紙杯の騎士

信野木常

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第3話 食卓の風景

3. 狂気誘導媒体

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 ストレスチェックで見たはずのその絵は、果たして何枚目だったか。
「この絵、何に見えますか?」
 臨床心理士を名乗る女に問われ、樋口シンイチは言葉に窮した。その絵を目にする前までは、感じたことをそのまま述べてきた。これは好きだとか嫌いだとか。あるいは綺麗だとか寂しい感じがするだとか。思うままに感想を述べてくれとの、臨床心理士の言葉に従って。それまでスクリーンに投影された絵の数々は、遊ぶ子猫たちや青々とした大樹、雪冠を頂く山嶺といった、良くも悪くも普通の絵で。いつかどこかで見たような気はするものの、絵画に詳しいわけでもないシンイチには「上手い絵だ」ということくらいしかわからなかった。
 しかし今、最も印象に残ったあの絵を思い出そうとすると、途端に記憶が曖昧になる。直前に見た樹氷の森、直後に見た夜明けの都市の絵は、詳細とまではいかなくともだいたいの構図は憶えていた。なのに、あの絵だけどうして……もしかして、あれが何かわかるか否かが、発現者とヒルコの分かれ道だったのかも。などと益体もないことを考えてしまう。
 設計形質が満足に発現せずに成人年齢を迎えたのに、今更何を期待しているのか。
 折り合いをつけたつもりでも、未練はまだあるのだろう。だから年に一度の遺伝子調整者向け健康診断も、いまだに欠かさず赴いている。会社の定期健診もあるのに。貴重な有休まで使って。
 胸の内で自嘲しながら、シンイチは揺れるバスの窓の外に目を移した。視界に入るのは、ネリマ市の旧市街、半ば水没したかつて街だった場所だ。住む者のいない家屋がビルが、沈む日に照らされ海水混じりの水に晒され朽ち崩れている。赤い陽射しの色と相まって、その様は何か巨大な生き物の死骸をシンイチに連想させた。
「……っ?」
 不意に、目の奥が疼いた。胸の鼓動に合わせて、痒いような痛いような感覚が目の奥から頭を刺す。シンイチは右手のひらを額に当てた。ひどく熱く感じる。反面、手のひらは氷水に漬けたように冷たい。びちゃびちゃと冷汗が滴って止まらない。思い出せない絵の残滓が、記憶の彼方でチラチラと躍る。頭の熱が顔から首、胸へと少しずつ滲むように這うように下ってゆく。何だこの感じは? 熱い。それ以上に痒い、痛いくらいに。もう痛い。頭の奥、脳の深みがナニかに引っ張ラレル感ジがスル。痛い。身体が熱イ。肌ガムズ痒い。胸が苦シイ。息モし辛イ。熱苦シイこの服ヲ脱ギタイ。
 シンイチは首筋をかいていた左手の指を、シャツのボタンにかけて引いた。シャツと一緒に胸の皮膚と肉が剥がれた。痒みが少し鎮まる。右手の指で頬をかくと、顔と一緒に頭皮がずるりと剥ける。
 車両内に甲高い悲鳴が上がる。こちらを向いた運転手の目が、驚愕に大きく見開かれるのがシンイチには見えた。無数の像に重なり合って。
 腕に脚に胴にまとわりついて、絞めつけてくるものを、脱グ。でもまだ熱い苦シイ。痛痒イ。余計なものを脱ぎ棄てたら、今度は灼けつくような痛みに全身を隈なく蝕まれた。一六個の眼も一五八本の触腕も、どこもかしこも炎に炙られるように痛い、痛イ、イタイ……
 痛みに苦しむシンイチに、一つの方向が指し示される。それは彼方の上位者の、令。

 コワセ

 シンイチの意識は彼方からの令に呑み込まれ、欠片も残らずただの機能となり果てて。
 シンイチだったモノは、触腕で窓を突き破るとバスの外へと飛び出した。
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