売られて嫁いだ伯爵様には、犬と狼の時間がある

碧井夢夏

文字の大きさ
上 下
26 / 134
1章

無意識の嫉妬

しおりを挟む
 目が覚めた。
 ここは、ユリシーズとやってきた宿の部屋だ。陽が差し込む部屋は、すっかり明るくなっている。

「ディエス……」

 目の前を見ると横になっているユリシーズの顔。ディエスだと分かった。

 ノクスとディエスの違いは耳や尻尾があるかどうかだと思っていたけれど、ノクスの方が鋭い目をしていて犬歯が目立ち、ディエスは顔の作りが柔らかい。

「咄嗟に私をディエスと呼んだのは、ノクスに特別な情が湧いたからですか?」

 ディエスはなんだかむすっとしていて、鋭い声で問いかけてきた。

「情なら、ディエスにもノクスにも湧いています」

 空気が一瞬張り詰めたのを感じたけれど、怯んでいたらいけない。
 ディエスと私はベッドで起き上がり、お互いを見つめていた。

「ノクスがそんなに好きなのですか?」

 ここで嫌いと言った方がディエスは喜ぶのだろうか。
 でも、嘘でも言いたくない。

「ノクスのことが、ではありません。ユリシーズが好きなのです」
「私は、ノクスを封じようと思っています」

 ディエスは、当然のように言う。

「やめてください」
「あんな獣が良いんですか?」
「ノクスもユリシーズだわ」
「私は狼になんかなりたくありません」

 ディエスは怒った口調でベッドから出て室内を歩き、着替えを始める。
 私は視線をそちらにやらないように違うところを見るように努めた。

「わたくしは、ディエスもノクスも、人狼も好きです」
「そう言えば、私がノクスを見逃すとでも?」

 あまり聞く気もなさそうで、着替える音が部屋に響く。

「昨日はノクスを制御するから大丈夫だと言ったのに、なぜそんなに怒っているのですか?」
「……」

 気付かなかったのだろうか。ディエスは私の質問に答えない。

「わたくしは、ただ宿の部屋で一晩寝ただけですが?」
「ノクスが、あからさまだからです」
「どういう意味です?」
「クリスティーナ様の顔からノクスの匂いがします。これは自分のものだという意思表示に頭に来ました」
「ノクスは、ディエスがわたくしにマーキングしたと怒っていたわよ」
「それはっ……」

 心当たりがありそうな感じで、ディエスはボタンが全部止まっていないシャツのまま私に弁解しようと声を失っていた。

「無意識でした……」

 シャツがスカートのように垂れた状態で、ディエスは気まずそうに視線を泳がせる。

「狼は、独占欲が強いのだそうね?」
「……そうかもしれません」
「それで、ノクスを封じるなんて言っているの?」
「クリスティーナ様をノクスに好き勝手されたくないですし」

 ディエスはこちらの民宿で借りたスラックスを穿こうと下を脱ぎ始めたので私は後ろを向く。

「いらつく自分が嫌になります」
「ノクスに嫉妬をしてしまうから?」
「クリスティーナ様は、私よりもノクスに心を開いていませんか?」
「そんなことは……」

 ないのだろうか。そんなことは。
 ノクスは私の本名を知っているし、ディエスといる時よりも、素の自分でいられている。
 クリスティーナ姫を演じなくてもいいから、すごく楽だ。

「ノクスは、犬みたいです」
「それでノクスが好きなのですか?」
「かわいがっています」
「……」

 沈黙が続いた。

「もしかして、私のことをペットか何かだと思っていますか?」

 衣擦れの音が収まったのでディエスを見ると、上下を着替え終えたところだった。

「ペットだなんて。狼は気高くてペットには向きません」
「そうではなくて……」

 ディエスの眉間に皺が寄った。

「私はあなたがあんな獣に穢されるのは許せません」
「穢されていません」
「顔中舐められているではないですか。早く洗顔をした方が良いです!」
「なっ……」
「湯を持ってこさせましょう」

 ディエスは廊下に出て、宿の従業員に、たらいに入ったぬるま湯を要求していた。


「……洗いました」

 顔を拭きながら、これで満足かしらとディエスをじろりと見る。

「もう大丈夫です」
「……ディエスにはノクスの匂いがすると言われ、ノクスにはディエスの匂いがすると言われ、わたくしは責められ続けなければならないの?」
「申し訳ございません。どうしても匂いに耐えられず……」

 また匂い……。
 毎日ディエスにもノクスにも匂うって嫌がられ続けるのかしら。

「朝食の準備を依頼してくるので、着替えていてください」

 ディエスはそう言って部屋を出て行った。
 夫に軽いスキンシップを許しただけでややこしいこの状況に、今まで人狼と結婚した人間の伴侶はどういう生活をしていたのか知りたい。

 執事が確か、父親だけ人狼だった。
 あの人が私に有益な情報をくれるとは思えないけれど。

 昨日こちらの宿で借りた綿のドレスに着替える。
 これを着ている私を見て、ディエスは妖艶だと言ったんだっけ。

 妖艶か……。ノクスにもなまめかしいとか色気のある表現をされた。
 そんなのは自分じゃないみたい。

 着替え終わったので、席に着いて昨日読みかけだった本を読み始める。

「もう着替えは終わりましたか?」

 部屋の外で、ユリシーズの声がした。

「はい、大丈夫です」

 答えると、そっと扉が開いてユリシーズが入ってきた。

「それは昨日の本ですか? 村長さんに新聞をいただいてきましたよ」
「はい。これ、とても素敵な本です。こんな山奥でも新聞が届くのですね?」
「そうですね」

 ユリシーズが持っていた新聞に、目を奪われた。

『アイリーン・クライトン、子爵令嬢から皇室へ』

 クリスティーナ姫が私の名前を使って皇室入りすることが記事に書かれていた。
 日にちは、あと3日。思ったよりも早い。
 私が公爵家にいた時にはもう少し時間に猶予がありそうだったのに。
 何か事情が?

 私の両親は、さぞ喜んだのだろう。
 私を追い出してお金を得たばかりではなく、世間的にはロイヤルレディを育てた親になった。
 他人を見下すことでしか幸せになれない母は、誰からも馬鹿にされない地位を手に入れてしまった。
 世間からの信用がない父が、皇室との繋がりを持ってどれだけ思い通りにできるのか。

 あの親からロイヤルレディが生まれるわけがないではないか。
 自分の奥に渦巻く黒い感情が溢れないよう、必死に耐えた。

「クリスティーナ様?」

 起きたばかりの時は機嫌の悪かったユリシーズが、心配そうに私を見ている。

「あ、いえ、何でもありません」

 いきなり無言になってしまったら心配するに決まっている。ちゃんとしなくちゃ。

「お腹が空きましたね」

 苦し紛れに空腹だったということで誤魔化す。

「はい、頼んできましたよ」

 ユリシーズはまだ心配そうにこちらを見ていた。

「すいません、朝から私の感じが悪くて……」
「違うの。お腹が空いただけよ」

 なんだか変な空気になってしまった。
 ユリシーズは私の座る前の席に着くと、「皇室入りの方がいらっしゃるようですね。戦争が終わって縁談も進んだのでしょう。クライトン子爵は存じ上げませんが、クリスティーナ様はご存じですか?」と話を振ってきた。

「いえ、知らない家です」

 クリスティーナ姫にとっては。私の生家ですが。

「第四皇子は皇位継承権が二位ですから、このアイリーン嬢は一気に注目されますね」
「第四皇子は皇位継承権が二位なのですか?」

 初めて聞いた。公にされていないものの、もともとクリスティーナ姫と結婚する予定だったというのだから、それなりに大事なポジションの方だというのは分かっていたけれど。

「ええ。一部では第四皇子は公爵家との縁談が囁かれていたのですが、政略結婚ではないのかもしれません。クライトン家のアイリーン嬢は大層な美姫だという噂があったとか」
「あら、第四皇子は恋愛結婚なのでしょうか」

 誰よ、私のそんな噂を流しているのは。普段だったら嬉しい噂なのかもしれないけれど、この状況では全然喜べない。

「折角だから結婚式に参列しましょうか?」

 ユリシーズが突然提案した。

「えっ?!」
「皇室の挙式はずっと自粛されてきましたから、ようやく明るい話題だなと思いまして」
「でも、結婚式に参列するようなドレスがありません……。三日後でしたよね?」
「結婚式のドレスというのは何か決まりが?」
「ええと、花嫁より目立たないよう、なるべくダークカラーかつ地味にならないものを着ないといけないのかなと……」
「それでしたら、本日、家に帰る途中でワインレッドのドレスを作りましょう。きっとお似合いだと思います!」
「え……? 行かなければダメですか?」
「私たちは挙式をしなかったのですから、雰囲気だけでも楽しみませんか?」

 そ、そんなすがるような目で見ないで。
 だって、会場に……新婦として主役を務めるのは、あなたがずっと想ってきたクリスティーナ姫なのよ?!
 もしその事実にユリシーズが気付いたりしたら……。

「あ、あの、実はわたくし、公の場は酷く疲れるのです」
「なるほど……」

 そうよ、クリスティーナ姫を知る方に挨拶なんかされても、全然対応できないのだから。

「では、参列ではなくパレードだけでも見に行きませんか?」
「パレード……」
「遠くから眺めるだけです」
「……」

 参列するわけじゃないから、新婦がクリスティーナ姫だとは気づかないかもしれない。
 でも、まさか私の名を名乗るクリスティーナ姫を見に行くなんて。

 3日後か……。どうしよう……。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

できれば穏便に修道院生活へ移行したいのです

新条 カイ
恋愛
 ここは魔法…魔術がある世界。魔力持ちが優位な世界。そんな世界に日本から転生した私だったけれど…魔力持ちではなかった。  それでも、貴族の次女として生まれたから、なんとかなると思っていたのに…逆に、悲惨な将来になる可能性があるですって!?貴族の妾!?嫌よそんなもの。それなら、女の幸せより、悠々自適…かはわからないけれど、修道院での生活がいいに決まってる、はず?  将来の夢は修道院での生活!と、息巻いていたのに、あれ。なんで婚約を申し込まれてるの!?え、第二王子様の護衛騎士様!?接点どこ!? 婚約から逃れたい元日本人、現貴族のお嬢様の、逃れられない恋模様をお送りします。  ■■両翼の守り人のヒロイン側の話です。乳母兄弟のあいつが暴走してとんでもない方向にいくので、ストッパーとしてヒロイン側をちょいちょい設定やら会話文書いてたら、なんかこれもUPできそう。と…いう事で、UPしました。よろしくお願いします。(ストッパーになれればいいなぁ…) ■■

雪解けの白い結婚 〜触れることもないし触れないでほしい……からの純愛!?〜

川奈あさ
恋愛
セレンは前世で夫と友人から酷い裏切りを受けたレスられ・不倫サレ妻だった。 前世の深い傷は、転生先の心にも残ったまま。 恋人も友人も一人もいないけれど、大好きな魔法具の開発をしながらそれなりに楽しい仕事人生を送っていたセレンは、祖父のために結婚相手を探すことになる。 だけど凍り付いた表情は、舞踏会で恐れられるだけで……。 そんな時に出会った壁の花仲間かつ高嶺の花でもあるレインに契約結婚を持ちかけられる。 「私は貴女に触れることもないし、私にも触れないでほしい」 レインの条件はひとつ、触らないこと、触ることを求めないこと。 実はレインは女性に触れられると、身体にひどいアレルギー症状が出てしまうのだった。 女性アレルギーのスノープリンス侯爵 × 誰かを愛することが怖いブリザード令嬢。 過去に深い傷を抱えて、人を愛することが怖い。 二人がゆっくり夫婦になっていくお話です。

傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。

石河 翠
恋愛
高飛車で傲慢な令嬢として有名だった侯爵令嬢のダイアナは、婚約者から婚約を破棄される直前、階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった上、体が不自由になってしまう。 そのまま修道院に身を寄せることになったダイアナだが、彼女はその暮らしを嬉々として受け入れる。妾の子であり、貴族暮らしに馴染めなかったダイアナには、修道院での暮らしこそ理想だったのだ。 新しい婚約者とうまくいかない元婚約者がダイアナに接触してくるが、彼女は突き放す。身勝手な言い分の元婚約者に対し、彼女は怒りを露にし……。 初恋のひとのために貴族教育を頑張っていたヒロインと、健気なヒロインを見守ってきたヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、別サイトにも投稿しております。 表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

【完結】消された第二王女は隣国の王妃に熱望される

風子
恋愛
ブルボマーナ国の第二王女アリアンは絶世の美女だった。 しかし側妃の娘だと嫌われて、正妃とその娘の第一王女から虐げられていた。 そんな時、隣国から王太子がやって来た。 王太子ヴィルドルフは、アリアンの美しさに一目惚れをしてしまう。 すぐに婚約を結び、結婚の準備を進める為に帰国したヴィルドルフに、突然の婚約解消の連絡が入る。 アリアンが王宮を追放され、修道院に送られたと知らされた。 そして、新しい婚約者に第一王女のローズが決まったと聞かされるのである。 アリアンを諦めきれないヴィルドルフは、お忍びでアリアンを探しにブルボマーナに乗り込んだ。 そしてある夜、2人は運命の再会を果たすのである。

【完結】双子の伯爵令嬢とその許婚たちの物語

ひかり芽衣
恋愛
伯爵令嬢のリリカとキャサリンは二卵性双生児。生まれつき病弱でどんどん母似の美女へ成長するキャサリンを母は溺愛し、そんな母に父は何も言えない……。そんな家庭で育った父似のリリカは、とにかく自分に自信がない。幼い頃からの許婚である伯爵家長男ウィリアムが心の支えだ。しかしある日、ウィリアムに許婚の話をなかったことにして欲しいと言われ…… リリカとキャサリン、ウィリアム、キャサリンの許婚である公爵家次男のスターリン……彼らの物語を一緒に見守って下さると嬉しいです。 ⭐︎2023.4.24完結⭐︎ ※2024.2.8~追加・修正作業のため、2話以降を一旦非公開にしていました。  →2024.3.4再投稿。大幅に追加&修正をしたので、もしよければ読んでみて下さい(^^)

ツンデレ王子とヤンデレ執事 (旧 安息を求めた婚約破棄(連載版))

あみにあ
恋愛
公爵家の長女として生まれたシャーロット。 学ぶことが好きで、気が付けば皆の手本となる令嬢へ成長した。 だけど突然妹であるシンシアに嫌われ、そしてなぜか自分を嫌っている第一王子マーティンとの婚約が決まってしまった。 窮屈で居心地の悪い世界で、これが自分のあるべき姿だと言い聞かせるレールにそった人生を歩んでいく。 そんなときある夜会で騎士と出会った。 その騎士との出会いに、新たな想いが芽生え始めるが、彼女に選択できる自由はない。 そして思い悩んだ末、シャーロットが導きだした答えとは……。 表紙イラスト:San+様(Twitterアカウント@San_plus_) ※以前、短編にて投稿しておりました「安息を求めた婚約破棄」の連載版となります。短編を読んでいない方にもわかるようになっておりますので、ご安心下さい。 結末は短編と違いがございますので、最後まで楽しんで頂ければ幸いです。 ※毎日更新、全3部構成 全81話。(2020年3月7日21時完結)  ★おまけ投稿中★ ※小説家になろう様でも掲載しております。

将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです

きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」 5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。 その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?

処理中です...