縁側は火薬のにおい

碧井夢夏

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それがただの偶然でも、僕はあの日を忘れない

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 いつからか、夏休みというのはひどく厄介な時間になった。
 
 小学生の頃、僕は夏休みが毎年待ち遠しくて、毎日真っ黒に日焼けするまで外に出ては身近なところに眠る小さな発見を楽しんで過ごした。

 それが、今は塾の夏期講習がなんだとか、全国模試がどうだとか、冷房の効いた部屋に缶詰めになっている。

 今年もまた、塾の夏期講習が始まった。午前中は学校の宿題と塾の宿題に追われ、セミの声をBGMに自分の部屋に籠っている。小学生の頃は、近所のみんなで探検と称して連れ立っては、毎日心を躍らせていたのに。

「いってきまーす」

 特に覇気のない声で玄関を出ると、落ちかけたオレンジ色の太陽と熱気に顔を歪める。日の長い夏のうだる暑さに、早速参った。僕は歩くだけで精いっぱいだ。あの頃みたいに、昼間に走り回ることなんかもう一生できない気がする。
 すぐ近くに住む芽衣(めい)の家の前を通った時、ふと、もう1年以上は姿を見てないなあと気になった。

 芽衣――笹垣芽衣(ささがきめい)は、いわゆる幼馴染で、小学校までは一緒の学校だった。勉強が良くできる芽衣は、先生の薦めで中学受験をして見事合格。そんなわけで、中学校に入ってからは顔も合わせていない。

 最近の芽衣を知らないから、外見がどうなっているかとか、学校でどんなことをしているかだとかはよく分からなかった。

 ただ、芽衣の学校は中高一貫校だった気がする。そうすると……夏期講習や、高校受験とは無関係なんだな、なんてちょっと羨ましい。
 
 受験が早いか遅いかの違いだけど、今の僕にはもっとやりたいことがある気がするのに、それが全部受験勉強に変わっているのはいくらなんでも理不尽じゃないだろうか。

「あ……」

 こちらに向かってくる中学生らしき女の子がいた。思わず声を出してしまった僕を見て、向こうも驚いている。

「航平? え? いつぶり?」
「芽衣……だよね?」

 半袖のシャツから覗く腕が、妙に柔らかそうに見える。芽衣の見た目はすっかり年頃の女の子のそれで、僕の記憶に居た芽衣とは似ても似つかない気がした。気まずくて無理に笑顔を作ったら、芽衣も釣られてくしゃっと微笑んだ。そこで浮かんだ片方だけの笑窪を見た途端、ああ芽衣だなと、急に懐かしくなった。

 芽衣は黒い髪を耳の下まで伸ばしている。小学生の頃よりも、髪は短い。

「そう、ご近所の芽衣ちゃんだよー。なんだよ、航平。いつの間にか背え伸びちゃってさ」
「いや……うん、今年に入って5㎝伸びてるから、成長期?」
「いいなあ。あたしにも、成長期来るかなあ」

 僕には、これから塾がある。でも、なんだかここから離れがたかった。

「どこか、行くの?」
「ああ……塾……なんだけどさ……」
「訳あり?」
「いや……なんていうか……最近ちょっと疲れちゃって」

 僕が苦笑いをすると、芽衣は驚いた顔を見せた後で、
「じゃあ、一緒にさぼっちゃおうよ」
と嬉しそうに言った。



 久しぶりの芽衣の家だ。前に来た時に比べて、心なしか部屋がくたびれた感じが気になったけど……。芽衣のお母さんはどうしてるんだろう。

「今ねえ、うち、お母さん夜勤の仕事しててさ」
「へ、へえ」

 なんだか芽衣が知らない子みたいで、僕はひたすら緊張している。

「はい、麦茶だよ」
 
 芽衣が入れてくれた麦茶。僕はキッチンのテーブル席に着いている。グラスがすぐに汗をかき始めていた。芽衣が帰って来てスイッチを入れたエアコンは、まだ起動音を立てている。

「航平は、学校楽しい?」
「うーん……。どうかな。楽しいって思ってることは、正直ないな」
「そっか」

 芽衣はそれだけ言うと、頬杖をついて何かを考えていた。

「今日、花火だね」
「あ、今日だっけ?」
「えー。すぐそこで上がるのに無頓着すぎだよ。うちの縁側から見ようよ」

 うちの縁側、と言われ、良いのだろうか? と、ひたすら疑問が浮かぶ。いくら近所に住んでいるからといって、花火が上がるまであと1時間は掛かる。芽衣のお父さんは帰ってこないのだろうか。

「ご飯食べた?」
「あ、うちを出る前に軽く……」
「そっか。じゃあ、私は何か余り物でも適当に食べておこうかな」

 そう言って芽衣は冷凍炒飯をレンジで温めて食べ始める。全然知らない女の子を見ている気分で、居心地が悪い。

「ここで、宿題とかしてれば?」
「あ、ああ……」

 僕は塾の教材を開いて、今日やるべきだった項を読み始めた。それを向かいの席に座っている芽衣がじっと見ている。

「難しい問題やってるんだねえ」
「芽衣……いや、笹垣さんの中学だと、今、どんなことやってるの?」
「うーん、色々。最近は英文スピーチ発表会の準備でブルーだよ」
「はは、そっちの方が、こんな数学問題より将来役に立ちそう」
「そんなこと言ったらダメでしょ。勉強は……どこで何が役に立つか分からないんだよ」

 真剣な顔で言う芽衣は、やっぱり僕の知らない子の顔をしている。僕は何に役に立つか分からない方程式を見ながら、芽衣の顔を時々盗み見ていた。

 そのうち芽衣もノートを開いて何かを書き始める。ぶつぶつと英単語を呟きながらスピーチの原稿を作っているのか、歌うようなリズミカルな発音が心地良い。

 ドォーーン……。
 僕たちが目の前の勉強に向き合っていると、家の屋根が揺れた。

「あ、花火始まったよ!」

 そう言うと芽衣は急いで縁側に向かう。僕と芽衣はそこに腰かけて、斜め上の空に浮かび上がる打ち上げ花火の光を眺めた。

「最近の花火ってちょっと形が違うんだね」
「ほんと、細かい光の演出が多いねえ」

 僕たちは、特に会話もなくひたすら縁側に座っていた。花火は30分程度で全てが終わる。最後に上がった花火は規模も音も大きくて、縁側にいる僕たちに火薬と煙の匂いを強く残した。

「終わっちゃったな――」
「うん……もう、僕、帰ろうかな」
「大丈夫なの? もう、帰っても」
「自習室に寄らなければ、こんな時間に帰って来るから」

 芽衣は、そっか、とだけ言って僕を見送った。
 僕は漂う空気に残った火薬の匂いを感じながら、5軒先の家を右に曲がる。あっという間に自宅に着いた。



「ああ、航平。そう言えば、笹垣さんちが引っ越したって知ってる? ほら、芽衣ちゃんっていたじゃない、小学校の頃」
「えっ?」

 僕が芽衣の名前を聞いたのは、それから半月後のことだ。母さんからは詳しい事情は聞けなかったけど、家族の事情とやらで芽衣は車で2時間程度の町に引っ越したらしい。

 こんなことなら、連絡先とかSNSのアカウントとか、何かしら聞いておけば良かったなと後悔した。あの日の芽衣は、既に自分が引っ越すことも分かっていたんだろう。それなのに連絡先を教えてくれなかったってことは……つまり、そういうことなんだと思う。

 それからの僕は、やっぱり塾と学校の日々だった。
 勉強をしていると、不意に芽衣が英文スピーチを準備していたのを思い出す。
 そして僕は、数学の方程式が好きになった。理由は、よく分からない。

 無事に高校受験も終わって、高校に入ってからもやっぱり塾と学校の日々になった。
 中学校の頃と違うのは、勉強を無駄な知識だと思わなくなったこと。
 難しい問題を解いている時、何故か花火の日の火薬の匂いをふと思い出す。

 高校に入って、花火が上がる日は男女がデートをする日なんだと知った。
 芽衣の家の縁側で見たあの花火の日も、近所の神社では縁日があり、カップルが一緒に歩く特別な日らしい。

 だから、高校で友達になった同級生たちには興味本位で聞かれる。

「航平、女の子と花火大会行ったことある?」

 僕は、あの日を思い出してこう答えている。

「女の子と2人きりで、穴場スポットで花火を見たよ。もう、その子とは連絡も取れなくなっちゃったけどね」
「なんだそれ、振られてんじゃんか」

 同級生は僕が女の子と花火を見た事実に驚きながら、最終的には安心したような表情を浮かべる。
 そして、あの日がなければ、もしかすると僕はここにはいないんじゃないかって、漠然と思うんだ。

 芽衣、あの家はもう無くなってしまったけど、夏になると毎年思い出すよ。
 縁側で見た大きな花火と、あの火薬の匂い、そして、君が花火を見ながら小さく呟いた言葉。

「このまま世界が止まったら、楽しいのにね」

 だから、僕の花火の記憶は、そこで時間を止めている。


 <完>
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感想 1

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みんなの感想(1件)

藤野ひま
2022.08.10 藤野ひま

淡くて切ない青春。凄く大事件が起こるわけではないのに、胸に残る出来事。とにかく切ない。
最後が素敵で好きです。
そして芽衣ちゃん視点も読んでみたくなりました。

碧井夢夏
2022.08.10 碧井夢夏

藤野ひまさま

感想ありがとうございます!!お読みいただき大変嬉しいです・・!
青春時代って、こういう出来事が一番心に残ったりするんだよなあとか、そんなことを考える夏の花火とお祭りの風景・・。大人になればなるほど、別れに慣れていくような気がして。

本当にどうもありがとうございました!!

解除

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