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第二章

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 走ることは、自分の自転車すら持てなかった順平にとっては、最も身近で苦にならない種類の運動で、得意といってもよかった。顔もろくに覚えていない即席のチームメイトと義務的に協力する必要もなく、一人で結果を出せるのも気楽だった。
 駅伝はチームスポーツだと言われているが、順平にとっては、途中の順位などはあまり関係がなく、ようするに前に何人の選手がいようと、最終的に自分が誰よりも速く走って一着でゴールすればいいだけのことだった。
 その日も、報酬分の仕事として九人ぶっちぎりの大会記録でゴールテープを切った順平は、抱き合って優勝を喜び合う陸上部員の輪に加わることもなく、さっさと自分の着替えの入ったバッグのほうへ向かった。ゴール直後にもそれほどかいていなかった汗は、すでに引いていた。
 ジャージ姿に着替えて部員から素早く報酬を受け取った順平が、決勝の大歓声を背にバッグを担いで会場を後にしようとした時、どこかの選手が救護所のシートの上に座って足を手当されているのを見た。近くにいた大会関係者が
「……気の毒に。あの選手、途中まで二位だったのに転倒だってよ」
「負傷したとはいえ、自分のせいでチームは棄権……つらいな」
 頭からタオルをかぶったその選手は、小柄な肩を震わせてずっと泣いていた。転倒した足の傷はかなり深いようで、血が付いた応急処置の包帯の外側にも無数のすり傷が見えた。
 指導者らしき大人が何か言葉をかけては慰めているようだったが、ユニフォーム姿の少年はしきりに首を振っている。涙に濡れた負けん気な表情に、あの時、順平の背後で大きな声で答えていた、あの選手だと思い出した。
 順平は無言で救護所の前を通り過ぎると、表彰式に向かう人々とは逆に歩いて会場を後にした。
 バス停のベンチに腰かけて封筒に入った札を数えていると突然、知らない男の声に背後から話掛けられた。
「……誰よりも勝利に貢献した選手が、表彰式にも出ないで帰るのか?」
 順平はとっさに封筒をポケットにねじ込むと、鋭い目つきで声のほうを睨みつけた。大会関係者に見つかって金を没収されでもしたら、タダ働きになって面白くねえな……程度にしか思わなかったが、威嚇するのは習性のようなものだった。
 ベンチのほうへゆっくりと歩いて近寄ってきた四十代くらいのその男は、部活の指導者でも保護者でもなさそうな雰囲気の、中に白いポロシャツを着たラフなスーツ姿で、おだやかに微笑んでいた。
 一文字の濃い眉と太く通った鼻筋、やや頬骨が張った、いかにも昔風の日本の男といった顔立ちで、順平をまっすぐ見て細めた眼の表情からは、誠実そうな印象を受ける。どうやら敵意は無いようだが。
 ただ順平には確信はないながらも、その男の外見はどこか……厚みのあるがっしりした体つき、襟足をきれいに刈上げた短い髪型や、着崩れのない清潔感のある服装などから、警察とか公務員、そういう”堅い”職業の人間特有のにおいを感じさせた。
「少しだけ探したよ。神崎順平君」
(オレを知ってる……? 何だこいつ……?)
 警戒心丸出しで、何かあればいつでもダッシュで逃げられるようバッグのベルトを掴んだ体勢のまま、順平は男を睨んで黙りこんでいた。気にせずに男が続ける。
「九人ごぼう抜きか……そのまま埋もれさせるには、君の才能はあまりにも惜しい。どうだ? 私と一緒に来て、”とある学校”で本格的に陸上競技をやってみないか?」
 順平はすっと目を細めて、軽蔑したように相手を眺めながら低い声で吐き捨てた。
「スポーツなんざ、お遊びでやってるヒマはねえよ……」
 それを聞いた男は意外にも、ふっ……と柔らかく相貌を崩して、言葉を続けた。
「君なら、そう言うと思っていたよ」
「……?」
 けげんそうな順平に、心配はいらない、とでも言いたげに男が頷きながら言った。
「金のことなら心配するな。”国”がやってる学校で、三食部屋付き。それに――」
 ここで男はいったん言葉を切り、これが大事だろう? とばかりに強調した。
「”給料”が出るぞ」
「……‼」
 ハッ、となった順平の顔を見逃さず、男はスーツの胸ポケットから名刺を取り出すと、手早く自分の携帯番号を書き込みながら補足した。
「興味があったら、ここに連絡してくれ。ご家族には私から直接、お話させてもらってもいい。……返事を待っている」
 男が立ち去った後、順平はベンチに座ったまま、手の中の名刺をじっと見つめた。
――”陸上自衛隊”、”工科学校”……という馴染みのない文字列が目に入ってきた。

 バスを降りてからの帰り道、順平はアスファルトに伸びる自分の影にぼんやり視線を落として歩きながら、さっき名刺を渡して去った男の言葉を反芻していた。
”金のことなら心配するな。国の学校で、給料が出る――”
 嫌気がさすほど変わり映えのない平板な景色の中で、これまで順平は、このろくな思い出のない土地から出て行くことを考えない日は、一日もなかった。
 幼い頃から覚えていることといえば、あかぎれだらけの手で重い野菜の段ボール箱を運んだり、漁港の吹きさらしの突堤で荷揚げされた魚を並べたり、古い家の北向きの台所で小さい虫の湧いている米を研いだり……そんなのばかりだ。
 学校に行けば給食が食えるから、金を稼がない日は行っていたが、特に勉強が好きなわけではない。別れたくない友人や恩師がいるわけでも、熱中している部活や何かがあるわけでもない。皆が浮かれている恋愛などは、まったく縁のない順平にとっては意味不明な宇宙現象みたいなものだった。
 何なら今すぐにでも、この最低の暮らしから逃げられるのなら、否も応もなくそうしたいに決まっている。その点において、順平に迷いはなかった。
 工科学校、というからには学校の一種なのだろうが、そこでどんなことをやらされるにしても、現在の暮らしよりも悪くなることなどあるだろうか?
(ここから出て行けるなら、どんなことでも……)
 そう思いながら、順平の表情は沈んでいた。自分でも何故そうなのかは、よくわからない。病気の祖父を置いて行けないから? 借金が残っているから? それこそ、給料があれば返して行けるはずだし、祖父を病院に入れることだって――。
 もしかしたら順平は、今までどんなに苦しい時も誰も助けてなどくれなかったのに、急にこんなうまい話があるわけがない、どうせ錯覚で終わるなら最初から期待するべきではない……とでも思っていたのかもしれない。
 心のどこかで、夢を見たり、将来に希望を持ったりすることを少年は恐れていた。
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