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第二章

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 ニ十歳になった順平は、すでに工科学校を卒業して同じ県内の、生まれ育った港町よりも半島の付け根に近い地区にある駐屯地の部隊に配属されていた。
 正式名称は陸上自衛隊高等工科学校。以前は少年工科学校と呼ばれていたが、改編されて現在の名称になった。戦前の陸軍少年飛行兵学校のような、通常の軍隊でいうところの下士官を若年から養成するための陸上自衛隊の教育機関である。
 三年間の在籍中に普通科高校に相当する一般教育や、防衛基礎学、専門課程などを学び、卒業と同時に正式に自衛官に任官(陸士長)。さらに一年間の部隊での実地教育期間を終了すると三曹の階級が与えられる。
 一般の隊員が訓練期間を終えて入隊すると、まず士の階級からスタートし、二士>一士>士長と進み、その上で曹候補生から昇任試験を経て三曹(曹の一番下)となるので、順平のような工科学校卒業生(生徒と呼ばれる)は一足飛びに昇進コースに乗ることが出来るわけだ。当然、部隊内では昇任試験に受からなかった年上の隊員もいるので、そういう相手とは若干ギクシャクすることもあった。むろん順平ではなく、相手のほうがである。
 順平は、かつて祖父が亡くなった時に、自分の孤独な境遇を思って打ちひしがれていた少年の面影など最早なく、ふてぶてしいほどの冷静沈着さと、相手が誰だろうと一切臆さない鋼の胆力を身に着けていた。
 身長はさらに伸び、大抵の隊員と並んでも頭が五センチは抜け出していた。
 当たり前のように周囲は鍛えている筋肉質な人間ばかりだが、その中にあっても、順平の肉体の仕上がり具合いは群を抜いていた。
 頑丈そうな首から顎にかけてのライン、鉄板のように硬く分厚い胸板、腰の引き締まり具合、無駄な肉が一切付いていない長い手足、ざっくりと窪んだ尻の筋肉に至るまで……きびきびした動きも相まって、制服を身に着けた時には「精強」の言葉がそのまま道を歩いているようだった。
 日焼けした精悍な顔立ちはすっかり大人びて、暗い目つきは相変わらずだが、以前の世を恨むような不幸な美少年らしさはほとんどなくなっている。
 目鼻口などのパーツの造作は相変わらず整っているのだが、繊細な美形ではなく、例えばそれは大型肉食獣の毛皮の模様の美しさと通じる、どこか近寄りがたい、獰猛でありつつも目を逸らせないような、不思議な魅力をまとっていた。声もよく通るが低く太くなり、ますますセクシーな雄の獣っぽさが強くなった。
 こんなに雄の魅力を漂わせていれば、さぞかし異性にモテるだろう……と思われそうだが、順平にはそちらの興味関心が全くと言っていいほど欠如していた。むしろ、女はうるさいから嫌いだとすら思っていた。
 自分は陸上をやるために自衛隊に連れて来られたのだと、順平自身はそう固く信じていた。それ以外のことは、何もかもが”余計なこと”なのだ、と。
 順平が一人ぼっちになってから、のちに監督と呼ぶことになった男性は、諸々の手続きをスムーズに済ませると、工科学校の試験を受けて入学が決まるまで自らの住居にいったん順平を引き取り、地区の中学に通わせて、必要な物も全て揃えてくれた。
 まるで父親が自分の息子にするように、仕事の合間に試験対策なども教えてくれ、無事に合格が決まった日には大変喜んで、お祝いに近くの食堂でカツ丼をごちそうしてくれた。監督は独身なのか、殺風景なアパートには他に家族はいなかった。
 どうしてこの人は、自分にこんなによくしてくれるのだろう? 順平は内心で首を捻っていた。仕事でやるにしては、その範囲を超えているように思ったのだ。
 それでも、祖父の火葬場から帰った後、生まれて初めて故郷を離れ、知らない街に移る途中の高速サービスエリアで食わせてもらった温かいラーメンが、今まで食べた飯の中で一番美味いと思ったことと。合格した日のカツ丼も同じくらい美味いと思ったことで、いつしか順平は監督を心から信頼するようになっていた。
 本当のところ、順平は美味い飯もさることながら、いつもは寡黙な監督が目を細めて笑顔を見せてくれるのが、それが自分にも何故か嬉しくて、この人のためにどんなことでも頑張ろうと思っていたのだった。
 工科学校の全寮制の規律正しい生活は、普通の家庭に育った中学卒業程度の子供には、かなり窮屈で過酷なものだったが、順平にとっては自分が作らなくても食事が出てくるだけで、むしろ楽すぎて天国みたいだった。勉強はそれなりに大変だったが、軍隊式の規則や教練は意外と肌に合っていた。
 それ以上に、順平が力を注いだのは走ることだった。監督が指導している工科学校の陸上部に所属し、多くの大会で目覚ましい結果を残して来た。かつて箱根駅伝を走ったこともあるという監督の的確な指導が、順平の才能を開花させた。
 自衛隊のスポーツエリート養成機関である体育学校への進学も可能だといわれていた。自衛隊体育学校は円谷幸吉など多数のオリンピック選手を輩出してきた機関だ。
 ここに選抜されることを目標に自衛隊に入隊する者もいるくらいなので、順平が入れる資格があると見られただけでもかなり名誉なことだった。五輪に一切興味のない当人はそれほどピンと来ていなかったが。
 工科学校の最終年次に、監督が教育機関から配置転換になって、一般の部隊で体育指導および陸上部を指導することになった。
 順平は体育学校を目指すことはせず、自分も早く部隊に配属になって、そこでまた監督に指導を受けることを望んだ。希望が通って、現在も順平は部隊の陸上部で駅伝のアンカー走者として走っている。
 自衛官として順調な一歩を踏み出した順平だったが、一方でどこか寂しさを感じていた。工科学校時代から薄っすらと気付いていたことだった。
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