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第二章

04-3

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 冬の日が傾きかけた海沿いの国道を、駐屯地の方角へ向けて走る車の中で、順平は憮然として考え込んでいた。さっきの騒動の意味をいまだに理解しかねていた。
 鷹栖の運転するSUVに乗っているのは助手席の順平だけで、それ以外のチームメンバーは他の部員が所有するワンボックスカー二台に分乗している。
 順平は背が高すぎるのと、不愛想すぎるので、同乗すると車内が暗く感じるという理由から、いつも一人でコーチである鷹栖の車に皆の荷物と一緒に乗せられていた。
 順平の脳裏にはさっき車が動き出した時にも、まだ拳で顔の涙をぬぐいながら順平のほうを睨みつけていた例の青年の細身の体が、バックミラー越しの映像のかたちでよみがえっていた。
 大きな眼に、少しだけ癖のあるさらさらした短髪、やや幼い顔立ちではあったが、年の頃は自分とそう変わらないように見えた。
(……今日のレースに参加してたってことは、あいつも社会人だよな? それが人前であんな風に……本当に、変な奴だ)
 港の漁師町で育った順平にとっては、成人した男がそういう女子供のような軟弱な振る舞いをすることに対して、抵抗感のようなものが拭い難く存在していた。郷里の荒っぽい土地柄ではそんな男は例外なく、”舐められる”からだ。
――男として、それは時と場合によっては、社会的な”死”を意味していた。
 だから順平も、さっきの青年に対して、ろくに相手のことを知りもしないながら、どこかで見下すような感情を持っていた。
 到底理解できない――。心底から、そう思った。
「……さっきの彼はずっとお前に勝てないのが、よっぽど悔しかったんだろうねえ」
 鷹栖がハンドルを握って前を向いたまま、ぽつりと言った。
 そこには見知らぬ相手に対し、わずかに同情するような響きがあった。それが順平には気に入らなかったので、顔を窓のほうにそむけて、ぶっきらぼうに答えた。
「オレは、あんな奴知りません……どうでもいいです」
 と同時にさっき青年が口走った言葉を思い出して、新たに回想の中の相手に不満をぶつける。
(大体、何だ? ”中二の時”からって……レース以外であんな奴に会ったことなんかないぞ?)
 鷹栖は横目でチラリと順平を見ると、まるで年の離れた世話の焼ける弟を諭す兄のような口調で、もの柔らかく話しかけた。
「……お前はもう少し、人の気持ちを想像出来るようになったほうがいいね。順平」
「気持ち……想像……? そんなもの、任務に必要ですか?」
 順平が顔を窓のほうに向けたまま、真面目な口調で問いかける。そんな若者らしい頑なさを、鷹栖は軽く笑って受け流しつつ、言葉では意外と真剣に答えた。
「お前もそのうち、部下を持つようになればわかるさ……。今から勉強しておいて損はないだろ?」
「……はあ……」
 何となく煙に巻かれたようで納得行かない順平だったが、陸上部の先輩後輩という親しい関係とはいえ、一応は上官なので口答えはしなかった。
 車内には、鷹栖が普段から部隊の警備区域内の情報収集用につけている、ニュース多めの地元ラジオ局の夕方番組のアナウンサーの声が淡々と流れていた。
 順平は窓の向こうに広がる海と茜色にたなびく雲を見るともなく眺めては、自分の中の何がこんなにもやもやさせるのか? 苛立ちながら答えを探し続けていた。
 夕日はすでに見えなくなっていたが、夕焼けに染まった広大な空が一足先に暗い色に移行し始めた海面を抱いていて、そのはるか奥のほうに順平の故郷の町がある半島の岬が黒々と見えた。
 半島側は明らかに人口密集地を表す灯りの数が少なく、岬の突端には船舶用の灯台の光くらいしか、こちらからは見えなかった。
――あんなに真っ暗で、寒々とした貧しい場所からオレは来たんだ……と順平は今更のように思った。
 幼い頃、故郷の町の対岸に見えるK市の街灯りは、胸を掻きむしるような憧れの対象だった。そこには親兄弟の揃っている、幸せな家族ばかりが暮らしていて、暖かい家に住んで毎日のようにご馳走を食っているに違いない、と。
 さすがに大人になった順平は、もうそんなことは思っていない。先ほど車で通過してきた国道沿いのK市も、有名観光地を抱えているとはいえ”普通の街”であり、民家もあれば小さな個人商店も安売りスーパーもある。近くには昔からの漁港もあった。
 表面上、K市のような街区には、順平の故郷ほどのあからさまな貧困は見られないとはいえ、別荘地の物件の所有者の入れ替わりは激しいし、廃業した商店や民家を潰して、都会から移住する金持ちの高齢者のための高級サービス付き老人ホームが出来たりしているらしい。以前、不動産や投資に興味のある同僚が話していた。
 潰れた店や、取り壊された古い家に住んでいた住人は、借金を抱えて離散したか、死んだか……何かしらあって別の街へ移り住むか、したのだろう。
 誰もが幸せに暮らしている「おとぎの国」など何処にもないというだけのことだ。
 幼い頃、海の向こう側からはあれほど輝いて見え、いつか行ってみたい、と憧れていた”こちら側”は、仕事でいつでも来られるようになってみれば、内実は故郷と少しも変わらない、弱肉強食のクソみたいな世界の延長だった。
 金がなければ住処も、家族も持つことは出来ず、しがみつけなくなった者から順番に消えて行くだけの残酷な椅子取りゲーム。結局は、ほとんどの人間は苦しみながら働いて得た金で一生、細々と自分の居場所を”買い戻し”続けるしかない。
 そして順平にとっての居場所とは、今いる部隊の陸上部であり、そこでは走ることと、レースに勝つことで己の価値を認められている以上、血反吐を吐いてでも努力して結果を出し続けるしかないのだ。
 スポーツとは、どこまでも順平にとっては”生業”の類であり、他の人々がイメージするような、勝負の爽快感や自己実現などといったものとは無縁だった。
「……それでは音楽です。リクエストしてくれたのはK市、”渚のシンメトリー”さんで、曲は――」
 カーラジオから男性アーティストのしっとりと歌い上げる声が、歌詞の「♪見つめ合うと、素直に話が出来ない」というような内容のことを歌っていた。順平には意味がよくわからなかった。
(どっちかに集中すれば、他のことは出来なくなるに決まってる)
 順平には、自分が器用なほうではない自覚があった。鷹栖のように、あるいは他の部員達のように、頻繁に合コンして複数の女性と付き合ったり、家族を持ったりしながら、さらに部隊での仕事もこなしつつ、陸上部で勝ち続けることなど、そんな曲芸じみたことは自分には不可能なように思われた。
 大体、人と付き合うこと自体が難易度が高いのだ。相手に対して特に何もした覚えはないのに、毛嫌いされているということがよくあった。……さっきの”あいつ”も、きっとそんな一人なのだろう。
 だからといって自分は他の生き方など知らないし、そもそもレースの時以外に関わりのない相手なら、嫌われようが怒らせようが気にする必要などないのだ。本当は。
(……わかっている。誰に憎まれようが、オレには走ることしか出来ないんだから。もう考えるな……)
 海面を覆う夕空から赤みが消えて、灯り始めた街灯が車窓を流れて行く。それを見つめる順平の眼には、固い決意と同時に、ほんの少しの寂しげな色が、空の最後の光とともに映り込んでいた。
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