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第四章

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 梅雨明け早々に夏日が連続し、例年エアコンの効きの悪い隊舎に苦情が出始める頃。とある日の昼に、順平が一人でざわついた隊舎の広い食堂で昼食を取っていた。
 自衛隊の施設は順平の所属するT駐屯地に限らず、どこも似たり寄ったりで、一昔前の学校と病院の建物からあらゆる装飾をはぎ取った殺風景な箱という印象だった。
 これは国民の血税で運営されている組織であるがゆえに、必要最低限の居住性さえ確保されればよい、という設計思想に基づいて作られているためだ。
 特に陸自は、三兄弟の”次男と三男”である海と空が高価な兵器関連で莫大な予算を食ってしまうこともあり、”長男”でありながら長年とぼしい予算でのやり繰りを強いられていた。
 建て替えの費用を捻出できず、ごく最近まで戦後すぐの時代の博物館級に古い施設を現役で使い続けていた駐屯地が何カ所もあるほどだった。
 同様に、自衛隊内における「食事」も、食べる楽しみや満足感を得るためのものでは決してなかった。
 栄養バランスや、カロリー計算こそ一応は配慮されているものの、役所関連の入札にありがちな、一円でも安い見積もりを出した給食業者が受注することになるので、薄くて具の少ない味噌汁や、あまり風味のよくない米飯、古い油っぽい味の揚げ物など……お世辞にも美味いとは言えないが、かさはあるので腹はふくれる、という刑務所の食事のようなメニューが毎食提供されていた。
 これでも、温かいものが温かく食べられるだけ、大規模な演習中に各自支給される”戦闘糧食レーション”よりはマシなのかも知れない。
 缶詰やパック入りの冷たい食料品は、かなり研究されて食味が向上しているとはいえ、やはり野外の土の上に座って疲労した体で掻き込む時は、何とも言えない侘しい気持ちにさせられる。美味い飯は兵の士気に関わるというのは、一面の真実だった。
 順平自身は、幼い頃から貧しい環境で育ち、その時、手に入る範囲で食えるものを食う、という暮らしに慣れていた。逆に自衛隊に入って初めて「他人が作ってくれる三度の飯」というものにありついて、その楽さに感動したものだった。
 味についても、比較の対象をほとんど持たなかったので、特に不満を抱いたこともなかった。同僚などはしょっちゅう飯がまずい、と言って、休暇の度に街中に出かけて外食してくるのが唯一の楽しみのようになっている者もいたが、順平にはそこまで違いがわからなかった。
 食い物などは、とりあえず腐っていなくて腹を壊さなければ、正直、味などはどうでも、食えればそれでいいのであって、何をそんなに求めているのだろう? と他の人間のこだわりっぷりが不思議なほどだった。
 ぶっ倒れる寸前のギリギリの空腹感や、とっくに賞味期限が切れて変色したり糸を引いているような物を、それでも食うしかないような経験をしたことがない連中の、ただの贅沢だろう……と思っていたのだ。
 この時、順平は配膳されて自らテーブルまで運んできた昼食の、焦げて身が縮んだししゃもを箸ではさんで見つめながら、ひっそりと内心で呟いた。
(……今まで気にしたことはなかったが。ここの飯は、こんなにまずかったか……?)
 無表情に消し炭のような味がするししゃもを咀嚼する。どことなく黄色っぽい白米も、ほとんど具のない味噌汁も、今まで特に気になったことはなかった。――洋太に出会うまでは。
 より正確には、洋太の家で初めてオムライスをご馳走になり、その美味さに感動してから、順平の味覚と、世界そのものが、少しずつ変わってしまったのだった。
 料理には一つ一つ違う名前があり、食べる人に美味しいと感じてもらうために掛けるたくさんの手間や手順が存在し、完成品を見ただけではわからない、信じられないほどの数と種類の調味料やスパイス、香料などが使われていること。
 提供する時にも、一番美味しく感じられる温度とタイミングでテーブルに出すために、全てを逆算して食材を切るところから作業を組み立てること。
 食べる人の「美味しい」という言葉や、幸せそうな笑顔を見るために、心を込めて作られる料理が、この世の中にはあるということ……。どれもこれも、洋太に出会うまで、順平が全く知らずに生きてきた事柄だった。
(まただ……思い出すのは、よせというのに……)
 洋太と過ごした日々のあれこれを思い出してしまって、胸の奥がズキンと痛んだが、今の順平は無表情を保っていることが出来た。
 あの事故の後、洋太のために逆上してしまった自分を順平は恥じてはいなかった。降格や除隊を覚悟して、反省文も山ほど書かされたが、百回同じ場面に出会ったら、自分は百回、同じことをするだろう。それくらい、洋太を結果的にだが傷つけた相手を許せなかったのだ。
 しかし順平は、それと同じくらい、自分自身のことも許せなかった。 
 あの時、自分が海に入ろうとする洋太を止めていれば。もっと早く海へ連れ戻しに行っていれば。いや、そもそも自分とあの日、浜辺になど行っていなければ――。
 青ざめた顔で、濡れた髪を額に貼りつかせ、自分の腕の中でぐったりとして動かなかった洋太を思い出すと、順平はいまだに深夜でも恐ろしさに叫び出しそうになる。人工呼吸と胸骨圧迫を続けていた、あの永遠のように長かった時間、洋太を失うかもしれないと思うだけで、順平は本気で自分が発狂するかと思った。
 その恐怖は、例の見合い話の後に夢で何度も見た、制御の効かなくなった自分の体が、何よりも大切に思う洋太を目の前で傷つける様を、成す術もなく見つめるしかなかった、あの拷問のような時間に似ているような気がした
(オレは、洋太のそばに居るべき人間じゃない……最初から、わかっていたことだ。洋太とオレは、生きてきた世界が違い過ぎる……だから、これでいいんだ……)
 警察署で釈放された後、鷹栖から洋太の無事を知らされ、心から安堵して、同時に「もう会わない」と決意を新たにしてから、順平は心に大きな風穴が開いたような気がしながらも、不思議と凪いだ平穏の中にいた。
 洋太に会えない切なさと苦しさが、洋太を傷つけ、失うかもしれない恐怖と比較した時に、自分から会わない決断をすることで得られる安堵感のほうが勝った、ということだった。
――こうして得られた平穏は、しかし、順平の”心を殺す毒”でもあった。
 それは、例えるなら水槽の中にいる魚が、自ら酸素を供給するポンプの電源を落としてしまうようなものだった。
 生きるため絶対に必要な酸素を絶たれ、じわじわと魚は弱って行き、やがては死ぬだろう。そのことを理解していながら、自ら絶つ。
 自分とガラスで隔てられた世界で、大切な相手が無事に生きている姿を思い浮かべることが出来るなら何の後悔もなかった。もともと魚には酸素など必要ではなかったのだ……とばかりに。
 順平が黙々と、表情を変えずに「洋太と食べたよりも、あまり美味くはない飯」を平らげて行く。
 この食事は、いわば戦闘車輛を動かすためのガソリンのようなものだ。体温と筋肉を維持し、訓練や演習の負荷に耐えるための。
 誰かの「幸せそうな笑顔」のために作られた手料理など、必要のない世界に自分は生きている。今も、これから先も。
 いつかまた、自分がこんな食事を「まずい」などと思わなくなる日が来るだろう。美味かった料理、楽しかった時間、愛おしい笑顔……それら全てをどこか遠くへ忘れ去って来ることが出来た時に。
 「心を持たないロボット」のようになれれば、もう二度と誰も傷つけないし、自分も傷つかないで済む。
 日ごとに肺の中から少なくなって行く酸素を感じつつ、穏やかな表情を浮かべて、暗い水底から明るい水面を見上げる順平は、そう願っていた。
 窓の外には青空から降り注ぐ夏の強い日差しが照り付けていたが、ざわついた広い隊舎の食堂で、自らの心を暗い水槽の中に閉じ込めた順平はどこまでも独りだった。
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