短編集【現代】

鈴花 里

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苦いコーヒーが甘くなるまで

後編

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 兎見が『ご馳走さまでした』という言葉を残してから、約一ヶ月。
 彼はあれから一度もお店を訪れていない。


「! ……いらっしゃいませ」


 毎日何度も鳴り響く来客の鈴の音に、比奈子は無意識のうちに兎見を期待してしまう。
 毎日のように訪れていた兎見が来なくなって、ホッとしている反面、確かに感じる寂しさもあって……。

 お店に来なくなってから数日はどこか体調でも悪いのかと心配もしたが、お店にやって来た鹿取に聞けば、いつもと変わらずに仕事をしていると教えられた。

(あ……そっか。お断りしたから、もう来てくれないんだ……)

 それがようやくわかった時。あの時とは比べものにならないほどに胸が痛んだ。
 約五年、ほぼ毎日のように通ってくれていた兎見――。
 声をかければいつも嬉しそうに笑ってくれた彼は、もう来ることはない。

(自分がそうしたくせに……)

 後悔しか生まれないのはなぜだろう。
 今の比奈子にはそれがよくわからない。

 そして――。
 この日も兎見がお店を訪れることはなかった。


「お疲れさまでした」
「お疲れー」


 いつも通り定時にお店を出て、いつもと同じ帰り道を歩く。ふと立ち止まって見上げれば、そこは常連客の勤めている出版社。

(兎見さん、まだ仕事してるのかな……)

 ハッと我に返り、いけないと首を左右に振って歩き出す。
 もう自分には関係ないことだと言い聞かせて、そこで小さな溜め息をひとつ。

(早く帰ろう)

 今日は少し寒いからお風呂に湯をはってゆっくり浸かろう。そんなことを思いながら、家に向かって足を進めていると――。


「あっ」


 反対方向から見知った男女が二人、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。

(兎見さん、と――小鳥遊さん……)

 楽しげに笑いながら隣同士で歩く二人。その距離がなんとなく近いように感じるのは、なぜだろう。
 少し前ならこんなこと、思わなかったはずなのに。

 兎見と小鳥遊はお店の常連客。笑って挨拶をしなければいけないのだが、今の比奈子にはそんな余裕が一欠片もなかった。

『とにかく、この場から早く立ち去りたい。』

 それが本音だった。
 二人に気づかれたくないと、顔があまり見えないように俯きながら足早に歩く。

(どうか気づかれませんように……)

 そう願いながら――。

 しかし、こんな時ほど相手に気づかれてしまうのはよくある話だ。


「比奈子ちゃん?」
「……っ…」


 すれ違う寸前、声をかけてきたのは兎見だった。
 ビクリッと体を小さく震わせ、視線をそちらに向ければ、ぴったりと並ぶ二人の姿。

(笑って、挨拶しなきゃ……)

 しかし、今の気持ちを押し留めることもできなくて――。


「ご、ごめんな、さい……っ」


 瞳に溜まった涙が流れる前に、その場から逃げるように走り出す。きっと変に思われたに違いない。
 しかし、今はとにかく並ぶ二人を見るのが嫌で仕方なかった。胸の奥がズキズキと痛み出して止まらない。

(あ……そっか……。私、兎見さんのこと――)

 どうして、今気づいてしまったのか。
 なぜ、もっと早く気づけなかったのか。
 今の比奈子にはもう……後悔しかない。

 ポロポロと溢れる涙をそのままに、早く遠くへ行きたい……と走り続けるのだった。





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





 口から溢れる嗚咽を打ち消すように、息が乱れる。苦しくてもう走れないと思うのに、足を止めたくない。

(聖也さんの言うとおり、私はバカだ)

 ほぼ毎日、まるでそれを挨拶のように伝え続けてくれた想い。

『この人は、一体いつまで言い続けるつもりなんだろう。』

 初めの頃は、ただそう思って受け流していただけだった。
 お客の中でも、自分に好意を抱いて告白してくる人は結構いて。それもずっと受け流し続けて。長くても半年くらい経てば、お店に来なくなったり。諦めて普通のお客として来るようになったり。それがほとんど。
 兎見もきっと、半年くらい経てば諦めるのだろうと思っていた。

 しかし、なぜか彼は諦めようとしなかった。
 一年が経ち、二年が経ち――五年が経っても変わらない。兎見ほどの容姿と人柄なら、いくらでも女の人は寄ってくるはずなのに、変わらず自分だけを見つめ続けてくれる。
 だからこそ、途中で気がついたのだ。本気なのだと。
 でも、それに気がつかないふりをしていたのは――。

(いつかの終わりが、見えてしまいそうだったから……)

 今の関係性が好きだった。
 他愛ない話をして。
 告白を受け流して。
 少しだけ優しくして。
 仕事へ向かう兎見を送り出す。
 彼の、自分だけに向けてくれる嬉しそうな笑顔が大好きだった。

(兎見さんの気持ちに白黒つけない限り、ずっとその顔を見ていられると思って…………私は、ずるい)

 こんな自分を知られたら、きっと嫌われてしまう。それがバレて距離を置かれてしまうくらいなら、自分から離れた方が楽なはず。
 比奈子の出した答えは、自分のことしか考えていない、自分を守るためだけの答え。
 そこに、兎見の気持ちも、兎見への本当の想いも、何も入っていない。

 走り続けていた足が、ようやく止まる。
 辺りに目を向ければ、夕日のよく見える少し寂しげな河川敷。比奈子の家からは少し離れた場所だ。
 未だに整わない乱れた息と、止まらない涙に、比奈子は苦しくなってその場にうずくまる。
 自ら選んだ結果なのに、それが情けなくて悲しくて仕方ない。


「…う……っ」
「比奈子ちゃん!」
「……え…?」


 突然聞こえた、少しだけ懐かしい声。
 その声のする方へ無意識に振り返れば――。


「兎見、さん……」


 比奈子を追いかけてきたのか、息を乱した兎見の姿があった。
 久しぶりに見る彼の姿に、比奈子の涙は更に溢れ落ちる。


「どうして……」
「え?」
「どうして、追いかけてきてくれたんですか……?」


 そう尋ねた比奈子に、兎見は優しく微笑んで。


「反射的に」
「え?」
「ていうのは冗談で。元気なさそうだったし、今にも泣きそうな顔してたから」
「…………」
「今、すごい泣いてるから驚いてる」


 うずくまる比奈子の元へ歩みより、ハンカチを差し出す兎見。そのハンカチと兎見の顔を交互に見た比奈子は、即座に両手を伸ばして……。


「ひ、比奈子ちゃん!?」


 ハンカチをスルーして、兎見にぎゅうっと抱きついた。抱きつかれた兎見は、半パニック状態である。


「え、どうしよう、これ。俺も抱き締めていいの? セクハラにならない?」
「……この状況で、それ言いますか?」
「あ、ごめん。では、遠慮なく」


 兎見からもぎゅうっと抱き締められて、比奈子は途端に嬉しくなる。想像よりもずっと大きい兎見の腕の中にすっぽりと包まれた瞬間。あれだけ溢れていた涙がすっと止まってしまった。


「あー、比奈子ちゃん小さい。柔らかい。可愛い。鼻血出そう」
「あの、心の声が口からもれてます……」
「ごめんごめん。あー、ムラムラする」
「…………」


 ドンッ! と少し強めに背中を叩くが、体が頑丈な兎見にはまるで効果がない。
 今も止むことなく、心の声が駄々漏れだ。これはもう諦めるしかない。


「あの、兎見さん。ごめんなさい……」
「ん? 何に対するごめんなさい?」
「私、お返事する時、ウソついたんです……」
「あー、あれか。大丈夫だよ。わかってたから」
「え……?」


 まさかの返答に固まる比奈子。
 兎見の言葉の意味がよく理解できない。わかっていた、とはどういう意味なのか。


「聖也さんから聞いてはいたけど、予想以上の鈍感でしかも無自覚だから、あの時は確かに焦ったなー。まさか断られるとは」
「え? あの? どういうことですか?」
「比奈子ちゃんが俺のこと好きなの知ってたよ、って話」
「……え?」


 ……どういうことだろう。
 比奈子が、兎見への想いを認識したのは、認めたのは、ついさっきだ。それなのに、兎見は比奈子が自分に気があることを知っていたと言う。


「あの、どうしてそう思ったんですか? 私が兎見さんのこと好きだって……」
「それは……他の社員に俺の話聞いてたり、俺の好物覚えててくれたり、帰り際に必ず『明日も待ってます』って言ってくれるし、俺が来ると一際嬉しそうに挨拶してくれるし、聖也さんが比奈子ちゃんは休憩の時、俺の話ばっかりするって言ってたし」
「…………」
「これは俺のこと好きになってるけど、気がついてないだけなのかなって」
「…………」
「違った?」
「…………違わないです。その通り、です」


 自分の鈍感さと無自覚さを改めて認識して、情けないのと恥ずかしいのとで、更にぎゅうっと兎見に抱きつく。今は顔を見られたくない。

 しかし、ここで比奈子の頭に一つ疑問が浮かぶ。それは、なぜここ一ヶ月お店に来なかったのか。
 比奈子の本当の気持ちを知っていたのなら、避けなくてもよかったはずだ。
 それについて尋ねてみると。


「押してダメなら引いてみろ、って小鳥遊が言うから」
「小鳥遊さんが?」
「そう。あいついわく、俺は押しが強すぎるって」
「あの、ちょっと待ってください。小鳥遊さんは、兎見さんのこと好きなんじゃ……?」
「それ、だいぶ前の話だな。確かに告白はされたよ。入社したその年に」
「え?」
「もちろん、即断ったけど。それからはあいつ、いろいろと助言くれてさ。言い方きっついけどな」
「そう、ですか……」


(つまりあれは……小鳥遊さんなりの助言だったと?)

 ――いや、たぶんそれは違うだろうと比奈子は思う。
 兎見に対しては助言をしていたかもしれないが、自分に対してのあれは嫉妬心からきていたもののはずだ。言い方もそうだが、あの目には敵意しか感じなかった。

(でも……それはわざわざ兎見さんに言うことではないから――)

 自分の胸に秘めておこう、と口をつぐむ。
 そして、比奈子は覚悟を決めたように、兎見からそっと体を離して。


「兎見さん」
「なに?」
「好きです。付き合ってください」


 満面の笑みで、そう告げるのだった。





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





 五年という長い月日を経て、ようやくその関係が落ち着いた比奈子と兎見はというと――。


「比奈子ちゃん」
「なんですか?」
「好きだよ」
「そうですか」
「冷たい!」


 相変わらず挨拶のように想いを伝えてくる兎見に、軽く受け流す比奈子。そのやり取りに変化はなし。
 ちなみに、最近の兎見はヒマさえあれば、お店を訪れるほどのほぼ常駐客となっていた。


「比奈子ちゃん……。もう少しこう、恋人らしい返しはないの?」
「ないです」
「冷たい……!」


 こうしてしょげる兎見の姿も今まで通りだ。


「はい、兎見さん。いつものオリジナルブレンドです」


 そっと置かれたいつものコーヒーに、今日は比奈子なりのおまけもない。更にしょげる兎見がコーヒーに口をつけると――。


「苦ッ!!」


 とんでもなく濃いコーヒーに、思わず声を上げる。すると、それを見ていた比奈子が楽しげに笑いながら。


「これから兎見さんがお店で私に『好き』と言うたびに、コーヒー苦くしますね」
「え!?」
「少しはその口癖直してください。人前で言われると、ちょっと恥ずかしいです」
「あ、そっか。でも、ちょっと難しいなぁ」
「なら、その分、コーヒーは濃くなります」
「困った」


 そう言って笑う兎見につられるように、比奈子も笑みをこぼして。


「でもね、兎見さん」
「ん?」
「我慢できたらその分…………お家では、とっても甘いことがあるかもしれませんよ?」
「え……。た、たとえば……?」
「ふふっ、それは帰ってからのお楽しみです」
「比奈子ちゃん! それはそれですごく気になるんだけど! だから、今すぐ帰ろう!」
「もーっと濃いコーヒー飲みたいんですか?」
「遠慮します!」


 最近いつも以上に騒がしくなった喫茶店には、看板娘の明るい――幸せそうな笑顔が絶えない。
 そして、そんな看板娘の右手の薬指には、最近毎日のように指輪がはめられているのだという。



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