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第1話 君の選択、僕の選択
8. 選択の剣
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避難経路と逆に進んだため、仁木さん宅には思いのほか早く着くことができた。途中、何度か警官に止められそうになったが、無視して疾走した甲斐があった。
ヨロイを停めて飛び降りると、ケイはチャイムを鳴らす。はいはいと、すぐに返答があった。まだいたのだ。
「仁木さん、まだいたんですか? 早く避難しましょう!」
「あら、またケイちゃんかい?」
ドアホンから少し慌てたようなぱたぱたとした物音がした後、ドアが開いて仁木のお婆さんが現れた。
「わざわざ迎えに来てくれたのかい」驚いた様子で、お婆さんは言葉を続ける。「でもこんなババアは置いて、はやくお行き」
「そういうわけにはいきませんよ!」
ケイは門を開けて入ると、渋るお婆さんを支えつつ少々強引に連れ出し、自分のヘルメットを被せてヨロイの簡易シートに押し込んだ。
「年に不足はないんだけどねえ」
お婆さんのぼやきを聞き流しながら、ケイはヨロイに乗り込むと背部装甲を閉じ走り出す。空はもう星々が見え始めるほどに暗い。左肩の前照灯を点ける。湾道に出ると、水平線に僅かな陽光が煌めくだけだ。
街灯が照らす道を、サクラオカのシェルター目指してひた走る。この辺りの住民の避難は完了したのか。人の姿も、道をゆく車もヨロイも今は見当たらない。警官もいないから普段の制限速度を超えて走っても捕まらない。これなら考えていたよりも早くシェルターに辿り着けそうだ。
と思った瞬間、木造家屋の壁とガードレールが突き破られ、ケイの目前に木材と鉄パイプの破片が飛び散った。
「っ!?」
ケイは駆け足を止め、アスファルトを削りながらヨロイ急停止させる。ひゃあっと背後でお婆さんが悲鳴を上げるのが聞こえた。
暗がりの中、前照灯に照らし出されたのは、背を丸めた、夜よりなお暗い巨影と、幾重もの牙を剥き出す大きな顎。
界獣が、ケイの目の前にいた。その連なる球状の眼が、ケイのヨロイを認めて光った、ように見えた。
AAAAaaaaahhhhhhRurururururruuuuuuuuu!!
この世のものならざる咆哮を上げ、界獣の牙が真正面から迫りくる。
ケイは咄嗟に後ろに飛び退くと、界獣を視野に収めて距離を取った。近くで海棲型の界獣を見るのは初めてではなかったが、その異形、一切の意志疎通を拒む異質な破壊の姿に、背筋を怖気が這い蝕む。二度目でも、見慣れるもんじゃないな。
手足の震えを必死に抑えながら、ケイは左に、左にと円を描くように歩んだ。界獣を視野に収めたまま。お婆さんを乗せた背を向けることはできない。じわりと嫌な汗が頬を伝う。
ジリジリと、界獣を刺激しないようにゆっくりと動く。研究者によれば、海棲型の界獣は陸上では感覚が若干鈍いらしい。一歩、また一歩。ようやく半周し、界獣の背後に至る。ここからなら、背を向けて真っすぐ走り出せる。
軽く腰を落として、アスファルトを蹴る準備をした瞬間、背を曲げた界獣が大きく仰け反りながらケイのヨロイに跳びかかった。
「うわぁっ!」
背骨がないかのようなその動きに、反応できたのは奇跡に近い。ケイは頭部を庇うように、装備した岡持ちごと左腕を前に突き出していた。
その左腕に、界獣が喰らいついた。界獣はヨロイの左腕を喰いちぎろうと身をひねる。ワニなどが行うデスロールのように。
喰い破られた装甲の下に牙が食い込み、全力で腕を引いても引き離せない。それどころか大きな体重差で、このままだとヨロイの体ごと転倒、界獣に引きずり回される。
「く…そおっ」
ケイはヨロイの左腕を棄てた。アスファルトに足を食い込ませ、全力で身をひねって、喰いつかれた左腕の肘から先を引きちぎる。文字通りの歯止めがなくなり、たたらを踏んで前に転倒しかけるところを、何とか制御して立て直す。その勢いのままに地を蹴る。左腕を失くし、右に寄りがちになるが、意識してヨロイを繰り全力で駆ける。
ハァッハァッと荒い息を繰り返しながら、ケイはヨロイの足で走る。背後のシートに目を向ければ、お婆さんがガタガタ震えながらナンマンダブと念仏を唱えて縮こまっている。良かった。生きてる。
アスファルトが途切れ、水上の道になると殊更に速く駆ける。海棲型の界獣は水中にあって活発に、より強力になるからだ。
先の界獣が追って来ないことを確認しつつ、シェルターを目指す。進むごとに緊張が高まる。流れ落ちる汗は、こもった体温のせいだけではない。水上で、深まりつつある夜闇の中では、いつ、どこから界獣に襲われるか全く予測できない。
湾岸道の水上部分を抜け、ケイは僅かに緊張を緩める。そのままメシロ通りに入り、直進。この通りは水没部分とアスファルトの残った部分が交互に出現する。再び意識は張り詰め全身が耳のようになり、僅かな物音で弾かれたように心臓が跳ねる。
不意に、ケイの目の前を小さなものが横切った。
暗がりの中、ケイは己が見たものを信じられなかった。緊張のあまり頭がおかしくなったとしか思えない。だってそうじゃないか。手のひらサイズの小さな女の子が、羽ばたきながら光の尾を引いて、飛んでいるなんて。
戸惑うケイの視界を、突如、白い霧が遮った。霧? 雨が降ったわけでもないのに? 閉ざされる視界を必死に掻き分けながら進むと、また羽ばたく小さな女の子が見えた。女の子はケイの目の前でくるくる回って見せると、前へ前へと飛んでゆく。おいでおいでするかのように、また回っては前へ、前へ。
とうとう僕もおかしくなったのか……見ているものは信じられなかったが、前照灯も利かない白い闇の中では、ほかに道標もない。迷っている時間もない。もうどうにでもなれと思い切る。羽ばたく女の子に従って走ると、すぐに霧は消え、暗がりの水上道が姿を現して。
そこに、少女が佇っていた。
ヨロイの前照灯に照らされた、水没した過去の防災標識。水面から出たその標識部分の天辺に、細く小さな姿がある。パーカーのフードに覆われ顔は見えなかったが、華奢な体のラインと白く細い脚が、少女であることを教えてくれた。
逃げ遅れた? でもヨロイもなしにどうしてどうやってあんな所に立ってるのさ? 頭に浮かぶ疑問を吟味する間もなく、水面が盛り上がりまた界獣が現れた。
界獣の起こした激流に防災標識が揺れ、少女がバランスを崩す。界獣がそれを見逃すはずもなく、大きく牙を剥いて襲いかかる。
助けようにも、どうにもならない。間に合わない。ほんの1秒、早ければ。早く動けたら。速く動ければ。その方法があれば。
あった。一つだけ。
アヤハはいつも、ケイとメイハのヨロイの星図の一部を書き換える。甲種方術甲冑の利用する星辰座標を、宿曜転換炉に投入できるように。それを使えば僅かな時間、ほんの数十秒程度、丁種であっても甲種と同じ出力を得られる。代償に、炉が過負荷で壊れかねないけれど。かつてその実験に付き合ったケイとメイハは、丁種ヨロイを一台壊してアヤハと一緒に父に滅茶苦茶に怒られた。危険な上に、明らかな違法改造だったから。
これは一度しか使えません。本当に本当に、命の危険を感じた時にだけ使ってくださいね。兄さん。
アヤハの言葉がケイの脳裏を過ぎる。いいよねアヤハ。今がその時だ。ケイは右手でヨロイ腰部の留め具を上げて外し、入った星図の巻物(スクロール)先端の小さな突端を押し込んでから、また留め具を下す。
これまでの倍以上の速度で巻物が回転を始める。音声で、またヨロイ内の視野に警告が発せられた。『不正な星図の利用を直ちに停止してください。不正な星図の利用を直ちに――』
「うおああぁぁーっっ!」
言葉にならない叫びを発し、ケイは水面を蹴る。段違いの加速に驚きながら、間に合えと念じてヨロイの右手を伸ばす。少女の華奢な体が倒れ込んでくる。フードが外れ、こぼれ広がる赤い髪。驚きに見開かれた、大きな琥珀色の瞳と目が合った。
前のめりになりながら、抱きかかえるように少女を捉えて走り抜ける。
すぐ背後で、どぶんと音を立て界獣が水中に潜っていった。
雨のように散り降る飛沫を浴びて、迷わず惑わず一目散にケイは駆ける。間に合った、と安堵している暇はない。活動限界まで残り1分もないはずだ。ヨロイの背のお婆さんは、相変わらず南無南無と念仏を唱えている。騒ぐこともなく恐慌に陥ることもなく。30年前の大海嘯を生き延びた世代は胆力もすごいなと思う。
幸い速度は出せている。このまま行けば活動限界を迎える前に、サクラオカのシェルターに辿り着けるはず。右脇に抱えた少女の様子を見ると、もぐもぐと串焼きのイカを頬張って食べていた。
え? なんでこの状況で呑気に焼きイカ食ってんのこの子……
少女は戸惑うケイに気づいたように顔を上げると、ごっくんとイカを飲み込んで一言
「いいね、キミ」
言って、お日様のような笑顔をケイに向ける。
何の衒いも打算も感じられないその綺麗な笑みは、不思議とケイの胸に染みこんだ。何故だか耳が少し熱くなる。
サクラオカのシェルターまで距離200、の防災標識を過ぎた。もうすぐ水上道が終わってアスファルトの道に出る。ここまで来れば、あと僅か。今度は間に合う。あの時と違って、やりたいこととできることを、はき違えずにできた。
そのはずだった。
星図の回転が速度を落とし、駆けるヨロイが膝を折る。
「くそっ!」
炉が限界だ。視界を埋める『緊急停止』の文字に悪態をつきながら、ケイは何とか転ばぬようにヨロイを制御する。出力が急落し、ヨロイが徐々に反応と動作を鈍らせる。足が止まり、浮力を失い沈み始める。幸い陸道が近く、水深は一メートル程度だ。溺れる深さではなかったが。
RurururururruuuuuuuuuAAAAaaaaahhhhhh!!
界獣から逃げ切るには、致命的だった。
背後に迫る新たな咆哮に、ケイはかちかちと奥歯を鳴るのを止められない。またか、と思う。結局、6年前から何も変わっちゃいなかった。何かができると思い込んで、また人を巻き込んで。
そう、巻き込んでいる。お婆さんと、赤い髪の女の子を。
ほんの少しだけ手に力が戻る。ケイは残り僅かな炉の出力を使って、ヨロイの頭部を除装した。足が不自由なお婆さんに、一人で降りて逃げてもらうのはまず無理だ。ならばせめて、とケイはヨロイの右腕を解放しながら少女に叫ぶ。「君っ! 先に」
逃げて、の言葉は大きさを増した咆哮に呑まれる。爆発のような水音に飛沫が降り注ぐ。振り仰ぐケイの視界を、界獣の不揃いな牙が埋め尽くす。
迫る死に、走馬灯はともらなかった。代わりに、ケイが胸の内にずっと抱えてきた疑問が湧き上がる。悔しさと怒りに彩られた問いが。どうして僕なんだよ。あの日あの時あの場所に、今日のこの時この場所に、いるべきなのは、もっとすごい人であるべきじゃないか。僕なんかよりもっと能力もあって、ヨロイも上手く扱えて、もっと正しく判断できる、そんな人がいるべきなんじゃないのか? どうして力の足りないこの僕に、僕の前に、誰かを助けるか否かの選択を突きつけるんだ。高みに座して見ている何者か、いるのなら、僕がここで終わるのなら、その答えくらい寄越せ。
その問いに意味はないよ、少年。
聞こえてきた声にケイが驚く間もなく、キィンと金属の割れる音が高く長く響き渡る。瞬間、彼の視界から色が失われ、モノクロームに置き換わる。音が尾を引き小さくなるにつれて、モノクロームの景色も消えて。
そこにあるのは、霧の中で、青々と豊かに水を湛えた小さな泉。その傍らに、濃緑のドレスを着こなした赤毛の少女が添い立っていた。
ここは天国? それとも地獄? 戸惑うケイをそのままに、少女はドレスの裾を持つと、右足を後ろに引いて左足の膝を軽く曲げ、目を閉じ小さくお辞儀をした。
「まずは貴方の勇気に感謝を」少女はお辞儀の姿勢を解くと、琥珀色の瞳をケイに向けた。「あの時は本当にこのサイクルの生を終えてしまう寸前でした。魔力も底を尽いていた上に、余所者の私では、この地の精霊の助力を得ることも叶わなかった」
少女の美しさに見蕩れ、ケイは彼女の言葉をあまりよく聞いてはいなかった。昔を舞台にしたユーロピア映画の中のお姫様みたいだ、と思う。さっきまで焼きイカでリスのように頬袋を膨らませていた女の子とは思えない。
そこでケイははたと気づく。少女の異形に。赤いくせ毛から伸びる笹穂のように尖った耳に。幾度かテレビのモニター越しに観たそれは、ネリマのような田舎都市で見ることはまずないもの。世界を救った神秘の種族、ブリタニアの妖精種、その証。
「君は、ミスティックレイス……」なの? と言いかけて、ケイは慌てて言葉を直す。相手はこの世代に生きる誰もが知る貴人で偉人だ。「あなたは、ミスティックレイス、なのですか?」
「あー、わかるよね。そりゃ」少女は右耳の尖った先をちょいとつまむ。「まあそうだね。ボクはそう呼ばれるものだよ。故郷では泉の妖精、湖の貴婦人、Lady of the Lake、Dame du Lac、Fay、そう呼ばれることが多いかな」
やっぱりそうか。でもどうして? ケイは頭を巡らせる。ここが何処で今が何なのか、界獣はどうなったのか、僕は死んだのか、生きているのか、また助けられたのか。疑問は山ほどあるけれど、まずは目の前の事態に対処せねば。ミスティックレイス、それも遠い異国のそれに対する礼儀作法なんて習ったことがない。幸いニホン語は流暢なようだけど。
「し、失礼しました」ケイはとりあえずお辞儀してみる。謝意だけでもなんとか通じてくれないものかと思う。「助けて、くれたんですか?」
「だったらよかったんだけどねぇ」少しばつが悪そうに、少女は言う。「固くならずに聞いてほしいんだけど。事態は全く変わってない。秘蔵の〈妖精の輪〉を割って造った僅かな時間の狭間なんだ、ここ」
ケイの緊張を察したのか。段々と口調が砕けてくる。美しさはそのままに、神秘性よりも愛嬌が増してくる。ミスティックレイスは長命で、若く見えても見た目どおりの年齢ではないと聞くけれど。ケイには見た目相応の十代前半、中学生くらいに見えた。アヤハと同い年くらいかな、なんて思う。
「時間がないから、単刀直入に言うよ」少女が琥珀色の瞳でケイを射抜く。「提案があるんだ」
言って、少女は右手で傍らの泉を指し示す。
すると何もない泉の水面に一たび波紋が広がり、中から鞘に納まった剣が一振り、白い手に捧げ持たれて姿を現した。
「もしキミが、今の困難を、降りかかる理不尽を打倒したいのなら」赤毛の少女は白い手から剣を受け取ると、鞘を持ち、柄をケイに向けて差し出す。「ボクは君を助けることができる」
「これは?」
ケイは剣を見た。差し出されたそれは、中世ユーロピアの騎士が持つような大きな両刃の剣だった。黒い鞘に、鍔は光沢のない仄暗い銀色。両手で持っても余裕がある長い握りには、何かの獣の黒い革が巻かれている。ゲームやアニメのそれのような色鮮やかな装飾は皆無で、ただ赤い宝石が一つだけ、柄頭にはめ込まれていた。
「見てのとおり、剣さ。敵を斬り、打ち倒す武器さ。界獣だって殺せる。自慢じゃないけどボクが造ったんだ」少女はちょっと誇らしげに胸を張る。「そしてキミが今、最も欲しているもの、かな」
僕が、欲しているもの。少女の言葉に、ケイはずっと抱えてきた飢えにも似た思いを自覚する。今も、あの日も、あと少し、ほんの少しの力が欲しかった。誰もかれも助けたいなんて思っちゃいない。今だってそうだ。ただ、目の前で消えそうな命が、消そうとする理不尽が目の前にあるのなら、何かをしたかった。何かできる自分でいたかった。
ただ誰かの助けを待つだけの、無力な存在でいるのは嫌だった。
「選んで、少年。この剣を手に、今を斬り拓くか、否かを」
ずっと欲っしてきた、今の困難を斬り拓く力。選択を前に、ケイは右手を柄に伸ばして……触れる前に、止めた。
「これが界獣を倒す武器なら、僕よりも、持つのに相応しい人がいるんじゃないか?」ケイの口から、胸に刺さった諦めがこぼれ出る。この世に、自身より優れた人間など五万といる。まして今は誕生したその時から能力の差が歴然とある時代だ。遺伝子調整者とか。
「言ったよね。その問いに意味はないと」小さな貴婦人は冷然と告げる。「今、ここにいない者に、この剣に触れる資格はない。今、ここにいる君に選んでほしい。一つ補足だ。ここでこの剣を取らなくても、気に病むことはないよ。キミとそこの老婦人を遠方に移すくらいはできるから」
時空転移の魔法は対価が大きくてちょっと苦手なんだけどね、と小さく続く。
「そうしたら、君はどうなるのさ?」
少女の声に滲んだ寂しさを、ケイは聞き逃さなかった。伊達に妹分二人と過ごしてきていない。
「まあ、このサイクルでの生は終わりかな」どこか他人事のように言いながら、赤毛の少女は左手で剣を抱くと、右手の指でくせ毛を引っ張ったり戻したり。「なんてことはない。ボクらはキミらと違って、いずれまた蘇る。でもまあ、キミの生涯の内には戻れないかな」
それは死ぬ、ということか。不老不死の存在と囁かれるミスティックレイスの生死の有り様なんて、わからないけれど。そんな気がする。
それは嫌だ、と単純にケイは思う。あのお日様のような笑顔を失くしたくない。
ならきっと、選択の余地なんてない。ここにいない誰かの方が、きっと適任なんだろうと今だって思う。でも、そんな誰かは都合よくここにいない。また失敗するかもしれない。それでも
「その言い方は」再び、ケイは右手を剣に伸ばす。「少し、狡いんじゃないかな」
今、ここにいる僕に、できる何かがまだあるのなら。ほんの少しの間でいいから。
「ボクは魔女でもあるからね」笑みを深くし呼応するように、少女も再び両手で剣を差し伸べる。「ボクはキミがいいんだ。だからキミも選んで!」
僕がいいと、言ってくれるのなら。
少女の言葉に手を引かれるように、ケイは剣の柄を握った。
黒い鞘がひとりでに滑り、顕れた白い刃が赤く眩い光芒を放つ。眩しさにくらむケイの前で、鞘口から二本の銀輪の鎖が飛び出した。鎖は宙を巡ると互いに螺旋を描いて重なって、彼の右手に巻きついてゆく。
「うわっ!」驚くケイを余所に鎖は隈なく巻き付いてゆく。右腕から肩へ、肩から上体へ。頭にも絡みついて視界を奪う。「これ、どうなって……」
「大丈夫、怖がらないで。今、君の身体を走査してるところさ!」
「走査?」
暗く閉ざされた視界に、楽しげに弾んだ少女の声だけが聞こえてくる。すぐに視界は拓けたものの、そこは見知らぬ何処かの星空。暗がりに星々の煌めく美しくも寂しい場所で。ケイは一人、その景色を眺めていた。
次いで視界の左に忽然と現れた少女は、抱えた時のパーカー姿に戻っていた。ノートサイズの光る板を忙しなく操作しながら、時折、宙に光って浮かぶ見知らぬ文字と図形を撫ぜては消したり指で書き込んだり。
「ボクとキミが出会ったこと。それはただの偶然だ」光の文字を手繰りながら、彼女は言った。それまでの稚気が嘘のように、大人びた声音で。「誰かが決めたことじゃない。何者かが仕組んだ運命(fate)じゃない」
ケイの目の前に、光る文字が流れてゆく。見知らぬ文字なのに、不思議と意味だけは頭に入ってくる。騎手走査完了、呪鍛鋼骨格形成開始、深淵発動機形成開始―視界の右上に、人型の何かが形成されてゆくのが見える。
「偶然の中で、ボクは選んだ。キミも選んだ。それがどんな果実を結ぶか、〈いと高きものたち〉だって知らないことだ」
呪鍛鋼骨格形成完了、深淵発動機形成完了、ヴリル機関解凍、紋晶装甲造成開始、星図更新開始――人型に、仄暗い銀色の装甲板が幾重にも連なり重なってゆく。肩、肘、膝、胴回りといった要所は大きく滑らかに、腕や脚の可動部分は小刻みに重なるように。頭部の装甲は面頬付きの兜へと変形する。
紋晶装甲造成完了、エーテルリンク接続、対立神性ライブラリ更新開始――人型は、甲冑を着た騎士の姿へと変わる。兜から、赤い房が鬣のように生え伸びる。その篭手に覆われた右手には、手にしたものと同じ大剣がある。自身の右手にある柄の感触で、ケイは騎士が今の自身の姿であることがわかった。
「この選択は、他の誰でもない、ボクとキミだけのもの。蒼天にかけて、その結果はボクも引き受ける」少女は光る板から顔を上げると、ケイを見つめて言った。その眼差しは、暖かな午後の陽射しのようで。「だから恐れないで、勇気ある君」
その言葉に、ケイは体に力が戻るのを感じる。戻るだけではない、増したような気さえする。一人じゃない、選択。何故だかそのことが、今はひどく嬉しく暖かい。
小さな湖の貴婦人は謳う。
其は霧のとばりを捲る指先
其は赤子に最初の息をあたえる流れ
其は目覚めの角笛を鳴らす最初の一吹き
対立神性更新完了、星図更新完了、ヴリル機関始動―兜の目庇に赤い灯がともる。
「Now is the time, my knight, stand up again with DAWN WIND!」
(今こそその時。立って、我が騎士。夜明けの風とともに。さあ、もう一度!)
貴婦人の呼びかけに、剣を抜いた少年は応える。最初の勲を認められた騎士のように。
「Yes, my lady.」
(そうだね。我がとうときひと)
昔々幼い頃に、母に読んでもらった物語の台詞が自ずと出た。歯が浮くような台詞だけれど、ケイにはそれが一番相応しく思えた。
突き出された大剣が、界獣の牙を砕き頭を深く刺し貫く。剣の刃に沿って黄色い光が流れると、界獣の頭は破裂し飛び散った。
崩れ、水に融解していく界獣を見下ろして、仄暗い銀の騎士が屈んだ身を起こす。落日の光を受け、その手の大剣は赫く赫く輝いて。
〈夜明けの風〉が立ち上がる。
ヨロイを停めて飛び降りると、ケイはチャイムを鳴らす。はいはいと、すぐに返答があった。まだいたのだ。
「仁木さん、まだいたんですか? 早く避難しましょう!」
「あら、またケイちゃんかい?」
ドアホンから少し慌てたようなぱたぱたとした物音がした後、ドアが開いて仁木のお婆さんが現れた。
「わざわざ迎えに来てくれたのかい」驚いた様子で、お婆さんは言葉を続ける。「でもこんなババアは置いて、はやくお行き」
「そういうわけにはいきませんよ!」
ケイは門を開けて入ると、渋るお婆さんを支えつつ少々強引に連れ出し、自分のヘルメットを被せてヨロイの簡易シートに押し込んだ。
「年に不足はないんだけどねえ」
お婆さんのぼやきを聞き流しながら、ケイはヨロイに乗り込むと背部装甲を閉じ走り出す。空はもう星々が見え始めるほどに暗い。左肩の前照灯を点ける。湾道に出ると、水平線に僅かな陽光が煌めくだけだ。
街灯が照らす道を、サクラオカのシェルター目指してひた走る。この辺りの住民の避難は完了したのか。人の姿も、道をゆく車もヨロイも今は見当たらない。警官もいないから普段の制限速度を超えて走っても捕まらない。これなら考えていたよりも早くシェルターに辿り着けそうだ。
と思った瞬間、木造家屋の壁とガードレールが突き破られ、ケイの目前に木材と鉄パイプの破片が飛び散った。
「っ!?」
ケイは駆け足を止め、アスファルトを削りながらヨロイ急停止させる。ひゃあっと背後でお婆さんが悲鳴を上げるのが聞こえた。
暗がりの中、前照灯に照らし出されたのは、背を丸めた、夜よりなお暗い巨影と、幾重もの牙を剥き出す大きな顎。
界獣が、ケイの目の前にいた。その連なる球状の眼が、ケイのヨロイを認めて光った、ように見えた。
AAAAaaaaahhhhhhRurururururruuuuuuuuu!!
この世のものならざる咆哮を上げ、界獣の牙が真正面から迫りくる。
ケイは咄嗟に後ろに飛び退くと、界獣を視野に収めて距離を取った。近くで海棲型の界獣を見るのは初めてではなかったが、その異形、一切の意志疎通を拒む異質な破壊の姿に、背筋を怖気が這い蝕む。二度目でも、見慣れるもんじゃないな。
手足の震えを必死に抑えながら、ケイは左に、左にと円を描くように歩んだ。界獣を視野に収めたまま。お婆さんを乗せた背を向けることはできない。じわりと嫌な汗が頬を伝う。
ジリジリと、界獣を刺激しないようにゆっくりと動く。研究者によれば、海棲型の界獣は陸上では感覚が若干鈍いらしい。一歩、また一歩。ようやく半周し、界獣の背後に至る。ここからなら、背を向けて真っすぐ走り出せる。
軽く腰を落として、アスファルトを蹴る準備をした瞬間、背を曲げた界獣が大きく仰け反りながらケイのヨロイに跳びかかった。
「うわぁっ!」
背骨がないかのようなその動きに、反応できたのは奇跡に近い。ケイは頭部を庇うように、装備した岡持ちごと左腕を前に突き出していた。
その左腕に、界獣が喰らいついた。界獣はヨロイの左腕を喰いちぎろうと身をひねる。ワニなどが行うデスロールのように。
喰い破られた装甲の下に牙が食い込み、全力で腕を引いても引き離せない。それどころか大きな体重差で、このままだとヨロイの体ごと転倒、界獣に引きずり回される。
「く…そおっ」
ケイはヨロイの左腕を棄てた。アスファルトに足を食い込ませ、全力で身をひねって、喰いつかれた左腕の肘から先を引きちぎる。文字通りの歯止めがなくなり、たたらを踏んで前に転倒しかけるところを、何とか制御して立て直す。その勢いのままに地を蹴る。左腕を失くし、右に寄りがちになるが、意識してヨロイを繰り全力で駆ける。
ハァッハァッと荒い息を繰り返しながら、ケイはヨロイの足で走る。背後のシートに目を向ければ、お婆さんがガタガタ震えながらナンマンダブと念仏を唱えて縮こまっている。良かった。生きてる。
アスファルトが途切れ、水上の道になると殊更に速く駆ける。海棲型の界獣は水中にあって活発に、より強力になるからだ。
先の界獣が追って来ないことを確認しつつ、シェルターを目指す。進むごとに緊張が高まる。流れ落ちる汗は、こもった体温のせいだけではない。水上で、深まりつつある夜闇の中では、いつ、どこから界獣に襲われるか全く予測できない。
湾岸道の水上部分を抜け、ケイは僅かに緊張を緩める。そのままメシロ通りに入り、直進。この通りは水没部分とアスファルトの残った部分が交互に出現する。再び意識は張り詰め全身が耳のようになり、僅かな物音で弾かれたように心臓が跳ねる。
不意に、ケイの目の前を小さなものが横切った。
暗がりの中、ケイは己が見たものを信じられなかった。緊張のあまり頭がおかしくなったとしか思えない。だってそうじゃないか。手のひらサイズの小さな女の子が、羽ばたきながら光の尾を引いて、飛んでいるなんて。
戸惑うケイの視界を、突如、白い霧が遮った。霧? 雨が降ったわけでもないのに? 閉ざされる視界を必死に掻き分けながら進むと、また羽ばたく小さな女の子が見えた。女の子はケイの目の前でくるくる回って見せると、前へ前へと飛んでゆく。おいでおいでするかのように、また回っては前へ、前へ。
とうとう僕もおかしくなったのか……見ているものは信じられなかったが、前照灯も利かない白い闇の中では、ほかに道標もない。迷っている時間もない。もうどうにでもなれと思い切る。羽ばたく女の子に従って走ると、すぐに霧は消え、暗がりの水上道が姿を現して。
そこに、少女が佇っていた。
ヨロイの前照灯に照らされた、水没した過去の防災標識。水面から出たその標識部分の天辺に、細く小さな姿がある。パーカーのフードに覆われ顔は見えなかったが、華奢な体のラインと白く細い脚が、少女であることを教えてくれた。
逃げ遅れた? でもヨロイもなしにどうしてどうやってあんな所に立ってるのさ? 頭に浮かぶ疑問を吟味する間もなく、水面が盛り上がりまた界獣が現れた。
界獣の起こした激流に防災標識が揺れ、少女がバランスを崩す。界獣がそれを見逃すはずもなく、大きく牙を剥いて襲いかかる。
助けようにも、どうにもならない。間に合わない。ほんの1秒、早ければ。早く動けたら。速く動ければ。その方法があれば。
あった。一つだけ。
アヤハはいつも、ケイとメイハのヨロイの星図の一部を書き換える。甲種方術甲冑の利用する星辰座標を、宿曜転換炉に投入できるように。それを使えば僅かな時間、ほんの数十秒程度、丁種であっても甲種と同じ出力を得られる。代償に、炉が過負荷で壊れかねないけれど。かつてその実験に付き合ったケイとメイハは、丁種ヨロイを一台壊してアヤハと一緒に父に滅茶苦茶に怒られた。危険な上に、明らかな違法改造だったから。
これは一度しか使えません。本当に本当に、命の危険を感じた時にだけ使ってくださいね。兄さん。
アヤハの言葉がケイの脳裏を過ぎる。いいよねアヤハ。今がその時だ。ケイは右手でヨロイ腰部の留め具を上げて外し、入った星図の巻物(スクロール)先端の小さな突端を押し込んでから、また留め具を下す。
これまでの倍以上の速度で巻物が回転を始める。音声で、またヨロイ内の視野に警告が発せられた。『不正な星図の利用を直ちに停止してください。不正な星図の利用を直ちに――』
「うおああぁぁーっっ!」
言葉にならない叫びを発し、ケイは水面を蹴る。段違いの加速に驚きながら、間に合えと念じてヨロイの右手を伸ばす。少女の華奢な体が倒れ込んでくる。フードが外れ、こぼれ広がる赤い髪。驚きに見開かれた、大きな琥珀色の瞳と目が合った。
前のめりになりながら、抱きかかえるように少女を捉えて走り抜ける。
すぐ背後で、どぶんと音を立て界獣が水中に潜っていった。
雨のように散り降る飛沫を浴びて、迷わず惑わず一目散にケイは駆ける。間に合った、と安堵している暇はない。活動限界まで残り1分もないはずだ。ヨロイの背のお婆さんは、相変わらず南無南無と念仏を唱えている。騒ぐこともなく恐慌に陥ることもなく。30年前の大海嘯を生き延びた世代は胆力もすごいなと思う。
幸い速度は出せている。このまま行けば活動限界を迎える前に、サクラオカのシェルターに辿り着けるはず。右脇に抱えた少女の様子を見ると、もぐもぐと串焼きのイカを頬張って食べていた。
え? なんでこの状況で呑気に焼きイカ食ってんのこの子……
少女は戸惑うケイに気づいたように顔を上げると、ごっくんとイカを飲み込んで一言
「いいね、キミ」
言って、お日様のような笑顔をケイに向ける。
何の衒いも打算も感じられないその綺麗な笑みは、不思議とケイの胸に染みこんだ。何故だか耳が少し熱くなる。
サクラオカのシェルターまで距離200、の防災標識を過ぎた。もうすぐ水上道が終わってアスファルトの道に出る。ここまで来れば、あと僅か。今度は間に合う。あの時と違って、やりたいこととできることを、はき違えずにできた。
そのはずだった。
星図の回転が速度を落とし、駆けるヨロイが膝を折る。
「くそっ!」
炉が限界だ。視界を埋める『緊急停止』の文字に悪態をつきながら、ケイは何とか転ばぬようにヨロイを制御する。出力が急落し、ヨロイが徐々に反応と動作を鈍らせる。足が止まり、浮力を失い沈み始める。幸い陸道が近く、水深は一メートル程度だ。溺れる深さではなかったが。
RurururururruuuuuuuuuAAAAaaaaahhhhhh!!
界獣から逃げ切るには、致命的だった。
背後に迫る新たな咆哮に、ケイはかちかちと奥歯を鳴るのを止められない。またか、と思う。結局、6年前から何も変わっちゃいなかった。何かができると思い込んで、また人を巻き込んで。
そう、巻き込んでいる。お婆さんと、赤い髪の女の子を。
ほんの少しだけ手に力が戻る。ケイは残り僅かな炉の出力を使って、ヨロイの頭部を除装した。足が不自由なお婆さんに、一人で降りて逃げてもらうのはまず無理だ。ならばせめて、とケイはヨロイの右腕を解放しながら少女に叫ぶ。「君っ! 先に」
逃げて、の言葉は大きさを増した咆哮に呑まれる。爆発のような水音に飛沫が降り注ぐ。振り仰ぐケイの視界を、界獣の不揃いな牙が埋め尽くす。
迫る死に、走馬灯はともらなかった。代わりに、ケイが胸の内にずっと抱えてきた疑問が湧き上がる。悔しさと怒りに彩られた問いが。どうして僕なんだよ。あの日あの時あの場所に、今日のこの時この場所に、いるべきなのは、もっとすごい人であるべきじゃないか。僕なんかよりもっと能力もあって、ヨロイも上手く扱えて、もっと正しく判断できる、そんな人がいるべきなんじゃないのか? どうして力の足りないこの僕に、僕の前に、誰かを助けるか否かの選択を突きつけるんだ。高みに座して見ている何者か、いるのなら、僕がここで終わるのなら、その答えくらい寄越せ。
その問いに意味はないよ、少年。
聞こえてきた声にケイが驚く間もなく、キィンと金属の割れる音が高く長く響き渡る。瞬間、彼の視界から色が失われ、モノクロームに置き換わる。音が尾を引き小さくなるにつれて、モノクロームの景色も消えて。
そこにあるのは、霧の中で、青々と豊かに水を湛えた小さな泉。その傍らに、濃緑のドレスを着こなした赤毛の少女が添い立っていた。
ここは天国? それとも地獄? 戸惑うケイをそのままに、少女はドレスの裾を持つと、右足を後ろに引いて左足の膝を軽く曲げ、目を閉じ小さくお辞儀をした。
「まずは貴方の勇気に感謝を」少女はお辞儀の姿勢を解くと、琥珀色の瞳をケイに向けた。「あの時は本当にこのサイクルの生を終えてしまう寸前でした。魔力も底を尽いていた上に、余所者の私では、この地の精霊の助力を得ることも叶わなかった」
少女の美しさに見蕩れ、ケイは彼女の言葉をあまりよく聞いてはいなかった。昔を舞台にしたユーロピア映画の中のお姫様みたいだ、と思う。さっきまで焼きイカでリスのように頬袋を膨らませていた女の子とは思えない。
そこでケイははたと気づく。少女の異形に。赤いくせ毛から伸びる笹穂のように尖った耳に。幾度かテレビのモニター越しに観たそれは、ネリマのような田舎都市で見ることはまずないもの。世界を救った神秘の種族、ブリタニアの妖精種、その証。
「君は、ミスティックレイス……」なの? と言いかけて、ケイは慌てて言葉を直す。相手はこの世代に生きる誰もが知る貴人で偉人だ。「あなたは、ミスティックレイス、なのですか?」
「あー、わかるよね。そりゃ」少女は右耳の尖った先をちょいとつまむ。「まあそうだね。ボクはそう呼ばれるものだよ。故郷では泉の妖精、湖の貴婦人、Lady of the Lake、Dame du Lac、Fay、そう呼ばれることが多いかな」
やっぱりそうか。でもどうして? ケイは頭を巡らせる。ここが何処で今が何なのか、界獣はどうなったのか、僕は死んだのか、生きているのか、また助けられたのか。疑問は山ほどあるけれど、まずは目の前の事態に対処せねば。ミスティックレイス、それも遠い異国のそれに対する礼儀作法なんて習ったことがない。幸いニホン語は流暢なようだけど。
「し、失礼しました」ケイはとりあえずお辞儀してみる。謝意だけでもなんとか通じてくれないものかと思う。「助けて、くれたんですか?」
「だったらよかったんだけどねぇ」少しばつが悪そうに、少女は言う。「固くならずに聞いてほしいんだけど。事態は全く変わってない。秘蔵の〈妖精の輪〉を割って造った僅かな時間の狭間なんだ、ここ」
ケイの緊張を察したのか。段々と口調が砕けてくる。美しさはそのままに、神秘性よりも愛嬌が増してくる。ミスティックレイスは長命で、若く見えても見た目どおりの年齢ではないと聞くけれど。ケイには見た目相応の十代前半、中学生くらいに見えた。アヤハと同い年くらいかな、なんて思う。
「時間がないから、単刀直入に言うよ」少女が琥珀色の瞳でケイを射抜く。「提案があるんだ」
言って、少女は右手で傍らの泉を指し示す。
すると何もない泉の水面に一たび波紋が広がり、中から鞘に納まった剣が一振り、白い手に捧げ持たれて姿を現した。
「もしキミが、今の困難を、降りかかる理不尽を打倒したいのなら」赤毛の少女は白い手から剣を受け取ると、鞘を持ち、柄をケイに向けて差し出す。「ボクは君を助けることができる」
「これは?」
ケイは剣を見た。差し出されたそれは、中世ユーロピアの騎士が持つような大きな両刃の剣だった。黒い鞘に、鍔は光沢のない仄暗い銀色。両手で持っても余裕がある長い握りには、何かの獣の黒い革が巻かれている。ゲームやアニメのそれのような色鮮やかな装飾は皆無で、ただ赤い宝石が一つだけ、柄頭にはめ込まれていた。
「見てのとおり、剣さ。敵を斬り、打ち倒す武器さ。界獣だって殺せる。自慢じゃないけどボクが造ったんだ」少女はちょっと誇らしげに胸を張る。「そしてキミが今、最も欲しているもの、かな」
僕が、欲しているもの。少女の言葉に、ケイはずっと抱えてきた飢えにも似た思いを自覚する。今も、あの日も、あと少し、ほんの少しの力が欲しかった。誰もかれも助けたいなんて思っちゃいない。今だってそうだ。ただ、目の前で消えそうな命が、消そうとする理不尽が目の前にあるのなら、何かをしたかった。何かできる自分でいたかった。
ただ誰かの助けを待つだけの、無力な存在でいるのは嫌だった。
「選んで、少年。この剣を手に、今を斬り拓くか、否かを」
ずっと欲っしてきた、今の困難を斬り拓く力。選択を前に、ケイは右手を柄に伸ばして……触れる前に、止めた。
「これが界獣を倒す武器なら、僕よりも、持つのに相応しい人がいるんじゃないか?」ケイの口から、胸に刺さった諦めがこぼれ出る。この世に、自身より優れた人間など五万といる。まして今は誕生したその時から能力の差が歴然とある時代だ。遺伝子調整者とか。
「言ったよね。その問いに意味はないと」小さな貴婦人は冷然と告げる。「今、ここにいない者に、この剣に触れる資格はない。今、ここにいる君に選んでほしい。一つ補足だ。ここでこの剣を取らなくても、気に病むことはないよ。キミとそこの老婦人を遠方に移すくらいはできるから」
時空転移の魔法は対価が大きくてちょっと苦手なんだけどね、と小さく続く。
「そうしたら、君はどうなるのさ?」
少女の声に滲んだ寂しさを、ケイは聞き逃さなかった。伊達に妹分二人と過ごしてきていない。
「まあ、このサイクルでの生は終わりかな」どこか他人事のように言いながら、赤毛の少女は左手で剣を抱くと、右手の指でくせ毛を引っ張ったり戻したり。「なんてことはない。ボクらはキミらと違って、いずれまた蘇る。でもまあ、キミの生涯の内には戻れないかな」
それは死ぬ、ということか。不老不死の存在と囁かれるミスティックレイスの生死の有り様なんて、わからないけれど。そんな気がする。
それは嫌だ、と単純にケイは思う。あのお日様のような笑顔を失くしたくない。
ならきっと、選択の余地なんてない。ここにいない誰かの方が、きっと適任なんだろうと今だって思う。でも、そんな誰かは都合よくここにいない。また失敗するかもしれない。それでも
「その言い方は」再び、ケイは右手を剣に伸ばす。「少し、狡いんじゃないかな」
今、ここにいる僕に、できる何かがまだあるのなら。ほんの少しの間でいいから。
「ボクは魔女でもあるからね」笑みを深くし呼応するように、少女も再び両手で剣を差し伸べる。「ボクはキミがいいんだ。だからキミも選んで!」
僕がいいと、言ってくれるのなら。
少女の言葉に手を引かれるように、ケイは剣の柄を握った。
黒い鞘がひとりでに滑り、顕れた白い刃が赤く眩い光芒を放つ。眩しさにくらむケイの前で、鞘口から二本の銀輪の鎖が飛び出した。鎖は宙を巡ると互いに螺旋を描いて重なって、彼の右手に巻きついてゆく。
「うわっ!」驚くケイを余所に鎖は隈なく巻き付いてゆく。右腕から肩へ、肩から上体へ。頭にも絡みついて視界を奪う。「これ、どうなって……」
「大丈夫、怖がらないで。今、君の身体を走査してるところさ!」
「走査?」
暗く閉ざされた視界に、楽しげに弾んだ少女の声だけが聞こえてくる。すぐに視界は拓けたものの、そこは見知らぬ何処かの星空。暗がりに星々の煌めく美しくも寂しい場所で。ケイは一人、その景色を眺めていた。
次いで視界の左に忽然と現れた少女は、抱えた時のパーカー姿に戻っていた。ノートサイズの光る板を忙しなく操作しながら、時折、宙に光って浮かぶ見知らぬ文字と図形を撫ぜては消したり指で書き込んだり。
「ボクとキミが出会ったこと。それはただの偶然だ」光の文字を手繰りながら、彼女は言った。それまでの稚気が嘘のように、大人びた声音で。「誰かが決めたことじゃない。何者かが仕組んだ運命(fate)じゃない」
ケイの目の前に、光る文字が流れてゆく。見知らぬ文字なのに、不思議と意味だけは頭に入ってくる。騎手走査完了、呪鍛鋼骨格形成開始、深淵発動機形成開始―視界の右上に、人型の何かが形成されてゆくのが見える。
「偶然の中で、ボクは選んだ。キミも選んだ。それがどんな果実を結ぶか、〈いと高きものたち〉だって知らないことだ」
呪鍛鋼骨格形成完了、深淵発動機形成完了、ヴリル機関解凍、紋晶装甲造成開始、星図更新開始――人型に、仄暗い銀色の装甲板が幾重にも連なり重なってゆく。肩、肘、膝、胴回りといった要所は大きく滑らかに、腕や脚の可動部分は小刻みに重なるように。頭部の装甲は面頬付きの兜へと変形する。
紋晶装甲造成完了、エーテルリンク接続、対立神性ライブラリ更新開始――人型は、甲冑を着た騎士の姿へと変わる。兜から、赤い房が鬣のように生え伸びる。その篭手に覆われた右手には、手にしたものと同じ大剣がある。自身の右手にある柄の感触で、ケイは騎士が今の自身の姿であることがわかった。
「この選択は、他の誰でもない、ボクとキミだけのもの。蒼天にかけて、その結果はボクも引き受ける」少女は光る板から顔を上げると、ケイを見つめて言った。その眼差しは、暖かな午後の陽射しのようで。「だから恐れないで、勇気ある君」
その言葉に、ケイは体に力が戻るのを感じる。戻るだけではない、増したような気さえする。一人じゃない、選択。何故だかそのことが、今はひどく嬉しく暖かい。
小さな湖の貴婦人は謳う。
其は霧のとばりを捲る指先
其は赤子に最初の息をあたえる流れ
其は目覚めの角笛を鳴らす最初の一吹き
対立神性更新完了、星図更新完了、ヴリル機関始動―兜の目庇に赤い灯がともる。
「Now is the time, my knight, stand up again with DAWN WIND!」
(今こそその時。立って、我が騎士。夜明けの風とともに。さあ、もう一度!)
貴婦人の呼びかけに、剣を抜いた少年は応える。最初の勲を認められた騎士のように。
「Yes, my lady.」
(そうだね。我がとうときひと)
昔々幼い頃に、母に読んでもらった物語の台詞が自ずと出た。歯が浮くような台詞だけれど、ケイにはそれが一番相応しく思えた。
突き出された大剣が、界獣の牙を砕き頭を深く刺し貫く。剣の刃に沿って黄色い光が流れると、界獣の頭は破裂し飛び散った。
崩れ、水に融解していく界獣を見下ろして、仄暗い銀の騎士が屈んだ身を起こす。落日の光を受け、その手の大剣は赫く赫く輝いて。
〈夜明けの風〉が立ち上がる。
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