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第六章

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 順平は、鷹栖と話しているうちに、自分がどうやら取り返しのつかない勘違いから、洋太に酷い濡れ衣を着せていた上に、全く無意味な手荒い行為をしてしまったと気づいたが、とうに遅かった。
 ここへ来る前から、いや昨日の洋太の家から退出する時点で、順平は、もう自分が洋太に許してもらえるとは思っていなかったが。さらに相手には本当に何の落ち度もなかった事実が確定して、暗澹としていた。
(オレが馬鹿だった。疑って済まなかったと、洋太に謝りたいが……あいつはもう、二度とオレの顔なんか見たくもないだろうな……)
 まるで、自分の人生そのものが終わってしまった気持ちで、それなら、せめてこれから先、洋太がこれ以上誰にも傷つけられることがないように……そう思って、鷹栖を道連れにしようと考えていたのだが。今となっては全てが虚しかった。
「……おい、順平。聞いてるのか?」
 脳内麻薬でも出ていたせいか、昨夜から全く眠れていなかったので頭がぼんやりしかけていた順平は、鷹栖から呼びかけられて、ハッ? となった。
「え? は、はい。何でした……?」
「チッ。お前なあ、自分の心配事が消えたからって、露骨にボケーっとしてられんのも今のうちだぞ」
「はあ……?」
 鷹栖が咳払いして、再び大真面目な顔で順平に問いかけた。
「オレがお前に訊きたいのは一つだけだ。……お前、あの姉弟きょうだいの””が誰か知った上で、弟とつき合ってるのか?」
「……え? 父親って……確か昔、離婚して、家を出て行った人ですよね……?」
 はーっ……と、鷹栖が秀麗な額を指で押さえて深い溜息をついた後、渋い顔をしながら、おごそかに順平に告げた。
「いいか、落ち着いて聞けよ? あの姉弟の父親は……うちの陸上部の監督だ」
「……」
 情報が脳に伝わり反応が返って来るまでに数秒を要したが、意味を理解した瞬間、順平は心底驚いて、両目が点になるほど大きく見開いた。あんぐり開いた口が何事か言うように動いているが、うまく声が出ていない。
「え、えっ……? えええぇ……?!」
「やっと事の重大さを理解したか……。しかし、もっと早く気がついてもよかったよな。監督の名前は荻谷おぎたにすすむで、同じ”荻谷”なんだからさ」
 順平はずっと監督のことは単に「監督」としか呼んでこなかったので、例えば小さい子供が父親のことを「パパ」とばかり呼んでいて、下の名前を忘れてしまうように、完全に本当の名前を失念していた。部隊の制服には名札もついていたが、練習中はジャージとかを着ていることが多かったので、そのせいもあるが。
「そ、そんな……ええ……監督の?……そんなことが……?」
「で、どうなんだ? お前、あの人に言えんのか? 『息子さんを下さい』って」
 尊敬する監督に、息子とそういう関係です、と告げる場面を想像して、順平は顔面蒼白になった。結婚も、婚約もしていないうちから、体の関係を持って、しかも先日は無理強いまで……とてもじゃないが、面と向かって言えることではなかった。
 激しく動揺した順平だったが、あることに気づいて怪訝そうに鷹栖のほうを見た。
「あれ……でも、子供の名字……? 確か、”婿むこ”だって……?」
 鷹栖が少し物憂げな表情になって、話題を受け取った。
「ああ……そのせいで、あそこの家ちょっと複雑なんだよ。第一に、周りから婿入りしたと思われてるけど、実は違うんだ。正式な『婿養子』じゃないから、法律的には、ただ単に結婚して嫁さんの実家で一緒に住んでるだけの家族、てことなんだと」
「え……?」
「以前、不動産屋の営業を装って周辺で聞き込みしたことがあってな。ご近所の奥様方が何でもペラペラ教えてくれたよ」
(聞き込みって……何でそんなことを? この人、やばい人なんじゃないか……?)
 順平が軽く引きながら見ている目つきに気づかず、鷹栖が続ける。
「お前も知ってる通り、オヤジは若い頃、自分の地元が大きな自然災害にあって家族全員を亡くしてるからな。人の仲介で見合いすることになったが、自分が寺の跡継ぎとして婿入りすると、実家の名字の最後の一人がいなくなる……っていうんで最初は難色を示してたらしい。そこを、父娘おやこともよほど気に入っちまったんだろうなあ……名字はそのままでいいからって、奥さん側の強い希望で縁談を進めたんだそうだ」
 鷹栖はダッシュボードから煙草を取り出すと、長い指で一本取り出し、火をつけないまま咥えながら、どこか遠くを見るような眼をした。
「結婚して何年かは、凄く幸せそうだったらしいよ。可愛い二人の子供もいて、絵に描いたような仲良し家族で。でも、先代のじいさんが心臓の病気を患って、すぐどうこうってものじゃなかったが、不安になったのかもな。やっぱり名字も変えて、正式に婿養子になって、早く寺の跡継ぎとして修業を始めて欲しい、って言ったらしいんだ。ちょうどオヤジは自衛隊内で陸上の選手から指導者に転身した時期でな……」
 順平は、洋太の母親が見せてくれた、愛らしい笑顔で幸せそのものの写真に写った姉弟を思い出した。あの笑顔の裏側で、父である監督が置かれていた立場を想像してみることは、まだ若い順平には難しかった。
「結局、仕事と家庭の間で板挟みになって、さんざん悩んだ挙句――あの人がは、お前も知ってる通りだ。あの当時も、世間の不況のあおりを喰って、自衛隊でも経費削減名目で陸上とかのスポーツ活動が縮小されそうになってた。それをオヤジ達が必死で上に掛け合って、現在の規模を何とか維持したらしいからな。もしあの人が自分の家庭の幸せのほうを優先していたら、陸上部はもっと違う形になっていて、ひょっとしたらオレもお前も、ここにはいなかったのかもな……」
 ハンドルの上で煙草をトントンと小さく動かしている鷹栖の白くて長い指を黙って見つめながら。順平は、自分に人間らしい生活を与えてくれた監督と、居場所である陸上部の存在が、何よりも大切に思う洋太の家族の”悲しみ”の上にあったことを初めて知らされて、静かな衝撃を受けていた。
 出会った頃、出て行った父親のことを話す時の洋太の寂しげな顔がよみがえった。
(オレは……子供の頃からずっと自分だけが色々なものを奪われてきたのだと、そう思いこんで世の中を恨んでいた。まさか自分自身が、誰かから大事な何かを奪う側にいたなんて、考えもしなかった……それも、あの洋太の家族から愛する父親を……)
「オヤジのしたことは、あっちの親族にしてみたら恩知らずな所業だったんじゃねえのかな。名字のこととか、そこまで譲歩してやったのに、結局は正式に婿養子になるどころか離婚することになっちまったし。一人で出て行くのも順当じゅんとうっつうか……」
 鷹栖が再び火のない煙草を口に咥えると、頭の後ろで腕を組んでシートに深く寄り掛かった。
「あの家の奥さん、姉弟の母親な。自分だけ籍を抜いて、元の二階堂って姓に戻ったんだが。あの人が、離婚後しばらくしてから毎年寒くなる前に、オヤジに冬用の肌着を送ってくれるらしいんだ。オヤジも義理堅い男だから何か御礼をと思ったらしいんだが。好きな花を贈ろうにも武骨者でよくわからなかったらしくて、オレにこっそり相談してきた。それ以来、オレがオヤジの代わりに毎年クリスマスに、鉢植えの花を届けてるんだよ。この前見たら、駐車場で寄せ植えになってたな……」
 あの上品な、くすんだピンク色の花か……と思って、順平はクリスマスの日の幸せな記憶を思い出し、また胸が痛んだ。
「そういうわけで……オレはもう何年も前から、あの家族とは顔見知りだ。もっとも奥さん以外には、途中まで”花屋のお兄さん”だと思われてたらしいけどな。たまたま昨日は、で訪問して、弟から裏の水道管が凍ったから見てくれって言われて……この辺りは、北国のオレの地元と違って水抜き栓とかないからな。古い布でも巻いておくといいって教えたりしてたんだ。……どうだ、納得したか?」
「はい……。あの、個人的な用事とは何でしょうか?」
 他のことで打ちのめされていたので、やや放心しながら何気なく順平がした質問に、鷹栖が急に眼を泳がせて言葉を濁した。
「あ? ……そりゃあ、お前……別にオレのことはいいんだよ……」
「……?」
「そんなことより順平、自分のほうの心配をしろっての。……オレと浮気したと思い込んで、無実の弟に無体むたいなことしたりしてねえだろうな?」
「うっ……」
 深刻に落ち込んだ顔をした順平を見て、鷹栖が頭が痛いという風に額を押さえた。
「あっちゃー、やっちまってたか……じゃあ仕方ねえな。いいか? 正直に全部話して、土下座して謝れ。それしかねえ」
「でも……許してもらえるとは……」
「あのな。傷つけられた相手が”許す”ことなんかねえんだよ。……こんなどうしようもない馬鹿で、欠けてるところだらけの奴だけど、それでも一緒にいたい、と思ってもらえるかどうかだ。まあ、せいぜい頑張るんだな……」
「……はい……」
 鷹栖からそう励まされても、順平には何と言って洋太にびればいいのか、まだ考えることが出来なかった。あの夜、自分のしたことがあまりにも酷くて、正視したくなかったというのもある。それでも、会いたい気持ちはまだ胸の奥にくすぶっていた。
(オレが、本当に洋太の前に、また姿を現す資格があるかどうかはわからないが……しでかしたことを謝っておきたい。洋太を傷つけてしまった、オレの愚かさとか弱さとかを、きちんと自分で認めて乗り越えなければ……もう一緒にはいられない……)
 監督が洋太の父親だった、という事実にしても、そうだ。今回のことがなくても、まだ自分には、正直に全てを打ち明けて洋太との仲を正式に認めてもらう勇気は持てなかっただろう。
(自分がもっと強くならなければ、また大切な洋太を傷つけてしまうことになるかもしれない……どうすればいいか、考えないと……)
 会話の後、鷹栖にカッターとボールペンを返してもらい、丁重なお詫びと挨拶をして別れた順平は凍てついた冬の星を見上げながら、車の少なくなった駐車場から隊舎のほうへ歩いて戻って行った。
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