでもないシンイチには「上手い絵だ」ということくらいしかわからなかった。
 しかし今、最も印象に残ったあの絵を思い出そうとすると、途端に記憶が曖昧になる。直前に見た樹氷の森、直後に見た夜明けの都市の絵は、詳細とまではいかなくともだいたいの構図は憶えていた。なのに、あの絵だけどうして……もしかして、あれが何かわかるか否かが、発現者とヒルコの分かれ道だったのかも。などと益体もないことを考えてしまう。
 設計形質が満足に発現せずに成人年齢を迎えたのに、今更何を期待しているのか。
 折り合いをつけたつもりでも、未練はまだあるのだろう。だから年に一度の遺伝子調整者向け健康診断も、いまだに欠かさず赴いている。会社の定期健診もあるのに。貴重な有休まで使って。
 胸の内で自嘲しながら、シンイチは揺れるバスの窓の外に目を移した。視界に入るのは、ネリマ市の旧市街、半ば水没したかつて街だった場所だ。住む者のいない家屋がビルが、沈む日に照らされ海水混じりの水に晒され朽ち崩れている。赤い陽射しの色と相まって、その様は何か巨大な生き物の死骸をシンイチに連想させた。
「……っ?」
 不意に、目の奥が疼いた。胸の鼓動に合わせて、痒いような痛いような感覚が目の奥から頭を刺す。シンイチは右手のひらを額に当てた。ひどく熱く感じる。反面、手のひらは氷水に漬けたように冷たい。びちゃびちゃと冷汗が滴って止まらない。思い出せない絵の残滓が、記憶の彼方でチラチラと躍る。頭の熱が顔から首、胸へと少しずつ滲むように這うように下ってゆく。何だこの感じは? 熱い。それ以上に痒い、痛いくらいに。もう痛い。頭の奥、脳の深みがナニかに引っ張ラレル感ジがスル。痛い。身体が熱イ。肌ガムズ痒い。胸が苦シイ。息モし辛イ。熱苦シイこの服ヲ脱ギタイ。
 シンイチは首筋をかいていた左手の指を、シャツのボタンにかけて引いた。シャツと一緒に胸の皮膚と肉が剥がれた。痒みが少し鎮まる。右手の指で頬をかくと、顔と一緒に頭皮がずるりと剥ける。
 車両内に甲高い悲鳴が上がる。こちらを向いた運転手の目が、驚愕に大きく見開かれるのがシンイチには見えた。無数の像に重なり合って。
 腕に脚に胴にまとわりついて、絞めつけてくるものを、脱グ。でもまだ熱い苦シイ。痛痒イ。余計なものを脱ぎ棄てたら、今度は灼けつくような痛みに全身を隈なく蝕まれた。一六個の眼も一五八本の触腕も、どこもかしこも炎に炙られるように痛い、痛イ、イタイ……
 痛みに苦しむシンイチに、一つの方向が指し示される。それは彼方の上位者の、令。

 コワセ

 シンイチの意識は彼方からの令に呑み込まれ、欠片も残らずただの機能となり果てて。
 シンイチだったモノは、触腕で窓を突き破るとバスの外へと飛び出した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

黄金蒐覇のグリード 〜力と財貨を欲しても、理性と対価は忘れずに〜

黒城白爵
ファンタジー
 とある異世界を救い、元の世界へと帰還した玄鐘理音は、その後の人生を平凡に送った末に病でこの世を去った。  死後、不可思議な空間にいた謎の神性存在から、異世界を救った報酬として全盛期の肉体と変質したかつての力である〈強欲〉を受け取り、以前とは別の異世界にて第二の人生をはじめる。  自由気儘に人を救い、スキルやアイテムを集め、敵を滅する日々は、リオンの空虚だった心を満たしていく。  黄金と力を蒐集し目指すは世界最高ランクの冒険者。  使命も宿命も無き救世の勇者は、今日も欲望と理性を秤にかけて我が道を往く。 ※ 更新予定日は【月曜日】と【金曜日】です。 ※第301話から更新時間を朝5時からに変更します。

いずれ最強の錬金術師?

小狐丸
ファンタジー
 テンプレのごとく勇者召喚に巻き込まれたアラフォーサラリーマン入間 巧。何の因果か、女神様に勇者とは別口で異世界へと送られる事になる。  女神様の過保護なサポートで若返り、外見も日本人とはかけ離れたイケメンとなって異世界へと降り立つ。  けれど男の希望は生産職を営みながらのスローライフ。それを許さない女神特性の身体と能力。  はたして巧は異世界で平穏な生活を送れるのか。 **************  本編終了しました。  只今、暇つぶしに蛇足をツラツラ書き殴っています。  お暇でしたらどうぞ。  書籍版一巻〜七巻発売中です。  コミック版一巻〜二巻発売中です。  よろしくお願いします。 **************

女神の代わりに異世界漫遊  ~ほのぼの・まったり。時々、ざまぁ?~

大福にゃここ
ファンタジー
目の前に、女神を名乗る女性が立っていた。 麗しい彼女の願いは「自分の代わりに世界を見て欲しい」それだけ。 使命も何もなく、ただ、その世界で楽しく生きていくだけでいいらしい。 厳しい異世界で生き抜く為のスキルも色々と貰い、食いしん坊だけど優しくて可愛い従魔も一緒! 忙しくて自由のない女神の代わりに、異世界を楽しんでこよう♪ 13話目くらいから話が動きますので、気長にお付き合いください! 最初はとっつきにくいかもしれませんが、どうか続きを読んでみてくださいね^^ ※お気に入り登録や感想がとても励みになっています。 ありがとうございます!  (なかなかお返事書けなくてごめんなさい) ※小説家になろう様にも投稿しています

余命宣告を受けた僕が、異世界の記憶を持つ人達に救われるまで。

桐山じゃろ
ファンタジー
剣と魔法の世界にて。余命宣告を受けたリインは、幼馴染に突き放され、仲間には裏切られて自暴自棄になりかけていたが、心優しい老婆と不思議な男に出会い、自らの余命と向き合う。リインの幼馴染はリインの病を治すために、己の全てを駆使して異世界の記憶を持つものたちを集めていた。

メサイアの劣等

すいせーむし
ファンタジー
記憶喪失の少年チヨは真っ白な病室で目覚める。何かの病気で入院を余儀なくされたようだ。また、チヨその病のせいで特殊な力を持っていた。記憶を取り戻すため、他の患者を救うため、患者兼医者助手として"現の夢病院"で過ごす話。

【祝・追放100回記念】自分を追放した奴らのスキルを全部使えるようになりました!

高見南純平
ファンタジー
最弱ヒーラーのララクは、ついに冒険者パーティーを100回も追放されてしまう。しかし、そこで条件を満たしたことによって新スキルが覚醒!そのスキル内容は【今まで追放してきた冒険者のスキルを使えるようになる】というとんでもスキルだった! ララクは、他人のスキルを組み合わせて超万能最強冒険者へと成り上がっていく!

神様のミスで女に転生したようです

結城はる
ファンタジー
 34歳独身の秋本修弥はごく普通の中小企業に勤めるサラリーマンであった。  いつも通り起床し朝食を食べ、会社へ通勤中だったがマンションの上から人が落下してきて下敷きとなってしまった……。  目が覚めると、目の前には絶世の美女が立っていた。  美女の話を聞くと、どうやら目の前にいる美女は神様であり私は死んでしまったということらしい  死んだことにより私の魂は地球とは別の世界に迷い込んだみたいなので、こっちの世界に転生させてくれるそうだ。  気がついたら、洞窟の中にいて転生されたことを確認する。  ん……、なんか違和感がある。股を触ってみるとあるべきものがない。  え……。  神様、私女になってるんですけどーーーー!!!  小説家になろうでも掲載しています。  URLはこちら→「https://ncode.syosetu.com/n7001ht/」

処理中です...