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第1話 君の選択、僕の選択
6. 界獣、襲来
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エコタ二丁目の住宅前でヨロイを停めると、ケイは背部装甲を展開して地上に跳び降りた。
シャツの胸には『みはた食堂』の刺繍がある。ヨロイの左腕に装備した専用の岡持ちは、方術甲冑の縦横無尽の動きを吸収、内部の平衡を保つ優れものだ。どれだけ地上と海上を駆け巡っても、ス―プがテイクアウトの紙カップからこぼれることもない。
ケイは岡持ちを開けてテイクアウト用の定食セットと弁当ケースを取り出すと、チャイムを鳴らして家人を呼んだ。「仁木さん、みはた食堂です」
「はいはい、ちょっと待ってくださいねえ」
ドアホン越しの返事の後、すぐに玄関が開き、ゆっくりと杖をつきつつ温和そうなお婆さんが現れた。
「あら、今日はケイちゃんかい。まだ若いのに偉いねえ」
仁木さんは、みはた食堂のお得意様の一人だ。ネリマ市の水産試験場で働くお孫さんと二人で暮らしている。右足が悪く買い物に出ることが難しく、お孫さんが忙しいときなどはこうして、みはた食堂の出前を活用してくれている。
「アジフライ定食とアジ唐揚げ弁当ですよね」ケイは定食セットと弁当ケースをお婆さんに渡すと、ヨロイに引き返し、今度はスープのカップ二つを持って戻る。「合わせて900円になります」
「ひぃふぅみぃよ……と、はいちょうど」
「ありがとうございます。今後とも御贔屓に」
代金を受け取って領収書を渡すと、ケイはヨロイに乗り込んだ。取り合えずこの時間帯分の宅配はこれで完了。後は店件自宅に戻るだけ。戻って終わりか、追加の注文でまた宅配に出るかはわからないが。平日なので今日はたぶんこれで終わりだろう。
「暗くなってくるからね、気をつけて戻るんだよ」
仁木お婆さんに向かってヨロイの右手を軽く振ってから、来た道を戻る。歩行から徐々に速度を上げて駆けてゆく。沈みゆく日がオレンジの光で、ヨロイが踏みしめる海面を照らす。もう少ししたら肩の前照灯を点けなきゃならない。
戻ったら何をしよう。貸しの分があるから夕飯はメイハに任せるとして、読みかけの本でも読もうか、軽く素振りでも……と巡るケイの思考は、けたたましいサイレンの音で遮られた。
湾を臨む無線放送塔が近かったため、ケイは耳を殴るような大きな音声に顔をしかめた。ヨロイの内では、己が手で耳を塞げない。否応なく言葉が耳に飛び込んでくる。緊急放送は珍しくもない。年に二度くらいはあることだ。しかし聞きなれない言葉があった。防衛システムの異常? なんだよそれ。
ぞわぞわと肚のあたりから立ち昇ってくる猛烈な違和感には、覚えがあった。6年前の、連日の台風で街が荒れ果てたあの日。
ケイは何かに弾かれるように、ヨロイの視界を湾に向けた。放送を聞いた市民がちらほら出てきて、湾沿いの歩道に立って海を見て何か叫んでいる。ケイも視界を海に向け望遠モードに切り替えた。夕日に照らされる赤い海。その海面を、不自然な波が幾つも沸き立っている。望遠を最大へ。海面が大きく盛り上がる。瞬間
Aaaaaahhhhhrurururuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuu......
人の、否、この世界のどんな動物の発声器官にも例えられない奇怪な咆哮とともに、両棲類じみた巨獣が宙に飛び出した。体長は、その大きな鰭を持つ尾まで含めれば8メートルはあろうか。咆哮を轟かせる大きな顎には、鋭角の牙が幾重にも並ぶ。
界獣が、その姿を見せた。
界獣は水かきの付いた四肢を畳んて身をうねらせ、頭から海に没する。波は尾を引くように湾に向かって一直線に、沸いては消えてゆく。そんな波が幾つも、幾つも湾に、街に近づいている。
街に目を向ければ、家々から出てくる市民に対して、警官がシェルターへの誘導を開始している。道路を走る自動車とヨロイも、その流れをシェルターへと向けている。全てが間に合うかは、ケイにはかなり怪しく見えた。防衛機構サイノカミの効力が弱い封鎖区画付近ならいざ知らず、居住区画のここまで入り込まれる事態は初めてのことではないのか。
ヨロイの通信機が着信音を鳴らす。ケイはすぐさま通話をオンにした。メイハだ。
『ケイ、今どこだ?』
少し荒いメイハの声に、かすかな星図の回転音が重なっている。彼女もヨロイで移動中のようだ。
「メイハ、無事でよかった。こっちは出前の帰り道。エコタを出た辺り。アヤハは?」
『アヤハは回収した。ついでにカコとその友だちも。今はイシガミ町のシェルターに向かってる』
「父さんと姉さんは? わかる?」
『今、アヤハがケータイで話してる…………わかった。シグ姉さんはもうシギノミヤのシェルター。父さんはトヨシマジョウのシェルターに移動中だ』
ケイはほっと安堵する。姉さんは避難済み。メイハたちも、イシガミ町のシェルターは学校からの帰路にあるから、ヨロイの足であれば15分もあれば到着できる。店からトヨシマジョウのシェルターは徒歩でも10分程度だから、父さんとパートの葛西さんの避難も間に合うだろう。
「わかった。メイハもシェルターに急いで」
『もう、そうしている。ケイはどこへ向かう?』
この辺りから最も近いシェルターはサクラオカのシェルターだ。このままヨロイで駆ければ10分もかからない。駆ければ。
そこでふと思い出す。仁木のお婆さん、足が悪かったよな。お孫さんのアツオさんも、今日は勤めで帰りが遅い。水産試験場からあの家までは、水陸バスで30分はかかる。
ケイはもう一度湾を見る。望遠を……使わなくとも見て取れた。今は肉眼でも見えるだろう。
界獣が、埠頭に迫っていた。想像よりもずっと早い。海浜警備隊は恐らく間に合わない。間違いなく上陸される。
このまま進めば、自分の避難には充分間に合う。お婆さんは、近所の人がとっくに連れ出してるかもしれない。
しかし、そうでないかもしれない。ケイは頭の中で、湾の界獣までの距離と、来た道を戻る時間を比べる。自分のヨロイの足ならば、戻ってお婆さんの安否を確認しても、全速力なら間に合う。何事もなければ。何事もなく済む保証もないけれど。
逡巡は一瞬。気になったまま、もやもやしたものを胸に抱えたままでいるのは嫌だ。
「…サクラオカのシェルターに向かうよ」
ならば、ここで立ち止まってはいられない。1秒でも惜しい。ケイはヨロイの踵を返して
『急ぐんだぞ』
メイハの声を聞きながら、反対車線に跳び込むと来た道を駆け出した。
シャツの胸には『みはた食堂』の刺繍がある。ヨロイの左腕に装備した専用の岡持ちは、方術甲冑の縦横無尽の動きを吸収、内部の平衡を保つ優れものだ。どれだけ地上と海上を駆け巡っても、ス―プがテイクアウトの紙カップからこぼれることもない。
ケイは岡持ちを開けてテイクアウト用の定食セットと弁当ケースを取り出すと、チャイムを鳴らして家人を呼んだ。「仁木さん、みはた食堂です」
「はいはい、ちょっと待ってくださいねえ」
ドアホン越しの返事の後、すぐに玄関が開き、ゆっくりと杖をつきつつ温和そうなお婆さんが現れた。
「あら、今日はケイちゃんかい。まだ若いのに偉いねえ」
仁木さんは、みはた食堂のお得意様の一人だ。ネリマ市の水産試験場で働くお孫さんと二人で暮らしている。右足が悪く買い物に出ることが難しく、お孫さんが忙しいときなどはこうして、みはた食堂の出前を活用してくれている。
「アジフライ定食とアジ唐揚げ弁当ですよね」ケイは定食セットと弁当ケースをお婆さんに渡すと、ヨロイに引き返し、今度はスープのカップ二つを持って戻る。「合わせて900円になります」
「ひぃふぅみぃよ……と、はいちょうど」
「ありがとうございます。今後とも御贔屓に」
代金を受け取って領収書を渡すと、ケイはヨロイに乗り込んだ。取り合えずこの時間帯分の宅配はこれで完了。後は店件自宅に戻るだけ。戻って終わりか、追加の注文でまた宅配に出るかはわからないが。平日なので今日はたぶんこれで終わりだろう。
「暗くなってくるからね、気をつけて戻るんだよ」
仁木お婆さんに向かってヨロイの右手を軽く振ってから、来た道を戻る。歩行から徐々に速度を上げて駆けてゆく。沈みゆく日がオレンジの光で、ヨロイが踏みしめる海面を照らす。もう少ししたら肩の前照灯を点けなきゃならない。
戻ったら何をしよう。貸しの分があるから夕飯はメイハに任せるとして、読みかけの本でも読もうか、軽く素振りでも……と巡るケイの思考は、けたたましいサイレンの音で遮られた。
湾を臨む無線放送塔が近かったため、ケイは耳を殴るような大きな音声に顔をしかめた。ヨロイの内では、己が手で耳を塞げない。否応なく言葉が耳に飛び込んでくる。緊急放送は珍しくもない。年に二度くらいはあることだ。しかし聞きなれない言葉があった。防衛システムの異常? なんだよそれ。
ぞわぞわと肚のあたりから立ち昇ってくる猛烈な違和感には、覚えがあった。6年前の、連日の台風で街が荒れ果てたあの日。
ケイは何かに弾かれるように、ヨロイの視界を湾に向けた。放送を聞いた市民がちらほら出てきて、湾沿いの歩道に立って海を見て何か叫んでいる。ケイも視界を海に向け望遠モードに切り替えた。夕日に照らされる赤い海。その海面を、不自然な波が幾つも沸き立っている。望遠を最大へ。海面が大きく盛り上がる。瞬間
Aaaaaahhhhhrurururuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuu......
人の、否、この世界のどんな動物の発声器官にも例えられない奇怪な咆哮とともに、両棲類じみた巨獣が宙に飛び出した。体長は、その大きな鰭を持つ尾まで含めれば8メートルはあろうか。咆哮を轟かせる大きな顎には、鋭角の牙が幾重にも並ぶ。
界獣が、その姿を見せた。
界獣は水かきの付いた四肢を畳んて身をうねらせ、頭から海に没する。波は尾を引くように湾に向かって一直線に、沸いては消えてゆく。そんな波が幾つも、幾つも湾に、街に近づいている。
街に目を向ければ、家々から出てくる市民に対して、警官がシェルターへの誘導を開始している。道路を走る自動車とヨロイも、その流れをシェルターへと向けている。全てが間に合うかは、ケイにはかなり怪しく見えた。防衛機構サイノカミの効力が弱い封鎖区画付近ならいざ知らず、居住区画のここまで入り込まれる事態は初めてのことではないのか。
ヨロイの通信機が着信音を鳴らす。ケイはすぐさま通話をオンにした。メイハだ。
『ケイ、今どこだ?』
少し荒いメイハの声に、かすかな星図の回転音が重なっている。彼女もヨロイで移動中のようだ。
「メイハ、無事でよかった。こっちは出前の帰り道。エコタを出た辺り。アヤハは?」
『アヤハは回収した。ついでにカコとその友だちも。今はイシガミ町のシェルターに向かってる』
「父さんと姉さんは? わかる?」
『今、アヤハがケータイで話してる…………わかった。シグ姉さんはもうシギノミヤのシェルター。父さんはトヨシマジョウのシェルターに移動中だ』
ケイはほっと安堵する。姉さんは避難済み。メイハたちも、イシガミ町のシェルターは学校からの帰路にあるから、ヨロイの足であれば15分もあれば到着できる。店からトヨシマジョウのシェルターは徒歩でも10分程度だから、父さんとパートの葛西さんの避難も間に合うだろう。
「わかった。メイハもシェルターに急いで」
『もう、そうしている。ケイはどこへ向かう?』
この辺りから最も近いシェルターはサクラオカのシェルターだ。このままヨロイで駆ければ10分もかからない。駆ければ。
そこでふと思い出す。仁木のお婆さん、足が悪かったよな。お孫さんのアツオさんも、今日は勤めで帰りが遅い。水産試験場からあの家までは、水陸バスで30分はかかる。
ケイはもう一度湾を見る。望遠を……使わなくとも見て取れた。今は肉眼でも見えるだろう。
界獣が、埠頭に迫っていた。想像よりもずっと早い。海浜警備隊は恐らく間に合わない。間違いなく上陸される。
このまま進めば、自分の避難には充分間に合う。お婆さんは、近所の人がとっくに連れ出してるかもしれない。
しかし、そうでないかもしれない。ケイは頭の中で、湾の界獣までの距離と、来た道を戻る時間を比べる。自分のヨロイの足ならば、戻ってお婆さんの安否を確認しても、全速力なら間に合う。何事もなければ。何事もなく済む保証もないけれど。
逡巡は一瞬。気になったまま、もやもやしたものを胸に抱えたままでいるのは嫌だ。
「…サクラオカのシェルターに向かうよ」
ならば、ここで立ち止まってはいられない。1秒でも惜しい。ケイはヨロイの踵を返して
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