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三毛猫と極限の人事部
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しおりを挟む「よし。会社行こ」
鏡に映る自分の顔を見た沙耶は、満足げに頷く。
昨日までゾンビのようだった顔は、質のいい睡眠のおかげか健康的な色艶だ。靄のかかったような頭の中も、今ではすっきりと澄み渡っている―――が。
(これがあのおっぱい星人のおかげだなんて、私は絶対に認めない)
今朝のおっぱい事件を忘れるはずもなく。
沙耶は、ふんっ! と鼻を鳴らして家を出るのであった。
△_▲
(さすがにまだ人は少ないか)
いつもより早く到着した会社は、どこの部署もまだ静けさが目立っている。
沙耶は、人気のない静かな廊下を歩きながら、
(もしかして、初の一番乗り?)
社畜根性丸出しの期待を密かに高める。
その思いの中には、人事部課長を自分が一番最初に出し抜きたい、という野望が。
誰よりも仕事量があるのに、人のことを手伝う余裕がある課長。
社員達の間では、
『あの仕事の速さは、人間には到底不可能だ……。課長、何者?』
と話題にあがるほど、有能な人物。社長にも大層気に入られているという噂話まである。しかも、人の仕事は手伝っても、自分の仕事を手伝わせたことはないという話まで。
だからこそ、沙耶は狙っているのだ。課長より早く仕事を終わらせて、
『その仕事手伝います』
と言えるその時を。勝利宣言を。
しかし、その考え方は確実に社畜のソレである。本人は気付いていないだろうが。
そしてそんな社畜の一人が小さな鼻歌と共に、人事部のオフィスへと足を踏み入れる。すると―――。
「おはよう」
「………おはよう、ごさいます……」
そこにはすでに、仕事を開始している課長の姿があった。しかも、他の社員の倍以上あった仕事が、七割方終わっている。
一体いつ出勤してきたのか、謎だ。
(この人、本当に人間なの……?)
そう疑うほどに、仕事を片付ける早さは尋常ではない。
一瞬、徹夜で仕事を……? と思った沙耶だが……。
着ているスーツが違うことと、目の下のクマが薄れていること。そして、顔の色艶を見て、それはないと確信する―――が。
(私より早い出勤なのに、家にも帰って寝てるって……。こんなの誰が勝てるのよ……)
一生勝てることはないと、言われているようなものだった。
今日この時点で、沙耶の野望は消滅。けれど、同僚達よりは早く出勤しているのは確か。一足先に仕事を始めようと、沙耶はボールペンに手を伸ばす。するとその時―――。
「実池。ちょっとこっち来い」
「は……はい」
課長からの呼び出し。
沙耶は不思議そうな表情を浮かべ、課長のデスクに近寄る。
そして―――。
「お前、会社役員に何か恨みでもあんのか?」
「………え?」
「昨日、『ハゲろ』とかなんとか言ってただろ」
「……………」
昨日の暴言をバッチリ聞かれていた。
「別に暴言の一つや二つ、いいんだけどよ。あんまり会社では口にすんなよ。どこで誰が聞いてるかわかんねぇからな」
「はい……。すみません……」
やっちまった……と、沙耶は俯きながら謝る。
まさかあの時、近くに課長がいたとは思いもしなかった沙耶。今すぐ家に帰りたい。
「あと……」
「え。まだ何かあるんですか……?」
沙耶の顔がひきつる。
これ以上の精神的ダメージは仕事に影響しそうだと、逃げ腰だ。
しかし、課長を前に【逆らう】なんて言葉が存在しない沙耶には、諦めることしかできない。
変な話題でありませんようにと、心の中で祈る。
「実池は……」
「はい……」
「営業部の甲斐谷と、付き合ってんのか?」
「……………え?」
自分の聴力を疑いたくなる言葉に、沙耶は何度も瞬きを繰り返す。頭の中はすでに疑問だらけだ。
沙耶の【古い知り合い】である男、甲斐谷壮司。彼は、沙耶の同期でもあり、あの営業部に所属している。
スラッとした体つきが映える高身長。逞しさはあれど極端に太すぎないバランスのいい体格。
顔つきは、どちらかといえば精悍な方で、あまり優しげな印象は受けない―――が。
一部の女性社員からの人気は、地味に高いらしい……。
しかしそんなこと、沙耶にはどうでもいい話である。
「………私、甲斐谷と付き合ってません。どうしてそんな話になるんですか……」
沙耶は、不満げに口を尖らせる。そんな沙耶を見た課長は、
「違ぇの?」
と言いながら、首を傾げ―――。
「実池の接し方が他の奴ら相手にしてる時とは違ぇしよ。それに、昨日大人しくおんぶもされてただろ。それ見ちまったら、人並みに気にもなる」
「………いたんですか、あそこに……」
「あぁ。いたな」
「……………」
大誤算だ……と、沙耶は顔を両手で覆い隠す。
(よりにもよって課長に見られるとか……っ)
仕事に関しては厳しい課長だが、実はこういった類いのゴシップが大好物。誰かに言いふらすことはせず、一人静かに楽しむタイプである。
そして、興味を持たれてしまったが最後。絶対に逃がしてはくれないタイプでもある。
ゴシップ記者の才能ありだ。
「………なんというか、古い知り合い……みたいな?」
「そのレベルは超えてるだろ」
「なんでですかっ」
「愛想笑いしてねぇし。どっちかっつーと、素が出てた気がする」
「……………」
思っていた以上に細かく見られていたことに、沙耶は頭を抱える。
課長が指摘するように、他の社員と話す時よりも、確実に素が出ている自覚はある。そのため、否定ができない。
しかし、そうであっても沙耶には、課長の発言を認めることに、躊躇いがあった。
なぜなら、自分にとって壮司が【特別な存在】であることを、知られたくないから。あと、単純に認めたくもない。
「……………」
「ま、無理に肯定しろとは言わねぇよ? だからって誰かに言うつもりもねぇしな」
「そう、ですか……」
「でも、別に隠すようなことでもねぇんだろ?」
「……………」
話の流れ的に、何も聞かずにいてくれるのかと思いきや。まさかの追求に、沙耶の顔が引きつる。
しかし、相手はあの課長。
今も、不気味なほど綺麗な笑顔を浮かべて、プレッシャーをかけてくる。その顔には、
『教えてくれるよな?』
という文字が、浮き上がって見える。
(………いや。負けるな、私。別に言う必要なんてないんだから……!)
自分にそう言い聞かせて、沙耶は意志を固める―――が。
「み い け ?」
「……………」
課長は―――強かった。
沙耶が後退してしまうほどの強プレッシャーな笑顔。ひとつも揺るがない。隙も見つからない。ついでに、微動だにしない完璧な笑顔が、最高に怖い。
無愛想とまではいかないが、どちらかといえば、課長はクールだ。そんな彼の作り笑顔は、沙耶が想像していた数十倍は重い。
上司の、その場にそぐわない笑顔ほど、部下にとって怖いものはない。
(………はぁ。逃げられない、かー……)
興味を持たれた相手が悪かったと、沙耶は溜め息を吐く。これはもう諦めるしかない、と。
「………幼馴染み、なんです」
「幼馴染み?」
「はい。だからさっき言った古い知り合いっていうのも、嘘ではないです」
「ふーん」
「……………」
だろうな、といった様子で頷く課長。
その反応の薄さに、逃がしてもらえないことを悟った沙耶は、諦めて話を続ける。
「実家が隣で、親同士が仲良しだったせいか、小さい頃からずっと一緒にいたんです」
「へぇ」
「しかも、幼稚園から就職先までまったく同じで、一度も離れたことがありません。なので、幼馴染みと言うよりは、もう腐れ縁ですね」
「あぁ、なるほどな」
納得したといった表情を浮かべる課長。
沙耶は、ホッとしたように息を吐く。
本人は認めたくないようだが……。
生まれた時から家族同然に過ごしていれば、特別な存在になるのは当たり前。愛想よく接したり、猫を被る必要はない。むしろ、自然体でいることしかできないのだ。
「まぁ、私達の関係はそんな感じです……」
「大いに納得した」
「そうですか……」
「でも、そんだけ一緒にいたんなら、今は部署も違ぇし、家も離れてんだろ? 接点が減って、実池も少し寂しいんじゃねぇか?」
そう言いながら、からかうような笑みを見せる課長。
しかし、沙耶は―――。
「……………」
なぜか、無言で視線を反らした。
「なんだ?」
それに気が付かない課長ではない。沙耶の態度はあからさますぎた。
「おい、実池」
「……………アパートが、ですね。隣なんです」
「誰と誰が」
「私と壮司が」
「………マジか」
「マジです……」
さすがの課長も、そこまでは予想していなかったらしい。
からかうような笑みは消え、真顔になっている。
「まさか偶然じゃねぇよな……?」
「はい。母親達の策略に嵌まりました……」
当時のことを思い出してか。沙耶の口からは、乾いた笑いが溢れ出す―――。
それは、沙耶まだ大学生だった頃。今勤めている会社から、内定を貰ったすぐ後のことだった。
実家を出て、一人暮らしをすることにした沙耶は。会社から徒歩で通えるアパートがないかと探していた。すると、それを聞きつけた壮司の母がオススメしてくれたのが、今のアパートで。
過去様々な前科から、疑いはあったものの……。
場所や間取り、家賃など、ほぼすべてが理想的だったこともあり、泣く泣く即決。
そして、無事引っ越しが終わった後。
隣人に挨拶へ行くと、そこにはなぜか壮司の姿が……。
この瞬間。沙耶はようやく、母達に嵌められたことに気が付いたのだった―――。
「お互い就職先から内定を貰った後、いろいろと忙しくて連絡取ったり、会って話したりしてなくて。当日に初めて知ったんですよ……」
「甲斐谷の引っ越しにも気付かなかったのか?」
「その時ちょうど家族全員で一人暮らしに必要な物買いに行ってたんで……」
「完全に仕組まれてるな」
「はい……。でも、嫌なら更新時に引っ越せばよかったんですけど……。今住んでるアパート、本当に住み心地が良くて。だから今も壮司とはお隣です……」
「苦労してるな」
「主に母親達にですけどね……」
さすがの課長も不憫に思ったのか。その顔には同情の色が見える。
「でも、あれだろ?」
「?」
「案外、嫌じゃねぇんだろ? 甲斐谷が傍にいること。今までずっと近くにいたわけだしな」
「……………まぁ。そうかも、です、ね……」
課長の言葉に、自然とそう答えた沙耶だが……。
すぐさま視線を明後日の方角に向けた。すると―――。
「へぇー」
課長が何やらニヤニヤと、厭らしい笑みを浮かべている。
「………なんですか」
「困っているようで、なんか嬉しそうに笑ってんなーと思って」
「そんな顔はしてません。私は仕事に戻ります」
「おう。頑張れよ」
「……………」
妙に楽しげな課長を一睨みして、沙耶は自分のデスクへと戻っていく。
(嬉しい? ………そんなわけないしっ)
ふんっと鼻を鳴らせば、少し離れた場所から聞こえた小さな笑い声。沙耶がその方向へ顔を向けると、机に突っ伏しながら肩を震わす課長の姿が……。
すると、沙耶は―――。
「勘違いしないでください。私は全然嬉しくありませんっ」
と否定。
しかしそれが更にツボに入ったのか、課長は懸命に笑いを堪えている。そして、『わかった』という意思表示か、その場で片手を上げたが。
(なんで笑うのよ……!)
沙耶は納得できず、もう一度課長を睨み付けてから、仕事に戻っていくのであった。
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