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●強制イベント

星を見上げる夜②

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 コト。

 小さな音がした。何の衝撃もない。そろそろと目を開くと、驚くほど近くにヒダカの顔があって喉から空気が漏れ出た。

 彼の視線は僕の右下に逸れていて、つられて僕も視線を下ろす。ヒダカの左手が、テーブルの上にグラスを置いているところだった。

 さっきの音はこれだったのか。と気付いたとき、恥ずかしさに体が燃えるかと思った。

 ぼ、僕、今……。何……! 何をしたんだろう!

 思わずのけ後ろに下がりそうになった体を、ヒダカの両腕が引き寄せてきた。

「ぇ……」

 温かい。安心する匂いがする。部屋着の柔らかい質感が頬に押し付けられる。目の前がヒダカの服と短い襟足の黒でいっぱいになってしまった。

「ルメル……」

 聞いたことがないくらい、切羽詰まった声に名前を呼ばれてハッとする。宙に浮いていた両腕を、ゆっくりとヒダカの背中に回した。相手に伝わるか伝わらないかくらいの力を込める。

「ヒダカ……」
「俺は、グランパとグランマが大切だ」
「……そうだね」
「酷い目にあってるのを見て、冷静じゃなかった」
「当然だよ」

 ヒダカの両腕に力がこもる。必死な声が耳の側で訴える。

「ダメなんだ……! 二人の容態がよくなればよくなるほど、真っ赤だったあの部屋を思い出す……! 寝れば笑うあの女が出てくる。起きてても、気付いたら血が噴き出す瞬間が目の前に広がる。俺は、人を殺した。しかも、死んだ人間の肉を引きちぎって核を取り出したんだ……!」

 目の奥からグッと奔流が押し出してきそうなのを、必死にこらえた。僕が感情を表に出すところじゃない。苦しいのは彼だ。

 僕はさらに両腕に力を込める。

「いいんだよ……」

 首元にヒダカの呼吸がかかる。温かい。熱いくらいだ。

「言いたいこと、言って。全部受け止める。君は一人じゃない。君は間違ってない。……違う。間違っててもいいから、君が君のしたいことをした。それを悪いとは僕は思わない」
「俺は……! 人殺しだ……」
「そうだね。君は人殺しだ」

 背中に回る腕の力がさらに強くなる。かなり圧迫感があるけど、気付かないフリをする。

「でも、もし今あのときに戻れたとして、あの人を殺さないことを選んだとは思えない。きっと、ヒダカはまた、人を殺すよ」
「そんなこと……」
「君がしないなら、僕が殺した」

 耳の後ろから空気を飲み込む音がする。

「君がこんなに苦しむなら、僕が殺したっ! ヒダカ、君は優しいんだよ。好きな人を放っておけない。同類を殺すことを平気だと思えない。変な理由を付けて逃げることもできない。――だから、君は、間違ってない」
「お前が、何を言ってくれても、俺の罪は変わらない。ルメル、俺は……怖い」
「ヒダカ……」
「俺はっ……!」

 ガクンと体を離される。両肩に乗った手が強く握りしめてくる。皮膚と布が擦れる音がする。

「俺は、俺は……。俺は、怖いんだ……!」

 僕は何も言えなくなって、ヒダカのつむじを見つめる。微かに震える体を、もし妹たちなら、エルゥなら、セナなら。彼女たちならどうしたかな。なんて、つまらないことを考えた。

「ヒダカ……」

 恐る恐る右手を左手の上に乗せる。すぐにヒダカの左手が動いて絡み取られた。

 ギュッと両目を閉じた。

 抱きしめてあげたい。支えてあげたい。ずっと側にいたい。”私を”女の子として見て欲しい。好きだと言いたい――。

 目をゆっくりと開く。“僕は”ルメル・フサロアス。彼の腹心であり、親友だ。

「エイデン・ヒダカ・ヘンリット!」
「っはいっ!」

 急に名前を呼ばれて、ヒダカが反射的に背筋を伸ばす。

「君は誰!」
「スラオーリの勇者だっ!」
「君は何をした!」
「……ひとを、殺した……!」
「怖いのか!」
「……怖いっ!」
「抑えろ!」

 返事がない。もう一度言った。

「抑えろ!」
「はいっ……!」
「君の弱さは人を殺す! 君の恐怖は国を殺す! 君は、強くなきゃいけない……!」

 声が、掠れる。喉が張り付く。頬が大量の水で濡れる。目の奥が痛い。こんなに涙で濡れているのに。

 ごめん。ごめん、ヒダカ。なんで、君だったんだろうね。なんで、こんなに優しい子が勇者になんて選ばれたんだろう。ドロップの国ではこの国以上に同類殺しが重罪なんだって聞いたことがある。そんなに大変なことを、どうして女神は背負わせたんだろう。

 とうとうしゃくりあげてしまった。肩に乗った両手を振り落として両手で顔を隠す。

「……お前が泣くの、初めて見るかも」
「ヒッ、そう、だっ、け……?」
「泣きそうになったり、悔し涙浮かべてるのは何度も見たことあるけど、そんなにダバダバ泣いてんのは初めて」

 ダバダバ……。そう言われても仕方ないほど涙はさっきから溢れてきている。必死に両手の甲で擦っていると、そっと止められた。

「なに」
「目、腫れる」
「そうだ、けど……」

 分かっていても、止められるかどうかは別問題だ。確かに、こんなに泣くのはあの暗い部屋に閉じ込められた最初の頃くらいかもしれない。

「ルメル」

 ふいに強い口調で名前を呼ばれて、濡れた顔のままヒダカを見た。

「俺は人を殺したことを後悔してる。すげぇ怖いとも思ってる。きっとこれからも思い出す。何度も何度も思い出すし、神試合に行けばもっとたくさんの人を殺す。怖いよ。自分の意思で人を殺すことがこんなに怖いなんて知らなかった。多分、この先もずっと怖いと思いながら人を殺す」

「うん……」
「その内、慣れるのかもしれないし、一生慣れないかもしれない。でも、もし後悔したり、悩んだりしたら、また、俺の話を聞いてくれるか?」
「そのとき、僕が隣にいたら、絶対に」

 僕が言える限り、最大限の約束を口にする。

「いる。お前は、俺の……特別だ」

 ヒダカは、まるで当然だと言わんばかりの口ぶりで答えた。



 その日は同じ部屋で寝た。「今夜だけ弱音を吐かせてくれ」って寂しそうに言われてしまったら、嫌だなんて言えない。押しに弱いのは少し自覚してる。

 同じ部屋で一晩を過ごすなんて、なんだかドキドキしてしまう。初めてサピリルの森で過ごした夜以来だった。

「僕、ソファーで寝るね」
「んでだよ。こっちでいいだろ」

 ベッドに腰かけたヒダカが隣を手で叩く。顔が一気に熱くなった気がした。

 いくら男同士だと思っているからと言って、十八歳にもなって同じベッドというのはどうなんだろう。僕はヒダカ以上に親しい男友達がいないからその辺の通念が分からないけど、多分おかしいと思う。

 と言うか、普通に嫌だ。恥ずかしい。大きなベッドだし端と端で寝れば問題ないのかもしれないけど、そもそも好きな男と同じベッドなんて落ち着かない。

「えっと……僕はいいよ。体も小さいしね。ソファーで充分」
「そんなとこで寝たら腰痛くなるだろ」

 そりゃあそうだけど、そこじゃないでしょ。

「はぁ」
「んだよ」
「あのね、ヒダカ。この年になって同じベッドはないんじゃない?」
「別にいいだろ? 男同士なんだし」
「そういうことじゃ……」

 そこまで言ったとき、雲に隠れていたたくさんの星々が一斉に部屋を照らし出した。ヒダカの表情がはっきりと見える。ふざけているような口ぶりだったのに、今にも泣きそうな顔をしていて、何も言えなくなった。

「ルメル。ちょっと行儀悪いけどさ、こっちでもっと飲もうぜ? な!」

 隠すように笑顔を見せる姿を見るのがいたたまれなくて、僕はまた溢れそうになる涙を必死にこらえて「仕方ないなぁ」と笑顔を作った。
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