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第3話 食卓の風景
1. みはた食堂
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ピピッピピッと規則正しく電子音が鳴る。
枕元の目覚まし時計を叩いて止めて、ケイは薄目を開けた。見れば時刻は6時30分。カーテンの隙間から、朝の薄明かりが漏れている。今週は僕が弁当当番だったよな。起きないと。昨日の残り物なんだったっけ……と考えていると、手首のひんやりとした感触が意識に登った。目を遣れば、そこには小さな銀の輪を紡いだ腕輪、星辰装甲〈夜明けの風〉の鍵がある。
夢じゃ、なかったのか。布団に寝ころび仰向けになりながら、ケイは右手首を上げて腕輪を眺めた。ヨロイを駆って界獣から逃げ、死にそうになって、助けた妖精から剣をもらって……この身に起きたことを思い出せば、まるでおとぎ話のような出来事だ。今でも夢だったんじゃないかと思う。
家に帰り着いてからは、異国からのお客様をもてなすホストとして、よくやった方じゃなかろうか。田舎の高等部一年生にしては。
夜道に、"みはた食堂"の看板が煌々と灯っていた。
食堂の扉の鍵を開け、電灯を点けて、ケイはウルスラを中へと招き入れる。
「ここがキミの家かい?」訊くウルスラは、興味深そうに、テーブルやら壁にかかったお品書きを眺めていた。「ダイニングルームのようだけど」
「父さんが食堂をやってるんだ。僕もよく手伝ってる」ケイはカウンターの一席をウルスラに勧め、厨房に入った。「家は隣なんだけど、事情があって寝起きもここの二階でしてるんだ」
ケイはエプロンを着け手を洗って、アルコール消毒をしつつ考える。まずは腹ごしらえ、と思って食堂に案内したのはよいが、はてさて何を出したら良いものか。ブリタニアの人の好物なんて知る由もない。
でも、どうせならおいしいと思ってもらえるものを、と思ってしまうのは料理人を父に持つせいか。
「好き嫌いとか、苦手な食べ物ってある?」
「ケイ、キミが手ずから振舞ってくれるのかい?」ウルスラが嬉しそうに身を乗り出す。「嫌いなものなんてないよ。ブリタニアの妖精種の舌はいつだって準備万端さ!」
と言ってくれるものの、油断はできない。焼きイカをもりもり食べていた姿を知っているので、杞憂な気がしなくもないけれど。姉のシグネ曰く「文化や宗教のタブーは、どこに埋まってるかわからない地雷」。とりあえず鶏肉だけはほとんどの文化圏で食べられているから、まあ無難よ、とも言っていた。外国に行ったこともない癖に。
海も空も界獣の脅威に晒された今の時代、海外旅行はごく一部の富裕層にしか許されない極めて贅沢な娯楽だ。
よし、無難に鶏の唐揚げにしよう。得意だし。店の食材も無駄にならないし。ケイは冷蔵庫を開けて仕込み済みの鶏肉を出して、準備にかかった。フライヤーの電源は落としてあったので、鍋に油を移してガス台にかける。油が温まる間に炊飯器を確認すると、保温状態のご飯が湯気を上げた。今日から明日朝で消費しきれなかった分は、後でラップに包んで冷凍すべし、と心の予定表に書き込む。
ケイは粉をまぶした鶏肉を油に投入。やがて漂ってきた香ばしい匂いに、「いいね、いいね」とウルスラが頬をゆるませる。
油を切って、皿に盛り付け。茶碗にご飯、レタスとトマトと刻んだニンジンの簡単サラダに、ワカメスープを付けて、みはた食堂の唐揚げランチ二人前、完成。もう夜だけど。ワンコイン500円で、味噌汁とご飯お替わり自由が人気の秘訣。おろしポン酢とマヨネーズはサービスです。しかし彼女は箸を使えるのだろうか。怪しいと思ったケイは、彼女の盆にはフォークとスプーンを置いた。
「えっと、いただきます、でいいんだっけ?」
ケイが驚いたことに、ウルスラは合掌してみせた。
「む、ボクだってこの国に来る前に少しは勉強したのさ」表情から驚きは伝わり、ウルスラが憮然とする。「食物に、恵みに対する感謝は、どこの国でも一緒だろ?」
「ごめん、僕らニホン人でも、やらない人が多いからさ」ケイは謝り、厨房を出て隣に座る。合掌して。「いただきます、でいいんだよ」
ケイはスープを一口飲んでから、唐揚げを一齧り。揚げたての肉汁に舌を火傷しそうになって、慌ててご飯をかき込んだ。我ながら上出来だ。空腹が満たされる至福に、自然と笑みがこぼれてくる。
しかし彼女の口には合うのだろうか? ケイが不安になって横を見ると、頬袋いっぱいに唐揚げとご飯を口に詰め、んーっんーっと呻く赤毛のリスがそこにいた。少し涙目になっている。
「大丈夫!?」ケイは慌ててカウンターの湯呑にポットのほうじ茶を注ぎ、ウルスラの前に置く。「ごめん! もしかして口に合わなかった?」
ウルスラは、んーんーと呻きながらも首をぶんぶん横に振りつつ、ほうじ茶を呑んで椅子の背にもたれた。フゥと一息ついて、ほうじ茶をもう一口飲んで言うことには。
「口に合わないなんてとんでもない」フォークで次の唐揚げを刺し、ウルスラは大口開けて齧りつく。「もひゅひは、ひゃいこうのディナーだよ」
「最高はないんじゃない?」どうやらお気に召したらしい。ほっとしながらケイは言った。「お世辞でも嬉しいけどさ」
「お世辞じゃないぜ、我が騎士」ごっくん、と飲み込んでウルスラは言い返す。「キミは、大海嘯でアルビオン島外との物流が死んだブリタニアの食事情を知らないから、そんなことが言えるんだ。海の狼どもさえ来なければ、うちの食文化だってもうちょっとは……」
ウルスラの目が何処か遠くを恨めし気に見つめた、ようにケイには見えた。
「でもあれでしょ、ウルスラはその、重要人物なわけだからさ。食事だって、有名ホテルとかのあれこれじゃない?」
「ボクはコーンウォールのノッカーたちのところでの暮らしが長かったからね。宮廷作法とかテーブルマナーとか、お行儀良くは苦手なんだ」言って、ウルスラは懐からタブレットを出すと、定食の載った盆に向けた。「あいつらに見せびらかしてやろう」
女の子にはちょっと多いかと思えた量だったが、唐揚げとご飯は見る見るうちに、赤毛の少女の形のよい口に消えてゆく。気持ちの良い食べっぷりに、作ったケイも嬉しくなる。メイハとアヤハも、家に来た頃はあんな風にもりもり食べてくれたよなあと懐かしく思い出す。中等部に上がる頃からは、体重を気にし始めてかつてのようには食べてくれなくなったけれど。年頃の女子には色々あるのはわかるけど、少々寂しいものでもある。
ウルスラの盆を見てみれば、もう茶碗も皿もスープカップも空だ。デザートにプリンでも出そうかな。そんなことを考えながらケイも食事を進めていると、ウルスラが何やら俯いていた。心もち顔が赤いような気がしなくもない。トイレかな、と思い案内しようと立ち上がる。
「その、我が騎士……」彼女はこころもち恥ずかしそうに口を開いた。「おかわりは、頼めるかな?」
「大丈夫、まだまだできるよ」
厨房に向かって歩きながら、ケイは密かに胸を撫でおろした。勘違いで発言していたら、きっとまた貴婦人がどうこうと機嫌を損ねていただろう。女子って難しい。
その小さく華奢な体のどこに入るのか。ウルスラは三人前の唐揚げと、茶碗で大盛り五杯のご飯を平らげた。
ご馳走さまとお粗末さまで夕食を終えて、店を閉めて隣の本宅へ。ケイはウルスラを一階の客間に案内してから、風呂場でシャワーの使い方を説明して、気づく。
「あ、着替えとか大丈夫?」
出会った時から、ウルスラは荷物の類は何一つ持っていなかった。時々その不思議な白いパーカーの懐からあれこれ出すだけだ。
もし着替えがないと言われたらどうしよう。お湯はりボタンを押しながら、ケイは横目でウルスラを見て考える。寝巻は僕のスウェットとか貸せばいいかな。でも下着はどうしよう。見た感じの歳はアヤハに近いけど、サイズは合いそうに……ないよなあ。仮に合っても、勝手に下着など持ち出せるはずもない。姉さんがいてくれればと切に思う。
「ケイ、今なんか失礼なこと考えなかった?」
「いやいやそんなこと……」むっとしたウルスラに詰め寄られ、ケイは半歩下がりつつ。「ちょっとだけ考えたかも。ごめん」
「誰と比べたか知らないけど、わかるんだよそういうの」フンと鼻息荒く、ウルスラはシャワーを手に取って試す。「着替えのことなら、亜空間に圧縮収納してるから問題ないよ」
御幡家共用のシャンプーとボディソープの場所を教えて、ケイは風呂場を出た。
居間でテレビの電源を入れ、ケイはソファーに腰を下ろす。はぁ、と大きな溜め息をつくと、どっと疲れが湧いてきた。背もたれに体を預けた途端、待ち構えていたように眠気が襲ってくる。ああ、眠い。でも寝る前に風呂にも入りたい。メイハとアヤハにメールしなきゃ。シェルターに避難してないことがバレたら面倒だから、ウルスラと口裏合わせないと……考えながら、うつらうつらとするケイの耳には、テレビのニュースが遠くの波音のように聞こえてくる。
今日から始まったキョウト特種生物災害対策会議は……
本日午後4時30分頃、トウキョウ圏の湾岸地区で、都市防衛システムの大規模な障害が発生しました。対象はシンジュク市、ナカノ市、ネリマ市、トヨシマ市、ヒノキ市で……
トウキョウ県に発令された緊急事態宣言は、明日5月8日の朝をもって解除の予定です。
システムの完全復旧は5月末の見込み。それまでの間、護国庁は防衛ラインを……
本日、オオサカ湾に接近した界獣群は全て、海浜警備隊第一管区第一防衛隊の活動により撃退されました。
「へぇー……」
耳元で、どこか棘のある少女の声が聞こえた。ケイが目を開けると、顔のすぐ右に赤い髪と尖った耳がある。
タオルをかぶったウルスラが、ケイの背後からソファーの背もたれに顎を載せていた。ふんわりとお風呂上がりの少女のいい匂いがして、思春期の少年は心拍が上がってしまいちょっと困る。
「見るからに、神性移植者って感じだね」
ウルスラの視線を追って見ると、テレビの液晶画面の中で青年が話していた。青年の着る青の制服は、海浜警備隊繰傀士のもの。左胸のラインは赤の一文字。示す所属は第一管区第一防衛隊。ニホンの首都キョウトを護る、精鋭中の精鋭の証だ。
「しんせいいしょくしゃ?」
界獣と戦っている時にも、彼女はそんな言葉を使った覚えがある。聞きなれない言葉にケイが訊くと、ウルスラは答えた。
「キミたちの言う、遺伝子調整者のことさ。あんな風に」ウルスラは画面を指さして。「よくできてるよ。まったく」
画面の中の青年は、短く刈った黒髪に顔立ち整い背も高く、見るからに優秀そうな好青年だ。実際、第一管区第一防衛隊の一員なのだから優秀なのだろう。皆守一等警士、とレポーターに呼ばれている。その名前くらいはケイも聞いたことがあった。主に国営放送で、海浜警備隊の広報でよく話題に上がる人物だからだ。ニホンの新鋭傀体、甲種方術甲冑ショウキの繰傀士。彼はその爽やか且つ剛健なルックスから、ちょっとしたアイドル並みにファンもいるらしい。以前、大倉さんがそんなことを言っていた。
「でもまあ、優秀な人たちなんでしょ?」ケイは眠い目をこする。「そんな人たちが活躍するのは、いいことじゃないか」
この10年ほどで、遺伝子調整者はどんどん社会に進出しその高い能力を示し始めていた。きっと彼らが今後のこの国を、世界を引っ張っていくのだろう。世間はそのような風潮であるし、ケイ自身もそう思っている。生まれからして違うのだから、嫉妬心も大して湧かない。メイハとアヤハのことを幾らか知っているから、遺伝子調整の仕組みそのものに思うところはあるけれど。
「さあどうだろう」ケイの言葉に、ウルスラはどこか予言めいた言葉を返した。「人間があんなのばかりになったら、それこそこの世界はおしまいかもしれない」
ぎょっとしてケイは目を覚ます。彼女の言う「あんなの」、つまり遺伝子調整者ばかりになったら、世界はおしまい?
一体どういうことなのか。訊こうとするケイの機先を制するように、ウルスラは立ち上がって大きな欠伸をこぼした。
「ふぁ……そろそろボクは休むよ」
言われてケイがテレビ画面の時刻を見てみると、もう午後十一時を過ぎていた。ソファーに腰掛けてから、ずいぶんと眠っていたらしい。
「ケイ、湯あみが済んだら、ボクの臥所に来るかい?」にまにまと悪戯な笑みを浮かべて、ウルスラは言った。「若き騎士は、貴婦人と褥と共にするものさ」
ふしど、しとね、と言われて一瞬何のことかわからなかったものの、すぐに意味を理解してケイは耳まで真っ赤になった。
「い、行かないよっ!」思わずケイは叫んでしまう。からかわれてるのも、後でいじられるのもわかっていたが。「ニホンでは『男女七歳にして席を同じうせず』って言うんだよ!」
「それは残念」ウルスラは薄緑のナイトローブをはためかせ、客間に向かう。琥珀色の瞳でケイを流し見ながら。「ボクはいつでも待ってるよ。Nos da, fy marchog.(おやすみ、我が騎士)」
その後はケイも風呂に入って、食堂二階の自室で寝床に入った。眠りに落ちる前に、何とかメイハとアヤハ宛てに無事を報せるメールを送った、ように思う。
枕元で、ヴヴヴとケータイが震えてメールの着信を伝えた。ケイは手に取って画面を見る。アヤハからだ。イシガミ町シェルターは、午前七時に避難指示が解除される予定。そのままシェルターの朝食は摂らずにメイハと帰宅予定。とのこと。結びの一文は『あまり無茶しないでくださいね。兄さん』。
アヤハには、何もかも見透かされてるような気がするんだよなあ。ケイは紅い瞳の少女を思い出す。去年の夏休みだったか、夜中にこっそり家を出て、タケヤやソウタと旧市街で酒盛りしたことがあった。誰にもばれてないはずなのに、翌朝アヤハに『夜遊びはほどほどに。やり過ぎると姉さんけしかけますよ』と耳打ちというか脅された。彼女たちと暮らし始めて、似たようなことは数知れず。
わかったよ。先に家に着けそうだから、店の方で朝ご飯用意しとくよ。ケイがそんな偽装混じりのメールを送ると『カコとタケヤさんも後から来るので、その分もお願いします』と即座に返信が返ってきた。
『了解』とだけ返してケータイを折りたたみ、ケイは布団から起きてカーテンを開けた。朝の日の光が眩しい。ふぁ、と欠伸を噛み殺しながら布団を畳んで、しまうために押入れを開けると
「んー……ケイ?」ごろりと寝返りを打ってこちらを向いた、琥珀色の寝ぼけまなこと目が合った。「あれ、もう朝かい?」
ケイはピシャっと押入れの引き戸を閉める。耳に集まる熱を感じながら思う。この際、客間で寝てるはずのウルスラが何でここの押入れにいるのかは訊かない。どうやって客間の布団を持ち込んだのかも、まあいい。だから誰か教えてよ。
なんで彼女、服着てないのさ……
枕元の目覚まし時計を叩いて止めて、ケイは薄目を開けた。見れば時刻は6時30分。カーテンの隙間から、朝の薄明かりが漏れている。今週は僕が弁当当番だったよな。起きないと。昨日の残り物なんだったっけ……と考えていると、手首のひんやりとした感触が意識に登った。目を遣れば、そこには小さな銀の輪を紡いだ腕輪、星辰装甲〈夜明けの風〉の鍵がある。
夢じゃ、なかったのか。布団に寝ころび仰向けになりながら、ケイは右手首を上げて腕輪を眺めた。ヨロイを駆って界獣から逃げ、死にそうになって、助けた妖精から剣をもらって……この身に起きたことを思い出せば、まるでおとぎ話のような出来事だ。今でも夢だったんじゃないかと思う。
家に帰り着いてからは、異国からのお客様をもてなすホストとして、よくやった方じゃなかろうか。田舎の高等部一年生にしては。
夜道に、"みはた食堂"の看板が煌々と灯っていた。
食堂の扉の鍵を開け、電灯を点けて、ケイはウルスラを中へと招き入れる。
「ここがキミの家かい?」訊くウルスラは、興味深そうに、テーブルやら壁にかかったお品書きを眺めていた。「ダイニングルームのようだけど」
「父さんが食堂をやってるんだ。僕もよく手伝ってる」ケイはカウンターの一席をウルスラに勧め、厨房に入った。「家は隣なんだけど、事情があって寝起きもここの二階でしてるんだ」
ケイはエプロンを着け手を洗って、アルコール消毒をしつつ考える。まずは腹ごしらえ、と思って食堂に案内したのはよいが、はてさて何を出したら良いものか。ブリタニアの人の好物なんて知る由もない。
でも、どうせならおいしいと思ってもらえるものを、と思ってしまうのは料理人を父に持つせいか。
「好き嫌いとか、苦手な食べ物ってある?」
「ケイ、キミが手ずから振舞ってくれるのかい?」ウルスラが嬉しそうに身を乗り出す。「嫌いなものなんてないよ。ブリタニアの妖精種の舌はいつだって準備万端さ!」
と言ってくれるものの、油断はできない。焼きイカをもりもり食べていた姿を知っているので、杞憂な気がしなくもないけれど。姉のシグネ曰く「文化や宗教のタブーは、どこに埋まってるかわからない地雷」。とりあえず鶏肉だけはほとんどの文化圏で食べられているから、まあ無難よ、とも言っていた。外国に行ったこともない癖に。
海も空も界獣の脅威に晒された今の時代、海外旅行はごく一部の富裕層にしか許されない極めて贅沢な娯楽だ。
よし、無難に鶏の唐揚げにしよう。得意だし。店の食材も無駄にならないし。ケイは冷蔵庫を開けて仕込み済みの鶏肉を出して、準備にかかった。フライヤーの電源は落としてあったので、鍋に油を移してガス台にかける。油が温まる間に炊飯器を確認すると、保温状態のご飯が湯気を上げた。今日から明日朝で消費しきれなかった分は、後でラップに包んで冷凍すべし、と心の予定表に書き込む。
ケイは粉をまぶした鶏肉を油に投入。やがて漂ってきた香ばしい匂いに、「いいね、いいね」とウルスラが頬をゆるませる。
油を切って、皿に盛り付け。茶碗にご飯、レタスとトマトと刻んだニンジンの簡単サラダに、ワカメスープを付けて、みはた食堂の唐揚げランチ二人前、完成。もう夜だけど。ワンコイン500円で、味噌汁とご飯お替わり自由が人気の秘訣。おろしポン酢とマヨネーズはサービスです。しかし彼女は箸を使えるのだろうか。怪しいと思ったケイは、彼女の盆にはフォークとスプーンを置いた。
「えっと、いただきます、でいいんだっけ?」
ケイが驚いたことに、ウルスラは合掌してみせた。
「む、ボクだってこの国に来る前に少しは勉強したのさ」表情から驚きは伝わり、ウルスラが憮然とする。「食物に、恵みに対する感謝は、どこの国でも一緒だろ?」
「ごめん、僕らニホン人でも、やらない人が多いからさ」ケイは謝り、厨房を出て隣に座る。合掌して。「いただきます、でいいんだよ」
ケイはスープを一口飲んでから、唐揚げを一齧り。揚げたての肉汁に舌を火傷しそうになって、慌ててご飯をかき込んだ。我ながら上出来だ。空腹が満たされる至福に、自然と笑みがこぼれてくる。
しかし彼女の口には合うのだろうか? ケイが不安になって横を見ると、頬袋いっぱいに唐揚げとご飯を口に詰め、んーっんーっと呻く赤毛のリスがそこにいた。少し涙目になっている。
「大丈夫!?」ケイは慌ててカウンターの湯呑にポットのほうじ茶を注ぎ、ウルスラの前に置く。「ごめん! もしかして口に合わなかった?」
ウルスラは、んーんーと呻きながらも首をぶんぶん横に振りつつ、ほうじ茶を呑んで椅子の背にもたれた。フゥと一息ついて、ほうじ茶をもう一口飲んで言うことには。
「口に合わないなんてとんでもない」フォークで次の唐揚げを刺し、ウルスラは大口開けて齧りつく。「もひゅひは、ひゃいこうのディナーだよ」
「最高はないんじゃない?」どうやらお気に召したらしい。ほっとしながらケイは言った。「お世辞でも嬉しいけどさ」
「お世辞じゃないぜ、我が騎士」ごっくん、と飲み込んでウルスラは言い返す。「キミは、大海嘯でアルビオン島外との物流が死んだブリタニアの食事情を知らないから、そんなことが言えるんだ。海の狼どもさえ来なければ、うちの食文化だってもうちょっとは……」
ウルスラの目が何処か遠くを恨めし気に見つめた、ようにケイには見えた。
「でもあれでしょ、ウルスラはその、重要人物なわけだからさ。食事だって、有名ホテルとかのあれこれじゃない?」
「ボクはコーンウォールのノッカーたちのところでの暮らしが長かったからね。宮廷作法とかテーブルマナーとか、お行儀良くは苦手なんだ」言って、ウルスラは懐からタブレットを出すと、定食の載った盆に向けた。「あいつらに見せびらかしてやろう」
女の子にはちょっと多いかと思えた量だったが、唐揚げとご飯は見る見るうちに、赤毛の少女の形のよい口に消えてゆく。気持ちの良い食べっぷりに、作ったケイも嬉しくなる。メイハとアヤハも、家に来た頃はあんな風にもりもり食べてくれたよなあと懐かしく思い出す。中等部に上がる頃からは、体重を気にし始めてかつてのようには食べてくれなくなったけれど。年頃の女子には色々あるのはわかるけど、少々寂しいものでもある。
ウルスラの盆を見てみれば、もう茶碗も皿もスープカップも空だ。デザートにプリンでも出そうかな。そんなことを考えながらケイも食事を進めていると、ウルスラが何やら俯いていた。心もち顔が赤いような気がしなくもない。トイレかな、と思い案内しようと立ち上がる。
「その、我が騎士……」彼女はこころもち恥ずかしそうに口を開いた。「おかわりは、頼めるかな?」
「大丈夫、まだまだできるよ」
厨房に向かって歩きながら、ケイは密かに胸を撫でおろした。勘違いで発言していたら、きっとまた貴婦人がどうこうと機嫌を損ねていただろう。女子って難しい。
その小さく華奢な体のどこに入るのか。ウルスラは三人前の唐揚げと、茶碗で大盛り五杯のご飯を平らげた。
ご馳走さまとお粗末さまで夕食を終えて、店を閉めて隣の本宅へ。ケイはウルスラを一階の客間に案内してから、風呂場でシャワーの使い方を説明して、気づく。
「あ、着替えとか大丈夫?」
出会った時から、ウルスラは荷物の類は何一つ持っていなかった。時々その不思議な白いパーカーの懐からあれこれ出すだけだ。
もし着替えがないと言われたらどうしよう。お湯はりボタンを押しながら、ケイは横目でウルスラを見て考える。寝巻は僕のスウェットとか貸せばいいかな。でも下着はどうしよう。見た感じの歳はアヤハに近いけど、サイズは合いそうに……ないよなあ。仮に合っても、勝手に下着など持ち出せるはずもない。姉さんがいてくれればと切に思う。
「ケイ、今なんか失礼なこと考えなかった?」
「いやいやそんなこと……」むっとしたウルスラに詰め寄られ、ケイは半歩下がりつつ。「ちょっとだけ考えたかも。ごめん」
「誰と比べたか知らないけど、わかるんだよそういうの」フンと鼻息荒く、ウルスラはシャワーを手に取って試す。「着替えのことなら、亜空間に圧縮収納してるから問題ないよ」
御幡家共用のシャンプーとボディソープの場所を教えて、ケイは風呂場を出た。
居間でテレビの電源を入れ、ケイはソファーに腰を下ろす。はぁ、と大きな溜め息をつくと、どっと疲れが湧いてきた。背もたれに体を預けた途端、待ち構えていたように眠気が襲ってくる。ああ、眠い。でも寝る前に風呂にも入りたい。メイハとアヤハにメールしなきゃ。シェルターに避難してないことがバレたら面倒だから、ウルスラと口裏合わせないと……考えながら、うつらうつらとするケイの耳には、テレビのニュースが遠くの波音のように聞こえてくる。
今日から始まったキョウト特種生物災害対策会議は……
本日午後4時30分頃、トウキョウ圏の湾岸地区で、都市防衛システムの大規模な障害が発生しました。対象はシンジュク市、ナカノ市、ネリマ市、トヨシマ市、ヒノキ市で……
トウキョウ県に発令された緊急事態宣言は、明日5月8日の朝をもって解除の予定です。
システムの完全復旧は5月末の見込み。それまでの間、護国庁は防衛ラインを……
本日、オオサカ湾に接近した界獣群は全て、海浜警備隊第一管区第一防衛隊の活動により撃退されました。
「へぇー……」
耳元で、どこか棘のある少女の声が聞こえた。ケイが目を開けると、顔のすぐ右に赤い髪と尖った耳がある。
タオルをかぶったウルスラが、ケイの背後からソファーの背もたれに顎を載せていた。ふんわりとお風呂上がりの少女のいい匂いがして、思春期の少年は心拍が上がってしまいちょっと困る。
「見るからに、神性移植者って感じだね」
ウルスラの視線を追って見ると、テレビの液晶画面の中で青年が話していた。青年の着る青の制服は、海浜警備隊繰傀士のもの。左胸のラインは赤の一文字。示す所属は第一管区第一防衛隊。ニホンの首都キョウトを護る、精鋭中の精鋭の証だ。
「しんせいいしょくしゃ?」
界獣と戦っている時にも、彼女はそんな言葉を使った覚えがある。聞きなれない言葉にケイが訊くと、ウルスラは答えた。
「キミたちの言う、遺伝子調整者のことさ。あんな風に」ウルスラは画面を指さして。「よくできてるよ。まったく」
画面の中の青年は、短く刈った黒髪に顔立ち整い背も高く、見るからに優秀そうな好青年だ。実際、第一管区第一防衛隊の一員なのだから優秀なのだろう。皆守一等警士、とレポーターに呼ばれている。その名前くらいはケイも聞いたことがあった。主に国営放送で、海浜警備隊の広報でよく話題に上がる人物だからだ。ニホンの新鋭傀体、甲種方術甲冑ショウキの繰傀士。彼はその爽やか且つ剛健なルックスから、ちょっとしたアイドル並みにファンもいるらしい。以前、大倉さんがそんなことを言っていた。
「でもまあ、優秀な人たちなんでしょ?」ケイは眠い目をこする。「そんな人たちが活躍するのは、いいことじゃないか」
この10年ほどで、遺伝子調整者はどんどん社会に進出しその高い能力を示し始めていた。きっと彼らが今後のこの国を、世界を引っ張っていくのだろう。世間はそのような風潮であるし、ケイ自身もそう思っている。生まれからして違うのだから、嫉妬心も大して湧かない。メイハとアヤハのことを幾らか知っているから、遺伝子調整の仕組みそのものに思うところはあるけれど。
「さあどうだろう」ケイの言葉に、ウルスラはどこか予言めいた言葉を返した。「人間があんなのばかりになったら、それこそこの世界はおしまいかもしれない」
ぎょっとしてケイは目を覚ます。彼女の言う「あんなの」、つまり遺伝子調整者ばかりになったら、世界はおしまい?
一体どういうことなのか。訊こうとするケイの機先を制するように、ウルスラは立ち上がって大きな欠伸をこぼした。
「ふぁ……そろそろボクは休むよ」
言われてケイがテレビ画面の時刻を見てみると、もう午後十一時を過ぎていた。ソファーに腰掛けてから、ずいぶんと眠っていたらしい。
「ケイ、湯あみが済んだら、ボクの臥所に来るかい?」にまにまと悪戯な笑みを浮かべて、ウルスラは言った。「若き騎士は、貴婦人と褥と共にするものさ」
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「い、行かないよっ!」思わずケイは叫んでしまう。からかわれてるのも、後でいじられるのもわかっていたが。「ニホンでは『男女七歳にして席を同じうせず』って言うんだよ!」
「それは残念」ウルスラは薄緑のナイトローブをはためかせ、客間に向かう。琥珀色の瞳でケイを流し見ながら。「ボクはいつでも待ってるよ。Nos da, fy marchog.(おやすみ、我が騎士)」
その後はケイも風呂に入って、食堂二階の自室で寝床に入った。眠りに落ちる前に、何とかメイハとアヤハ宛てに無事を報せるメールを送った、ように思う。
枕元で、ヴヴヴとケータイが震えてメールの着信を伝えた。ケイは手に取って画面を見る。アヤハからだ。イシガミ町シェルターは、午前七時に避難指示が解除される予定。そのままシェルターの朝食は摂らずにメイハと帰宅予定。とのこと。結びの一文は『あまり無茶しないでくださいね。兄さん』。
アヤハには、何もかも見透かされてるような気がするんだよなあ。ケイは紅い瞳の少女を思い出す。去年の夏休みだったか、夜中にこっそり家を出て、タケヤやソウタと旧市街で酒盛りしたことがあった。誰にもばれてないはずなのに、翌朝アヤハに『夜遊びはほどほどに。やり過ぎると姉さんけしかけますよ』と耳打ちというか脅された。彼女たちと暮らし始めて、似たようなことは数知れず。
わかったよ。先に家に着けそうだから、店の方で朝ご飯用意しとくよ。ケイがそんな偽装混じりのメールを送ると『カコとタケヤさんも後から来るので、その分もお願いします』と即座に返信が返ってきた。
『了解』とだけ返してケータイを折りたたみ、ケイは布団から起きてカーテンを開けた。朝の日の光が眩しい。ふぁ、と欠伸を噛み殺しながら布団を畳んで、しまうために押入れを開けると
「んー……ケイ?」ごろりと寝返りを打ってこちらを向いた、琥珀色の寝ぼけまなこと目が合った。「あれ、もう朝かい?」
ケイはピシャっと押入れの引き戸を閉める。耳に集まる熱を感じながら思う。この際、客間で寝てるはずのウルスラが何でここの押入れにいるのかは訊かない。どうやって客間の布団を持ち込んだのかも、まあいい。だから誰か教えてよ。
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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狼の子 ~教えてもらった常識はかなり古い!?~
一片
ファンタジー
バイト帰りに何かに引っ張られた俺は、次の瞬間突然山の中に放り出された。
しかも体をピクリとも動かせない様な瀕死の状態でだ。
流石に諦めかけていたのだけど、そんな俺を白い狼が救ってくれた。
その狼は天狼という神獣で、今俺がいるのは今までいた世界とは異なる世界だという。
右も左も分からないどころか、右も左も向けなかった俺は天狼さんに魔法で癒され、ついでに色々な知識を教えてもらう。
この世界の事、生き延び方、戦う術、そして魔法。
数年後、俺は天狼さんの庇護下から離れ新しい世界へと飛び出した。
元の世界に戻ることは無理かもしれない……でも両親に連絡くらいはしておきたい。
根拠は特にないけど、魔法がある世界なんだし……連絡くらいは出来るよね?
そんな些細な目標と、天狼さん以外の神獣様へとお使いを頼まれた俺はこの世界を東奔西走することになる。
色々な仲間に出会い、ダンジョンや遺跡を探索したり、何故か謎の組織の陰謀を防いだり……。
……これは、現代では失われた強大な魔法を使い、小さな目標とお使いの為に大陸をまたにかける小市民の冒険譚!
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