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第七章 混沌浸食

合流 Ⅰ

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 調査団による観測結果により、奈落おとしの膨張速度は徐々に上がっている事が判明した。上下方向への膨張は無いものの、横方向へは地上の湾曲に沿って指数関数的に広がっている。このまま行けば、約2週間でジルバラント王国全土を、そしてひと月半とたたぬうちにこの世界全てを覆い尽くす事になるだろう。
 とはいえ、最初の3キロメートルを進むまでには3日以上かかる。1週間ですら14キロメートルといった所であろう。しかしこの遅さこそが最大の罠であった。宮廷魔術団長カミラと知識の女神の大司教モニカ、王国屈指の頭脳を持つふたりによる緻密な観測と計算によってタイムリミットが導き出されなければ、王国は取り返しがつかない程の時間を浪費していたに違いない。
 その日のうちに緊急招集がかけられ、魔獣暴走スタンピードに対する王室戦略会議は、そのまま奈落おとし対策へと舵を切る事となった。
 レジオナが観測した奈落おとし内部の情報は、ジークハルト王子には伝えられず、こっそりとモニカを通じて直接知識の女神の教皇へと伝えられた。情報の発信源として、得体のしれぬスライムよりは、知識の女神の教皇の方がはるかに信頼度が高い。いわば『虚空録』を使った資金洗浄ならぬ情報洗浄といった所である。
 モニカ自身は、会議を教皇に丸投げして、奈落おとしの観測を続けるため現地に残る事にした。知識の女神の教団としては、混沌浸食を実地で記録する者は絶対に必要である。けして面倒臭く退屈な会議に出たくないという理由だけではない。
 レジオナもそのまま現地でナナシたちを待つ事にする。調査団を王都クリンゲルへと運んだ黄金龍は、そのまま聖龍連峰へと帰る事となった。いちど聖龍連峰の龍種全体で奈落おとしの情報を共有せねばならない。連絡役は灼熱カーグルに押し付けたようだ。
 そして翌日の朝、ようやく魔獣と混沌の眷属の掃討を終えたナナシとキーラ、そして美強が奈落おとしの元へとやって来た。
 後から合流した3人は、奈落おとしの威容に目を見張る。これはどう見ても人類の手に余る代物であろう。あらかじめ『深淵を覗く者』の加護を受けていなければ、精神力に関しては常人並みのナナシなどは見ただけで正気を失ってもおかしくない。
 王国としても奈落おとしを完全に放置する訳にはいかず、監視の名目で十数名の先遣隊を灼熱カーグルに運んでもらっていた。奈落おとしの膨張速度を念頭に、ある程度の距離を置いて陣を設営していたものの、『深淵を覗く者』の加護を受けてなお奈落おとしを直視する事には忌避感があるようで、作業は遅々として進んでいない。


 鎧を脱ぎ、着流し姿になった“剣狼”羽生獣兵衛美強が、拾った小石に神気を込めて奈落おとしへと放る。何の抵抗もなく奈落おとしへと吸い込まれる小石を見て、美強はフンと鼻を鳴らし腕を組んだ。
「なんだこりゃ、レジオナが言うにはただの穴って話だが、まあ本当にそうらしいな。こいつは俺の出る幕じゃねえよ」
 美強の弱気な発言に、レジオナがふにゃふにゃと突っ込む。
「ええ~、天下の剣狼がそんなんでいいの~? なんかこ~、空間く~かんごと切っちゃうようなひっさつわざとかないん~?」
「次元流はなぁ、面白みがねえんだよな。どれ、壊れてもいい剣貸してみな」
「なんで~? おにきりだますくでい~じゃん」
「武器を惜しみゃあしねえが、壊れる事が分かってんのにいい武器を使うのは馬鹿馬鹿しいだろうが。ほれ、ある程度頑丈なら何でもいいからよ」
「しょ~がないにゃ~。武器屋のすみで雑につまれてて~いっぽん大銀貨いちまいで売ってそうな剣~」
 レジオナがふにゃふにゃと変な抑揚でしゃべりながら、ちょっとヨレヨレになってきた上着のポケットから鋼鉄製の剣を取り出す。言葉とは裏腹に、錆も浮いていなければ刃こぼれも無い、きちんと手入れされた剣である。
「およ、こりゃ存外悪くねえな。いいのか、こいつ折っちまって?」
「いいんよいいんよ~。っていうかさ~、本気でボロっち~のは~、そこの穴ん中へ捨てたばっかなんよね~」
 レジオナの言葉に、思わず吹き出す美強。
「ぶはは、やるじゃねえか! 混沌の使徒とやらをクズ入れ扱いたぁ恐れ入った。ついでに用足しもここでやっちまうか!」
「い~ね~、ナナシたんあたりの勢いならだめ~じ通ったりして~」
 大声で交わされる下ネタに、そのすぐそばで奈落おとしを見ていたナナシとキーラの目が合う。キーラの目線がナナシの股間へと移り、またナナシの顔へと戻って来る。無言のまま、キーラがくいっと顎で奈落おとしを指すと、ナナシの顔が一気に赤黒く染まった。
「いやいやいや、やんないからね! ほら、モニカが録画する気満々でそこに陣取ってるし!」
「おかまいなく」
 興味深い記録の予感に、抜け目なく絶好の録画位置に着いていたモニカが、ひらひらと手を振って放尿を促す。知識の女神の信徒としては、どんなに些細な攻撃データでも記録しない訳にはいかない。
 股間を抑えて後ずさるナナシに向かって、キーラが呆れたように声をかける。
「けっ、男なんだから立ちションくらい堂々とやりゃあいいじゃねーか。おめーのがいくら凶悪つったって、こちとらオークの一物いちもつなんか見飽きてんだよ。全く、あたいの股間はバッチリ拝んだくせに、自分だけ恥ずかしがってんじゃねーぞ」
「あっ、あれは事故だし! っていうか、股間見られたのこっちの方が多いよね!?」
「何言ってやがる、だったら裸見られた回数はこっちの方が多いっての! 好き放題あたいの裸見やがって、いつか責任取ってもらうかんな! てめー覚悟しとけよ!!」
 もはや痴話喧嘩のごとき言い争いをよそに、美強が何の変哲もない鋼鉄製の剣を構える。柄が長めに作られたロングソードを、右の肩口からさらに高く真っすぐに立てる、いわゆる蜻蛉とんぼの構えである。特徴的なこの構えこそ、次元流における基本的な構えであった。
 武芸百般を標榜する羽生心影流は、他流派の研究にも余念がない。戦場において初見殺しの技は最も警戒すべきものである。術理を解明し、可能ならば再現し己の物とする事は当然とも言えた。美強もまた、次元流の奥義である『万物万象ばんぶつばんしょう悉くことごとく斬払い候きりはらいそうろう』、略して『万悉斬ばんしつざん』を会得している。
 美強の全身に神気が満ち、それが構えた剣の刀身に集まった瞬間、美強の口から恐るべき音量の雄叫びが発せられた。
「けえええええええええええええええ!!」
 それはもはや音響兵器とも言えるほどの雄叫びであった。『深淵を覗く者』により引き上げられた精神耐性すら凌駕するその威力により、奈落おとしの監視として詰めていた数人の兵士が驚いて硬直し、ひとりは昏倒してその場でくずおれる。ナナシも思わず失禁しそうになるが、神域を超えた筋力を誇る尿道括約筋の働きにより何とか事なきを得た。
 雄叫びと共に打ち込まれた剣は、空間そのものを切り裂いて奈落おとしへと達する。しかし次元を超えて存在する奈落おとしを空間ごと切断する事は叶わず、その剣先は奈落おとしへと吸い込まれ消失してしまった。
 残心を取りつつ奈落おとしから距離を置いた美強は、刀身の切断面を見つめながらレジオナに言う。
「まあ予想通りの結果だぁな。神気をまとった斬撃でこれなら、無事に済むのは神骨金オリハルコン製の武器くらいだろうよ」
 美強の斬撃を抜かり無く録画していたモニカが、それを聞いて相槌を打つ。
「なるほど、神の骨たる神骨金オリハルコンは多次元に渡って存在するとされているから、奈落おとしの境界面によっても切断されない可能性はあるわ……これは試してみる価値がありそうね」
 神骨金オリハルコンの名称に、キーラも反応する。
「試してみるったって、そんなバカ高い代物どうやって調達すんだよ。それよりこう、またナナシを巨大化させて押しつぶさせるとかの方が現実的なんじゃねーの?」
 すっかりナナシを便利な攻撃手段であるかのように話すキーラに、レジオナがふにゃふにゃと突っ込む。
「うんにゃ、い~くらナナシたんでもさ~、生身で殴るのはおすすめしないんよ~。たぶんえねるぎ~体ごときゅ~しゅ~されるだけだし~」
 それを聞いて、奈落おとしの前でシャドーボクシングをしていたナナシがあわてて手を引っ込めた。この所、殴れば何とかなっていた相手が多すぎて、感覚が麻痺していたのかも知れないと反省するナナシ。それならばと、殴り方をちょっと工夫してみる。
「だったら空間ごと殴ってみるのはどうだろ? こうして……こう!」
 奈落おとしから少し離れて、眼前の空間そのものを押し出すように殴りつけるナナシ。空間自体を掴む感覚は、日頃の空中移動や山脈龍と対峙した時のの経験により慣れたものである。
 はたして、ナナシの放った拳は空間をたわませ、そのまま奈落おとし自体の形状にへこみを作る事に成功した。しかし空間が元に戻ると同時に、奈落おとしの形状も元に戻ってしまう。
 その様子を興味深く録画、観察していたモニカが所見を述べる。
「空間ごと切る技では何ともなかった奈落おとしが、ナナシの空間干渉では一応の影響を受けたのは興味深い所ね。これは神域すら超えた筋力の成せる現象かしら」
ぼんに負けるたあ、俺も焼きが回ったもんだ。とはいえ元に戻っちまうんじゃあ意味ねえか」
 美強が顎をさすりながら、若干悔しそうに言う。しかしモニカの見解は違った。
「干渉不可能だと思われていた奈落おとしに、ほんのちょっとでも干渉できる可能性が見えた事は大きいわ。後はこの可能性をどう生かすかよ。面白くなってきたわね」
「へへっ、さすがはウチらの皇帝サマだな。やっぱおめーはただもんじゃねーぜ」
「いいねいいね~、ま~たナナシたんのでんせつ塗りかえちゃう~?」
 キーラとレジオナもやんやとナナシを持ち上げる。だが当のナナシはどうすれば奈落おとしに効果的な攻撃が出来るのか、皆目見当もつかない。盛り上がる周囲に対し、おろおろするばかりのナナシであった。
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