短編集【現代】

鈴花 里

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苦いコーヒーが甘くなるまで

前編

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 【ポゥズ】という名前の小さな喫茶店。
 それは、とある出版社の一階にある心安らぐ休憩処。
 今日もまた、心身共に疲れきった編集者達が癒しを求めて訪れている……はずなのだが――。


「好きです。付き合ってください」


 カウンター席に座り、正面に立っているこの喫茶店の看板娘に想いを告げる男性が一人。この告白に、看板娘はさぞ驚いているかと思いきや、コーヒーを淹れる手を止めることなく、平然とした態度でこう告げる。


「ご注文はいつものオリジナルブレンドでよろしかったですか?」
「……はい」
「かしこまりました」


 にこっと笑みを浮かべ、新しいカップへコーヒーを注ぐ仕草に無駄はなく、手慣れているのがよくわかる。

 彼女はこの喫茶店の看板娘――羊野 比奈子。
 落ち着いた穏やかな雰囲気と優しく柔らかな微笑みは、お客の心を掴んで離さず。彼女目当てに通う人も少なくはない。
 そして、今しがた比奈子に想いを伝えた男性も例外ではなく……。


「比奈子ちゃん! 俺は本気だよ!」
「そうですか」
「適当に流さないで!!」


 悲しげな顔で必死に訴えるこの男性は、上の階にある出版社に勤める編集者――兎見 杏也。
 体格のいいスポーツマンタイプでありながら、年齢よりも随分と若く見える童顔の爽やかな青年だ。


「俺のこと嫌い?」
「そういうわけではありませんけど」
「なら、もう少し真剣に話を――」
「兎見さんが上の階の出版社に勤めてから毎日のように聞いているので、もう口癖にしか聞こえません」
「マジか……!」


 肩を落とし項垂れる兎見に、いつものオリジナルブレンドをそっと差し出す。コーヒーの横には、比奈子なりの優しさでチョコレートが二つ添えられている。


「あ、このチョコ」
「この前、好きだと言っていたので」
「好きです」
「よかったです」
「付き合ってください」
「いらっしゃいませー」
「…………」


 呆気なくスルーされ、落ち込む兎見。
 いつものことながら丸くなってしまった小さな背中に、悪いことしたかなと思いつつも、比奈子も仕事中であるためそこまで構ってはあげられない。
 自分の仕事をこなしながら、ちびちびとコーヒーに口をつける兎見に視線を向ければ、突如鳴り出す着信。


「はい、兎見です」


 さっきまでの悲しげな表情はどこへやら。キリッとした真剣な顔で対応中。

(お仕事してる時は、本当に素敵なんだけど)

 兎見と同じ部署の社員いわく、仕事は本当にできる人らしい。上司、同期、部下はもちろんのこと、担当作家からのウケもよく、皆から頼りにされているとのことだ。比奈子に見せる顔とはまるで違う立派な人だと、皆、口を揃えて言う。
 しかし、比奈子への猛アプローチを知っている人は、実に残念な人だ、とも言っている。主に、女性社員が……。


「はい、わかりました。すぐに向かいます」


 話が終わったようで通話を切るが、そこで大きな溜め息をひとつ。
 比奈子は不思議そうに首を傾げる。


「ごめん、比奈子ちゃん。もう少しゆっくりできる予定だったんだけど、ちょっと急用ができたからもう行くわ」
「そうなんですか」
「え。それだけ?」
「はい。お気をつけて」
「……いってきます」


 悲しげな顔でまた背中を丸くして仕事へ向かう兎見に、比奈子は――


「また、明日もお待ちしてます」


 柔らかく微笑みながら、そう声をかけるのだった。





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





 兎見が浮かれ気分で仕事へ向かって少し経った頃。
 お客の数が減った店内では、比奈子と厨房担当である同僚が軽い休憩に入っていた。


「兎見君はぶれないねぇ…………ふっ」
「笑い声もれてます」


 コーヒーを手に、声を押し殺して笑う厨房担当の先輩従業員――聖也に対し、比奈子は小さな溜め息をもらす。
 このやり取りも、ほぼ毎日と繰り返されている。


「いやぁ、かれこれ五年だよ? そろそろ、兎見君が可哀想になってきてねぇ…………ふっ」
「そんな風には見えませんけど」
「心の片隅では思ってるよ」
「…………」


 胡散臭い笑みを浮かべながらそう言う聖也に、比奈子はもう一度小さな溜め息をもらす。なんだかんだ言うものの、この状況を楽しんでいるに違いないと比奈子は思う。


「でも、実際のところどう思ってんの?」
「どうって……」
「俺の知ってる限りでは、はっきり断ってんの聞いたことないしさ。比奈だってこの五年、彼氏いなさそうだし」
「…………」
「だから、本当のところはどうなのかなって」
「……嫌いでは、ないです。お店に来てくれるのも嬉しいですし」
「なら、付き合ってみれば?」
「うーん……。実は問題が――」


 そう言いかけたところで、カランコロンという音と共にお客が二名やって来る。


「いらっしゃいませー」


 休憩用のコーヒーとクッキーを見えないところに隠し、お客へ顔を向ければ、これまた出版社に勤めている編集者の二人。


「よお。ちょっと休憩に来た」
「こんにちは」


 一人は兎見の同期である鹿取という男性編集者、もう一人は入社二年目の小鳥遊という女性編集者だ。兎見ほどではないが、この二人もよくお店に来てくれる常連客である。


「今日もまた兎見に告白されたらしいな」
「えぇ、まぁ」


 常連であるがゆえに、こういうことを聞いてくるのは少し厄介でもある。


「兎見先輩のソレはいつものことじゃないですか。挨拶みたいなものでしょ」


 少し面白くなさそうな様子を見せる小鳥遊に、比奈子は控えめに視線を向ける。

 実は、比奈子の言う問題というのはこの小鳥遊のこと。
 少しだけ冷めた雰囲気のある彼女、普段は特に問題のない人なのだが、兎見の話になると途端に取っ付きにくくなるのだ。特に、兎見が比奈子に好意を寄せているという類いの話になると、誰もが見てわかるほど不機嫌になる。


「比奈子は付き合う気ねぇの? あいつ、確かに残念なとこあるけど、いい奴だよ」
「そう、ですね……」
「何言ってるんですか。あんなの絶対本気じゃありませんって」
「あはは……」


 板挟みとはまさにこのこと。

 鹿取の言っていることに納得はできるため同意したいのだが、好意を持っているような言い方をすれば小鳥遊が不機嫌になる。
 気にしすぎなのかもしれないが、兎見も含め、鹿取も小鳥遊も大切なお客様だ。比奈子としては、優劣はつけたくない。


「兎見は本気だよ。お前が知らないだけで、比奈子に熱上げだしてから女っ気ねぇんだから」
「偶然でしょ」
「違うな。本気だからだよ」
「偶然」
「本気」
「あの、二人とも……」


 睨み合い火花を散らす二人に、比奈子は本気で困る。こうなってしまうと、二人とも自分の主張を絶対に引こうとしないからだ。
 どうしたものかと思いながら、困り顔で二人を眺めていると……。


「比奈子さんはどう思ってるんですか」
「え?」
「兎見先輩のこと」


 まるで「好きじゃないって言え」と言われているかのような鋭い視線に、比奈子は困惑する。
 今回初めて小鳥遊から直接ふられた質問に、どう返せばいいのかわからない。
 しかも、極めつけが……。


「いつも困ったように笑ってるだけで、どうするつもりなのか全然わからないんですよ。兎見先輩が可哀想です」
「…………」
「告白され続けてから一度も白黒させたことないんですってね。兎見先輩で遊んでるんですか?」
「おい! 小鳥遊!」
「帰ります。ご馳走さまでした」


 自分が頼んだ分のお金だけ置いて、小鳥遊は一度も振り返らずにお店を後にしてしまう。


「まったく、あいつは……。悪かったな、比奈子」
「いえ……」
「ちょっと仕事で失敗してな。ピリピリしてんだ。俺も行くわ」
「はい」
「じゃあ、また」


 そう言うと、カウンターにお金を置いて鹿取もお店を後にする。
 一人残された比奈子は、カラになった二人分のカップをぼんやりと見つめたまま、動こうとしない。


「おーい、比奈ー」


 すると、そこへ厨房に引っ込んでいた聖也が出てきて固まっている比奈子へ声をかける。


「……聖也さん」
「なかなか強烈な敵意だったな…………ふっ」
「何笑ってるんですか」
「いやぁ? 言い方はどうあれ、言ってることは間違っちゃいないなぁって」
「……そうですね」
「これを機に、そろそろ白黒つけちゃえば?」


 そう言って、比奈子の代わりにカウンターにあった二つのカップを手に取ると、聖也はまた厨房へと戻っていく。
 比奈子はぼんやりとしたまま、見えないところに隠していた冷えたコーヒーを手に取り。


「……苦い」


 誰にも聞こえないような小さな声で、そう呟くのだった。





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





「好きです。付き合ってください」


 いつもと同じカウンター席に座り、真剣な表情で想いを告げる兎見に、コーヒーを淹れる比奈子。まるで決まったことのように繰り返されるやり取りは、この日も例外ではないはずだった。


「兎見さん」


 いつもならコーヒーを淹れながら受け流し状態だった比奈子が、今日だけはなぜか仕事の手を止め、兎見に向き合っていた。
 そして、その表情はいつもの柔らかな微笑みではなく、少しだけ寂しげなもので……。


「比奈子ちゃん……?」


 その様子に戸惑ったように首を傾げる兎見へ、比奈子はゆっくりと頭を下げた。


「ごめんなさい」
「え……」
「兎見さんの気持ちに答えることはできません」
「…………」
「本当にごめんなさい」
「………………そっか」


 初めて比奈子の口から聞くことができた答えに、兎見は悲しげに微笑む。その表情に、比奈子の胸はズキズキと痛んだ。
 それでも……。
 たくさん考えて出した答えを下げるわけにはいかない。
 これが兎見のためなのだから――。


「五年も答えをうやむやにしてしまって、本当にごめんなさい」
「いや、それは俺が引き下がらなかっただけの話だし、気にしなくていいよ。……理由を聞いてもいい?」
「……忘れられない人がいます。どうしても忘れられないんです」
「その人は今どこに?」
「海外に。必ず戻ってくると言っていたので、私はそれをもう少しだけ待ちたいんです」
「……そっか。そう、なのか……」


 独り言のようにそう呟いて軽く俯いた後。兎見はいつの間にか出されていたコーヒーを一気に飲み干す。
 そして、にこっと明るい笑顔を浮かべると。


「コーヒー、いつも美味しかったよ。ご馳走さまでした」


 そう言い残して、いつもより足早にお店を出ていった。
 残された比奈子は、カラになったカップを見てグッと奥歯を噛み締める。
 すると、そこへ。


「忘れられない人がいる、なんて初耳だけど?」
「……聖也さん」


 厨房で話を聞いていたらしい聖也が後ろに立っていた。


「なんでウソついた」


 その表情にはいつものふざけたような色はなく、少しだけ怒っているようにも見える。比奈子はそのことに驚きながらも視線を落とすと、小さな溜め息をついた。


「いろいろと考えた結果です」
「そのいろいろとは?」
「……一度、小鳥遊さんに兎見さんのどういうところが好きなのか聞いたことがあるんです。本当に兎見さんのことが好きなんだなぁってわかるぐらい、小鳥遊さんの顔がとても優しくて……。それが、私にはありません」
「…………」
「兎見さんにいいところはたくさんあります。素敵な人だと思います。けれど、これはそういう好きではないんです。だから、お断りしました」
「……はーあ」
「え。なんですか?」
「鈍感。無自覚。バカ」
「なっ」
「これから、うーんと自覚したらいいさ。自分の本当の気持ちを」


 それだけ言うと、聖也はまた厨房へと戻ってしまった。残された比奈子は言われたことの意味がわからず、困惑した顔で首を傾げている。


「答えはちゃんと出したのに……。それの何がいけないの……?」


 問いかけにも似た呟きは、鳴り響いた来客の鈴の音にかき消されるのだった。



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