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1章
人狼の価値観
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「クリス様……」
ユリシーズはクリスティーナ姫を愛称で呼んで後ろから私を大切そうに包み込んでいた。
「クリス」と呼ばれても全然自分だと思えなくて、胸の奥にチクリととげが刺さったような痛みを感じる。
「今日は乗馬をしたせいか、クリス様の匂いが強くなっています」
「それって匂うってことじゃない! やだっ」
「いいえ、食欲をそそりますよ」
「食欲……」
狼みたいだなと思うけれど、やっぱり匂うのは嫌だ。
逃げたいと思って抵抗してみるのに、しっかりと捕まえられていて身体がびくともしない。
「美味しそうだというのは嫌ですか?」
「だって、私にはどんな匂いか分からないもの。匂いのことを言われるたび、不安になります」
後ろからユリシーズが首元を嗅ぐ。「止めて」と小さく抵抗すると、「命令されたら止めます」と言われた。
「本当に止めて!」
そこでようやくユリシーズは私の首から顔を離す。
「申し訳ございません。調子に乗りました」
「あなたって、こんな風に意地悪なこともするのですね」
「違います、あまりに魅力的な匂いには惹かれてしまう。私も所詮は人狼ですから」
「魅力的な匂い?」
「人狼は、匂いで恋に落ちます。本能には抗えませんでした」
確かに、ノクスは私の匂いを嗅いで「好きだ」と言っていた。
ディエスも、私の匂いが好きってことはつまり……。
「わたくしの匂いで、良いのですか?」
「クリスティーナ様以外の匂いに惹かれたことなどありません」
違う、違うの、ディエス。
ここにいるのは、あの時のクリスティーナ姫ではないの。
「それなら、もう一度嗅いでください」
「……嫌なのではなかったのですか?」
「本当にわたくしの匂いが好きならもう一度確認してください」
「いいのですか?」
ディエスが私をアイリーンと呼ぶことは叶わない。
でも、私の匂いはクリスティーナ姫のものではないから。
「クリスティーナ様、これまで嗅いだどんなものよりも好きな匂いがします」
「ほん……とに?」
「はい、こんなに魅惑的な香りは初めてです。ずっと嗅いでいたいほど」
ディエスが後ろから私の耳元に鼻を当てている。
恥ずかしくて息がくすぐったいけれど、初めてディエスが私本人を好きだと証明してくれた。
「クリスティーナ様、泣いているのですか? そんなに嫌だったのなら我慢しないでください」
「違うの、そうではないの」
ユリシーズが慌てている。目の前には一面、海が広がる風景。
崖の上にある建物のテラスで、私たちは密着していた。
私が泣いたのは、クリスティーナ姫だけを想っているはずのディエスーー昼のユリシーズが、私の匂いを誰のものよりも好きだと言ったから。
「違うんです、ユリシーズの気持ちが嬉しくて……」
「な、なにをいまさら!」
ユリシーズは理解ができないようでずっと焦っているけれど、私だってこんな風に泣いてしまうなんて思わなかった。
「ユリシーズは、ディエスもノクスも、わたくしが好きなのですか?」
「疑っていたのですか?」
「そうではなくて、三年前に作られた理想を壊しに来てしまったような気がしていました」
不安を吐露すると、ユリシーズは優しく首を振る。
「人狼は匂いがダメなら絶対にダメなのです」
「そんなに、匂いが重要ですか?」
「そうですね、大事です。何よりも」
「ううっ……」
「えっ?!」
ユリシーズは私の頭を撫でてみたり、涙を拭いてくれる。
泣き止ませようと気遣ってくれるから、余計に涙が止まらない。
「ごめんなさい、泣いたりして。こんな風に誰かに好かれたことがなかったから……」
「ご家族がいらっしゃるではないですか」
「いいえ。家族はわたくしに対して無関心でした。嫁に行くというのに少しの荷物しか用意もしてくれず、政治に利用する駒が減ったとでも言いたげで」
これはクリスティーナ姫のお父様、公爵様の印象だった。
あの人は、クリスティーナ姫を娘として愛していると思えない。
私の本当の両親に至っては、もっと酷いものだったけれど。
「……実は、公爵家の事務的な対応が引っかかっていました。死神伯などと言われる私に娘を渡すのだから当然の反応だと思っていたのですが」
「暗い気持ちになってしまうわ。わたくしの家族の話はこのくらいにしましょう。それより、ユリシーズの家族は?」
「そうですね。いつも安心をくれる人たちでした。兄弟も父も戦死してしまって、私は家族でひとりになってしまったのですが」
「それは悲しいですね……」
もう結婚しているのに、初めてユリシーズの家族について聞いた。
「兄が死に、父が死んで母が後を追うように亡くなり……弟が死に、妹が夫を亡くして亡くなっています」
「そんな中で、あなたは一人で戦場に?」
「いつだって家族が恋しい。また会いたいと思います」
まともな家族がいなかった私と、大切な家族を失ったユリシーズ。
他人同士の私たちが、こうして家族になった。
「夕陽は、さっきの村長さんのところで見ませんか? 服を借りて、この服は明日着て帰る前に洗濯していただきましょう」
「わたくし、匂ってますか??」
「馬の汗の匂いが混じっていますので、洗った方が良いかなと」
「賛成です」
私たちはレストランを出て、到着した時に飲み物を飲んだ民宿に向かう。
不安定な石畳の道によろけると、ユリシーズが私を背負って歩いてくれた。
ユリシーズはクリスティーナ姫を愛称で呼んで後ろから私を大切そうに包み込んでいた。
「クリス」と呼ばれても全然自分だと思えなくて、胸の奥にチクリととげが刺さったような痛みを感じる。
「今日は乗馬をしたせいか、クリス様の匂いが強くなっています」
「それって匂うってことじゃない! やだっ」
「いいえ、食欲をそそりますよ」
「食欲……」
狼みたいだなと思うけれど、やっぱり匂うのは嫌だ。
逃げたいと思って抵抗してみるのに、しっかりと捕まえられていて身体がびくともしない。
「美味しそうだというのは嫌ですか?」
「だって、私にはどんな匂いか分からないもの。匂いのことを言われるたび、不安になります」
後ろからユリシーズが首元を嗅ぐ。「止めて」と小さく抵抗すると、「命令されたら止めます」と言われた。
「本当に止めて!」
そこでようやくユリシーズは私の首から顔を離す。
「申し訳ございません。調子に乗りました」
「あなたって、こんな風に意地悪なこともするのですね」
「違います、あまりに魅力的な匂いには惹かれてしまう。私も所詮は人狼ですから」
「魅力的な匂い?」
「人狼は、匂いで恋に落ちます。本能には抗えませんでした」
確かに、ノクスは私の匂いを嗅いで「好きだ」と言っていた。
ディエスも、私の匂いが好きってことはつまり……。
「わたくしの匂いで、良いのですか?」
「クリスティーナ様以外の匂いに惹かれたことなどありません」
違う、違うの、ディエス。
ここにいるのは、あの時のクリスティーナ姫ではないの。
「それなら、もう一度嗅いでください」
「……嫌なのではなかったのですか?」
「本当にわたくしの匂いが好きならもう一度確認してください」
「いいのですか?」
ディエスが私をアイリーンと呼ぶことは叶わない。
でも、私の匂いはクリスティーナ姫のものではないから。
「クリスティーナ様、これまで嗅いだどんなものよりも好きな匂いがします」
「ほん……とに?」
「はい、こんなに魅惑的な香りは初めてです。ずっと嗅いでいたいほど」
ディエスが後ろから私の耳元に鼻を当てている。
恥ずかしくて息がくすぐったいけれど、初めてディエスが私本人を好きだと証明してくれた。
「クリスティーナ様、泣いているのですか? そんなに嫌だったのなら我慢しないでください」
「違うの、そうではないの」
ユリシーズが慌てている。目の前には一面、海が広がる風景。
崖の上にある建物のテラスで、私たちは密着していた。
私が泣いたのは、クリスティーナ姫だけを想っているはずのディエスーー昼のユリシーズが、私の匂いを誰のものよりも好きだと言ったから。
「違うんです、ユリシーズの気持ちが嬉しくて……」
「な、なにをいまさら!」
ユリシーズは理解ができないようでずっと焦っているけれど、私だってこんな風に泣いてしまうなんて思わなかった。
「ユリシーズは、ディエスもノクスも、わたくしが好きなのですか?」
「疑っていたのですか?」
「そうではなくて、三年前に作られた理想を壊しに来てしまったような気がしていました」
不安を吐露すると、ユリシーズは優しく首を振る。
「人狼は匂いがダメなら絶対にダメなのです」
「そんなに、匂いが重要ですか?」
「そうですね、大事です。何よりも」
「ううっ……」
「えっ?!」
ユリシーズは私の頭を撫でてみたり、涙を拭いてくれる。
泣き止ませようと気遣ってくれるから、余計に涙が止まらない。
「ごめんなさい、泣いたりして。こんな風に誰かに好かれたことがなかったから……」
「ご家族がいらっしゃるではないですか」
「いいえ。家族はわたくしに対して無関心でした。嫁に行くというのに少しの荷物しか用意もしてくれず、政治に利用する駒が減ったとでも言いたげで」
これはクリスティーナ姫のお父様、公爵様の印象だった。
あの人は、クリスティーナ姫を娘として愛していると思えない。
私の本当の両親に至っては、もっと酷いものだったけれど。
「……実は、公爵家の事務的な対応が引っかかっていました。死神伯などと言われる私に娘を渡すのだから当然の反応だと思っていたのですが」
「暗い気持ちになってしまうわ。わたくしの家族の話はこのくらいにしましょう。それより、ユリシーズの家族は?」
「そうですね。いつも安心をくれる人たちでした。兄弟も父も戦死してしまって、私は家族でひとりになってしまったのですが」
「それは悲しいですね……」
もう結婚しているのに、初めてユリシーズの家族について聞いた。
「兄が死に、父が死んで母が後を追うように亡くなり……弟が死に、妹が夫を亡くして亡くなっています」
「そんな中で、あなたは一人で戦場に?」
「いつだって家族が恋しい。また会いたいと思います」
まともな家族がいなかった私と、大切な家族を失ったユリシーズ。
他人同士の私たちが、こうして家族になった。
「夕陽は、さっきの村長さんのところで見ませんか? 服を借りて、この服は明日着て帰る前に洗濯していただきましょう」
「わたくし、匂ってますか??」
「馬の汗の匂いが混じっていますので、洗った方が良いかなと」
「賛成です」
私たちはレストランを出て、到着した時に飲み物を飲んだ民宿に向かう。
不安定な石畳の道によろけると、ユリシーズが私を背負って歩いてくれた。
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