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第二章

06-3

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 遠慮する暇もなく、順平はそのままヨウタにぐいぐいと引っ張られて、寺の敷地に隣接した白い壁の一軒家に案内された。
 寺の境内と、駐車場の敷地の一部にある自宅は小さな木戸で連結されていて、そこを通れば急な石段を登らなくても駐車場から直接、境内と駐車場、自宅を行き来することが可能なようになっていた。
 純和風の寺の佇まいとは対照的に、その家は比較的新しい近代的な内装デザインの、いわゆる”普通の家”だった。
 遠くから一目でも、顔を見られればそれでいい……そう思ってヨウタの家を探しに来た順平だったが、まさか初日に当の本人から自宅に招待されることなど想像してもみなかった。
 なので、ベージュ寄りのオフホワイトを基調とした落ち着いたインテリアの、趣味のいい木目調家具に囲まれたリビングに通されたものの、順平は緊張のあまりレザーのソファで固まってしまっていた。
 そもそも順平は、こういう”普通の人”の生活空間に立ち入ったことが、工科学校の入学前にしばらく下宿していた、監督の隊舎なみに殺風景な自宅アパートの部屋以外に、全くと言っていいほどなかった。
 そんな順平からしてみれば、窓辺で淡い影を作る、草花の模様が刺繍されたレースカーテンや、クリーム色のふかふかした毛足の長いラグマットに、掃除が行き届いたぴかぴかのフローリングの床やテーブルなど、そのどれもが知らない異国の風景みたいで、正直、手を触れるのもはばかられていた。
 冷蔵庫を開けてごそごそしていたヨウタが、順平を振り返ってたずねる。
「何かあるかな……あ、冷凍したケチャップライスがあった。オムライスでいいか?」
「べ、別に……何でも……」
(えっ、オムライスって? どういう料理だ? 家で作れるものなのか……?)
 おそらく隊舎の食堂で一度くらい出されたことはあったのかもしれないが、大方の料理の顔と名前が一致していない状態の順平は、片足で器用に椅子に寄り掛かりながら台所に立ったヨウタが、手際よく作って出してくれた、大きくて丸みのある黄色と赤のふっくらした料理を見た時、その味を予想することもできなかった。
 ぴょこぴょこ片足を上げながら歩いてきて、テーブルに皿と麦茶を置いたヨウタが、明るい声で順平に話しかける。
「そんな緊張すんなって! うち、こういうの慣れてるんだ」
「……よく、こんな風に人に料理をふるまうのか?」
(な……オレ以外にも、他の人間をほいほい家に上げてメシを食わせてるだと……? 何故そんな物騒なことを? もし襲われたらどうするんだ……?!)
 湯気の立つオムライスを前にしたまま、自分の妄想を棚に上げて順平が疑心暗鬼に陥っていると、ヨウタがマイカップの麦茶を一口飲みながらあっけらかんと答えた。
「うん。うちの寺、じいちゃんがまだ生きてた頃だけど、普段使ってない檀家さん用の集会所を開放して、母さんがシングル家庭向けの”子供食堂”やってた時期があってさ。オレもよく手伝ってたから」
「……そうか……」
 自分の汚れた想像に深く恥じ入りつつ順平が、オムライスを指紋がつきそうな綺麗な銀のスプーンで、おずおずと口に運ぶ。数回頬張った口を咀嚼させると、そのまま目を見開いて完全に動きが止まった。
 口の中で甘くて香ばしいケチャップライスと、ふんわりした薄い卵焼の食感が合わさって、出来立て特有の温かいバターの香りが鼻腔をくすぐる。順平は大真面目に、こんな美味いものが世の中にあったのか? と思うほど感動した。
「美味い……」
 感動を言葉にしきれず、順平がごく小さな声で、ぼそりと呟いた。斜め前のソファに腰かけたヨウタが嬉しそうに笑う。
「だろ? うちのオムライス、美味いって友達とかにもよく言われるんだよ。母さんが作ったほうが形は綺麗だけど……って、は?! もう食べ終わったの?! 早っ?! ……えっ、今なんか四口ぐらいじゃなかった?! マジか、大食い大会かよ‼」
 興奮して目をまん丸くしているヨウタの反応に、順平のほうがちょっと驚いた。元々、若い男性の食事の一口は大きいという以上に、自衛隊では早飯早風呂早着替え(と起床後の完璧なベッドメイク)は基本中の基本だったので、これくらいが普通かと思っていたのだが。思わず赤面しつつ、順平が正直に答える。
「いや、美味かったから……」
「そっかー。まあ、美味いとそうなるよな……いやでも、いい食いっぷりだったわ」
 と、まだ感心しているヨウタが、お茶請けに置いてあったクッキーをかじる。その一口は、なるほど順平に比べると大分小さく、そんなところでも育ちの違いみたいなものを感じてしまう順平だった。
 ふとヨウタが、何か思い出したように言う。
「そうだ、お前スマホ持ってるだろ? ちょっと貸してみ」
「あ? ああ……」
 順平がチェストバッグから、ほとんど使っていないが連絡用に一応持たされている私物のスマホを出すと、それを受け取ったヨウタが、スッスッと手際よく画面を操作して何かを打ち込んでから、自分のスマホをかざした。ピッと通信音が鳴る。
「ほい出来た。これ、オレの連絡先な。あとお前のアカウントも登録させてもらったから」
「え……?」
 最初、何をされたのか飲み込めなかった順平だったが、スマホの画面に表示された「荻谷洋太」という名前を見た瞬間、心臓がドキリと高鳴った。そして自分がはからずも、この半月ほど思い続けた相手の連絡先を、いとも簡単に入手したことに気づくと、もしかしてこれは凄いことなのでは……? と思い始めていた。
「……あ、神崎。口にケチャップついてるぞ」
「はっ? ああ……」
 順平が無意識に長袖Tシャツの袖口で拭おうとすると、洋太があわてて止めた。
「わっ?! ストップストップ! 何やってんだよー目の前にティッシュあるだろ? んもー…ワイルドだなお前!」
 洋太が丸めたティッシュを順平の口にごしごし押し付けて、笑いながらケチャップをふき取る。その手をぼーっと眺めながら順平は、自分は今、こんなに幸せでいいのだろうか? 何かこの後、落とし穴にでも落ちるのではないか……? と、半ば本気で考えていた。
 ちょうどその時、外で車が止まる音がした。洋太が窓のほうを振り返って
「あっ。母さんと姉ちゃんが買い物から帰ってきた」
 ほどなく玄関のほうからドアが開け閉めされる音と、二人分の女性の明るく朗らかな話し声が聞こえてきた。
 上品なピンクベージュ色の、軽やかなダウンのロングコートを着た四十代くらいの女性が、両手に大きな買い物袋を提げてリビングに顔を出した。
「あらあら。洋太、お友達が来てたの? 電話してくれれば、お寿司でも買って来てあげたのに……」
「平気だよー。今さっき、オレがオムライス作って食わせたから!」
「そう? じゃあデザートにお林檎でも剥きましょうね」
 大きな花がほころぶような笑い顔が、洋太とよく似ている。
 順平はここへ来る前に駐車場で見かけた、くすんだピンク色のつつましやかな花は、この女性が育てているに違いない、と思った。そのくらい女性が身に纏う雰囲気と、花のイメージがぴったりだった。
 母親の後ろから洋太の姉の歩美がひょっこり顔を出し、洋太と順平を見比べると、何故か不思議そうな顔をした。
「友達って、玄関にあったデッカイ黒い靴の人? へえー洋太と全然タイプが違うのね……」
 水色のミドル丈のダウンコートを脱ぎながら、上から下までじろじろ見てくる姉の目線に、何となく居心地の悪さを感じる順平だった。慌てて立ちあがると、体を直角に曲げて、場違いなほど折り目正しいお辞儀をした。
「……お邪魔してます……」
 買ってきた食材を冷蔵庫にしまっている母親に代わって、洋太が果物ナイフで器用にウサギの形に林檎を剥きながら、得意そうに順平を紹介した。
「こいつ、前から知ってるんだけど、お寺巡りが趣味みたいでさ。今日たまたまオレが、境内の掃除の後で昼寝してたら、急にぬーって横に立ってて……」
「ちょっと! あんた、本堂の見えるとこで昼寝すんなって言ってるでしょ! 何度言わせるのよ!」
「うわ、やっべ」
 藪蛇で姉に叱られてしまい、順平のほうを見て舌を出す洋太と、そんな子供っぽい仕草に、ああ可愛いな……と、つい目を細めて見つめてしまう順平。
 しばらく、じっ、と二人の様子を見ていた姉が
「あんたたちって……すごく仲いいから一瞬、洋太の”彼氏”かと思った。違うの?」
 あまりに急な爆弾発言に、うぐっ?! と顔を真っ赤にしてむせ返る順平。間髪入れずに洋太が口をとがらせて反論する。
「違うって! こいつはねー、オレの駅伝のライバル! ……で、友達! なっ?!」
「あ、ああ……」
 それを聞いた姉は、またからかうような口調で、ドアを開けて自室に荷物を置きに行きながら、笑って言った。
「へえー。あ、じゃあアレだ。中二の時に、ボロ負けして泣かされた相手だ」
「よ、余計なこと言うなよー!! あの時は、目にゴミが入って……!」
 真っ赤になって否定している洋太を見て、順平は(人前で堂々と泣くわりに一応、泣き顔を見られて恥ずかしいとは思うのか……)と意外だった。
 その後も、食後のハーブティーを飲みながら、洋太の家族との楽しい談笑の時間が続き、気が付くと窓の外はすっかり夜になっていた。
 順平は、このまま永遠に帰りたくない……とすら思ったが、そろそろ出発しないと隊舎の門限に間に合わなくなることも頭の片隅でわかっていた。
 暇乞いを言い出すタイミングを計って、順平がおしゃべりしている洋太と姉、母親を黙って見つめる。ふと、同じリビングの空間を共有しているはずなのに、自分だけが見えない壁で疎外されているような気がした。
(……こいつは、オレが欲しくて持てなかったものを、全部持っているんだな……。オレなんかの何に、悔しがることがあるんだ? 始めから”負けていた”のは、オレのほうじゃないか……)
 洋太を見つめる順平の眼に、ちらりといつもの暗い影が差した。
 目の前にいるのが、もしも洋太でなかったとしたら。恐らく自分は、醜い嫉妬や、持てる者に対する逆恨みのような憎悪に駆られて、こんな気持ちのいい家族との和やかな場の雰囲気を、不機嫌な沈黙で滅茶苦茶にぶち壊してしまったのだろう。
(本当に、洋太でよかった……オレが、洋太を好きだから……)
 そこまで考えて、順平は突然、頭を殴られたようなショックを感じた。初めて自分が、洋太に”恋愛感情を持っている”のだと、明確に意識したからだった。
(そうだ……オレは、洋太が好きだ……。でも、それは……)
 深く俯いたまま、順平が急な動作でソファから立ち上がった。それ以上、洋太の顔をまともに見られる気がしなかった。
「……悪い。もう帰らないと、寮の門限があるから――」
「えっ? そうなのか? ならもっと早く言えよー。駅まで車で送ってやるから」
「いや、これ以上、世話になるわけには……」
 焦って固辞しようとするが、洋太はスマホで時刻表を調べている。横から母親が
「裏の山向こうの道路からJRの駅に直接行けば、一番早いんじゃない?」
「そっか。オレ運転してくから、姉ちゃん車貸して」
「バカ言わないで! あんたに貸したら擦り傷だらけにされちゃうじゃない。第一、怪我してるでしょ。あたしが運転してあげるから、あんたも一緒に乗ってきなよ」
 などと、順平そっちのけの家族会議で送迎されることが決まっていた。
 洋太が作務衣から着替えている間、エンジンを掛けて外に停車中の軽自動車に先に乗りこんで順平が待っていると、一足先に支度を整えた姉の歩美が乗って来て運転席に座った。一瞬、微妙な沈黙が流れる。
 歩美がバックミラー越しに、やけに神妙な顔つきで順平の眼を見ながら尋ねた。
「……ねえ。もし失礼だったら謝るけど。君と洋太って、本当に、”友達”……?」
「えっ……?」
 今度こそ、予想もしなかった相手に例の妄想を見透かされたようで、ぎくりとする順平。歩美が淡々とした口調で続ける。
「うちの家族って見ての通りでさ。特に弟の洋太は、ああいう無防備なところがあるから。もしかして……君が洋太のことを遊び半分で傷つけるような真似したら、私が絶対に許さないからね。そのつもりで」
(勘のいい女だ……それに、度胸もある)
 まるでライバルを称賛するような感情と、今さらのように洋太が家族から愛されていることを確認した安堵感とで、順平は不思議と凪いだ気持ちになりながら、低い声で静かに答えた。
「……大丈夫です。何も、ありませんから……」
「そう? ならいいけど」
 そこへ洋太が着替えを終えて、ばたばたと後部座席に乗り込んで来た。
 と、寝巻にしているらしいトレーナーの上に羽織ったダウンジャケットのポケットから、にかっと笑いながら小さなビニール袋を取り出して、中身を順平に見せる。
「さっきの林檎の残り、母さんが塩水につけて持たせてくれたから。寮で食えよな! ほら口開けてー」
 そう言って、ウサギの形にカットされた林檎を一欠け、指で挟んで順平の顔の前に突き出した。林檎の赤い皮が、薄暗い車内ライトの下でも艶やかに光っている。
 順平が、洋太の指先から口に入れられた林檎を咀嚼すると、しゃりっという軽い音とともに、みずみずしい甘さとわずかな酸味が口一杯に広がった。
(……なんて、甘いんだ……)
 車内にはフルーツの芳醇な香りが満ちていた。
 喉を潤しながら過ぎて行くその甘さは、今の順平にとって胸が苦しくなるような、罪深い、官能的な味わいに思えた。
 ようやく車が夜の道へと走り出す。と思いきや、いくらも走らないうちに、坂道の途中で急に洋太が、後部座席から体を乗り出して姉に声を掛けた。
「ごめん、姉ちゃん! ここでちょっとだけ止まって!」
「はあ? こんな真っ暗なとこで、何よ一体……」
 洋太が隣の順平を振り返ると
「神崎! ちょっと急いで一緒に降りてくれ」
「……?」
 ドアを開けて、言われるまま車から降りた順平を誘うと、洋太が低山の山腹を走る道路のガードレールの縁に立った。わずかに順平が息を呑む音が聞こえる。
 目の前には黒々とした木々の間から、遠くに夜の海を抱いて、色とりどりの宝石箱のように煌めくK市の街並みが広がっていた。
「な? 綺麗だろ。このへんじゃ、ここが一番の夜景ビューポイントなんだ!」
 時折吹き付ける冷たい風をものともせず、洋太が自慢げに声を張った。
 夜の暗がりの中でも、順平には満面の笑みを浮かべた洋太の、きらきら輝く明るい茶色の瞳が見えるような気がした。
「……ああ、美しいな……」
 どっちのことを言っているのか、順平が静かな声で、そう呟いた。
 温かみのある光の群れを見下ろしながら、順平は今すぐ、隣に立っている洋太の体を自分の腕の中に引き寄せ、力一杯抱きしめたい……と、心の底から思った。
 それと同時に、その願いが叶う日はもう永遠に来ないのだ――とも気づいていた。
(さっき、洋太はオレのことを”友達”だと言った。つまり、そういうことだ……)
 この国では、同性の友人同士は普通、相手を抱きしめたり、キスしたりはしない。もちろん、それ以上のことも。期待すれば、そこで”友達”という関係は終わるのだ。
(だからオレたちの間には、何もない……何も、あってはいけないんだ……)
 哀しみと安らかさが、ないまぜになったような複雑な気持ちで、視界を埋める光の集合を眺めながら順平は、遠い昔の子供の頃のことを思い出していた。
 心に深い傷を負い、絶望的な孤独の中で、”救い”を求めるように海の彼方の温かな灯に手を伸ばしていた、あの日のことを――。
(あの時、この街の灯りが、あんなにも温かそうに見えたのは。きっと、たくさんの光の中のどこかに、洋太、お前がいたからだったんだな……だから、あんなにも懐かしくて……恋しいような……)
 順平は洋太のことを「好きだ」と思う、この気持ちを、今日を限りに”封印”しようと決めた。洋太と”友達”でいるために……それで少しでも長く一緒にいられるなら。
「ちょっと洋太ー。そろそろ行かないと電車乗り遅れるよ!」
「わかった! ……じゃあ行くか、神崎」
 姉の呼びかけに答えた洋太が、順平の肩を叩いて来た道を歩き出す。
 順平は、その後ろについて自分も歩き出しながら、最後にもう一度だけ、満天の星よりもまばゆく輝く、眼下の街の灯を見つめた。
 光の絨毯のはるか奥には、順平の故郷の岬が細長い影のようにうずくまっていたが、その突端にあるはずの灯台の光は、明るい空で見えなくなる星のように、あるかないかの頼りなげな白い点に過ぎなかった。



(第三章へ続く)
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