パリ15区の恋人

碧井夢夏

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移動祝祭日

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 手紙を読み終わり、彼女にメッセージを送ろうと思った。
 メッセージアプリを立ち上げると、彼女のアカウントは忽然と消えていて、携帯電話も通じなかった。

 他に好きな人がいたというのは、「やっぱりな」という感想になっている。
 なんとなくというか、思い出してみると心当たりがあった。
 自分でも、都合の悪いことは自然と見ないようにしていたのだと思う。

 改めて一緒にいてくれないかと伝えたかった。
 その手段を絶たれたのだから、彼女の答えは決まっている。



 それからは、新天地での仕事に追われ悲しさを噛みしめる時間も余裕もなかった。
 気付くと、あっという間に一年が経過していた。

 次に誰かを好きになったら、もう少し気持ちを伝える努力をしよう。
 パリで過ごしたような濃密な時間を、また過ごせる人と出会えたら……。
 そんなことを考えながら、時間だけが通り過ぎていく。

 旅のほろ苦い思い出になっている『ポリドール』。
 そこに通っていたヘミングウェイは、パリで若い頃に過ごした経験はどこに行っても付いてくる『移動祝祭日』だと遺している。

 パリでの時間は、人生で最高の休日だった。
 あの『移動祝祭日』のお陰で、人の営みが生まれる建物を作る、今の仕事を誇らしく思える。
 そんなことを伝えられる相手がいないまま、記憶は日ごとにどこかの物語みたいな形に変わっていった。

 彼女はあの日々を思い出したりしたのだろうか。



 ここ最近の大きな変化は、ようやく一人暮らしを始めたこと。

 まだあらゆることが手探りな生活で、今朝は小さなキッチンに立ってフレンチトーストを作ってみた。
 パリ15区のアパルトマンで食べた味と全然違うと思うのは、材料が違うのか、彼女が作ってくれたお陰だったのか。


 今日は土曜日で、朝から外が騒がしかった。
 部屋でサスペンス系の海外ドラマをみていると、玄関ブザーが鳴る。

「はい」

 何も頼んでいなかったよなと思いながら、宅配便だろうとインターホンのモニターを覗く。

 息が止まった。
 まるで幻を見ている気分で「今、行きます」と振り絞るように声を出すと、「隣に越してきましたので挨拶に来ました」とインターホン越しに声が聞こえる。

 忘れていた。
 この世には、時々理解のできない奇跡が起きる。

「あのっ……!」

 慌てて玄関ドアを開けると、そこにはパリで見た景色があった。



<END>
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