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第七章

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 順平は正月休みが終わってしばらくした頃、珍しく休日に監督から誘われて外出したことがあった。監督の運転する車でK市とY市の中間あたりに位置する閑静な住宅街にある一軒家を訪れると、白髪頭を短く刈り揃えた温厚そうな初老の男性が玄関先で出迎えた。
「おお、進。よく来たな。そっちが例の若いのか?」
、ご無沙汰しております。……順平、こちらは山崎さんだ。ご挨拶しなさい」
 特に何も説明されていなかったが、監督に促されて順平は素直に相手に向かって深々と頭を下げた。
「はっ。神崎順平と申します。以後、よろしくお願い致します」
 初老の男性は、だいぶ前に順平に身長を抜かされた監督よりもさらに背が低く、体つきも年相応に薄い印象だったが、話すと意外なくらいに、腹から出ている感じの力強い声を出すので、順平は少し驚いた。
「いやいや、そうかしこまらんでいい。楽にしていなさい。進、今日は道場のほうへも寄って行くんだろう?」
「はい、そのつもりで来ました」
 塵一つなく掃除の行き届いた和室に通されると、監督は奥にある仏壇に線香を上げて合掌した。順平もよくわからないまま、監督に従った。遺影には、いかにも穏やかそうなグレイヘアの女性がこちらを見て微笑んでいた。
 重厚なインテリアの応接室に戻った監督は、山崎と呼ばれた初老の男性としばらく世間話をして、その間、順平は黙って横に座っていた。部屋の中をこっそり見回すと、壁に掛けられた写真に見覚えのある旧式の濃緑の制服姿を見つけ、この老人(順平の若さからはそう見える)が、自分と同じ自衛隊に所属していたことがわかった。
 そう思ってよくよく見ると、順平は山崎という男性を知っているような気がした。といっても、直接面識があった、というわけではない。いつだったか定かではないが、隊舎の談話室のテレビで防衛関係の討論番組をやっていた時に、コメンテーターとして出演していた元陸上自衛隊幹部の男性と、目の前の人物がひどく似ているように思った。
 流し見した程度なのでうろ覚えだが、その時に紹介文に出ていた階級は、確か師団長だったか幕僚長だったか……とにかく、まだ尉官にもなっていない順平にとっては、雲の上と言うのも足りないほど、偉すぎて想像もつかない相手だということは確かだった。
 急に順平は、さっきの挨拶はあれでよかったのだろうか……? と不安になってきた。監督も人が悪い。元職とはいえ相手が陸自のとんでもなく偉い人だと知っていたのなら、そう言ってくれれば、あの場合は敬礼したほうがよかったのではないか?
 しかし、革張りのソファで隣に座って山崎と親しげに談笑している監督は、そんな偉い人と話しているという雰囲気では全くなく、むしろ、自分や鷹栖のような陸上部員が、普段の監督と話している時のような、丁寧ではあるが気安さを感じさせた。
 順平はふと、同僚が以前に話していたことを思い出した。山崎のような上級幹部が退職してテレビ等で発言することは、部隊の中にいる人間が言えないことを言ってもらうという意味で非公式ながら「広報の一環」と捉えられており、現職の隊員がそういう元職の有名人のために、わざわざ仕事として定期的に海外情勢の解説やレポート共有などを行っていると。
 それが中々の負担であったりもするらしいのだが、上下関係が絶対のものである自衛隊では、とにかくOBには頭が上がらないので、仕方なく慣習としてそういうことが秘密裏に続いているらしい、とも。
 たびたび防衛関係のテレビに呼ばれてコメントを求められるくらいだから、きっと部隊内でも影響力のある人なのだろう。そういう人物と、監督がこんな親しげに話せるような接点があるということが意外だったが、案外、昔の上司と部下とかの関係なのだろうか?
 しばらくすると、時計を見た山崎が監督に声を掛け、三人で連れ立って外出することになった。監督の運転する車で、山崎の家からそう離れていない場所にある複合施設の中に入っている武道場らしき室内に入ると、だだっ広い空間で柔道の乱取りの稽古をしていた若者らがいっせいに背筋を伸ばした。
「大先生、ご無沙汰しております!」
「ああ、邪魔するよ。気にしないで続けてくれ」
 監督はまた仕事の電話が掛かってきたのか、恐縮しながら山崎に断って外に出た。取り残された順平は、手持ち無沙汰に稽古に戻った道着姿の若者たちを眺めていた。
 と、その中から若先生と呼ばれている大柄な人物が進み出て来たのを見て、順平は思わず「あっ」と声を漏らした。そこにいたのは、去年のクリスマスに洋太の頼みでパン菓子を受け取りに行った、整体治療院の佐野とかいう眼鏡の大男だった。
「あれ……驚いたな。凄い偶然だね、順平君」
 今日は眼鏡ではなくコンタクトをしているらしい顔で、柔らかく微笑んで話しかけてきた佐野に、山崎が軽く驚いたように声を掛けた。
「何だ、君たちは知り合いか?」
「ええ、ちょっと知り合いの知り合いと言いますか……な? 順平君」
 こちらを見て悪戯っぽくウインクして見せた佐野に、順平はどう返したものか戸惑いつつ会釈した。この男は、この場所で自分の同性のパートナーのことをどこまで知らせているのだろうか? それがわからないので、自分も余計なことは言わないほうがいい、とひっそり思っていた。
 山崎が細身の体を揺するように豪快に笑うと、二人に向かって話しかけた。
「それなら都合がいいな。佐野君、ちょっとこの若いのに余ってる道着を貸してやってくれないか?」
「体験稽古ですか? わかりました。……順平君、こっちへどうぞ」
「え? はい……」
 順平はいまだに、自分がどうしてここへ連れて来られたのかわからないまま、促されて仕方なく借り物の道着に袖を通した。順平が着替えて戻ると、どこで着替えたのか、同じように道着姿の山崎が道場の中央に立っていて、順平を手招きした。
「神崎君と言ったか……部隊で格闘術はやっているだろう? どうだ、一つこの年寄りと手合わせしてみんか?」
 にこにこ笑いながらそう話す山崎に、順平のほうが内心で狼狽した。こんな小柄な老人を、一応は部隊の訓練で一通りの武道の心得はある自分が投げ飛ばしてしまって、本当に大丈夫なのだろうか? さすがに周囲が止めるのでは?
 しかし、佐野を含め道場の壁際に並んで正座した門弟たちは真剣そのもので注視しており、順平は断るタイミングを逸した。
(おいおい……こんなじいさん、大怪我してもオレは知らねえぞ。そっちから誘ったんだからな?)
 順平は内心でぼやくと、畳の上で挨拶して相手と向き合って構えた。佐野の合図で、両手を脇に垂らしたままの細身の老人に向かって一気に摺り足で距離を詰める。
 次の瞬間、順平は何故か武道場の天井を見上げて、一回転したまま勢いよく背中から畳に叩きつけられていた。
(え……?)
 かはっと息を吐いた後、何が起きたのか全く理解できず、順平は目を白黒させた。咄嗟に体を起こそうとした時、ひやりと冷たい刃先が喉元に突き付けられたような感覚があり、本能的に体を硬くした。
 畳からわずかに上体を起こそうとする体勢のまま、その場に凍り付いた順平の頭上から膝を少し落として、山崎が握った拳を順平の喉の辺りに突き付けている。そこだけ、自衛隊の格闘術で相手を制圧する時の姿勢のようで、順平はただ呆然と目の前の白髪の初老の男を見上げた。脇の下を冷たい汗が流れ落ちる。
 山崎の温厚そうに細められていた眼が、数瞬前まで予想もしなかったほど鋭く光り、薄く笑いながら順平を冷ややかに見下ろしていた。
「なるほど。君は、体のほうは随分と鍛えているようだ。まともに組み合ったなら私でも少々てこずるだろう。進は実に良い素材を守り切ってくれたな。……しかし、”中身”のほうはまだまだ弱い。もっと強くならなんといかんな」
「……っ」
 山崎が突きつけていた拳をゆっくりと下ろすと、順平はようやく息を吐いて体を起こした。ろくに組み合ってもいないのに、全力疾走した後のように心臓が激しく鳴っている。ちら、と順平は横目で白髪の老人を見上げた。
 完全に力を抜いて立っているだけの相手に対して、何故か順平はその時、はっきりと「この人には勝てない」と思った。
(さっきのが実戦だったら、オレはあの拳を振り下ろされた時点で、もう殺されていた……)
 腕には鳥肌が立ち、額にじっとりと汗をかいている順平を見ると、山崎が腹から響いて来る声で快活に笑った。
 順平の手を取って立ち上がらせると、向かい合って礼をし、固唾を飲んで見守っていた門弟たちに練習を再開するよう促す。
 まだ顔をこわばらせている順平を振り返ると、にっと笑って低い声で語り掛けた。
「そう怯えなさんな。単なる場数の違いだ。……私はこう見えて、海外の紛争地にも派遣されて何度も行っているんだよ。そこで、君のような眼つきをした若者を大勢見て来た。みんな、己の信じる”大義”のために軽々と命を投げ出そうとする連中だ」
「……」
「哀れなものだ。大切な何かを守る方法を、間違って教え込まれていた。……君は、そんな風にはなるなよ。いいか? 命を簡単に投げ出せることは、強さとは違うぞ」
「あの……オレに、何故そんなことを……?」
 山崎はすっかり元の温厚そうな初老男性に戻ってにこにこと笑っている。
「なあに、進がえらく気に掛けていたから興味が湧いてな……あいつはいい奴だろう? 本当に災害や事故から他人を助けたくて、自衛隊に入ってきた人間だよ。……しかし、君は”そっち側”じゃないよな?」
「え……」
「いい奴だが、進みたいな人間だけでは、本来戦うために存在する自衛隊という組織は、成立しない。君のように、時と場合によっては躊躇なく敵を攻撃できる人間も必要なんだ。しかし、もちろん”それだけ”でも駄目だ……理由はわかるな?」
「……いいえ……」
「自衛隊は、”守る”ために戦う組織だからだよ。最高度に鍛え上げ、研ぎ澄ませて、相手に攻める気をそもそも起こさせないような『抜かずの刀』であること――それが理想だ。日々の厳しい訓練は、そのためにあるものだ」
 ふいに山崎が口元から笑みを消し、真面目な顔になって順平を見つめた。
「君は、もっともっと強くならなければならない。それでいて、決してその力を無闇むやみに振るおうとしてはならないぞ。……忘れるな。自分の人生を、他人のそれと同じように大切に出来ない者は、何かを守ることなど出来はしないのだと」
 ちょうどそこへ、電話を終えて外から監督が戻ってきた。ここへ来る前と同じように、飄々ひょうひょうと笑いながら監督と談笑している細身の初老の男を見つめながら、順平は生まれて初めての強烈な敗北感を味わっていた。しかし、それは不思議と不快なものではなかった。
(確かに、オレは……もっと強くならないと。洋太をこの先もずっと、守れる男になるために……)
 着替えて道着を返した後、佐野が順平に話しかけた。
「道場のHPに毎月の稽古日が載せてあるから、気が向いたらまたおいでよ。じつは、しばらく前からショーンもここの門弟でね。君に会いたがってたから、話したら喜ぶと思うな」
「はあ……」
 順平は内心(オレは別に会いたくないが……)と思っていたが、顔には出さなかった。
 帰りの車の中で、監督は順平から大先生に稽古をつけられた話を聞くと、何故か上機嫌で、寄り道して昔のようにラーメンをおごってくれた。
 順平は忙しい監督とこんなに身近に接していられることが久しぶりで嬉しかったが。それと同時に、オレはこの人に、いつか全部ありのままに打ち明けて話せる日がくるのだろうか? と神妙な顔で考え込んでしまうのだった。
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