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閑話
番外編・貴女のいない世界など
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※アイリーンが公爵家に攫われた後のユリシーズのお話です
数日続いた晴れの日が、久しぶりに土砂降りになった。
朝から暗い部屋で、執事のバートレットがこれでは狩りにはいけませんねと言った時、ユリシーズはもう猪などどうでも良くなっていた。
二言三言、バートレットはユリシーズに何か言ったのか独り言なのかを発すると、部屋を後にする。ユリシーズは一人きりで部屋に残された。今は昼のディエスだ。
アイリーンの匂いが残る自室のベッドでふて寝をしながら、これからじっくり事情を聞こうと思っているペトラに対して侮り過ぎたのだろうかと自分の判断を恥じる。
人狼の執着や彼女の性格をもっと理解して、泳がせておくにしてもアイリーンに危害が加わらないようにするべきだったのだ。
外ではざあざあと雨が降っており、鋭い耳に大きく響く。余計に気持ちが欝々とした。
横たわるベッドに顔までを埋めると、アイリーンに包まれているような匂いがする。もうここにはいないのだと思ったら現実逃避の方法を知りたくなった。
人狼は雄が大きな獲物を捧げるのが求愛行動だった。アイリーンとは結婚してから始まった関係だが、改めて猪を捧げて人狼式のプロポーズを仕切り直そうと思っていたのだ。
アイリーンは危険だから止めて欲しいと怒っていたが、ユリシーズは狼にやられる心配はない。衝撃に強い肉体というのもあるが、猪の動きはユリシーズにとっては分かりやすいものだからだ。
大きな猪を見せてアイリーンを喜ばせるつもりが、怒らせた挙句にとんだ結果を生んでしまった。
「アイリぃーンんんんん……」
ユリシーズが静かに泣くと、遠くから「ご主人様」「奥様は帰ってまいりますよ」といたわられているらしい言葉がかかる。こういう時に筒抜けになっているというのは、なにかと都合が悪い。
「放っておいてくれないか」
拗ねるように言い放ち、こうなったのも自分の甘さなのだとユリシーズは自分を責めて寂しさに泣いた。
アイリーンの使っていた枕に顔を埋めて一生懸命その匂いを嗅ぐ。
その度、大好きな匂いだと思うのに空しい。
「もう私は狩りには行かない。アイリーンがいないのに、狩りになど行ってたまるか」
周りも聞いているだろうと、一人きりの部屋でユリシーズは言った。
「ご主人様、満月の夜に皆で狼になってしまうのはまずいので、適当に鳥を絞めて生き血や生肉を配ろうと思うのですが」
遠くで執事が焦った様子で言っている。「好きにしろ」とユリシーズは返事をして寝る気もないのに目を閉じた。
人狼は目を瞑るとすぐに短い睡眠に入ることができる。人間と違い長時間の睡眠をとることはせず、細かく短い睡眠をとれば充分な身体なのだ。
このまま寝て起きたら、アイリーンが帰ってきているかもしれない。
そんな現実逃避が無かったといえば嘘になる。
「ほら、ユリシーズ。起きて」
アイリーンの膝で幸せ心地のまま、こんな目覚めが一生続くのを夢に見ていた。そして、本当に目が覚めた。
アイリーンの匂いに包まれて、ハッと飛び起きたユリシーズはその姿をキョロキョロと探す。
そうして、枕やベッドに残るアイリーンの残り香だったと分かると大きな声を上げた。
「うぁああああーーーー!!」
主人の悲痛な叫び声が響く屋敷は、まだ昼にもなっていない。
雨の音が続く中、各々が何と声をかければいいのか分からないでいるようだった。
ユリシーズはのそりと起き上がり、ゆっくりと雨の降るバルコニーに出て行く。
激しい雨に全身を打ち付けられ、着ていた洋服が重しのように身体にのしかかる。
「アイリーン……私は……私は……」
黒い髪が顔にべたりと張り付き、涙と雨が混じって頬を伝っていく。
その涙なのか雨なのかが身体を通ってバルコニーに流れていくと、ベッドで染みついたアイリーンの匂いは雨の匂いに変わっていた。
「家族が誰もいなくなってしまったこの世界に、貴女がいれば……この先を生きていけると思ったのです。アイリーンと共に新しい家族が欲しくて、だから改めてプロポーズを……貴女に……喜んで欲しくて……」
雨の中の独白は、屋敷の中の使用人たちにも聞こえていなかった。
それほどこの日の雨は強く、ユリシーズの全てをかき消す力を持っていたのだ。
ユリシーズは片手をバルコニーの手すりにかけたが、そのままそこに腰を下ろした。
へたり込んだまま強い雨に打ち付けられている。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。晴れ間の見えない空から雨は続けて降りてくるばかりだ。涙は枯れることなく流れ続け、ユリシーズは気を失っていた。
***
「……いてえ」
目が覚めたユリシーズは、頭から生えた黒い耳で雨の音を聞きながらゆっくりと身体を起こした。
頭が割れるように痛い。そしてどうやら自分が異常な熱を持っていることに気付いた。
「ふっざけんなよ、ディエスのやつ……。アイリーンを攫われただけでも許せないってのに、勝手に風邪なんかひきやがって」
ノクスの記憶の隅に、雨の中で放心しているディエスがいる。
使用人が気付いたのは随分と後で、バルコニーで気を失っていたディエスは既に高熱を出していた。
「くそっ……身体が思うように動かねえ」
夜に活動するノクスは、本来であれば起きている時間が長い。
だが、身体の重さに堪えられず、一度起こした身体をもう一度ベッドの上に横たえた。
ぼすん、と羽毛の中に飛び込んだ折に、ふわりとアイリーンの残り香が鼻をくすぐる。
普段なら尻尾を振りながら堪能するはずの大好きな匂いに、ノクスは静かに涙を流した。
「お前がいなきゃ俺は……一人なんだぞ、アイリーン」
猪を狩ろうと決めたのはノクスだ。大物で生け捕りが難しいからこそ、アイリーンと一緒に過ごす初めての満月前にふさわしいと考えたのだ。
そもそもアイリーンが危険な狩りを嫌がっていたのが自分を心配してくれていたのだと思えば、頑なになる必要などなかったはずだ。
人狼は伴侶と死別すると、後を追うように命を落とす。
食事が喉を通らなくなって、衰弱するからだ。
ああ、そうか、とノクスは思う。
姿が見えず香りだけになった伴侶の亡霊を探し、自分もそちらに行こうと思うのは至極真っ当だ。
愛する伴侶のいない世界など、海の底に沈められて生きるのと変わらない。
それからユリシーズは寝たきりになってしまった。
熱は一向に下がらず、水分だけは取れているが意識は常に朦朧としていた。
夢と現実の境目が分からない夢ばかりを見て、アイリーンの名前を呼びながら泣き続けている。
飲み物や流動食を持ってくる使用人は、これまで見た中で一番弱っているユリシーズに胸を痛めながら部屋を退出しているようだった。
元気のない主人を案じていると、そこに一通の手紙が届く。
獅子の封蝋印が押され、差出人は「クリスティーナ・フリートウッド」となっているが、手紙にはアイリーンの匂いが残っていた。
「ご主人様、奥様からです!」
手紙を受け取った使用人が声を上げると、ユリシーズはベッドから起き上がる。
奥様から、何が? と不思議に思っていると、シンシアが息を切らしながら部屋の扉まで走ってきた。
「ご主人様っ……。奥様が、奥様がお手紙を」
「こちらに」
シンシアは扉を開けるとベッド脇に来て手紙をユリシーズに渡し、すぐに部屋を退出した。
赤い獅子の封蝋印は、忌々しい公爵家の証。
そこに書かれた差出人名は公爵家次女の姫君、クリスティーナの名だ。
筆跡はクリスティーナと違わないものだが、以前アイリーンはクリスティーナと同じ字で手紙を寄越して来たことがある。
ユリシーズはベッドで身体を起こしたまま、手紙を開封した。
赤い獅子は粉々に砕け、中の手紙からアイリーンの匂いがする。
『大切なユリシーズへ
何も言わずに家を出てきてしまったから、心配しているかしら?
久しぶりの公爵家、独身時代に戻ったように過ごしています。もう暫くしたら帰るから、待っていてくださいね。
家を出てくる前に喧嘩をしてしまったから謝りたかったの。わたくしが戻るまで、そちらは頼みます。
クリスティーナ・オルブライト』
アイリーンとして手紙を出せないことくらい分かっていた。
ユリシーズは、フリートウッド公爵家で内容をチェックされたに違いない手紙を読み終えると、便箋に口づけようとして違和感を覚える。
書かれた手紙の上から、何かでうっすら痕を付けた形跡があった。透明で、匂いからして蝋らしい。
これはアイリーンからのメッセージだろうかとユリシーズはそっと蝋の流れをなぞってみる。
『昼と夜が好き』
手紙には、公爵家に知られても意味が分からないであろうメッセージが添えられていた。
アイリーンは、ユリシーズの昼の姿も夜の姿も好きなのだと……このタイミングで伝えてくれたのだ。
「愛しいアイリーン……。昼も夜も、貴女を愛しています」
ユリシーズは起き上がって机に向かう。
久しぶりに起きて活動をしている。アイリーンへの返事を書くために、インクとペンを出して気持ちをしたためた。
手紙を速達で出した日の夜、満月前夜にユリシーズは生き血を飲むのを止めた。
ノクスは、満月の日にアイリーンを一目見ようと決めたのだ。
ディエスが協力してくれなければ夜遅くの到着になってしまうが、途中まで馬車で公爵家に向かい、夜の森を狼の姿で駆け抜けるつもりだ。
狼の姿をしたユリシーズは、時速70㎞程度のペースで走り続けることができる。オルブライト家の馬車が急いでも時速20㎞程度で進むことを考えると、狼化は機動力の面でかなり有利だ。
人の姿では到底そのスピードと持久力を維持することはできない。加えて猟銃にも怯えずに済むのだから、公爵家に潜り込むのに都合が良かった。
公爵家で無事な姿が見られればいい。
狼の姿の自分に気付くだろうかと不安になったが、気付かれなくてもアイリーンの匂いがする部屋を探し当てて様子が分かれば充分だと思った。
屋敷内の使用人たちが生き血や生肉を堪能する中、ノクスはバルコニーで満月に一晩足りない月を見上げる。
「ご主人様」
気付くと、隣にバートレットが立っていた。
「奥様のところに向かわれる予定なのですね?」
「満月の夜なら、狼化して走っていくことができる。ディエスが嫌がっても俺だけで行くさ」
「昼のご主人様も協力してくださることでしょう。勿論わたくしもお供いたします」
「老体に長時間の運動が耐えられるのか?」
「侮られては困りますね。わたくしめは人狼界イチの俊足で有名な、ヘクター・バートレットですよ?」
「それが現役かどうか楽しみだな。足手まといにはなるなよ」
「かしこまりました」
屋敷の庭では人狼たちが生肉を貪り、生き血で乾杯をしている。
本来ならその中心にノクスが立ち、全員を労(ねぎら)う場だ。
「ここに、アイリーンがいるはずだった」
「あの奥様は、最初から規格外でしたからね」
「俺は身代わりにアイリーンが来てくれてよかった。運命のいたずらってやつは、時々にくいことをしてくれる」
「初めて奥様をお迎えした時、この方はご主人様をお救いになるかもしれないと思いました。何しろ、沢山の傷を抱えながらも寒い冬空のような澄んだ目をされておりましたから」
ノクスの隣で、バートレットはアイリーンが到着した日のことを思い出しているらしい。
「久しぶりに人狼の族長夫人が人間だ。バートレットは気に食わなかったんじゃないのか?」
「人間か人狼かなど、大して気にしてはおりません。匂いは苦手ですがね。もともとわたくしは雌の匂いが強い個体が苦手なのですよ」
ノクスは小さく笑って人狼たちの楽しそうな様子を見る。
「これまで出会った女に全く惹かれなかったのは、アイリーンに出会うためだったらしい」
「番というのは昔からそういうものです」
狼化する体質を利用するのは初めてだった。
これまでは不便でしかなかった変身能力を、伴侶に会いに行くために使おうとしている。
「会えなくなるだけでこんなに辛いとは思わなかった。厄介なものだな」
「だからこそ、これからは傍を離れずにお過ごしください」
「そうだな。もう充分懲りた」
バートレットは2階のバルコニーから軽く飛び降りると、使用人たちに飲み過ぎないように注意をして回っている。
この日常に、アイリーンだけが足りない。
明日は必ずその姿を確かめて、どうか戻ってきて欲しいと願うことにしよう。
人間の言葉を話せるのは今夜まで、明日はそうもいかない。
灰色の尻尾を上げながら部下に説教をしているバートレットを見ながら、まあ何とかしてみせるさと口角を上げた。
<貴女がいない世界など・完>
数日続いた晴れの日が、久しぶりに土砂降りになった。
朝から暗い部屋で、執事のバートレットがこれでは狩りにはいけませんねと言った時、ユリシーズはもう猪などどうでも良くなっていた。
二言三言、バートレットはユリシーズに何か言ったのか独り言なのかを発すると、部屋を後にする。ユリシーズは一人きりで部屋に残された。今は昼のディエスだ。
アイリーンの匂いが残る自室のベッドでふて寝をしながら、これからじっくり事情を聞こうと思っているペトラに対して侮り過ぎたのだろうかと自分の判断を恥じる。
人狼の執着や彼女の性格をもっと理解して、泳がせておくにしてもアイリーンに危害が加わらないようにするべきだったのだ。
外ではざあざあと雨が降っており、鋭い耳に大きく響く。余計に気持ちが欝々とした。
横たわるベッドに顔までを埋めると、アイリーンに包まれているような匂いがする。もうここにはいないのだと思ったら現実逃避の方法を知りたくなった。
人狼は雄が大きな獲物を捧げるのが求愛行動だった。アイリーンとは結婚してから始まった関係だが、改めて猪を捧げて人狼式のプロポーズを仕切り直そうと思っていたのだ。
アイリーンは危険だから止めて欲しいと怒っていたが、ユリシーズは狼にやられる心配はない。衝撃に強い肉体というのもあるが、猪の動きはユリシーズにとっては分かりやすいものだからだ。
大きな猪を見せてアイリーンを喜ばせるつもりが、怒らせた挙句にとんだ結果を生んでしまった。
「アイリぃーンんんんん……」
ユリシーズが静かに泣くと、遠くから「ご主人様」「奥様は帰ってまいりますよ」といたわられているらしい言葉がかかる。こういう時に筒抜けになっているというのは、なにかと都合が悪い。
「放っておいてくれないか」
拗ねるように言い放ち、こうなったのも自分の甘さなのだとユリシーズは自分を責めて寂しさに泣いた。
アイリーンの使っていた枕に顔を埋めて一生懸命その匂いを嗅ぐ。
その度、大好きな匂いだと思うのに空しい。
「もう私は狩りには行かない。アイリーンがいないのに、狩りになど行ってたまるか」
周りも聞いているだろうと、一人きりの部屋でユリシーズは言った。
「ご主人様、満月の夜に皆で狼になってしまうのはまずいので、適当に鳥を絞めて生き血や生肉を配ろうと思うのですが」
遠くで執事が焦った様子で言っている。「好きにしろ」とユリシーズは返事をして寝る気もないのに目を閉じた。
人狼は目を瞑るとすぐに短い睡眠に入ることができる。人間と違い長時間の睡眠をとることはせず、細かく短い睡眠をとれば充分な身体なのだ。
このまま寝て起きたら、アイリーンが帰ってきているかもしれない。
そんな現実逃避が無かったといえば嘘になる。
「ほら、ユリシーズ。起きて」
アイリーンの膝で幸せ心地のまま、こんな目覚めが一生続くのを夢に見ていた。そして、本当に目が覚めた。
アイリーンの匂いに包まれて、ハッと飛び起きたユリシーズはその姿をキョロキョロと探す。
そうして、枕やベッドに残るアイリーンの残り香だったと分かると大きな声を上げた。
「うぁああああーーーー!!」
主人の悲痛な叫び声が響く屋敷は、まだ昼にもなっていない。
雨の音が続く中、各々が何と声をかければいいのか分からないでいるようだった。
ユリシーズはのそりと起き上がり、ゆっくりと雨の降るバルコニーに出て行く。
激しい雨に全身を打ち付けられ、着ていた洋服が重しのように身体にのしかかる。
「アイリーン……私は……私は……」
黒い髪が顔にべたりと張り付き、涙と雨が混じって頬を伝っていく。
その涙なのか雨なのかが身体を通ってバルコニーに流れていくと、ベッドで染みついたアイリーンの匂いは雨の匂いに変わっていた。
「家族が誰もいなくなってしまったこの世界に、貴女がいれば……この先を生きていけると思ったのです。アイリーンと共に新しい家族が欲しくて、だから改めてプロポーズを……貴女に……喜んで欲しくて……」
雨の中の独白は、屋敷の中の使用人たちにも聞こえていなかった。
それほどこの日の雨は強く、ユリシーズの全てをかき消す力を持っていたのだ。
ユリシーズは片手をバルコニーの手すりにかけたが、そのままそこに腰を下ろした。
へたり込んだまま強い雨に打ち付けられている。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。晴れ間の見えない空から雨は続けて降りてくるばかりだ。涙は枯れることなく流れ続け、ユリシーズは気を失っていた。
***
「……いてえ」
目が覚めたユリシーズは、頭から生えた黒い耳で雨の音を聞きながらゆっくりと身体を起こした。
頭が割れるように痛い。そしてどうやら自分が異常な熱を持っていることに気付いた。
「ふっざけんなよ、ディエスのやつ……。アイリーンを攫われただけでも許せないってのに、勝手に風邪なんかひきやがって」
ノクスの記憶の隅に、雨の中で放心しているディエスがいる。
使用人が気付いたのは随分と後で、バルコニーで気を失っていたディエスは既に高熱を出していた。
「くそっ……身体が思うように動かねえ」
夜に活動するノクスは、本来であれば起きている時間が長い。
だが、身体の重さに堪えられず、一度起こした身体をもう一度ベッドの上に横たえた。
ぼすん、と羽毛の中に飛び込んだ折に、ふわりとアイリーンの残り香が鼻をくすぐる。
普段なら尻尾を振りながら堪能するはずの大好きな匂いに、ノクスは静かに涙を流した。
「お前がいなきゃ俺は……一人なんだぞ、アイリーン」
猪を狩ろうと決めたのはノクスだ。大物で生け捕りが難しいからこそ、アイリーンと一緒に過ごす初めての満月前にふさわしいと考えたのだ。
そもそもアイリーンが危険な狩りを嫌がっていたのが自分を心配してくれていたのだと思えば、頑なになる必要などなかったはずだ。
人狼は伴侶と死別すると、後を追うように命を落とす。
食事が喉を通らなくなって、衰弱するからだ。
ああ、そうか、とノクスは思う。
姿が見えず香りだけになった伴侶の亡霊を探し、自分もそちらに行こうと思うのは至極真っ当だ。
愛する伴侶のいない世界など、海の底に沈められて生きるのと変わらない。
それからユリシーズは寝たきりになってしまった。
熱は一向に下がらず、水分だけは取れているが意識は常に朦朧としていた。
夢と現実の境目が分からない夢ばかりを見て、アイリーンの名前を呼びながら泣き続けている。
飲み物や流動食を持ってくる使用人は、これまで見た中で一番弱っているユリシーズに胸を痛めながら部屋を退出しているようだった。
元気のない主人を案じていると、そこに一通の手紙が届く。
獅子の封蝋印が押され、差出人は「クリスティーナ・フリートウッド」となっているが、手紙にはアイリーンの匂いが残っていた。
「ご主人様、奥様からです!」
手紙を受け取った使用人が声を上げると、ユリシーズはベッドから起き上がる。
奥様から、何が? と不思議に思っていると、シンシアが息を切らしながら部屋の扉まで走ってきた。
「ご主人様っ……。奥様が、奥様がお手紙を」
「こちらに」
シンシアは扉を開けるとベッド脇に来て手紙をユリシーズに渡し、すぐに部屋を退出した。
赤い獅子の封蝋印は、忌々しい公爵家の証。
そこに書かれた差出人名は公爵家次女の姫君、クリスティーナの名だ。
筆跡はクリスティーナと違わないものだが、以前アイリーンはクリスティーナと同じ字で手紙を寄越して来たことがある。
ユリシーズはベッドで身体を起こしたまま、手紙を開封した。
赤い獅子は粉々に砕け、中の手紙からアイリーンの匂いがする。
『大切なユリシーズへ
何も言わずに家を出てきてしまったから、心配しているかしら?
久しぶりの公爵家、独身時代に戻ったように過ごしています。もう暫くしたら帰るから、待っていてくださいね。
家を出てくる前に喧嘩をしてしまったから謝りたかったの。わたくしが戻るまで、そちらは頼みます。
クリスティーナ・オルブライト』
アイリーンとして手紙を出せないことくらい分かっていた。
ユリシーズは、フリートウッド公爵家で内容をチェックされたに違いない手紙を読み終えると、便箋に口づけようとして違和感を覚える。
書かれた手紙の上から、何かでうっすら痕を付けた形跡があった。透明で、匂いからして蝋らしい。
これはアイリーンからのメッセージだろうかとユリシーズはそっと蝋の流れをなぞってみる。
『昼と夜が好き』
手紙には、公爵家に知られても意味が分からないであろうメッセージが添えられていた。
アイリーンは、ユリシーズの昼の姿も夜の姿も好きなのだと……このタイミングで伝えてくれたのだ。
「愛しいアイリーン……。昼も夜も、貴女を愛しています」
ユリシーズは起き上がって机に向かう。
久しぶりに起きて活動をしている。アイリーンへの返事を書くために、インクとペンを出して気持ちをしたためた。
手紙を速達で出した日の夜、満月前夜にユリシーズは生き血を飲むのを止めた。
ノクスは、満月の日にアイリーンを一目見ようと決めたのだ。
ディエスが協力してくれなければ夜遅くの到着になってしまうが、途中まで馬車で公爵家に向かい、夜の森を狼の姿で駆け抜けるつもりだ。
狼の姿をしたユリシーズは、時速70㎞程度のペースで走り続けることができる。オルブライト家の馬車が急いでも時速20㎞程度で進むことを考えると、狼化は機動力の面でかなり有利だ。
人の姿では到底そのスピードと持久力を維持することはできない。加えて猟銃にも怯えずに済むのだから、公爵家に潜り込むのに都合が良かった。
公爵家で無事な姿が見られればいい。
狼の姿の自分に気付くだろうかと不安になったが、気付かれなくてもアイリーンの匂いがする部屋を探し当てて様子が分かれば充分だと思った。
屋敷内の使用人たちが生き血や生肉を堪能する中、ノクスはバルコニーで満月に一晩足りない月を見上げる。
「ご主人様」
気付くと、隣にバートレットが立っていた。
「奥様のところに向かわれる予定なのですね?」
「満月の夜なら、狼化して走っていくことができる。ディエスが嫌がっても俺だけで行くさ」
「昼のご主人様も協力してくださることでしょう。勿論わたくしもお供いたします」
「老体に長時間の運動が耐えられるのか?」
「侮られては困りますね。わたくしめは人狼界イチの俊足で有名な、ヘクター・バートレットですよ?」
「それが現役かどうか楽しみだな。足手まといにはなるなよ」
「かしこまりました」
屋敷の庭では人狼たちが生肉を貪り、生き血で乾杯をしている。
本来ならその中心にノクスが立ち、全員を労(ねぎら)う場だ。
「ここに、アイリーンがいるはずだった」
「あの奥様は、最初から規格外でしたからね」
「俺は身代わりにアイリーンが来てくれてよかった。運命のいたずらってやつは、時々にくいことをしてくれる」
「初めて奥様をお迎えした時、この方はご主人様をお救いになるかもしれないと思いました。何しろ、沢山の傷を抱えながらも寒い冬空のような澄んだ目をされておりましたから」
ノクスの隣で、バートレットはアイリーンが到着した日のことを思い出しているらしい。
「久しぶりに人狼の族長夫人が人間だ。バートレットは気に食わなかったんじゃないのか?」
「人間か人狼かなど、大して気にしてはおりません。匂いは苦手ですがね。もともとわたくしは雌の匂いが強い個体が苦手なのですよ」
ノクスは小さく笑って人狼たちの楽しそうな様子を見る。
「これまで出会った女に全く惹かれなかったのは、アイリーンに出会うためだったらしい」
「番というのは昔からそういうものです」
狼化する体質を利用するのは初めてだった。
これまでは不便でしかなかった変身能力を、伴侶に会いに行くために使おうとしている。
「会えなくなるだけでこんなに辛いとは思わなかった。厄介なものだな」
「だからこそ、これからは傍を離れずにお過ごしください」
「そうだな。もう充分懲りた」
バートレットは2階のバルコニーから軽く飛び降りると、使用人たちに飲み過ぎないように注意をして回っている。
この日常に、アイリーンだけが足りない。
明日は必ずその姿を確かめて、どうか戻ってきて欲しいと願うことにしよう。
人間の言葉を話せるのは今夜まで、明日はそうもいかない。
灰色の尻尾を上げながら部下に説教をしているバートレットを見ながら、まあ何とかしてみせるさと口角を上げた。
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