びーどろの涙

追い鰹

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びーどろの涙

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 小学生のガラス細工の職場見学対応を無事に終えた亮介は、夜更けの誰もいない工房に入り炉に火をつけた。
 音を立てている炉はその熱で周囲に陽炎をつくり、熱は伝播して工房内を満たしていく。七月も半ばを過ぎて夏本番に差し掛かった蒸し暑い夜などとは比べようもないほどに熱い室内では、だらだらと汗が流れていく。体は自然とガラスを巻きつける棒を取り、炉の蓋を開けて中を確認し、棒を差し込みガラスを絡めとった。椅子に座り、棒をくるくる回し、ガラスが冷めたら炉に戻し、少しすくってはまた回す、その繰り返し。小学四年生の頃から亮介の親代わりでありガラス細工の師匠でもあった祖父が亡くなってから約一か月、体の赴くままに工房へとやってきては作業をするでもなく失意に暮れている。じっと座って、ただどこも眺めていない亮介は、職場見学にきていた子供たちのことを思い出していた。
 赤熱するガラスを巻きつけた棒を鉄板の間に梁のように渡してくるくる回し、水を含ませた新聞紙越しの手で形を整える、その作業を小学四年生の少女に穴が開きそうなほど熱心な目で見られていることに、亮介は緊張が自身の指先にまで張り詰めていることを感じていた。
「お前には熱が足りねんだ」
 病院のベッドの上で溌溂と亮介の師匠は言ったが、それは師匠と交わした最後の言葉になった。目の前の少女が持っているものこそ、師の言う熱なのだろうということは亮介にもよく分かっていた。かつて同じかそれ以上の熱を持っていたこと、いつのまにか誰かの真似や後追いで済ませて熱がすっかり冷めてしまっていることも、言われる前から知っていたのだ。しかし、再び火を灯し、過去の自分と同じかそれ以上の熱を持つにはどうすればいいのか、それはまったく分からないでいる。
 頭の中はそんなことでいっぱいだった亮介だが、体は作業を継続していてた。膨らませたガラスの底に別の棒を接着させ、反対側の棒を外し、その口を広げていく。炉に戻し、再度の整形、軽く冷えて固まったのを見てから開いた口の面を作業台に置いてトン、と軽く棒を叩く。棒を水に浸けてジュっと音がすると子供たちから歓声が上がった。できたガラスのコップを専用の冷却槽に入れて重い鉄扉にロックをかける。
「作業の流れは以上です。質問のある人はいますか?」
 子どもたちの目はそんなことよりやってみたいと訴えていた。「いないようなので、じゃあ実際に体験してみましょう」「はい!」元気な返事の圧に亮介は打ちのめされそうだった。
 亮介は一人一人と共同で作業をして、都度の注意やアドバイス、あるいは褒めたりする。子どもたちの真剣な様子とひと作業終えた後の笑顔を見ると亮介も嬉しくなった。師匠や先輩方からの指導では、基本的に怒鳴られ、質問をすれば見て盗め、作った物はことごとくダメだしされてすぐまた次を作らされたので、自身がこんな風に教わりたかったを実現すれば意外と上手くいった。おかげで今までの職場見学や体験会などのお客様からの満足度はかなり高い。
 先ほどの少女の番が回ってきた。少量のガラスを巻き取った棒を少女に渡し、棒を支えながら「思いっきり息を吐いて」亮介の合図に少女は顔を真っ赤にしながらガラスの中に息を吹き込んだ。
「もっと思いっきり、全力でも大丈夫だから」
「はい」
「いいねその調子。じゃあ今度はゆっくり」
 炉に戻して再加熱し、また息を吹き込んでいく。風船を膨らませるのにもっとも困難なのが最初であるように、ガラスに空気を送り膨らませるのは最初が一番硬い。小さな子供の肺活量では何度も繰り返す必要があった。少女の顎先からぽたぽたと汗が滴っていく。
 何度か繰り返したガラスはようやく成人男性の手のひらぐらいに膨らんだ。亮介は立てた鉄板の間に置いた棒を転がし、少女は濡らした新聞紙でおっかなびっくりにガラスへ触れた。
「意外と熱くないでしょ」
「うん、ぜんぜん熱くない」
 真剣な表情の中に楽しそうな笑みを隠せていない少女の汗がガラスへと落ちて、ジュっと音と煙を立てた。少女が肩で汗を拭った。——羨ましい。言語化される前に亮介はそれを思考の中に溶かして消した。

 ジュっと音がして、はっとした亮介は我に返った。焦げた床と焼けた埃の匂いがする。くるくると棒を回していた手をいつの間にか止めていて、ガラスの付け根から細く白い煙がうっすら立ち、消えていく。頬に滴る雫のむずかゆさを亮介は汗だと思った。床には溶けて分離しこぼれ落ちたガラスの一部が冷え固まり始めていた。手の甲で顔を拭った亮介は、それが涙であることに気が付いた。
「またびーどろが泣いてるじゃねえか」
 絡めとったガラスが多かったり、棒を回す手を緩めた時にガラスの一部を落としてしまうことを亮介の師匠はよく「びーどろが泣く」といって、作業道具を片付けなかったときや商品を壊してしまったときよりも怒った。「下手くそが! やる気がないならやめちまえ」師匠にしょっちゅう怒られていた亮介は恥ずかしさと恐ろしさから「もう二度とやらない」工房から走り去って自分の部屋のベッドでうつ伏せになり顔を枕に埋め、奥歯が割れるほど噛みしめて泣き、数時間すると悔しくなってきてやっぱり工房に戻り、当時着ていた薄緑色の作業着の袖が涙で濡れて濃い緑に変わっているのを見た師匠に、どちらの意味でも「泣き虫」といって笑われた。今日見学にきていた小学生と同じか少し上の年齢だった頃のそれはもう、ずいぶんと昔のことのようで——。
「何年やってんだ馬鹿野郎!」
 こうして失敗してみれば、また師匠が隣で怒鳴ってくれるのではないかと期待した。
「お前には熱が足りねんだ。技術も知識も経験も俺なんかよりよっぽどあんのにお前、すげぇのが作れるだけの腕はあんだよ。だってのに、熱は泣き虫と一緒に引っ込んじまったもんだから、物真似ばかり上手くなっていけねぇ」
 師匠の最後の言葉が反芻はんすうされる。しかし、涙はとめどなく溢れていた。冥途の土産話が自分の情けない姿であると思うと、師匠が気の毒で、そんなモノしか持たせてあげられない自分が恥ずかしくて、——閉じ込めてしまおう。亮介の脳裏に決意と閃きが起こったのはほとんど同時だった。
 シャツの腹で顔をゴシゴシ拭いた亮介は道具を放り出し、ふらふらと工房から出ていった。
 亮介は自身の作業場へとやってきた。電気を点け、可燃ガスと酸素のボンベの圧力を調節して弁を開け、バーナーにカチッと火花を散らす。バーナーからぼっと音が立ち、ゆらゆらした赤い炎と黒い煙が昇る。ガスと酸素の弁を調節して、少し伸びた爪の先くらいの芯線が灯った炎の色は、青みがかった白色へと変化する。亮介は換気扇を回した。亮介の師匠が亡くなる前後を含めた今日までの一か月以上、この作業場で何かを作るということはしてこなかったため、亮介は懐かしささえ覚えた。
 そこはガラスのコップや置物、あるいは比較的大きな物を作る先ほどの工房とは別に、手のひらサイズのガラス工芸品を作るための場所であり、元々はただの物置小屋と化していたが、海外でガラス細工の修行をしてきた亮介のためにと師匠が用意してくれた部屋だった。もちろん社員なら誰でも使ってよいのだが、社内にはそういった細々こまごまとした物を作る人が亮介以外にはいなかったため、部屋ができた当初から今でも、半ば亮介専用の部屋となっていた。
 そんな部屋も一か月以上放置していた割にはきれいなままで、手入れや掃除は誰かがやってくれたのだろうということが窺える。自分のことでいっぱいっぱいだったことを改めて知った亮介は、自身の未熟さと陰ながらみんなに支えられていることに胸が詰まった。
 材料のガラス棒を持ってきて透明なゴーグルを着け、バーナーの目の前に亮介は座った。細工に使うガラスの色は子供の頃に着ていた作業着の緑色を手に取り、いくつかの段階的な濃さに分けたものを用意した。
 作品の外殻を担い基礎となる直径二十ミリメートルのガラスの棒をバーナーで回しながら熱し、溶けて玉のようになり始めたガラスを鉄板の上で押し潰して平べったい膨らみを作り出す。この膨らみを溶けないくらいに熱しながら、軽く力を入れただけでも折れてしまうくらい細い緑色のガラスの棒も熱し、その平面に立体図を想像しながら模様を描き溶かし込んでいく。少し描いては全体を赤くなるまで熱して馴染ませ、また描いていくことを繰り返す。久しぶりの作業にも関わらず、亮介の手は澱みなく意思の通りに動いていた。
 半球の型で形を整え、余分なガラスを取り除いてガラス細工が完成した時にはもう、すっかり夜が明けていた。
 出来上がったモノを持って亮介は外に出た。山合から太陽が覗いている。ガラス細工の玉を持っていた腕を伸ばして目と太陽の間にそれを置いた。ガラス玉の中には涙を思わせる雫の形が閉じ込められており、陽の光に透かされた葉の葉脈のように涙のふちが煌めき、内部に陽炎を思わせるわずかなゆらめきを宿して、中心に向かって濃く滑らかなグラデーションを刻んでいる。
「ほら、びーどろが泣いてる」
 亮介は自身の言葉がもうここにはいない師匠へ届いた気がした。
「やりゃできるじゃねえか」
 恥ずかしそうに笑って褒める師匠の声が聞こえてくるようだった。
 何かが胸を込み上げ溢れ出しそうになる。
 亮介の熱はそこにあった。
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