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第四章
05-3
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「順平……?」
さっきから横を向いて黙り込んだままの順平に、洋太が心配そうに声を掛けた。
その声に、順平はゆっくりと顔を洋太のほうへ振り向かせると、穏やかな眼差しで洋太の、夕空を映して澄んだ明るい茶色の眼を見つめながら静かに話し始めた。
「洋太……もし今日が最後になるとして、後悔したくないから、お前に言っておく」
急に改まった口調で言われて、少し驚いた顔をした洋太だったが、神妙に頷いた。
「うん……」
「オレは、お前が好きだ」
その瞬間、洋太が息を止めて、わずかに目を見開いた。
「”友達”としてじゃない。……わかるな? つまり、そういうことだ……」
順平にとっては永遠のように長い数秒間、洋太が黙ったままこちらを見つめた後で、止めていた息をゆっくり吐き出しながら顔を正面に向けた。
周囲には風に揺れる蓮の葉のさわさわというかすかな音と、遠くから奉納神事の舞の風流な音曲の調べが響いていた。
(終わった……これで、何もかも本当に終わったんだ……。もう二度と、会うこともないだろう……。これでやっと、洋太は安全だ)
奇妙に凪いだ、晴れ晴れした気持ちで、順平が目線を足元に落とした。順平本人が、古い漁師町の、恋愛といえば男女のもの以外に考えられないという伝統的な規範の中で育ったからこそ、自分の想いが受け入れられるはずがないと確信していた。
それでも、ずっと胸の奥に抱え込んで押し殺し続けてきた想いを、最後に自分自身の言葉で洋太に伝えることが出来て、順平は満足だった。……これで二人が友人関係ではなくなって、もう会わなくなるのなら、いっそ本望というものだった。
空と同じ薄紅色に染まった蓮池の葉のさざ波を黙って眺めていた洋太が、ようやく口を開いた。
「……あの海水浴場での事故の後。オレ、ずっと、お前のこと考えてたんだ」
「え……?」
もう話は完全に終わったと思っていた順平は、何気ない調子で話し始めた洋太に、少し面食らった。
「色んな人が、いっぱい見舞いに来てくれて。嬉しかったけど……でも考えてたのは、ずっとお前のことばかりだった。今はどこで何をしてるんだろう? って……」
メッセージアプリを無視し続けていたことを思い出して順平が青くなったが、洋太は気にせず話し続けた。
「会いたかったんだ、お前に。以前みたいに会って、たくさん話して、一緒に美味いもの食ったり、楽しいことしたかったから……でも全然、お前と連絡が取れなくて。もしかして、お前がもう除隊してたり、遠くへ行ってしまったんだとしたら……」
そこで、洋太が伏し目がちになって長い睫毛を震わせた。かすかな声で
「もう会えないのかも知れないって、そう思ったら……そんなの、絶対嫌だ! って思ったんだ……」
「洋太……」
済まなそうに、いたわるように声を掛けた順平に、洋太が向き直って、はっきりとした口調で言った。
「オレは! お前にあの時”人工呼吸”されたって聞いても、嫌じゃなかったから!」
予想外の言葉に、一瞬ぽかんとして洋太を見つめていた順平だったが。少しの間を置いて、恐る恐る洋太に問いかけた。
「ええと、洋太……? その……それは、つまり……?」
真正面から向き合っていた二人の間で、不思議な沈黙が流れた後。突然、洋太の顔が、ボフンッと湯気が出そうな勢いで真っ赤になった。
「バ、バカ‼ わかれよ、さっきので! ……オレも順平のことが、好きだって言ってんの!」
「えっ……え……?!」
完全に理解が追い付かないという様子で、普段の落ち着きっぷりとは別人のようにおろおろしている順平に、洋太が赤くなったままの顔で恥ずかしそうに言った。
「だって、ほら……人工呼吸ってあれだろ……キ……キス……みたいにするやつだろ? 男同士でそんなのされたら、普通は気持ち悪いのかなって思ったけど。でも、相手が順平だって思ったら、オレは全然、嫌じゃなかったから……それで、あれ? って思って……」
次第に、洋太の言っている意味が理解出来始めて、戸惑ったような順平の顔も見る見る赤くなって来る。
「それで……今日、順平の話を聞いてたら、ああ、そうだったのか。ずっとそれを、オレに言いたかったのかって……で、オレも、順平に同じことを言いたかったのかも知れないって、そう思って……」
「洋太、もういい……もう、わかったから……」
順平が必死でなだめるように洋太に言う。二人で真っ赤な顔をしながら向かい合って立っていると、順平は急に笑いがこみ上げてきた。ここへ来るまで、あれほど深刻に思いつめていたのが嘘みたいだった。……よかった、と心から思った。
笑い出した順平に、洋太がまだ赤い顔でむくれたように言いながら、ついに自分も吹き出してしまった。
「何だよ……人が真面目に”告白”してるのにー!」
「悪い……そうじゃないんだ、嬉しくて……まだ信じられないくらいだ……」
そこまで言って、順平が急に腰から崩れ落ちるようにして地面にしゃがみこんだ。そのまま深く深く息をついている。
「わっ? ど、どうした順平……?」
「ああ―……よかった……本当に、夢じゃないんだよな?」
そのまま俯いて両腕で顔を覆っている順平の隣に、洋太が同じようにしゃがみ込んで、小さな声で語り掛けた。
「……まだ信じられないなら、試してみるか?」
「えっ?」
「ほら……ほ、本物の……キス……してみるか? って、そう言ってんだよ!」
また赤くなってパッと立ち上がった洋太を、追いかけるように順平もあわてて立ち上がる。
「い、いいのか……? 洋太……本当に、キス、しても……? だ、大丈夫か?」
「大丈夫だってば! 前にやったことあるし! ……男は初めてだけど」
「そうか……前にやったのか……」
少しがっかりした顔で順平がぼそぼそと呟くと、洋太が焦って「だから男は初めてだって!」と弁解している。
周囲はすっかり夕焼けが終わって、映画用語で”マジックアワー”と呼ばれる薄暮の時間に入りつつあった。
「ほら、どうするんだ? 結局、キス、するのかしないのか?」
洋太がまだわずかに頬を染めながら順平の前に仁王立ちになった。順平が神妙な顔で丁重にお願いする。
「したい……いや……さ、させて欲しい、です……」
「よろしい。ほんじゃあ、ん」
そう言って、照れ隠しのように、洋太が顎を少し上げて両目を瞑った。
順平はこの短い時間の超展開がまだ信じられないという表情で、それでも、恋しい洋太が目の前で”キス待ち”顔で立っているのを、素通りなど到底出来なかった。
夢の中では、あれほど濃厚なディープキスを何度もしてきたというのに、生まれて初めての現実の「好きな人」とのキスが、これほど緊張するものだとは、順平は想像もしていなかった。これなら実弾射撃訓練のほうがはるかにリラックスして出来た。
震える両手で洋太の肩をそっと掴むと、眼を閉じたまま、洋太が独り言のように呟いた。
「人工呼吸って、肺が膨らむくらい、息を吹き込むんだろ?」
「ああ……そうだ……」
「だったらさ、オレの肺の中のどっかに順平の息が、まだ残ってるかもしれないな」
ぱち、とそこで目を開けて洋太が笑いかけた。順平がずっと恋しくてたまらなかった、あの大輪のひまわりの花が咲くような笑い方で。
「本当に残ってるかどうか、確かめてみるか……?」
順平が、洋太の顔を見つめてうっとりと眼を細め、意外に長い睫毛を伏せながら、急に低くて甘い声で囁いた。
洋太が驚いて目を見張っている間に、ゆっくりと順平の顔が近づいてきて、日焼けした男らしい唇と、ぷっくりした紅い唇がそっと触れ合った。
顔を離した順平が、またセクシーな低音の声で洋太に問いかける。
「……どうだ? 残ってたか?」
はっとして、戸惑うように頬を赤く染めた洋太が、小さな声で答えた。
「わ、わかんないや……もうちょっと確かめたら、わかるかも……?」
「そうか……もう一度、だな……」
順平は、今度はしっかり体ごと洋太を逞しい腕の中に抱き寄せながら、さっきよりも強く、長く唇を押し当てた。
息継ぎするために一瞬、唇が離れたが、すぐに互いの目線が熱っぽく絡み合うのとシンクロするように、より深く、甘美な蜜を味わうようにして何度もキスを重ねた。
次第に夜の気配が濃くなって行く景色の中、藍色の空を背景にして、一つの影絵のように密着した二人の姿が、揺れる蓮の葉の影とともに浮かび上がっていた。
さっきから横を向いて黙り込んだままの順平に、洋太が心配そうに声を掛けた。
その声に、順平はゆっくりと顔を洋太のほうへ振り向かせると、穏やかな眼差しで洋太の、夕空を映して澄んだ明るい茶色の眼を見つめながら静かに話し始めた。
「洋太……もし今日が最後になるとして、後悔したくないから、お前に言っておく」
急に改まった口調で言われて、少し驚いた顔をした洋太だったが、神妙に頷いた。
「うん……」
「オレは、お前が好きだ」
その瞬間、洋太が息を止めて、わずかに目を見開いた。
「”友達”としてじゃない。……わかるな? つまり、そういうことだ……」
順平にとっては永遠のように長い数秒間、洋太が黙ったままこちらを見つめた後で、止めていた息をゆっくり吐き出しながら顔を正面に向けた。
周囲には風に揺れる蓮の葉のさわさわというかすかな音と、遠くから奉納神事の舞の風流な音曲の調べが響いていた。
(終わった……これで、何もかも本当に終わったんだ……。もう二度と、会うこともないだろう……。これでやっと、洋太は安全だ)
奇妙に凪いだ、晴れ晴れした気持ちで、順平が目線を足元に落とした。順平本人が、古い漁師町の、恋愛といえば男女のもの以外に考えられないという伝統的な規範の中で育ったからこそ、自分の想いが受け入れられるはずがないと確信していた。
それでも、ずっと胸の奥に抱え込んで押し殺し続けてきた想いを、最後に自分自身の言葉で洋太に伝えることが出来て、順平は満足だった。……これで二人が友人関係ではなくなって、もう会わなくなるのなら、いっそ本望というものだった。
空と同じ薄紅色に染まった蓮池の葉のさざ波を黙って眺めていた洋太が、ようやく口を開いた。
「……あの海水浴場での事故の後。オレ、ずっと、お前のこと考えてたんだ」
「え……?」
もう話は完全に終わったと思っていた順平は、何気ない調子で話し始めた洋太に、少し面食らった。
「色んな人が、いっぱい見舞いに来てくれて。嬉しかったけど……でも考えてたのは、ずっとお前のことばかりだった。今はどこで何をしてるんだろう? って……」
メッセージアプリを無視し続けていたことを思い出して順平が青くなったが、洋太は気にせず話し続けた。
「会いたかったんだ、お前に。以前みたいに会って、たくさん話して、一緒に美味いもの食ったり、楽しいことしたかったから……でも全然、お前と連絡が取れなくて。もしかして、お前がもう除隊してたり、遠くへ行ってしまったんだとしたら……」
そこで、洋太が伏し目がちになって長い睫毛を震わせた。かすかな声で
「もう会えないのかも知れないって、そう思ったら……そんなの、絶対嫌だ! って思ったんだ……」
「洋太……」
済まなそうに、いたわるように声を掛けた順平に、洋太が向き直って、はっきりとした口調で言った。
「オレは! お前にあの時”人工呼吸”されたって聞いても、嫌じゃなかったから!」
予想外の言葉に、一瞬ぽかんとして洋太を見つめていた順平だったが。少しの間を置いて、恐る恐る洋太に問いかけた。
「ええと、洋太……? その……それは、つまり……?」
真正面から向き合っていた二人の間で、不思議な沈黙が流れた後。突然、洋太の顔が、ボフンッと湯気が出そうな勢いで真っ赤になった。
「バ、バカ‼ わかれよ、さっきので! ……オレも順平のことが、好きだって言ってんの!」
「えっ……え……?!」
完全に理解が追い付かないという様子で、普段の落ち着きっぷりとは別人のようにおろおろしている順平に、洋太が赤くなったままの顔で恥ずかしそうに言った。
「だって、ほら……人工呼吸ってあれだろ……キ……キス……みたいにするやつだろ? 男同士でそんなのされたら、普通は気持ち悪いのかなって思ったけど。でも、相手が順平だって思ったら、オレは全然、嫌じゃなかったから……それで、あれ? って思って……」
次第に、洋太の言っている意味が理解出来始めて、戸惑ったような順平の顔も見る見る赤くなって来る。
「それで……今日、順平の話を聞いてたら、ああ、そうだったのか。ずっとそれを、オレに言いたかったのかって……で、オレも、順平に同じことを言いたかったのかも知れないって、そう思って……」
「洋太、もういい……もう、わかったから……」
順平が必死でなだめるように洋太に言う。二人で真っ赤な顔をしながら向かい合って立っていると、順平は急に笑いがこみ上げてきた。ここへ来るまで、あれほど深刻に思いつめていたのが嘘みたいだった。……よかった、と心から思った。
笑い出した順平に、洋太がまだ赤い顔でむくれたように言いながら、ついに自分も吹き出してしまった。
「何だよ……人が真面目に”告白”してるのにー!」
「悪い……そうじゃないんだ、嬉しくて……まだ信じられないくらいだ……」
そこまで言って、順平が急に腰から崩れ落ちるようにして地面にしゃがみこんだ。そのまま深く深く息をついている。
「わっ? ど、どうした順平……?」
「ああ―……よかった……本当に、夢じゃないんだよな?」
そのまま俯いて両腕で顔を覆っている順平の隣に、洋太が同じようにしゃがみ込んで、小さな声で語り掛けた。
「……まだ信じられないなら、試してみるか?」
「えっ?」
「ほら……ほ、本物の……キス……してみるか? って、そう言ってんだよ!」
また赤くなってパッと立ち上がった洋太を、追いかけるように順平もあわてて立ち上がる。
「い、いいのか……? 洋太……本当に、キス、しても……? だ、大丈夫か?」
「大丈夫だってば! 前にやったことあるし! ……男は初めてだけど」
「そうか……前にやったのか……」
少しがっかりした顔で順平がぼそぼそと呟くと、洋太が焦って「だから男は初めてだって!」と弁解している。
周囲はすっかり夕焼けが終わって、映画用語で”マジックアワー”と呼ばれる薄暮の時間に入りつつあった。
「ほら、どうするんだ? 結局、キス、するのかしないのか?」
洋太がまだわずかに頬を染めながら順平の前に仁王立ちになった。順平が神妙な顔で丁重にお願いする。
「したい……いや……さ、させて欲しい、です……」
「よろしい。ほんじゃあ、ん」
そう言って、照れ隠しのように、洋太が顎を少し上げて両目を瞑った。
順平はこの短い時間の超展開がまだ信じられないという表情で、それでも、恋しい洋太が目の前で”キス待ち”顔で立っているのを、素通りなど到底出来なかった。
夢の中では、あれほど濃厚なディープキスを何度もしてきたというのに、生まれて初めての現実の「好きな人」とのキスが、これほど緊張するものだとは、順平は想像もしていなかった。これなら実弾射撃訓練のほうがはるかにリラックスして出来た。
震える両手で洋太の肩をそっと掴むと、眼を閉じたまま、洋太が独り言のように呟いた。
「人工呼吸って、肺が膨らむくらい、息を吹き込むんだろ?」
「ああ……そうだ……」
「だったらさ、オレの肺の中のどっかに順平の息が、まだ残ってるかもしれないな」
ぱち、とそこで目を開けて洋太が笑いかけた。順平がずっと恋しくてたまらなかった、あの大輪のひまわりの花が咲くような笑い方で。
「本当に残ってるかどうか、確かめてみるか……?」
順平が、洋太の顔を見つめてうっとりと眼を細め、意外に長い睫毛を伏せながら、急に低くて甘い声で囁いた。
洋太が驚いて目を見張っている間に、ゆっくりと順平の顔が近づいてきて、日焼けした男らしい唇と、ぷっくりした紅い唇がそっと触れ合った。
顔を離した順平が、またセクシーな低音の声で洋太に問いかける。
「……どうだ? 残ってたか?」
はっとして、戸惑うように頬を赤く染めた洋太が、小さな声で答えた。
「わ、わかんないや……もうちょっと確かめたら、わかるかも……?」
「そうか……もう一度、だな……」
順平は、今度はしっかり体ごと洋太を逞しい腕の中に抱き寄せながら、さっきよりも強く、長く唇を押し当てた。
息継ぎするために一瞬、唇が離れたが、すぐに互いの目線が熱っぽく絡み合うのとシンクロするように、より深く、甘美な蜜を味わうようにして何度もキスを重ねた。
次第に夜の気配が濃くなって行く景色の中、藍色の空を背景にして、一つの影絵のように密着した二人の姿が、揺れる蓮の葉の影とともに浮かび上がっていた。
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