亡国の王女は世界を歌う ―アメイジング・ナイト2—

碧井夢夏

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第7章 争いの種はやがて全てを巻き込んで行く

【番外編】あの動物に似ている

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 レナはひとり、カイの部屋で本を読んでいた。

「随分、集中しているな」

 その声が聞こえた時、どういうことだろうかと目を丸くする。本から視線を上げると、すぐそこにカイの顔があった。

「カイ、あなた……いたのね」

 レナは本をそっと閉じ、カイを見つめて微笑む。
 読書はそこで中断しなければならないが、レナはカイが側にいることがただ嬉しかった。

「たまには、早く仕事を切り上げて恋人の顔を拝みたい日もある」
「本当? 嬉しい」

 レナは席を立つと、机を隔てて向き合っていたカイの元に駆け寄り、その腕にしがみつく。
 カイは自分の顔の前にレナの顔が来るように、レナを抱き上げた。

(顔が目の前に……)

 身長差のある2人は、普段なかなか視線の高さが同じにならない。
 レナが何度もカイの唇を奪おうと努力をしても、それは限られた時間しか挑戦ができない上、カイはそれを妙に避けるのだ。

(今なら、できるかも……)

 レナはそっと目を閉じてカイの顔に自分の顔を近づけてみた。今日こそは成功するかもしれない。

「庭で昼食にしないか?」

 そこでレナは目を開き、カイと近い距離で我に返る。

「いいけど、急にどうしたの?」

 なぜあえて今そんなことを言うのだろうかと、レナは触れ合う前の至近距離でカイに尋ねる。

「折角だから、普段と違う過ごし方をしたい。なかなか連れ立って出かけられないんだ。屋外で食事をとったらピクニック気分で楽しそうだろ?」
「……カイが言うなら、いいわよ?」

 レナは誤魔化されたような気がして不満を抱えながらも、屋外で食事をとるとはどんな状況だろうかと興味が湧く。
 カイは廊下に出て使用人に何やら細かく指示をしているようだった。


「行くぞ」

 暫くして2人が腕を組んで庭に出ると、少し丘になった小高い場所にキルトが敷かれ、バスケットが控え目に置かれているのが見える。
 レナがキルトの上に腰を下ろしてバスケットの中身を確認すると、レモネードと水の入ったボトルに、グラス、手のひらサイズの小さな林檎とサンドイッチが入っていた。

「このレモネードって……」
「どこぞの青年実業家が仕入れをしていて、ブリステでも手に入るようになったんだ。いつかの、ルリアーナ産のレモネードだぞ」
「ブリステでも、飲めるようになっていたのね」

 レナが感慨深げにレモネードを眺めていると、カイはその瓶を持ち上げた。
 黄色い華やかな色の液体をグラスに注ぎ、水で割ってレナに渡す。

「懐かしいな、誰かと初めて飲んだ日のことが」
「そうね……」

 レナは、初めてカイの前で涙を見せた夜を思い出した。レモネードを2人で飲みながら、レナがカイの前で感情を露わにした日だったように思う。

 レナは、隣に座るカイに寄り添いながらレモネードに口を付けた。

(あの時から憧れていたけど、カイとこんな風に一緒にいられるようになるなんて、想像もしなかった)

 ふと、視線を感じてレナは隣を見上げると、木漏れ日の中でカイが真っ直ぐ自分を見つめていた。

「どうしたの?」
「こうしてレナがいてくれることに感謝したんだ」
「私も、カイがいてくれることに感謝して過ごしているけど?」

 レナは寄り添ったカイに体重を預け、すぐ側にある手を取り指と指を絡める。

「お昼ご飯、折角用意してもらったんだから、いただかなきゃね」
「こうして、ゆっくりしていると……日常が嘘のようだな」

 カイは絡めた手をそのまま持ち上げ、レナの甲に口付ける。レナの心拍数は一気に上がり、カイに釘付けになった。

「日常と、この時間は違うの?」
「全く違う」
「どんな風に……?」
「穏やかで、ここには一番欲しかった時間がある」
「私といるから?」
「それ以外、何がある?」

 レナは、その言葉が嬉しい反面、どうして恋人同士が当たり前のようにしているキスが自分たちにはないのか不思議でならない。
 顔の他の場所――例えば、額や頬、瞼などには何度も唇で触れられているのに、唇同士は、いつになっても触れ合うことが無かった。
 それも、レナがおもむろに求めているのが伝わっている状況にも関わらず、だ。

(大切にされているのは……分かるの)

 そう思いながらも、納得はしていない。

「あなたの欲しかった時間って、特別何かをするわけじゃないのね」
「一緒にいられるのは、特別じゃないのか?」

(そうだけど……違う)

 レナは身体の奥に生まれている衝動のようなものを、どうしたらいいのか分からなくなった。
 自分ばかりがこの気持ちと向き合っているのだろうと思うと、堪えられそうにない。

「一緒にいられるのは特別だけど、恋人同士だから、もっと特別な関係になりたい」

 レナが決死の覚悟で口に出した言葉は、本人が求める意味を跳躍した。
 カイは飲みかけのレモネードが気管に入って激しくむせる。繋いでいた手も解けてしまった。

「それは……あせらなくても良いんじゃないか?」
 喉の痛みを誤魔化すように、カイは水を飲みながら言った。

「カイは、したくないの?(キスを)」
「いや、したくないことはないが……」

 カイは明らかに参った顔をしていた。それが分かったので、レナは泣きそうな顔で膝を抱えて小さくなる。

「どうしたってレナを傷付けることになる。それは、本意じゃない」
「私、もう大人よ? そんな簡単に傷付いたりしないのに」

 カイは、そこでふと違和感に気付いた。
 レナは既に誰かのものになったことがあるのだろうか? 空白の1年近い時間を失念していたことに気付く。
 レナが町を歩けば、ポテンシアのような国で男性に狙われないはずがない。

(既に男を知っているとすれば、責められるのも分かる)

 ピースが合った瞬間、カイは息が詰まる。
 レナをたぶらかし、無理矢理彼女を穢した人物がもし存在するのなら、許せないだけでなく離れていた時間を後悔してもしきれない。

「経験があるのか?」

 カイの質問に、レナは俯いたまま小さく頷いた。

「……誰だ」
「初めては、あなたよ……」
「…………?」

 カイは自分の記憶を辿ってみるが、間違いなく清廉潔白だった。首を傾げて考え込む。

「すまないが……それはどういうことだ……」
「あなた、気付いていなかったもの。任務最終日の夜、空間の間で」
「…………」

(特別な関係とか言うから何かと思えば……全然違うじゃないか)

 カイはほっとして、レナの肩を抱いた。

「そういうことなら、最初から特別な関係だ」
「最初は、特別じゃなくて特殊でしょ。主従関係だったんだから」
「今思えば、仕えていた頃から惹かれていた。自分の気持ちに気づいていなかっただけだ」

 そう言ってレナの手の甲に口付けたカイの目が、鋭くレナを捕らえる。
 レナは息をするのを暫く忘れ、目の前の美しい獣のような男に目を奪われた。

「あなたって……何かの動物に似てるって思っていたけど……」
「……?」
「いま、分かったわ……」
「……なんだ?」

「狼よ」
「いや待て。その動物は色々まずい」
「だって、似てるもの」

 カイは複雑な表情でレナを見つめた。狼になったことは一度もない。

 一方すっかり納得したレナは、昼を食べようとバスケットを漁る。その姿を見たカイはレナに似た動物を思い出した。

「レナは、子リスに似ているな。この庭を駆けまわっているのをよく見るが、せいぜい狼に食われないように気を付けるんだな」

 カイはそう言うと突然レナの耳に嚙みついた。

「きゃあっ!」

 驚きと刺激の強さに動揺し、レナは思わず悲鳴を上げて真っ赤になる。
 持っていた小さな林檎が手から落ちてキルトの上を転がった。

「か、噛みつかれた……」

 一瞬だけカイから香ったレモネードの残り香が、ふんわりとまだレナの鼻孔をくすぐる。

「誰かが狼なんて言うからだ」

 カイはそう言って我関せずの顔でサンドイッチを手に持った。これで懲りただろうと食事に向かう。

「ねえ。狼って、リスは好きかしらね?」
「好きだろう。丸丸していて旨そうだ」
「食べてみる?」

 カイは動揺で持っていたサンドイッチを派手に落とし、「言ったな?」と片眉を上げる。

 カイがレナの鎖骨に噛みついて2度目の悲鳴が上がると、そのまま芝生の上にレナは押し倒された。
 レナは、目の前に来たカイの頬にそっと手を添え、その手をずらして指で唇に触れてみる。
 何度も手や顔に触れた柔らかい感覚が、レナの手を探っていた。

「狼さん、私、あなたに恋をしたみたい」
「それは大変だ」
「だから、あなたにこの身を捧げてもいいわ」
「……そのうち……」

 そこでカイの言葉が詰まった。

「子リスは、狼がいただくことになっているからな」
「……そう」

 レナはそれだけ言って納得すると、カイの顔を見られなくなり、両手で顔を隠すように覆った。
 カイは、レナの耳元に唇を当て「愛している」とそっと囁く。
 その間もレナはずっと顔を隠しているので、カイは顔を覆う手を剥がした。
 恥ずかしさで泣きそうな顔が現れると、カイはレナの顔に何度も唇を当て、「これは、特別な関係とは言わないのか?」と不満げな顔をする。

「特別だけど……恋人のキスはしないの?」
「そのうちな」
「いつもそればっかり」
「したくないとは言ってない」

 カイは目の前のレナが頬を膨らませているのを見て、リスが木の実を詰めた姿を思い出す。つい笑いながらその頬を軽く甘噛みすると、
「すぐにでも食べてしまいたくなる子リスを前に、己を律しているんだ」と白状して、レナが緊張で固まって行くのを楽しそうに眺めていた。
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