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4章
私なら大丈夫
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廊下を歩いていると、向こうから執事長様が歩いてくるのが見える。
クリスティーナの周りで働いている方なのだから、この辺にいれば会う確率は高いのかもしれないけれど……。
会いたくなかった。心から会いたくなかった。
「おや? なぜあなたがひとりで歩いているのですか?」
案の定、突っかかってくるじゃないの……。
「ごきげんよう、執事長様。それでは……」
「質問に答えてください」
ダメだったか……。無理矢理通り過ぎる作戦は……。
せっかく横を通り過ぎるところまで歩けたのに。
「失礼いたしました、執事長様。皇子殿下にお話ししたいことがございますので」
「嫌な予感しかしませんが、妃殿下が許可を?」
「ええ、だってわたくしたちは友人ですもの」
ほほえみかけると、執事長様は右目だけをピクリとさせて引きつった顔をした。
私のこの笑顔はユリシーズを過呼吸に陥らせることもできるのに、嫌悪感で返してくれるところはバートレットと似ている。
……まさか、執事という職業の方には効かないのかしら。
「勘違いされないことです。あなたと妃殿下ではガチョウと白鳥ほどの違いがあります」
「あら、ガチョウと白鳥が仲良くしていると困ることでもおありなのかしら?」
執事長様は額に深い皺を刻んで、私を思い切り睨みつけてきた。
口で対抗できないからって顔の圧力で主張をするのはやめて欲しい。
「ガチョウの肝は美味しいでしょう? 毒などありませんけれど?」
「自分をガチョウに例えるところは褒めて差し上げてもいいのですが、存在自体が危険だという意味です。白鳥をガチョウにする危険性があります」
「いやですわ。白鳥がガチョウになるわけがないでしょう?」
おほほ、と笑ってどんな冗談なのかしら? と軽く受け流す。
生物の違いは超えられないのよ。人狼は人間の見た目になれても、人間にはなれないのだから。
「白鳥がガチョウになりたがる、という意味ですが」
「うふふ、面白いですね。わたくしは急ぎますので、こちらで……」
「まだ話は終わっていません」
終わっています! 私の中ではもう終わっております!!
一歩踏み出した足を止めて、仕方がないので執事長様の方に振り返る。
折角ここから離れられると思ったのに。
「妃殿下から手紙は渡されたのですか?」
「ええ、無事に」
「中は確認されておりましたか?」
そんなこと、報告する必要ある?!
ああもう。嘘を言ってもクリスティーナに確認されたらばれてしまうし……。
正直に言うしかないかしらね。
「……妃殿下は、他人の手紙を読むのは自分のすることではない、とおっしゃっておりました」
「妃殿下あての手紙かもしれないのにですか?」
「オルブライト家から来た手紙ですから、妃殿下は興味がなかったのだと思います」
「ああ、そういうことですか」
実際に言われた内容とはニュアンスが違うけれど、ユリシーズの手紙をクリスティーナが読みたがるはずがないのはご納得いただけるはず。
「次回からは、妃殿下の横で音読して差し上げる必要がありますね」
「構いませんが、恐らく執事長様が恥ずかしい思いをされることになりますけれど」
汚物を見るような目でこちらを見て来る。
「夫は、わたくしに対して情熱的なので」
何を想像してくれたのかしらと思って付け加えると、執事長様は頭を左右に振って可哀想な人を見る目でこちらを見てきた。汚物を見る目よりも憐みの目を向けられる方が苛つくわね。
「皇子殿下に何を言うつもりか存じ上げようとも思いませんが、問題発言が報告され次第、あなたはクビですからね」
「……」
どの程度の発言が問題になるのか知らないけれど、今から私が話そうとしているのは差し出がましい内容になるはず……。
クビになってここから放り出されたら、あんまり好ましいことにはならないかしらね。
ご忠告ありがとうございます、と逃げるようにして執事長様から離れると、その後はもう追ってこなかった。
私が失言をすればいいだけだと納得したのかしら。
「こんなことなら、ウィルを連れてくればよかった……護衛もつけずに行くなんて無謀過ぎたわ」
急に、ひとりで皇子殿下のところに行くのが不安になってきた。
この間はクリスティーナがいてくれたから心強かったけれど、甲冑の兵士たちに囲まれた環境で皇子殿下に立ち向かうことなどできるだろうか。
その場で、不敬だと連れて行かれてもおかしくない。
クリスティーナのためだと息まいて出て来てしまったけれど、皇子殿下に間違いを認めさせようとしているわけだし、普通に考えれば夫婦のことに口出しをするなんて失礼に決まっている。
どんどん足が重く感じていくし、後悔の気持ちに押しつぶされそう。
クリスティーナのことを考えれば何かしなくちゃって思うけれど、それがあの謁見の間に行くことなのかというのは甚だ疑問だ。
護衛の兵士たちは聞かないふりをしてくれるだろうけれど、皇子殿下のお渡りについて発言するような侍女、帝国が始まって以来だと思う。むしろ、そんな侍女がいたらちょっとした伝説になっていてもおかしくない。
クリスティーナの部屋を出た時の強気な自分が、どんどん小さくなっていく。
執事長様がクビだとか言うから不安になるじゃない。
皇子殿下にどんな反応をされるか分からない。
ユリシーズに再会する前に、私が断罪されてしまうかも……。
前回は公爵様とユリシーズのことだったから皇子殿下も和やかに聞いてくれたけれど、これから言おうとしていることは、あまりにも私に関係のないことで……。
「奥様!」
その時、遠くからこちらに向かってくる一人の使用人が見える。
「……ウィル??」
まさか、どうして??
さすが人狼と言うべきか、あっという間に私の元に走って来て、息も切らさずに立膝で胸に手を当てて下からこちらを見ている。
「お呼びでしょうか??」
キラキラとした目が眩しい。さっき私、ウィルがいてくれたらって口に出して言っていた……?
「よくここが分かったわね……聞いていたの?」
「はい。エイミーさんに、奥様の声をなるべく拾うように言われておりました。あと、僕は鼻が利くので奥様のいる場所が分かりますから」
人狼ってすごい。まさか、この状況で駆けつけてくれるなんて。
「ありがとう、ウィル。あなたがついてきてくれると思うと、勇気が湧いて来たわ」
「はい。あと、エイミーさんから伝言で、『奥様は相手に対する好意をしっかりと伝えてからお話した方が相手を怒らせずに話せます』とのことでした」
「……エイミー。言ってくれるじゃないの」
ウィル経由で、私がしようとしていることが伝わっているのかしら。
相手への好意、かあ……。
そういえば、皇子殿下についてほとんど知らない。
こんなことなら、もう少し皇子殿下についてクリスティーナに聞いてから来ればよかった。
「行くわよ、ウィル。どうなるか分からないけれど、私と皇子殿下の狙いは一緒だと思うから」
「はいっ! 参りましょう!」
嬉しそうに返事をしてくれたウィルがかわいい。
私の緊張が伝わっていないわけではないと思うのに、どうしてこうも健気に寄り添ってくれるのかしらね。
クリスティーナから聞いた通り、謁見の間に並んでいる人はいなかった。
ウィルを連れて大きな扉の前に立つ。閉められた扉は見上げるとてっぺんまでがようやく見える高さになっていて、よく見ると蔦や花が彫られていた。まるで扉に植物が絡まっているようなデザインだ。
深呼吸をして、ドキドキとする鼓動を抑えようとした。
頭が真っ白にならないように、ちゃんと話さなくちゃと思うのだけれど……。
「奥様なら、きっとうまくできます」
「ウィル……」
「ご主人様をあそこまで変える力をお持ちなのですから、自信を持ってください」
「ありがとう。でも、ユリシーズがどれほど変わったのかは知らないわ」
小さな声で励ましてくれるウィル。このお城に来てから、ユリシーズは私と一緒にいると他の人の前とは別人らしいということはなんとなく理解した。
「以前のご主人様は、にこりともしませんでした」
「……そうなの?」
私は、ユリシーズに出会ってからずっと、彼の嬉しそうに笑う顔を見てきた。
「実は、皇子殿下も笑わせたの。私、人を笑わせる才能があるのかしら?」
「ご主人様は、その才能でお幸せそうです。きっと皇子殿下も同じです」
人を笑わせられるのが今回プラスに働くのかは疑問だけれど、ウィルが言うのなら信じてみてもいいかもしれない。
「さて、行きましょうか」
「はい」
こそこそ話していたのを止めて、大きく息を吸った。
「皇子殿下、妃殿下の侍女のオルブライト伯爵夫人です」
扉の向こうに向けて、大きな声を出す。「入れ」と抑揚のない声が中から聞こえた。
大きな扉がゆっくりと内側に開き、遠くに座る皇子殿下が見える。
「夫人がひとりでやってくるとは、どうした? 従者と一緒か。子どものようだが、その者に関する相談か?」
「いいえ、殿下。この者は、護衛として連れて参りました。若く見えるかもしれませんが、運動神経がとても良い料理人なのですよ」
赤い絨毯を一歩一歩踏みしめると皇子殿下がどんどん近くなる。
「オルブライト伯爵も運動神経が人間離れしていると聞くが、オルブライト伯爵領にはそういった人材が豊富なのだろうか?」
「人間離れ、ですか」
そもそも人間ではありませんが。
……なんてことを思いながら、うっかり口に出すこともなく皇子殿下の前まで到着した。
腰を落とし、頭を下げる。
ウィルは私の一歩後ろで立膝をついていた。
「オルブライト伯爵夫人、余を訪ねに来た理由を聞こう」
「はい。ですが、その前に……」
面を上げて、皇子殿下を真っすぐ見つめる。
「あまり他人に聞かせたくない話なのですが、殿下と二人きりになることはできないのでしょうか?」
「……残念ながら、それは無理だ」
「では、わたくしがここで何を話しても怒らずに聞いてくださいますか?」
皇子殿下は明らかに不審な目を向けてきた。そりゃ、怒るかどうかは内容によるに決まっている。
「わたくしが尊敬と親愛でお仕えしている、妃殿下のことなのですが」
「……妻が一緒ではないというのは、そういうことか」
足が震えて来るけれど、もう逃げることはできない。
変なことを言ってクリスティーナの立場を余計に悪くしてはいけないから、間違わないようにしないと……。
クリスティーナの周りで働いている方なのだから、この辺にいれば会う確率は高いのかもしれないけれど……。
会いたくなかった。心から会いたくなかった。
「おや? なぜあなたがひとりで歩いているのですか?」
案の定、突っかかってくるじゃないの……。
「ごきげんよう、執事長様。それでは……」
「質問に答えてください」
ダメだったか……。無理矢理通り過ぎる作戦は……。
せっかく横を通り過ぎるところまで歩けたのに。
「失礼いたしました、執事長様。皇子殿下にお話ししたいことがございますので」
「嫌な予感しかしませんが、妃殿下が許可を?」
「ええ、だってわたくしたちは友人ですもの」
ほほえみかけると、執事長様は右目だけをピクリとさせて引きつった顔をした。
私のこの笑顔はユリシーズを過呼吸に陥らせることもできるのに、嫌悪感で返してくれるところはバートレットと似ている。
……まさか、執事という職業の方には効かないのかしら。
「勘違いされないことです。あなたと妃殿下ではガチョウと白鳥ほどの違いがあります」
「あら、ガチョウと白鳥が仲良くしていると困ることでもおありなのかしら?」
執事長様は額に深い皺を刻んで、私を思い切り睨みつけてきた。
口で対抗できないからって顔の圧力で主張をするのはやめて欲しい。
「ガチョウの肝は美味しいでしょう? 毒などありませんけれど?」
「自分をガチョウに例えるところは褒めて差し上げてもいいのですが、存在自体が危険だという意味です。白鳥をガチョウにする危険性があります」
「いやですわ。白鳥がガチョウになるわけがないでしょう?」
おほほ、と笑ってどんな冗談なのかしら? と軽く受け流す。
生物の違いは超えられないのよ。人狼は人間の見た目になれても、人間にはなれないのだから。
「白鳥がガチョウになりたがる、という意味ですが」
「うふふ、面白いですね。わたくしは急ぎますので、こちらで……」
「まだ話は終わっていません」
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一歩踏み出した足を止めて、仕方がないので執事長様の方に振り返る。
折角ここから離れられると思ったのに。
「妃殿下から手紙は渡されたのですか?」
「ええ、無事に」
「中は確認されておりましたか?」
そんなこと、報告する必要ある?!
ああもう。嘘を言ってもクリスティーナに確認されたらばれてしまうし……。
正直に言うしかないかしらね。
「……妃殿下は、他人の手紙を読むのは自分のすることではない、とおっしゃっておりました」
「妃殿下あての手紙かもしれないのにですか?」
「オルブライト家から来た手紙ですから、妃殿下は興味がなかったのだと思います」
「ああ、そういうことですか」
実際に言われた内容とはニュアンスが違うけれど、ユリシーズの手紙をクリスティーナが読みたがるはずがないのはご納得いただけるはず。
「次回からは、妃殿下の横で音読して差し上げる必要がありますね」
「構いませんが、恐らく執事長様が恥ずかしい思いをされることになりますけれど」
汚物を見るような目でこちらを見て来る。
「夫は、わたくしに対して情熱的なので」
何を想像してくれたのかしらと思って付け加えると、執事長様は頭を左右に振って可哀想な人を見る目でこちらを見てきた。汚物を見る目よりも憐みの目を向けられる方が苛つくわね。
「皇子殿下に何を言うつもりか存じ上げようとも思いませんが、問題発言が報告され次第、あなたはクビですからね」
「……」
どの程度の発言が問題になるのか知らないけれど、今から私が話そうとしているのは差し出がましい内容になるはず……。
クビになってここから放り出されたら、あんまり好ましいことにはならないかしらね。
ご忠告ありがとうございます、と逃げるようにして執事長様から離れると、その後はもう追ってこなかった。
私が失言をすればいいだけだと納得したのかしら。
「こんなことなら、ウィルを連れてくればよかった……護衛もつけずに行くなんて無謀過ぎたわ」
急に、ひとりで皇子殿下のところに行くのが不安になってきた。
この間はクリスティーナがいてくれたから心強かったけれど、甲冑の兵士たちに囲まれた環境で皇子殿下に立ち向かうことなどできるだろうか。
その場で、不敬だと連れて行かれてもおかしくない。
クリスティーナのためだと息まいて出て来てしまったけれど、皇子殿下に間違いを認めさせようとしているわけだし、普通に考えれば夫婦のことに口出しをするなんて失礼に決まっている。
どんどん足が重く感じていくし、後悔の気持ちに押しつぶされそう。
クリスティーナのことを考えれば何かしなくちゃって思うけれど、それがあの謁見の間に行くことなのかというのは甚だ疑問だ。
護衛の兵士たちは聞かないふりをしてくれるだろうけれど、皇子殿下のお渡りについて発言するような侍女、帝国が始まって以来だと思う。むしろ、そんな侍女がいたらちょっとした伝説になっていてもおかしくない。
クリスティーナの部屋を出た時の強気な自分が、どんどん小さくなっていく。
執事長様がクビだとか言うから不安になるじゃない。
皇子殿下にどんな反応をされるか分からない。
ユリシーズに再会する前に、私が断罪されてしまうかも……。
前回は公爵様とユリシーズのことだったから皇子殿下も和やかに聞いてくれたけれど、これから言おうとしていることは、あまりにも私に関係のないことで……。
「奥様!」
その時、遠くからこちらに向かってくる一人の使用人が見える。
「……ウィル??」
まさか、どうして??
さすが人狼と言うべきか、あっという間に私の元に走って来て、息も切らさずに立膝で胸に手を当てて下からこちらを見ている。
「お呼びでしょうか??」
キラキラとした目が眩しい。さっき私、ウィルがいてくれたらって口に出して言っていた……?
「よくここが分かったわね……聞いていたの?」
「はい。エイミーさんに、奥様の声をなるべく拾うように言われておりました。あと、僕は鼻が利くので奥様のいる場所が分かりますから」
人狼ってすごい。まさか、この状況で駆けつけてくれるなんて。
「ありがとう、ウィル。あなたがついてきてくれると思うと、勇気が湧いて来たわ」
「はい。あと、エイミーさんから伝言で、『奥様は相手に対する好意をしっかりと伝えてからお話した方が相手を怒らせずに話せます』とのことでした」
「……エイミー。言ってくれるじゃないの」
ウィル経由で、私がしようとしていることが伝わっているのかしら。
相手への好意、かあ……。
そういえば、皇子殿下についてほとんど知らない。
こんなことなら、もう少し皇子殿下についてクリスティーナに聞いてから来ればよかった。
「行くわよ、ウィル。どうなるか分からないけれど、私と皇子殿下の狙いは一緒だと思うから」
「はいっ! 参りましょう!」
嬉しそうに返事をしてくれたウィルがかわいい。
私の緊張が伝わっていないわけではないと思うのに、どうしてこうも健気に寄り添ってくれるのかしらね。
クリスティーナから聞いた通り、謁見の間に並んでいる人はいなかった。
ウィルを連れて大きな扉の前に立つ。閉められた扉は見上げるとてっぺんまでがようやく見える高さになっていて、よく見ると蔦や花が彫られていた。まるで扉に植物が絡まっているようなデザインだ。
深呼吸をして、ドキドキとする鼓動を抑えようとした。
頭が真っ白にならないように、ちゃんと話さなくちゃと思うのだけれど……。
「奥様なら、きっとうまくできます」
「ウィル……」
「ご主人様をあそこまで変える力をお持ちなのですから、自信を持ってください」
「ありがとう。でも、ユリシーズがどれほど変わったのかは知らないわ」
小さな声で励ましてくれるウィル。このお城に来てから、ユリシーズは私と一緒にいると他の人の前とは別人らしいということはなんとなく理解した。
「以前のご主人様は、にこりともしませんでした」
「……そうなの?」
私は、ユリシーズに出会ってからずっと、彼の嬉しそうに笑う顔を見てきた。
「実は、皇子殿下も笑わせたの。私、人を笑わせる才能があるのかしら?」
「ご主人様は、その才能でお幸せそうです。きっと皇子殿下も同じです」
人を笑わせられるのが今回プラスに働くのかは疑問だけれど、ウィルが言うのなら信じてみてもいいかもしれない。
「さて、行きましょうか」
「はい」
こそこそ話していたのを止めて、大きく息を吸った。
「皇子殿下、妃殿下の侍女のオルブライト伯爵夫人です」
扉の向こうに向けて、大きな声を出す。「入れ」と抑揚のない声が中から聞こえた。
大きな扉がゆっくりと内側に開き、遠くに座る皇子殿下が見える。
「夫人がひとりでやってくるとは、どうした? 従者と一緒か。子どものようだが、その者に関する相談か?」
「いいえ、殿下。この者は、護衛として連れて参りました。若く見えるかもしれませんが、運動神経がとても良い料理人なのですよ」
赤い絨毯を一歩一歩踏みしめると皇子殿下がどんどん近くなる。
「オルブライト伯爵も運動神経が人間離れしていると聞くが、オルブライト伯爵領にはそういった人材が豊富なのだろうか?」
「人間離れ、ですか」
そもそも人間ではありませんが。
……なんてことを思いながら、うっかり口に出すこともなく皇子殿下の前まで到着した。
腰を落とし、頭を下げる。
ウィルは私の一歩後ろで立膝をついていた。
「オルブライト伯爵夫人、余を訪ねに来た理由を聞こう」
「はい。ですが、その前に……」
面を上げて、皇子殿下を真っすぐ見つめる。
「あまり他人に聞かせたくない話なのですが、殿下と二人きりになることはできないのでしょうか?」
「……残念ながら、それは無理だ」
「では、わたくしがここで何を話しても怒らずに聞いてくださいますか?」
皇子殿下は明らかに不審な目を向けてきた。そりゃ、怒るかどうかは内容によるに決まっている。
「わたくしが尊敬と親愛でお仕えしている、妃殿下のことなのですが」
「……妻が一緒ではないというのは、そういうことか」
足が震えて来るけれど、もう逃げることはできない。
変なことを言ってクリスティーナの立場を余計に悪くしてはいけないから、間違わないようにしないと……。
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