7 / 63
第1話 君の選択、僕の選択
6. 界獣、襲来
しおりを挟む
エコタ二丁目の住宅前でヨロイを停めると、ケイは背部装甲を展開して地上に跳び降りた。
シャツの胸には『みはた食堂』の刺繍がある。ヨロイの左腕に装備した専用の岡持ちは、方術甲冑の縦横無尽の動きを吸収、内部の平衡を保つ優れものだ。どれだけ地上と海上を駆け巡っても、ス―プがテイクアウトの紙カップからこぼれることもない。
ケイは岡持ちを開けてテイクアウト用の定食セットと弁当ケースを取り出すと、チャイムを鳴らして家人を呼んだ。「仁木さん、みはた食堂です」
「はいはい、ちょっと待ってくださいねえ」
ドアホン越しの返事の後、すぐに玄関が開き、ゆっくりと杖をつきつつ温和そうなお婆さんが現れた。
「あら、今日はケイちゃんかい。まだ若いのに偉いねえ」
仁木さんは、みはた食堂のお得意様の一人だ。ネリマ市の水産試験場で働くお孫さんと二人で暮らしている。右足が悪く買い物に出ることが難しく、お孫さんが忙しいときなどはこうして、みはた食堂の出前を活用してくれている。
「アジフライ定食とアジ唐揚げ弁当ですよね」ケイは定食セットと弁当ケースをお婆さんに渡すと、ヨロイに引き返し、今度はスープのカップ二つを持って戻る。「合わせて900円になります」
「ひぃふぅみぃよ……と、はいちょうど」
「ありがとうございます。今後とも御贔屓に」
代金を受け取って領収書を渡すと、ケイはヨロイに乗り込んだ。取り合えずこの時間帯分の宅配はこれで完了。後は店件自宅に戻るだけ。戻って終わりか、追加の注文でまた宅配に出るかはわからないが。平日なので今日はたぶんこれで終わりだろう。
「暗くなってくるからね、気をつけて戻るんだよ」
仁木お婆さんに向かってヨロイの右手を軽く振ってから、来た道を戻る。歩行から徐々に速度を上げて駆けてゆく。沈みゆく日がオレンジの光で、ヨロイが踏みしめる海面を照らす。もう少ししたら肩の前照灯を点けなきゃならない。
戻ったら何をしよう。貸しの分があるから夕飯はメイハに任せるとして、読みかけの本でも読もうか、軽く素振りでも……と巡るケイの思考は、けたたましいサイレンの音で遮られた。
湾を臨む無線放送塔が近かったため、ケイは耳を殴るような大きな音声に顔をしかめた。ヨロイの内では、己が手で耳を塞げない。否応なく言葉が耳に飛び込んでくる。緊急放送は珍しくもない。年に二度くらいはあることだ。しかし聞きなれない言葉があった。防衛システムの異常? なんだよそれ。
ぞわぞわと肚のあたりから立ち昇ってくる猛烈な違和感には、覚えがあった。6年前の、連日の台風で街が荒れ果てたあの日。
ケイは何かに弾かれるように、ヨロイの視界を湾に向けた。放送を聞いた市民がちらほら出てきて、湾沿いの歩道に立って海を見て何か叫んでいる。ケイも視界を海に向け望遠モードに切り替えた。夕日に照らされる赤い海。その海面を、不自然な波が幾つも沸き立っている。望遠を最大へ。海面が大きく盛り上がる。瞬間
Aaaaaahhhhhrurururuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuu......
人の、否、この世界のどんな動物の発声器官にも例えられない奇怪な咆哮とともに、両棲類じみた巨獣が宙に飛び出した。体長は、その大きな鰭を持つ尾まで含めれば8メートルはあろうか。咆哮を轟かせる大きな顎には、鋭角の牙が幾重にも並ぶ。
界獣が、その姿を見せた。
界獣は水かきの付いた四肢を畳んて身をうねらせ、頭から海に没する。波は尾を引くように湾に向かって一直線に、沸いては消えてゆく。そんな波が幾つも、幾つも湾に、街に近づいている。
街に目を向ければ、家々から出てくる市民に対して、警官がシェルターへの誘導を開始している。道路を走る自動車とヨロイも、その流れをシェルターへと向けている。全てが間に合うかは、ケイにはかなり怪しく見えた。防衛機構サイノカミの効力が弱い封鎖区画付近ならいざ知らず、居住区画のここまで入り込まれる事態は初めてのことではないのか。
ヨロイの通信機が着信音を鳴らす。ケイはすぐさま通話をオンにした。メイハだ。
『ケイ、今どこだ?』
少し荒いメイハの声に、かすかな星図の回転音が重なっている。彼女もヨロイで移動中のようだ。
「メイハ、無事でよかった。こっちは出前の帰り道。エコタを出た辺り。アヤハは?」
『アヤハは回収した。ついでにカコとその友だちも。今はイシガミ町のシェルターに向かってる』
「父さんと姉さんは? わかる?」
『今、アヤハがケータイで話してる…………わかった。シグ姉さんはもうシギノミヤのシェルター。父さんはトヨシマジョウのシェルターに移動中だ』
ケイはほっと安堵する。姉さんは避難済み。メイハたちも、イシガミ町のシェルターは学校からの帰路にあるから、ヨロイの足であれば15分もあれば到着できる。店からトヨシマジョウのシェルターは徒歩でも10分程度だから、父さんとパートの葛西さんの避難も間に合うだろう。
「わかった。メイハもシェルターに急いで」
『もう、そうしている。ケイはどこへ向かう?』
この辺りから最も近いシェルターはサクラオカのシェルターだ。このままヨロイで駆ければ10分もかからない。駆ければ。
そこでふと思い出す。仁木のお婆さん、足が悪かったよな。お孫さんのアツオさんも、今日は勤めで帰りが遅い。水産試験場からあの家までは、水陸バスで30分はかかる。
ケイはもう一度湾を見る。望遠を……使わなくとも見て取れた。今は肉眼でも見えるだろう。
界獣が、埠頭に迫っていた。想像よりもずっと早い。海浜警備隊は恐らく間に合わない。間違いなく上陸される。
このまま進めば、自分の避難には充分間に合う。お婆さんは、近所の人がとっくに連れ出してるかもしれない。
しかし、そうでないかもしれない。ケイは頭の中で、湾の界獣までの距離と、来た道を戻る時間を比べる。自分のヨロイの足ならば、戻ってお婆さんの安否を確認しても、全速力なら間に合う。何事もなければ。何事もなく済む保証もないけれど。
逡巡は一瞬。気になったまま、もやもやしたものを胸に抱えたままでいるのは嫌だ。
「…サクラオカのシェルターに向かうよ」
ならば、ここで立ち止まってはいられない。1秒でも惜しい。ケイはヨロイの踵を返して
『急ぐんだぞ』
メイハの声を聞きながら、反対車線に跳び込むと来た道を駆け出した。
シャツの胸には『みはた食堂』の刺繍がある。ヨロイの左腕に装備した専用の岡持ちは、方術甲冑の縦横無尽の動きを吸収、内部の平衡を保つ優れものだ。どれだけ地上と海上を駆け巡っても、ス―プがテイクアウトの紙カップからこぼれることもない。
ケイは岡持ちを開けてテイクアウト用の定食セットと弁当ケースを取り出すと、チャイムを鳴らして家人を呼んだ。「仁木さん、みはた食堂です」
「はいはい、ちょっと待ってくださいねえ」
ドアホン越しの返事の後、すぐに玄関が開き、ゆっくりと杖をつきつつ温和そうなお婆さんが現れた。
「あら、今日はケイちゃんかい。まだ若いのに偉いねえ」
仁木さんは、みはた食堂のお得意様の一人だ。ネリマ市の水産試験場で働くお孫さんと二人で暮らしている。右足が悪く買い物に出ることが難しく、お孫さんが忙しいときなどはこうして、みはた食堂の出前を活用してくれている。
「アジフライ定食とアジ唐揚げ弁当ですよね」ケイは定食セットと弁当ケースをお婆さんに渡すと、ヨロイに引き返し、今度はスープのカップ二つを持って戻る。「合わせて900円になります」
「ひぃふぅみぃよ……と、はいちょうど」
「ありがとうございます。今後とも御贔屓に」
代金を受け取って領収書を渡すと、ケイはヨロイに乗り込んだ。取り合えずこの時間帯分の宅配はこれで完了。後は店件自宅に戻るだけ。戻って終わりか、追加の注文でまた宅配に出るかはわからないが。平日なので今日はたぶんこれで終わりだろう。
「暗くなってくるからね、気をつけて戻るんだよ」
仁木お婆さんに向かってヨロイの右手を軽く振ってから、来た道を戻る。歩行から徐々に速度を上げて駆けてゆく。沈みゆく日がオレンジの光で、ヨロイが踏みしめる海面を照らす。もう少ししたら肩の前照灯を点けなきゃならない。
戻ったら何をしよう。貸しの分があるから夕飯はメイハに任せるとして、読みかけの本でも読もうか、軽く素振りでも……と巡るケイの思考は、けたたましいサイレンの音で遮られた。
湾を臨む無線放送塔が近かったため、ケイは耳を殴るような大きな音声に顔をしかめた。ヨロイの内では、己が手で耳を塞げない。否応なく言葉が耳に飛び込んでくる。緊急放送は珍しくもない。年に二度くらいはあることだ。しかし聞きなれない言葉があった。防衛システムの異常? なんだよそれ。
ぞわぞわと肚のあたりから立ち昇ってくる猛烈な違和感には、覚えがあった。6年前の、連日の台風で街が荒れ果てたあの日。
ケイは何かに弾かれるように、ヨロイの視界を湾に向けた。放送を聞いた市民がちらほら出てきて、湾沿いの歩道に立って海を見て何か叫んでいる。ケイも視界を海に向け望遠モードに切り替えた。夕日に照らされる赤い海。その海面を、不自然な波が幾つも沸き立っている。望遠を最大へ。海面が大きく盛り上がる。瞬間
Aaaaaahhhhhrurururuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuu......
人の、否、この世界のどんな動物の発声器官にも例えられない奇怪な咆哮とともに、両棲類じみた巨獣が宙に飛び出した。体長は、その大きな鰭を持つ尾まで含めれば8メートルはあろうか。咆哮を轟かせる大きな顎には、鋭角の牙が幾重にも並ぶ。
界獣が、その姿を見せた。
界獣は水かきの付いた四肢を畳んて身をうねらせ、頭から海に没する。波は尾を引くように湾に向かって一直線に、沸いては消えてゆく。そんな波が幾つも、幾つも湾に、街に近づいている。
街に目を向ければ、家々から出てくる市民に対して、警官がシェルターへの誘導を開始している。道路を走る自動車とヨロイも、その流れをシェルターへと向けている。全てが間に合うかは、ケイにはかなり怪しく見えた。防衛機構サイノカミの効力が弱い封鎖区画付近ならいざ知らず、居住区画のここまで入り込まれる事態は初めてのことではないのか。
ヨロイの通信機が着信音を鳴らす。ケイはすぐさま通話をオンにした。メイハだ。
『ケイ、今どこだ?』
少し荒いメイハの声に、かすかな星図の回転音が重なっている。彼女もヨロイで移動中のようだ。
「メイハ、無事でよかった。こっちは出前の帰り道。エコタを出た辺り。アヤハは?」
『アヤハは回収した。ついでにカコとその友だちも。今はイシガミ町のシェルターに向かってる』
「父さんと姉さんは? わかる?」
『今、アヤハがケータイで話してる…………わかった。シグ姉さんはもうシギノミヤのシェルター。父さんはトヨシマジョウのシェルターに移動中だ』
ケイはほっと安堵する。姉さんは避難済み。メイハたちも、イシガミ町のシェルターは学校からの帰路にあるから、ヨロイの足であれば15分もあれば到着できる。店からトヨシマジョウのシェルターは徒歩でも10分程度だから、父さんとパートの葛西さんの避難も間に合うだろう。
「わかった。メイハもシェルターに急いで」
『もう、そうしている。ケイはどこへ向かう?』
この辺りから最も近いシェルターはサクラオカのシェルターだ。このままヨロイで駆ければ10分もかからない。駆ければ。
そこでふと思い出す。仁木のお婆さん、足が悪かったよな。お孫さんのアツオさんも、今日は勤めで帰りが遅い。水産試験場からあの家までは、水陸バスで30分はかかる。
ケイはもう一度湾を見る。望遠を……使わなくとも見て取れた。今は肉眼でも見えるだろう。
界獣が、埠頭に迫っていた。想像よりもずっと早い。海浜警備隊は恐らく間に合わない。間違いなく上陸される。
このまま進めば、自分の避難には充分間に合う。お婆さんは、近所の人がとっくに連れ出してるかもしれない。
しかし、そうでないかもしれない。ケイは頭の中で、湾の界獣までの距離と、来た道を戻る時間を比べる。自分のヨロイの足ならば、戻ってお婆さんの安否を確認しても、全速力なら間に合う。何事もなければ。何事もなく済む保証もないけれど。
逡巡は一瞬。気になったまま、もやもやしたものを胸に抱えたままでいるのは嫌だ。
「…サクラオカのシェルターに向かうよ」
ならば、ここで立ち止まってはいられない。1秒でも惜しい。ケイはヨロイの踵を返して
『急ぐんだぞ』
メイハの声を聞きながら、反対車線に跳び込むと来た道を駆け出した。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説


神様のミスで女に転生したようです
結城はる
ファンタジー
34歳独身の秋本修弥はごく普通の中小企業に勤めるサラリーマンであった。
いつも通り起床し朝食を食べ、会社へ通勤中だったがマンションの上から人が落下してきて下敷きとなってしまった……。
目が覚めると、目の前には絶世の美女が立っていた。
美女の話を聞くと、どうやら目の前にいる美女は神様であり私は死んでしまったということらしい
死んだことにより私の魂は地球とは別の世界に迷い込んだみたいなので、こっちの世界に転生させてくれるそうだ。
気がついたら、洞窟の中にいて転生されたことを確認する。
ん……、なんか違和感がある。股を触ってみるとあるべきものがない。
え……。
神様、私女になってるんですけどーーーー!!!
小説家になろうでも掲載しています。
URLはこちら→「https://ncode.syosetu.com/n7001ht/」

独身貴族の異世界転生~ゲームの能力を引き継いで俺TUEEEチート生活
髙龍
ファンタジー
MMORPGで念願のアイテムを入手した次の瞬間大量の水に押し流され無念の中生涯を終えてしまう。
しかし神は彼を見捨てていなかった。
そんなにゲームが好きならと手にしたステータスとアイテムを持ったままゲームに似た世界に転生させてやろうと。
これは俺TUEEEしながら異世界に新しい風を巻き起こす一人の男の物語。

獅子姫の婿殿
七辻ゆゆ
ファンタジー
ドラゴンのいる辺境グランノットに、王と踊り子の間に生まれた王子リエレは婿としてやってきた。
歓迎されるはずもないと思っていたが、獅子姫ヴェネッダは大変に好意的、素直、あけっぴろげ、それはそれで思惑のあるリエレは困ってしまう。
「初めまして、婿殿。……うん? いや、ちょっと待って。話には聞いていたがとんでもなく美形だな」
「……お初にお目にかかる」
唖然としていたリエレがどうにか挨拶すると、彼女は大きく口を開いて笑った。
「皆、見てくれ! 私の夫はなんと美しいのだろう!」
セーブポイント転生 ~寿命が無い石なので千年修行したらレベル上限突破してしまった~
空色蜻蛉
ファンタジー
枢は目覚めるとクリスタルの中で魂だけの状態になっていた。どうやらダンジョンのセーブポイントに転生してしまったらしい。身動きできない状態に悲嘆に暮れた枢だが、やがて開き直ってレベルアップ作業に明け暮れることにした。百年経ち、二百年経ち……やがて国の礎である「聖なるクリスタル」として崇められるまでになる。
もう元の世界に戻れないと腹をくくって自分の国を見守る枢だが、千年経った時、衝撃のどんでん返しが待ち受けていて……。
【お知らせ】6/22 完結しました!
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

最弱スキルも9999個集まれば最強だよね(完結)
排他的経済水域
ファンタジー
12歳の誕生日
冒険者になる事が憧れのケインは、教会にて
スキル適性値とオリジナルスキルが告げられる
強いスキルを望むケインであったが、
スキル適性値はG
オリジナルスキルも『スキル重複』というよくわからない物
友人からも家族からも馬鹿にされ、
尚最強の冒険者になる事をあきらめないケイン
そんなある日、
『スキル重複』の本来の効果を知る事となる。
その効果とは、
同じスキルを2つ以上持つ事ができ、
同系統の効果のスキルは効果が重複するという
恐ろしい物であった。
このスキルをもって、ケインの下剋上は今始まる。
HOTランキング 1位!(2023年2月21日)
ファンタジー24hポイントランキング 3位!(2023年2月21日)

ゲームの中に転生したのに、森に捨てられてしまいました
竹桜
ファンタジー
いつもと変わらない日常を過ごしていたが、通り魔に刺され、異世界に転生したのだ。
だが、転生したのはゲームの主人公ではなく、ゲームの舞台となる隣国の伯爵家の長男だった。
そのことを前向きに考えていたが、森に捨てられてしまったのだ。
これは異世界に転生した主人公が生きるために成長する物語だ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる