売られて嫁いだ伯爵様には、犬と狼の時間がある

碧井夢夏

文字の大きさ
上 下
1 / 134
1章

子爵令嬢アイリーン

しおりを挟む
 この帝国には死神伯と呼ばれる男がいる。

 戦場に出れば黒みを帯びた髪を黒い血液まみれにしながら辺りを血の海にする武人で、ひとたび銀色の恐ろしい目に睨まれた者は金縛りにあったように動けなくなると言われた。

 本名、ユリシーズ・オルブライト。
 戦場で出会うと生きて帰れないという噂から、死神伯という名で呼ばれ、そちらの方が有名になった。

 戦場での印象ばかりが語られ、その性格や外見はあまり語られることがない。
 帝国内では、死神伯が味方であったことが幸運そのものだったと唱える者も多かった。

 帝国が五年戦争に勝利し、死神伯は帰還した。
 皇帝は無事に戻った英雄を讃え、なんでも好きなものをやると提案をした。

「陛下の縁戚に当たる公爵家の次女、クリスティーナ様を伴侶にいただきたく」
「クリスティーナを……?」

 死神伯が花嫁を望むとは誰も思っていなかった。

 なんでもやると人前で言ってしまった手前、皇帝は前言撤回などできない。

 クリスティーナ姫は器量も良かったが、皇帝の息子である第四皇子に嫁ぐことが内密に決まっていた。
 彼女ほど、皇室に適している女性はいない。

「……それが本当の望みなのか?」

 皇帝は再度確認した。
 金銀や宝の類なら、なんでも与えるつもりだった。
 相手があるのでやはり難しいですねと、申し出てくれればいいと願いながら。

「クリスティーナ様との婚姻を」
「どうしてだ? クリスティーナでなければいけないのか?」
「クリスティーナ様を長くお慕いしております故……」
「長く? どこかで会ったことがあっただろうか」
「三年前の、激励会の際にクリスティーナ様がいらしておりました」
「……見かけた程度ではなかったのか?」
「あのような素晴らしい方に、この先、出会える気がしません」

 皇帝は当時の行事を思い出す。
 負傷した兵士たちの前に「激励会」という体で派遣した当時16歳のクリスティーナ。
 戦争中の兵士たちにとってはさぞ綺麗なものに見えたのだろう。

「それは恋や愛とは違い、憧れのようなものではないだろうか」
「この三年間、クリスティーナ様を思い出さない日はありませんでした」
「そうか……」

 皇帝は、自ら誓ってしまった。ここで断ることなどできない。

「分かった。クリスティーナとの婚姻を進めるように取り計らおう。彼女は戦の類には疎い。どうか優しく包むように接してやって欲しい」

 この婚姻は必ず成立させなければならない。
 クリスティーナがこの事実を知りショックで自害しようものなら、戦争の英雄がどこで牙を剥くか分からない。

 戦場で無敵と言われた死神伯は、平和な世になるとその力を持て余し始めた。

 皇帝は帝国のために一大プロジェクトを立ち上げる。

 クリスティーナの身代わりを探し、死神伯に疑われることなく嫁がせる——。
 一生嘘をつき続けてもらわなければ、どんな惨状を見ることになるか分からない。

 そうして、一人の子爵令嬢が選ばれることになったのだ。




 薄暗い部屋の中。
 テーブルには四人の男が座っていて、ろうそくの灯だけがその上を照らしている。
 一人の男がカードを開いて見せると、他の男たちがため息をつきながら手持ちの札をテーブルに投げていた。

 ーーこの勝負は、私の父が勝ったらしい。

「残念でしたな。我が娘は本日も生娘のまま自宅に連れて帰ることができそうです」

 三人の男たちは心底悔しそうな顔を浮かべ、私の金色の髪を頭から腰のあたりまで舐めるように見つめた。

 紺色のドレスに隠された腹部と背中には母に打たれた鞭の痕が残っているというのに、父は私を賭博場に連れて歩く。

 そうして借金を抱えそうになったら、私を賭けに出して逃げようとするのだ。
 名目は「娘の婚約者を探している」と言っているけれど、どう考えても私を差し出す条件で賭けをしている。
 男性というのは、目の前に女性をちらつかされると賭けに弱くなるのだとか。
 というのは、父の持論だけれど。

「さあ、帰ろうか、アイリーン」
「……」

 帝国は戦時中で、多くの男性が戦地に赴いている。
 そんな中で、戦地に行かない貴族男性たちはこっそりと集まり賭博に明け暮れていた。
 もうすぐ帝国が勝利するらしいという噂だけが行き交っているけれど、他国を攻めている我が帝国がどんな戦いぶりをしているのかは分からない。

 私の父は杖をつきながら左足を引きずり、部屋を出ようと私を目で合図した。
 足が不自由だと扉が開けられないから、私が父のために前を歩けという意味だ。

 部屋を出た時、小さな声で「アイリーン嬢が手に入るなら、どんな財宝も霞んでしまうな」と男の声がしたのが聞こえる。
 どうしてこの世の男性は、私を見るとけがらわしい視線を向けながらああいうことしか言わないのかしら。

 父がカードゲームをしている間、複数の目がこちらを舐め回すように見ながら物欲しそうな目を向けてきた。気持ちの悪い時間の余韻が残っていて吐き気がする。

「何をむすっとしているんだ。お前のためにあれだけの金をかける男たちを見て、滑稽だとは思わないのか?」
「滑稽だと思ったとしても、あんな厭らしい目で見続けられたら笑えません」
「それだけ魅力的に生んでやった親に感謝をして欲しいものだ」

 よく言うわ。私を売ることしか考えていないくせにーー。

「お前の婚約者が戦死してしまったせいで、また新たな婚約者を探さねばならない親の身にもなりなさい」
「……」

 どうして、結婚なんかしなくちゃいけないのかしら。
 男の人なんて嫌い。大っ嫌いよ。
 みんな私のことをじろじろと見定めるように眺めては、まだ生娘だと知ると色めきだって手に入れようとする。
 自分たちは娼館にだって通うくせに、女には純潔を求め、理想の女性を語る。

 男の人にとっての理想になんかなりたくない。
 それなのに、両親は没落貴族であるクライトン子爵家を救ってくれるような男性を探している。

 私は夜の街に連れ出されて限られた人たちだけに見世物にされ、「幻の美女」という噂が立てられていた。

「できれば、大物に嫁いでもらわないとならないからな」
「戦死した婚約者の方は、ひと回りも上の方でしたが」
「なにを言っている? 最高だっただろう?? 侯爵家でお前を第二婦人として迎えてくれると約束してくれたし、我が家への援助も素晴らしかった」

 あんな、脂ぎった中年男のどこが最高なのかしら。
 故人を悪く言うのは気が引けるけれど、戦死の報告を聞いた時にホッとしている自分に気付いた。
 あの人は私のことを第二婦人で迎えるとと言いつつ、妾同然の扱いをしようというのが明らかだったわ。

「どうした? 言いたいことがあるのなら言うがいい」
「……いいえ」

 本心を言おうものなら、あとでどんな仕打ちをされるか分からない。
 それなら、なにも言わずに黙って従うほうがいい。

「なんでもありません」

 私が答えると、父は満足げにうなずいた。

 私の名前は、アイリーン・クライトン。
 もうすぐ18歳、成人になる。

 そうしたら、誰かのところに嫁がされてしまう運命には逆らえそうにない……。


  *

 帝国が戦争に勝利し、五年戦争が終結した。
 戦地に行っていた男性たちが戻ってくると、両親は私の売り先を探しに毎日忙しい日々を送るようになりーー。
 その間、平穏な日々が過ごせるようになっていた。

「クゥーン」
「よしよし、いい子ね」

 我が家の厩舎の横には、控えめな大きさの犬小屋がある。
 そこに繋がれた白い大型犬を撫でながら、キラキラとした黒い目がこちらを見て嬉しそうにしているのを見ていた。

「お座り」

 ふわふわの尻尾が振れて、さっと座った。一生懸命に遊んで欲しいという目を向けてくる。

「偉いわ。次は伏せ」

 こちらを見ながら、身体を地面にぺたりとつけて私から褒められるのを待っていた。

「よくできました。おやつをあげる」
「ワウッ」

 小さな干し肉を差し出すと、咀嚼しながらこちらを覗き込んでくる。
 思わずぎゅっと抱きしめて、身体をわしわしと撫でた。
 この家で、一番大好きな子。

「ラルフ。私がいなくなっても元気にしていてね。もう少ししたら、お嫁に行かなくちゃならないの」
「クゥーン」
「大丈夫よ、厩務員さんたちが良くしてくれるから」
「アウウ」
「私は……ラルフがいなくちゃ寂しくてダメかも」

 犬はどうしてこんなにかわいいのかしら。
 男の人に、このかわいさが少しでもあればいいのに。
 結婚なんかしないで、ずっと犬と戯れていたい。
 家族になんか興味はないし、好きでもない誰かの子どもを産まなくちゃいけないなんて。

「いや……。お嫁さんになんかなりたくない……」

 いつの間にか目から涙が溢れると、ラルフは頬をぺろりと舐めてくれる。
 あたたかくて、かわいくて、涙が止まらなくなってしまった。

「こんなところにいたのですか、アイリーン嬢」

 急に呼ばれて振り向くと、役人がぞろりと立ってこちらを見ている。

「なんですか?」
「おめでとうございます。皇帝陛下の命で、あなたはオルブライト伯爵に嫁ぐことになりました」
「オルブライト伯爵……って……」

 聞いたことがあるなと思ったけれど、恐らく会ったことのある方ではない。
 なんだったかしら、オルブライト伯爵……。

「帝国は戦争に勝利しました。その功績に一番貢献したオルブライト伯爵が配偶者を求めたというわけです」
「どうして、私が……?」
「アイリーン嬢の御父上が、ずっとあなたの婚約者を探していたのをうかがいまして」
「はあ……」
「皇帝陛下の願いとあれば、クライトン子爵も是非とのことでしたが、まだご本人には伝わっておりませんでしたか」

 お父様が、私をまた売った。
 売り先を決めるまでもっと時間がかかると思っていたのに、それだけ我が家が切羽詰まっていたのだろう。

 今度の相手は金持ちの人でなしではなく、皇帝……。
 どう考えても、逃げられない。

「一体、何が待っているのでしょうか?」

 私を取り囲んでいる役人に睨みながら尋ねると、「それは行けば分かります」と言われて両手は後ろ手に、口は塞ぐように縛られる。

「手荒なことをして申し訳ございません。下手なことをされては困りますので」

 下手なこと、というのは私が自害でもすることだろうか。
 両親が家から出てきて、縛られている私を満足げに見ている。

「ご協力、大変感謝いたします」

 役人の人たちは両親に丁寧にお礼を言っていた。
 私を道具としか考えていない二人は、「帝国のためですから」と白々しいことを言って得意そうに笑っている。

「これは名誉なことなのよ、アイリーン」

 お母様がいつもの意地悪な顔で言った。
 この顔は、私を屋根裏部屋に閉じ込める時のものと同じ。
 私のためだと言って折檻を正当化し、自分のストレスを私にぶつける時の歪んだ笑い方だった。

 私を不幸にできることが、そんなに愉快かしら。
 心から私の絶望を望んでいるような顔。

 既に私は口に当てられた布のせいで言葉を発することができない。
 何か言えれば、嫌味のひとつでも言って差し上げたのに。
 私が睨んだのが分かったのか、お母様はくすりと笑った。

 お父様はまるで何も感じていないような無表情を浮かべ、杖で不自由な足を支えている。
 実の娘がどこかに連れていかれるというのに、飼育に困った家畜を売りに出すような感覚しかないのだろう。

 私は役人に囲まれながら家を出た。
 手荒にこそされなかったけれど、人の扱いをされている感覚はない。
 馬車に乗せられて扉が閉められると、そのままどこかに向かって走り出した。

 この先に辿り着く場所に、私の運命が待っている。
 私は、皇帝陛下に売られたのね。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

雪解けの白い結婚 〜触れることもないし触れないでほしい……からの純愛!?〜

川奈あさ
恋愛
セレンは前世で夫と友人から酷い裏切りを受けたレスられ・不倫サレ妻だった。 前世の深い傷は、転生先の心にも残ったまま。 恋人も友人も一人もいないけれど、大好きな魔法具の開発をしながらそれなりに楽しい仕事人生を送っていたセレンは、祖父のために結婚相手を探すことになる。 だけど凍り付いた表情は、舞踏会で恐れられるだけで……。 そんな時に出会った壁の花仲間かつ高嶺の花でもあるレインに契約結婚を持ちかけられる。 「私は貴女に触れることもないし、私にも触れないでほしい」 レインの条件はひとつ、触らないこと、触ることを求めないこと。 実はレインは女性に触れられると、身体にひどいアレルギー症状が出てしまうのだった。 女性アレルギーのスノープリンス侯爵 × 誰かを愛することが怖いブリザード令嬢。 過去に深い傷を抱えて、人を愛することが怖い。 二人がゆっくり夫婦になっていくお話です。

永遠の誓いを立てましょう、あなたへの想いを思い出すことは決してないと……

矢野りと
恋愛
ある日突然、私はすべてを失った。 『もう君はいりません、アリスミ・カロック』 恋人は表情を変えることなく、別れの言葉を告げてきた。彼の隣にいた私の親友は、申し訳なさそうな顔を作ることすらせず笑っていた。 恋人も親友も一度に失った私に待っていたのは、さらなる残酷な仕打ちだった。 『八等級魔術師アリスミ・カロック。異動を命じる』 『えっ……』 任期途中での異動辞令は前例がない。最上位の魔術師である元恋人が裏で動いた結果なのは容易に察せられた。 私にそれを拒絶する力は勿論なく、一生懸命に築いてきた居場所さえも呆気なく奪われた。 それから二年が経った頃、立ち直った私の前に再び彼が現れる。 ――二度と交わらないはずだった運命の歯車が、また動き出した……。 ※このお話の設定は架空のものです。 ※お話があわない時はブラウザバックでお願いします(_ _)

婚約破棄されたショックですっ転び記憶喪失になったので、第二の人生を歩みたいと思います

ととせ
恋愛
「本日この時をもってアリシア・レンホルムとの婚約を解消する」 公爵令嬢アリシアは反論する気力もなくその場を立ち去ろうとするが…見事にすっ転び、記憶喪失になってしまう。 本当に思い出せないのよね。貴方たち、誰ですか? 元婚約者の王子? 私、婚約してたんですか? 義理の妹に取られた? 別にいいです。知ったこっちゃないので。 不遇な立場も過去も忘れてしまったので、心機一転新しい人生を歩みます! この作品は小説家になろうでも掲載しています

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

絶対に間違えないから

mahiro
恋愛
あれは事故だった。 けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。 だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。 何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。 どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。 私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。

木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。 因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。 そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。 彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。 晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。 それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。 幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。 二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。 カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。 こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。

【完結】冷徹執事は、つれない侍女を溺愛し続ける。

たまこ
恋愛
 公爵の専属執事ハロルドは、美しい容姿に関わらず氷のように冷徹であり、多くの女性に思いを寄せられる。しかし、公爵の娘の侍女ソフィアだけは、ハロルドに見向きもしない。  ある日、ハロルドはソフィアの真っ直ぐすぎる内面に気付き、恋に落ちる。それからハロルドは、毎日ソフィアを口説き続けるが、ソフィアは靡いてくれないまま、五年の月日が経っていた。 ※『王子妃候補をクビになった公爵令嬢は、拗らせた初恋の思い出だけで生きていく。』のスピンオフ作品ですが、こちらだけでも楽しめるようになっております。

処理中です...