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第三章 足りない僕とコーヒーと

祥太くんという男 1

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 日葵へのメッセージ返信を保留しておきながら、僕は祥太くんにメッセージを送った。

『今日、泊まりに行っても良いですか?』

 このメッセージを送ると、祥太くんはすぐに返信をくれる。美容師という職業は仕事中にも頻繁に携帯電話を見られるのだろうか?
 あの美容室の事情はよく分からないけれど、祥太くんのレスはいつも早い。

 今日は……なかなか返信が来ないな。
 例の「まきちゃん」と約束でもしているのだろうか。
 僕に彼女とのことを追及されると思って警戒しているのだろうか。

 まあ、追及はしたいよ。
 いつも僕だけが日葵とのことを聞かれていたから、フェアじゃないと思っていたんだよね。

 結局、この日の営業時間中は祥太くんから連絡が来なかった。
 珍しいこともあるなと閉店作業をしていたら、携帯電話が鳴った。

『すいません、ナツさん』
「はは、どうしたんですか? 何か緊急事態?」

 祥太くんからの電話。いきなり謝ってくるところが彼らしい。すぐ返事ができないことくらい、どうってことないのに。

『あの、今日の泊まりなんですけど……』
「ああ、都合悪かったですか?」
『はい、実は家にいなくて』
「まきちゃん?」
『はい、まあ……』

 おいおい、付き合ってないんじゃなかったっけ??
 結局泊まったりする仲なんじゃないか……。

「分かりました、その辺の事情を今度話してくれるなら」
『えっ……。はい、そうですね』
「祥太くん、歯切れ悪すぎ」

 思わず笑ってしまった僕に、祥太くんは気まずそうに「また泊まりに来てください」と返す。どうやら祥太くんにとっての第一優先は、例のまきちゃんという女の子になったらしい。

 電話を切ると、今日は長い時間をかけて家に帰るのかあと途端に気が重くなった。
 僕の日常は、祥太くんの家に定期的に泊まらせてもらっているお陰でかなり助かっていたのだと思い知る。

 そろそろ、引っ越しを考えた方がいいかもしれない。
 自分の店から家が遠いというのは致命的だ。
 少しでも睡眠時間を確保しなければ、このまま一人で店をやっていくことはできない。

 この町を気に入って、家から遠くてもここに店を構えることを決めた。
 立地は正解だったと胸を張って言えるけど、通勤時間は1秒でも削りたい。
 お店を持って全部を自分がやるというのは、想像以上に体力を削られた。

 まだまだ、この生活に慣れていないからなのかもしれない。
 ふと、社会人1年目の頃を思い出す。

 憧れの人の側で仕事を見ながら、僕は夢中になっているうちに時間が過ぎた。
 だけど、休みの日になると起き上がれないほど疲れ切っていて、休みの日に出かける体力すら残っていなかった。
 長期休みが来ると必ず高熱で倒れていたくらい、反動が出ていたのは普通じゃなかったのだろう。

 それでも大きな病気にならなかったのは、若さのお陰だったのかもしれない。
 今の年齢であの頃の無理はできない。
 僕はすっかり自分を諦めることの大切さを知ってしまっていた。

 まきちゃんに夢中らしい祥太くんが、僕には眩しい。
 あの電話の直前まで、男女の駆け引きがあったのかもしれない。

 祥太くん。君の人生は、それでいい。

 僕みたいな後先考えずに店長をやっている人間を家に泊めるなんてこと、ルーティンにしなくてもいいんだ。

 僕はずっと祥太くんに甘えていて、それがあまりにも自然で心地よかったから、ずっとそのまま過ごせるのだと勘違いをしかけていた。
 人生に安息なんてあるわけがなく、それはつまり常にあらゆる可能性に対処しながら生きていかなければいけないことを意味する。

 僕は安定とは無縁だったから。
 そういうことは、自然と分かっているはずだった。

 携帯電話の、返信をしていないメッセージを呼び出す。

 日葵。

『日曜日は休みだよ。何かあった?』

 メッセージを返すと、予想通り僕の携帯電話が鳴る。
 祥太くんじゃないけれど、日葵もかなり返事が早い。

「はい、どうした?」

 閉店作業を終えた店内に、僕の声はよく響いた。人がいないだけなのに、昼間よりもがらんと広い空間に見える。

 日葵は最初に「ごめん」と切り出した。
 今日はどういう訳か、要件の前に謝られる日だ。

「いきなり何? 謝られるようなことが何かあったっけ?」

 僕は日葵がこうやって人を使うことをよく知っているから、どうせまた何か頼まれるのだろうと思って半ば呆れながら次の言葉を待っていた。

『前やってコンペに負けたプレゼンの件なんだけどさ、あの、ナツにコンセプトとストーリーと絵コンテ描いてもらったやつ……』
「ああ、うん」
『不採用になったって連絡が来てたはずが……案だけそのまま盗まれてる』
「へえ……。まあ、よくある話っていえば、よくある話だね。その会社、もう付き合うの止めなよ。舐められてるって」
『うん……普通はそういう話なのかもしれないんだけど、今回はちょっと違うの。その企画で制作を担当するのが……』

 そこで日葵は詰まった。ここまで言いづらそうにしているところからして、嫌な予感がする。

「あの男なんだ?」
『ごめっ……』

 日葵の声に、泣き声が加わった。
 僕を振って、日葵が付き合った男……あいつ、まさか日葵に近付いてうちの提案を盗んだのか。

「いや、なんで……日葵は案を見せたりはしなかったよね?」
『見せてないよ。さすがにそんなことしない……。でも、PCをいじってるところを見られてたから、寝ている時にデータを取られたんだと思う……』
「パスワード見られたか。やることが徹底してるね。随分と余罪のありそうな犯罪者だ」
『証拠はないんだけど』
「偶然にしては似すぎてたんでしょ? 提案が。しかも、向こうには何かしら特典付きで差別化できてて」
『うん……』

 つい、溜息が出た。
 あいつ、まさかそんな理由で日葵に近付いていたなんて。

 日葵に対する愛情がなくても、これは許せることじゃない。
 とにかく僕は苛立っていた。
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