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第1話 君の選択、僕の選択
1. ネリマ市の少年少女
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西暦2024年 5月7日 12時24分 トウキョウ圏ネリマ市
5月の昼休みの教室は、連休明けのどこか気の抜けた空気が流れていた。
高等部一年二組の教室の座席は、今は三分の一程度しか埋まっていない。いない生徒たちは皆各々、学生食堂や部活棟、校庭で昼食を摂っているのだろう。壇上に吊り下げられた大型液晶パネルから、国営放送の今日の特種生物災害予報が流れている。
本日は畢宿五、アルデバランの力が弱まります。夜間の外出は極力控えてください。特に港湾地域、沿岸部にお住いの方は……
高等部に進んで一ヶ月。周りを見渡してみても、御幡ケイの知らない顔はほとんどなかった。当たり前だ。通っているのはトウキョウ圏立"い区"一般高等学校、中高一貫の公立一般校で、よほどの事情がない限り同じ顔ぶれのまま高等部に進級できる。かつては高等部、高等学校に進むには試験があったというけれど。
「受験、だっけか」
ケイは窓際の席で一人、弁当の肉団子を頬張りながら、父の昔話を思い出す。大海嘯の起きる前、今から30年前は、高等部はおろか中等部小等部、果ては幼稚園にまで試験があったらしい。子どもたちは皆、学力や将来の志望に合わせて学校を選び、試験を受け、その合否に時に喜び、時に落胆し、未来への道を歩んでいたという。
今は昔、の話である。
「なんやケーやん。毎度のことやが旨そな弁当やのー」
ケイが聞き慣れた声に顔を上げると、クラスメイトのタケヤが購買のメンチカツサンドとメロンパンを持って立っていた。彼はそのままケイの隣の空いた座席に座ると、パンを机に置いて、いただきますとばかりに音を立てて手を合わせる。
「昨日の店の残り物だよ」
肉団子と白米を飲み込んで言うと、ケイは中等部の頃からの付き合いになる友人を見た。ケイよりも10センチほど高い身長に、黒髪はハリネズミのようにツンツンに尖っている。顔と詰襟から覗く肌はよく日に焼けた褐色だ。家業を手伝っているのを、市場で目にすることも多かった。
ふと、ケイは訊いてみたくなった。
「タケヤはさ、市場に勤めるの?」
「まあ、そうなるかのー」
ほんの一瞬の間の後に、タケヤは答えると訊き返した。
「ケーやんはあれか、やっぱり食堂継ぐんか?」
「そう、なるかなあ」ケイもタケヤと同じように、ほんの一瞬だけ間を置いて、答えた。「嫌いじゃないしね、料理も配達も」
「ええやんええやん。ケーやんのメシ旨いし。嫁さんのあても心配ないんや、将来安泰やろ?」
にやにやと目を細める友人に、ケイはうざ絡みのエサを与えてしまったことを知った。しまったと思っても、もう遅い。
「何度も言ってるけど、メイハ……あの二人は妹みたいなもんだよ」
「お、メーやんのこと先に言いよったな?」
タケヤとの会話に、教室がわずかに静かになる。主に男子が耳をそばだてたのだ。メイハ、玖成メイハは隣の三組の女子生徒だ。幼い頃から彼女を知るケイが見ても、美少女ではあると思う。昔はもっと小さくて小汚くてやせぎすで男子みたいだったのに。
彼女との関係は、ケイが説明に最も苦慮することの一つだ。彼女とその妹のアヤハとは九歳の頃に出会って、それから中等部に上がるまで一緒に暮らして、今は別棟に暮らすものの朝夕の食事は一緒で。でも血のつながりは全くない。幸い仲は悪くない、のだと思う。
「二人とも僕なんかより優秀だからなあ。案外、今からでもキョウトの都立学校とか行けるかもしれない」
ケイが言うと、タケヤはそれはないないとばかりに右手をひらひら振って見せた。
「あーそれはないやろ。今の時点でワイやケーやんみたいんな汎人の通う一般の圏立校におるんやし」
この時代、その生まれ方の違いで人はおおよそ2種に分かたれた。胎児の時点で親の希望を受けた遺伝子調整処置を施され、遺伝子調整者として生まれる者がいる。その一方で、何の処置もなく生まれる普通の人間、汎人がいる。能力、体格、容姿、すべての面で、設計形質を発現させた遺伝子調整者は汎人を超える。優秀な形質を発現した子どもは、ニホン国家の特別保護対象となり、国の未来を担う人材として特別に予算を割かれて育成される。彼らが通う教育機関が、都立学校と呼ばれるものだった。建前上、その対象に遺伝子調整者と汎人の区別はないことになっていたが、純粋に能力のみで測られるため、実質的にほぼ遺伝子調整者のみが入学する教育機関となっている。
「いやでもさ、もっと良い場所が、もっと才能とか生かせる場所があるならさ……」
「行くわけないだろ。そんなモノ」
言い募るケイを遮って、不機嫌な少女の声が降ってきた。
ケイが声の主を見上げると、呆れかえった青い瞳と目が合った。メイハだ。ブレザーに赤のタイは高等部女子を、襟の一葉のバッヂは一年生を表す。純粋なニホン人のはずだけれど、切れ長の濃茶の瞳には青が混じり、光の角度によっては完全な青にも見える。ウルフショートの黒髪に、今や170センチを超えた彼女の身長―本人は168センチだと言い張るが―と彫の深めな美貌が相俟って、その容姿は異性も同性も惹きつけた。中等部時代、ケイが同輩先輩後輩から紹介してくれと頼まれたことも一度や二度ではない。
「そんなことより、ケイ、今日の店の手伝いを代わってくれないか?」
メイハの頼みに、ケイは珍しいな、と思った。見方によっては居候でもあるためか、彼女は御幡家の家業の食堂を手伝ってくれる。時給換算されて小遣いが増えるので実質バイトであり、けっこう喜んでやってくれていたと思う。
「どうしてさ? 今日は僕、休みのつもりだったんだけど」
「あー……」メイハは耳をすませる教室の男子陣を一瞥すると、少し居心地が悪そうに言葉を続けた。「放課後、二年の男に呼び出されててな」
あーなるほど、と今度はケイが言う番だった。メイハは見た目は高身長美少女なので、付き合えたらいいなと思う男子がまま出てくる。気に入った男の子がいれば付き合うのもありなんじゃない、今のうちだけよ、などとケイの姉のシグネは言うのだが。当の本人にその気は全くないらしく。
「放って帰りたいところなんだが、ああいうのは変に期待を持たせると面倒になるからな。きっちり断ってくるさ」
「しょうがないね」ケイは溜息をつく。「今日の手伝いは僕がやるよ」
「ワタシの借り一つってことにしておいてくれ。アヤハの迎えはワタシが行くよ」言うなり、メイハはひょいっとケイの弁当箱から肉団子を一つつまむと、自分の口に放り込んだ。「ン、なかなかいい出来だな。ケイならいい嫁になれるさ」
「メイハの弁当にも同じの入れたじゃないか」ケイは減ったおかずに憮然と言った。嫁になれる発言は気にせんのかいとか、あの二人距離感、近い近くない?とか周囲から聞こえた気がしたが無視した。「貸し二つだ」
「変なこと口走ってた罰さ」メイハは白く長い指に付いたソースを舐めとると、教室出口に向かって身を翻す。その瞬間、小さく吐息を漏らすように、ぽつりと。「ここより良い場所なんて、ない」
教室に戻る喧騒の中、そんな言葉が聞こえたような。
5月の昼休みの教室は、連休明けのどこか気の抜けた空気が流れていた。
高等部一年二組の教室の座席は、今は三分の一程度しか埋まっていない。いない生徒たちは皆各々、学生食堂や部活棟、校庭で昼食を摂っているのだろう。壇上に吊り下げられた大型液晶パネルから、国営放送の今日の特種生物災害予報が流れている。
本日は畢宿五、アルデバランの力が弱まります。夜間の外出は極力控えてください。特に港湾地域、沿岸部にお住いの方は……
高等部に進んで一ヶ月。周りを見渡してみても、御幡ケイの知らない顔はほとんどなかった。当たり前だ。通っているのはトウキョウ圏立"い区"一般高等学校、中高一貫の公立一般校で、よほどの事情がない限り同じ顔ぶれのまま高等部に進級できる。かつては高等部、高等学校に進むには試験があったというけれど。
「受験、だっけか」
ケイは窓際の席で一人、弁当の肉団子を頬張りながら、父の昔話を思い出す。大海嘯の起きる前、今から30年前は、高等部はおろか中等部小等部、果ては幼稚園にまで試験があったらしい。子どもたちは皆、学力や将来の志望に合わせて学校を選び、試験を受け、その合否に時に喜び、時に落胆し、未来への道を歩んでいたという。
今は昔、の話である。
「なんやケーやん。毎度のことやが旨そな弁当やのー」
ケイが聞き慣れた声に顔を上げると、クラスメイトのタケヤが購買のメンチカツサンドとメロンパンを持って立っていた。彼はそのままケイの隣の空いた座席に座ると、パンを机に置いて、いただきますとばかりに音を立てて手を合わせる。
「昨日の店の残り物だよ」
肉団子と白米を飲み込んで言うと、ケイは中等部の頃からの付き合いになる友人を見た。ケイよりも10センチほど高い身長に、黒髪はハリネズミのようにツンツンに尖っている。顔と詰襟から覗く肌はよく日に焼けた褐色だ。家業を手伝っているのを、市場で目にすることも多かった。
ふと、ケイは訊いてみたくなった。
「タケヤはさ、市場に勤めるの?」
「まあ、そうなるかのー」
ほんの一瞬の間の後に、タケヤは答えると訊き返した。
「ケーやんはあれか、やっぱり食堂継ぐんか?」
「そう、なるかなあ」ケイもタケヤと同じように、ほんの一瞬だけ間を置いて、答えた。「嫌いじゃないしね、料理も配達も」
「ええやんええやん。ケーやんのメシ旨いし。嫁さんのあても心配ないんや、将来安泰やろ?」
にやにやと目を細める友人に、ケイはうざ絡みのエサを与えてしまったことを知った。しまったと思っても、もう遅い。
「何度も言ってるけど、メイハ……あの二人は妹みたいなもんだよ」
「お、メーやんのこと先に言いよったな?」
タケヤとの会話に、教室がわずかに静かになる。主に男子が耳をそばだてたのだ。メイハ、玖成メイハは隣の三組の女子生徒だ。幼い頃から彼女を知るケイが見ても、美少女ではあると思う。昔はもっと小さくて小汚くてやせぎすで男子みたいだったのに。
彼女との関係は、ケイが説明に最も苦慮することの一つだ。彼女とその妹のアヤハとは九歳の頃に出会って、それから中等部に上がるまで一緒に暮らして、今は別棟に暮らすものの朝夕の食事は一緒で。でも血のつながりは全くない。幸い仲は悪くない、のだと思う。
「二人とも僕なんかより優秀だからなあ。案外、今からでもキョウトの都立学校とか行けるかもしれない」
ケイが言うと、タケヤはそれはないないとばかりに右手をひらひら振って見せた。
「あーそれはないやろ。今の時点でワイやケーやんみたいんな汎人の通う一般の圏立校におるんやし」
この時代、その生まれ方の違いで人はおおよそ2種に分かたれた。胎児の時点で親の希望を受けた遺伝子調整処置を施され、遺伝子調整者として生まれる者がいる。その一方で、何の処置もなく生まれる普通の人間、汎人がいる。能力、体格、容姿、すべての面で、設計形質を発現させた遺伝子調整者は汎人を超える。優秀な形質を発現した子どもは、ニホン国家の特別保護対象となり、国の未来を担う人材として特別に予算を割かれて育成される。彼らが通う教育機関が、都立学校と呼ばれるものだった。建前上、その対象に遺伝子調整者と汎人の区別はないことになっていたが、純粋に能力のみで測られるため、実質的にほぼ遺伝子調整者のみが入学する教育機関となっている。
「いやでもさ、もっと良い場所が、もっと才能とか生かせる場所があるならさ……」
「行くわけないだろ。そんなモノ」
言い募るケイを遮って、不機嫌な少女の声が降ってきた。
ケイが声の主を見上げると、呆れかえった青い瞳と目が合った。メイハだ。ブレザーに赤のタイは高等部女子を、襟の一葉のバッヂは一年生を表す。純粋なニホン人のはずだけれど、切れ長の濃茶の瞳には青が混じり、光の角度によっては完全な青にも見える。ウルフショートの黒髪に、今や170センチを超えた彼女の身長―本人は168センチだと言い張るが―と彫の深めな美貌が相俟って、その容姿は異性も同性も惹きつけた。中等部時代、ケイが同輩先輩後輩から紹介してくれと頼まれたことも一度や二度ではない。
「そんなことより、ケイ、今日の店の手伝いを代わってくれないか?」
メイハの頼みに、ケイは珍しいな、と思った。見方によっては居候でもあるためか、彼女は御幡家の家業の食堂を手伝ってくれる。時給換算されて小遣いが増えるので実質バイトであり、けっこう喜んでやってくれていたと思う。
「どうしてさ? 今日は僕、休みのつもりだったんだけど」
「あー……」メイハは耳をすませる教室の男子陣を一瞥すると、少し居心地が悪そうに言葉を続けた。「放課後、二年の男に呼び出されててな」
あーなるほど、と今度はケイが言う番だった。メイハは見た目は高身長美少女なので、付き合えたらいいなと思う男子がまま出てくる。気に入った男の子がいれば付き合うのもありなんじゃない、今のうちだけよ、などとケイの姉のシグネは言うのだが。当の本人にその気は全くないらしく。
「放って帰りたいところなんだが、ああいうのは変に期待を持たせると面倒になるからな。きっちり断ってくるさ」
「しょうがないね」ケイは溜息をつく。「今日の手伝いは僕がやるよ」
「ワタシの借り一つってことにしておいてくれ。アヤハの迎えはワタシが行くよ」言うなり、メイハはひょいっとケイの弁当箱から肉団子を一つつまむと、自分の口に放り込んだ。「ン、なかなかいい出来だな。ケイならいい嫁になれるさ」
「メイハの弁当にも同じの入れたじゃないか」ケイは減ったおかずに憮然と言った。嫁になれる発言は気にせんのかいとか、あの二人距離感、近い近くない?とか周囲から聞こえた気がしたが無視した。「貸し二つだ」
「変なこと口走ってた罰さ」メイハは白く長い指に付いたソースを舐めとると、教室出口に向かって身を翻す。その瞬間、小さく吐息を漏らすように、ぽつりと。「ここより良い場所なんて、ない」
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