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第一章 定食屋で育って

bitterness 2

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「あの、俳優の波野耕平って覚えてます?」
「ああ、あの……」

 私の言葉はそこで途切れた。あの、二股交際が発覚してから次々に他の女の人の存在が明るみになり、報道陣の前で謝罪をした人。

 それまでは爽やかな印象で、人気のきっかけになったドラマの役柄もあって誠実な男性として見られていた。
 それが一転、主演ドラマも降板になり、起用されていたCMは全てテレビから消えた。芸能人とは社会の印象が大事なのだなとつくづく思ったのを覚えている。

「実はね、あの、耕平くん。仲良くさせてもらってたんです。演技も上手いし評判もよくて、僕の仕事にも協力的で……ね。そんな縁から、とある企業さんのWebムービーに起用したんですよ。それが世の中に出たのが、あの謝罪会見の1週間前で」
「1週間前……」
「そりゃもう、大騒ぎで。担当者は怒り狂って、絶対にこんなものに金なんか払えない! って制作に掛かったお金は未収になってしまうし、耕平くんの印象は悪くなったけれど、未婚なわけで不倫ではないから……まあ、誠実がウリの芸能人が不誠実な交際をしていた時点で、傍から見たら裏切り行為なのかもしれませんけど」

 たまに芸能ニュースを見て適当な噂話をしていた私には、こんな裏事情など想像もつかなかった。当時は、「もうダメだなー波野耕平」なんてニュースを見ながら普通に言ってしまっていた。

「……大変だったんですね。でもそれは、ナツさんのせいではないし」
「僕のせいですよ。耕平くんを起用したのも僕ですし、彼と仲良くしていたのも僕です。リスクを甘く見過ぎていた。そして何より、人を見る目がなかったんです」

「人を見る目なんて言ったら、日本全国みんな見る目が無かったってことじゃないですか。彼を誠実なイメージに仕立て上げたのは、ナツさんじゃなくて視聴者側です」
「実力派の俳優さんが、ドラマで演じた役柄の印象に引っ張られるのは当たり前です。僕は、私生活すら知ってたんです。交際中の彼女さん含めて会ったことがあったし……」

 恐らく、その彼女さんというのは波野耕平がもともと交際を公表していたモデルさんのことだろう。演技派俳優は私生活を演じるのも上手かったに違いない。

「もしかして、それで自分のせいだと思って仕事を辞めたんですか?」
「仕事を辞めた理由は、またちょっと違うかもしれません」

 ナツさんがその後を続けずに何も言わなかったので、私はとりあえず普段のお店と同じように水をナツさんの前に置き、夕食の準備を始めることにした。
 冷凍庫にある既にスライス済で下味のつけてあるのマグロをキッチンの作業台に置く。バットごと冷凍していたマグロ。刺身を綺麗に切るのは私ではなく父の仕事だ。舌触りのせいか、味が全く違うから料理人とはすごい。

 まずは味噌汁の出汁を引こうと、昆布を水に浸ける。そしてお米を洗って水に浸けた。うん、仕込みが終わってしまった。

 キッチンからナツさんの座る席まで戻ると、ナツさんは携帯電話で誰かにメッセージを送っているようだ。

「30分くらい、やることがなくなりました」
「あはは、なんか分かる気がします」

 いつも通りのナツさんが、営業用の顔で笑ってくれた。
 目の前の水はひと口分だけ減っている。私も自分用に汲んでおいた水に口をつけながら、ナツさんの様子を探ってしまう。

「ナツさんって、夏木ユウタロウさんじゃないですか」
「はい。久しぶりにフルネーム聞きましたね」
「下の名前はカタカナなんですか?」
「いえ、石原裕次郎の、太郎バージョンです」
「なにその説明」

 私が不可解な顔をすると、ナツさんは「いや、年齢が上の方にはそれが一番伝わるんですって」と言った。大分上の世代じゃないのだろうか。いや、クリエイティブな人たちからするとレジェンド的な人だから通じるのだろうか。

 夏木裕太郎さん。見た目が現代人風でおしゃれなナツさんに、古風な名前が付いたものだなと変な感じがする。けど、案外それがカッコイイのかもしれない。

「じゃあ、カタカナ表記は芸名みたいなものってことですか?」
「どうでしょうね。多分……自分に自信があったんだと思います。若くて勢いがあったから、人とは違うんだって見せたかったんでしょうね。まあ、イキってたんですよ、要するに」
「その当たりの柔らかさでイキってると言われても……」

 全くもって納得できない。それに多分、ナツさんは人とは違う。感性だとか、感覚だとか、いわゆるセンスと呼ばれるものが。

「実際、ナツさんは才能があるじゃないですか。この間だって、明らかにナツさんのことを頼って3人くらい男の人が来てましたよね? 朝……」

 私はその時、ナツさんの表情が一気に曇ったのを目に入れてしまった。
 まるで、見てはいけないものを見て、聞いてはいけないことを聞いてしまったような、そんな気分がした。

「利津さん……どうやら僕、利津さんとの距離感を間違えてしまいましたね。僕のせいだし謝るんで、もう、こういうの止めてもらえませんか?」
「こういうの、って……」
「これ以上踏み込まれると困ります。距離感を間違えて欲しくないって言えば分かります?」
「そんな……」

 ナツさんの顔には「勘弁してください」と書いてある。お願いだから関わらないでくれという気持ちが、私に突き刺さるみたいに。
 何が、どうしてそんなにナツさんを怒らせたのか分からない。
 だけど、ナツさんの顔には今まで見たことのないような悲壮感が張り付いていて、それを見た途端に私の息は止まった。

 傷付けた。

 ナツさんは、何も言わずに店を出て行った。
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