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第三章

06-3

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 鷹栖春壱たかすはるいち二尉は、K市と隣接した市にある同じ駐屯地の、同じ部隊に所属してはいるが、順平の直属の上官というわけではない。
 警察署から連絡があったその日は、たまたま順平の上官にあたる人間が任務の都合で駐屯地に不在だったので、本部で話し合いの結果、陸上部でコーチとして比較的、近しい関係にあった鷹栖が釈放される順平の身柄を引き取りに行くことになった。
 季節外れの短い通り雨の後、夜になって少しひんやりとした空気の中、迷彩服姿の鷹栖が部隊の車輛を運転して警察署に向かっている。
 夕方、電話を受けた後は、本部でもちょっとした騒ぎだった。
(……暴行未遂ねえ……あいつにも、そういうことがあるんだな……)
 鷹栖が秀麗な眉をわずかにひそめて、内心で呟く。回想の中の順平は、いつも無口で、何を考えているのかよくわからない不愛想な青年ではあるが、自衛隊生徒(工科学校)出身なだけに、決して考え無しに無茶なことはしない自制心を持っているように、少なくとも鷹栖からは見えていた。
 それだけに、頭に血が上って他人に暴力を振るった(が未遂に終わった)という話が、にわかには信じがたいところだった。
(何があったのか知らないが、大方、”金”か”女”、なんだろうねえ……)
 防大出身のエリートキャリア組を除けば、自衛隊にはさほど裕福ではない出身の者が、手っ取り早い食い扶持のために入隊して来ることも多い。そして公務員の身分があると、信用力が上がってが容易になる。
 厳しい規律や、日々の単調な任務のストレスを解消するために、酒やギャンプル、女関係で問題を起こして除隊して行った人間を、これまでに鷹栖は何人も見てきた。
 そういう人間に、鷹栖が同情することはない。他人の足を引っ張る輩が部隊にいると、いざという時にこちらまで迷惑をこうむることになるので、早めに損切りが出来て本人もよかった、と思う程度だ。
 ただし、今回は違う。神崎順平は陸上部員だ。部員の不祥事で陸上部にマイナスの影響が及ぶことは、なるべくなら避けたいと鷹栖は考えている。
オヤジ監督も心配だろうな……以前から、順平には目を掛けていたし……)
 気難しい顔をした監督の姿を思い浮かべる時だけ、それまで冷淡だった鷹栖の表情が、少し優しげなものになった。まるで本当の父親を心配する息子のように。
 鷹栖にとって監督は”恩人”だった。色々あって学生時代を全て捧げてきたスポーツの道を断念しようとしていた自分をはるばる地元北海道まで来て見つけ出し、自衛隊体育学校入校から続く現在の身分と、居場所を与えてくれた。
 同じように、経済的な理由で一度は陸上を辞めていたが、監督から部隊の陸上部にスカウトされて入隊した者は、じつは鷹栖の他にも結構いる。出自の話は本人は全くしないが、おそらく順平もその一人なのだろう。
 最も早い時期に監督の教え子となった鷹栖は、陸上部における自分のポジションを”長男”のようなものと認識していて、”オヤジ”を支え、皆の居場所である陸上部の存在を守ることが、自分の最も重要な使命だと考えていた。
 その「監督と陸上部を守る」という目的のためなら、いわば”弟”であるはずの後輩部員をことも、鷹栖の隠れた役目の一つだった。問題を起こしそうな部員は、口や態度で穏便に、巧みに誘導して、あらかじめ退部させてしまう……という、高度な人事テクニックを鷹栖は持っていた。
 札幌にいたホスト時代に身に着けた人心誘導術だったが、そんなことを鷹栖が裏でやっているとは監督は全く知らない。鷹栖以外の誰一人、気づいてはいないはずだ。
 順平のことは部の練習を通して工科学校生時代から知っているし、本当に、世話の焼ける可愛い弟のように感じることもある。似たような境遇を辿ってここへ来たのなら、もう少し一緒に成長を見守ってやりたいとも。
 しかし、もし今回の件が内規に触れて重大服務規程違反とされ、現役部員の不祥事として陸上部全体にまで累が及ぶ可能性が少しでもあるなら、早急に”対処”しなければならないとも考えていた。具体的には、事態が明るみに出る前に部員としての履歴を抹消するとか、本人から退部を申し出させるとか、手は色々ある。
 相手もよくなかった。順平が暴行未遂事件を起こした外国人というのが元米兵で、危うく外交問題にもなりかねなかった。現職自衛官と米兵の乱闘騒ぎなど、それこそマスコミの恰好の餌食だったろう。
 幸い、既に退役した人間だったし、襲い掛かったのは順平が先だが、傷を負ったのも当の順平だけで、相手は無傷だという。法律の定義上は「有形力行使をしようとして失敗した(未遂)場合には暴行罪は成立しない」とされているので、警察としても釈放するしかなかったのだろう。
 事の発端からして、現場の海水浴場で一緒にいた順平の友人が、漂流してきたその元米兵のサーフボードに衝突されて救急搬送され、怒り狂った順平が復讐をしようとした……ということらしい。”友人”というのが、どんな関係の人間かは知らないが、その人命救助も順平が行っているらしいので、情状酌量の余地はあるだろう。
(怒って仇を取ろうとするくらいだから、よほど大事な”友人”だったんだろうが……あいつにそんな相手がいたとはね。人は見かけによらないということか。でもまあ、なくはないよな……)
 鷹栖の経験上、女慣れしていない初心うぶで真面目な男のほうが、一旦のぼせ上がると手を付けられなくなる傾向がある。別れ話を切り出されて逆上し、”惚れた女”相手に刃傷沙汰なんてのは、ごくありふれた話だ。
 特に最近の順平は少し様子がおかしかった。それまでは練習漬けだったのに、休日の度に外出許可を取ってせっせと何処かへ出掛けていたようだし、夜もあまり眠れていないようだった。
(……やっぱり”女”かな。それ以外に考えられないし……どこぞの質の悪いのにでも引っ掛かったか? あの順平をそこまでメロメロにするとは、どんな”魔性の女”か、一度拝んでみたいね。確か搬送先のY市の大きな病院に、合コンで仲良くなって一時期よく遊んでた女の子が勤務してるはずだから、後で少し探りを入れてみるかな?)
 そんな考え事をしているうちに鷹栖の運転する車輛は警察署の駐車場に停まった。
 駐屯地の外では目立つ迷彩服姿で車を降り、署の玄関に向かうと受付の中年の女性職員が、海外俳優かモデルかと見紛うような鷹栖の容姿に、はっと息を呑んで頬を赤く染める。鷹栖は何食わぬ顔で物柔らかに用件を伝え、少し待つと署員に付き添われた順平が現れた。
(おやおや……これは、ずいぶんと”重症”だな……)
 そう鷹栖がつい気の毒に思ってしまうほど、目の前の順平は憔悴しきっていた。
 海水浴場からそのまま連行されたせいか、署で支給されたらしいサイズの合わないトレーナー上下にサンダルを身に着け、左の頬には殴られて出来たと思しき生々しい痣が残っている。口の端にはまだ血の跡がわずかにこびりついていて、クマの出来た虚ろな眼には全く生気が感じられなかった。
 魂が抜けたような顔で促されるまま歩いてくる順平に、署員が現場で回収された、順平の濡れた衣服が入ったビニール袋を手渡したが、本人は全く反応しないので鷹栖が愛想笑いを浮かべながら代わりに受け取った。
「どうもすみませんね。トレーナーとサンダルは後でクリーニングして本人から返却させますので……」
 引き継ぎを終えた署員が戻って行った後、袋の中の、ぐっしょり海水と砂を吸って重くなったランニングウェアは後でゴミに出そう……と思いつつ、鷹栖が順平のほうに目をやる。頬の痣と、相変わらず目の下に出来たままのクマを気遣うように
「順平、大丈夫か? 少し車で休んでから駐屯地に帰ってもいいんだぞ?」
 鷹栖にそう小声で話しかけられて、初めて順平が気付いたように顔を上げる。光のない眼で自分よりもやや背の高い鷹栖を見上げると、何事か問いかけるように乾いた唇が動いた。不安げな低い声で、やっと途切れ途切れに言う。
「……鷹栖さん……病院、からは……何か、聞いておられ、ます、か……?」
 順平の声が震えているのを、鷹栖は初めて聞いた。内心で少し驚きながら、じっと順平の顔を観察すると、何かに怯えているような気配があった。あの、ふてぶてしいまでに冷静沈着だった順平が。
 鷹栖は、なるべく相手を刺激しないように配慮しつつ、物柔らかな口調で、自分の知っている内容を端的に答えた。
「ああ、救急搬送されたっていう、お前の”友達”のことか? ……プライバシーとかもあるから詳細はわからんが無事に意識が戻って、精密検査の結果も異常なしだったとは警察の人から聞いてるよ。安心しろ」
 それを聞いた瞬間、順平が俯いて、はぁーっ……と深く長く息を吐くと、次に顔を上げた時には、その目つきが先ほどまでより穏やかになっているようだった。わずかだが微笑んでいるようにさえ見える。
(そんなに、心配だったのか? 直接、患者の安否を尋ねられないくらいに? これは思っていた以上に、本当に”重症”だぞ……)
 急に落ち着いたように見える順平の横顔をしげしげと眺めつつ、鷹栖が内心で感嘆するように呟いた。それまでの鷹栖は、順平が自分の処分のことを恐れているのかと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
 同時に、鷹栖の中でも少し心境の変化があった。陸上部というチームの存続を優先するためには、順平という個人を切り捨てることに躊躇いはなかったのだが。
 目前にいる順平の、まるで手の中の大切な宝物を守ろうとしている少年のような、ほとんど無垢と言ってもいいような純粋な表情を見ているうちに、陸上部が自分達にとっての居場所であり、「家」のようなものであるなら、こいつのことも守ってやるべきじゃないのか……? と、そんな風に思うようになっていた。
(そうだよな。男なんて馬鹿だから、このくらいの年頃には、”好きな人”のために、自分の何もかもを投げ捨てても惜しくないとか、本気で思ったりするもんだよな……オレにも、少しは覚えがあるよ……)
 ほんの少しだけ遠い目になって、鷹栖が微笑した。ふっ、と息をついてから順平の背中を掌で優しく押す。
「よし。駐屯地に帰るぞ。オヤジも心配して、やきもきしてるだろうからな……」
 警察署の玄関を出たところで、鷹栖が乗ってきたのとよく似た車輛が行く手を塞ぐように急停車した。中から陸自の制服とは少し色合いが違う、警察の制服とイメージの近い服装の男性が降りてきた。
(あれは……警務隊……?!)
 男を見た鷹栖の顔に緊張が走った。二人とも反射的にその場で直立して敬礼する。
 警務隊とは、自衛隊内における警察の役割を持った部隊のことだ。旧軍で言う憲兵だが、戦前の憲兵とは違い、一般人を逮捕する司法権限などは有していない。
 警務隊の制服を着て黒っぽい腕章をつけた男は、迷彩服姿の鷹栖と横に立っているトレーナー姿の順平を見ると、まっすぐ近づいてきて言った。
「T駐屯地所属、神崎順平士長だな? ここから先は警務隊で身柄を預かる。ついて来たまえ」
 それを聞いた鷹栖が、怪訝な表情で割って入る。
「ちょっと待って下さい。警察のほうでは暴行の実行がなされておらず、相手も被害を取り下げたことだし、事件性なしとして釈放したわけでしょう? 今さら警務隊に連行する意味があるんですか?」
「……君は?」
「同じくT駐屯地所属、鷹栖二尉であります。彼の身元引受のために本部から派遣されて参りました」
 その場に敬礼した鷹栖を一瞥した後で、警務隊の威圧的な制服姿の男は無表情に、事務的な冷たい口調で答えた。
「連行する必要のあるなしを判断するのは、君や私ではない。私はただ、上から命令されたことを実行するのみだ。……神崎士長、ただちに同行を命じる」
「……了解」
 鷹栖の隣で直立不動のまま敬礼していた順平が、そう答えて一歩前へ出た。鷹栖が目で”ちょっと待て”と合図するが、順平はかすかに笑みを浮かべて、鷹栖に向かって深々と頭を下げた。
「鷹栖先輩、今までありがとうございました。監督にも、よろしくお伝え下さい……」
「おい、神崎……」
 くるっと足を引いて直角に向きを変えた後、順平はまっすぐ警務隊のほうへ、出て来た時よりも余程、しっかりとした足取りで歩いて行った。その背中には、どこか、やるべきことを全てやり終えたような不思議な静けさが漂っていた。
 順平を乗せた警務隊の車輛が走り去った後、鷹栖は複雑な表情で立ち尽くしていた。最後に順平が見せた、何もかも悟り切ったような、穏やかな眼差しが記憶に焼き付いている。ちっ、と舌打ちして歩き出した。
(こんなことになるとは……くそっ、オヤジに何て言やあいいんだよ……?)
 教え子である陸上部員のことを、いつでも実の息子達のように心配している監督の顔を思い浮かべて、鷹栖が癖の強い短い髪をくしゃくしゃと掻き回した。車輛に乗り込んだ後、ハンドルを握って宙を睨みつける。
(……あいつを、このまま終わらせてたまるか。無口で不器用な奴だが、一応、オレの可愛い”弟分”なんだからな……)
 駐屯地に帰るため車輛を急発進させると、鷹栖は早速、夜の道を運転しながら頭の中で”作戦”を練り始めた。冷たいほどに整って見える横顔を、まばらな街路灯が一定間隔で照らし出しては後方へと流れ過ぎて行った。



(第四章へ続く)
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