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君っぽいな
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小雨が人々に傘を開けと足を早くした。
私は朝から乾ききっていないビニール傘を広げて、会社の屋根の下から歩き出す。急な残業のせいで駅まで走らなければ到底間に合いそうもないから、早歩きだ。
帰路に着くだけの人々も急いでいるのか気配りが足りていない。水たまりを踏んだ車がしぶきを上げて、跳ねた水滴は歩道へと乗り上げた。私は咄嗟に傘を車道に向けて倒し、水滴を防ぐ。立ち止まった私にぶつかったおじさんの傘から滴る雨水が私の肩を滲ませた。
微かに残った水滴を払い、私はまた駅まで歩き出した。
「ごめんね、遅くなって」
電車に乗って約束していた駅で彼は待っていた。スマホを眺めながら、でも時折、人が流れてくると改札の方に目を向けて確認する。それを遠目で見ただけで、申し訳ない気持ちよりも嬉しい気持ちが勝って、彼の下に駆け寄った。
「大丈夫。明日休みなんだから、ゆっくり行こう」と言って彼はいつも笑うのだ。つまり私の卑屈は直らない。
自然とつながれた手に引かれて、雑談と雨粒の転がる音を交えてお店に入った。個室はあるけどなんでもないただの居酒屋。学生たちが憧れるような社会人のデートにはもっぱら相応しくはないけれど、私たちにとっては分相応というもの。思い出があれば憧れなんて覆るのだ。
いつものメニューを頼んで、いつも通り頼んだことのない品を冒険と称して一品だけ注文し、適度に酔いを回していく。ホタテとキノコのバターソテーは当たりだった。
「今日さ、来るとき車が踏んだ水が跳ねてさ、立ち止まって傘でガードしたらおじさんとぶつかって、結局逆側が濡れちゃったんだよね」
「傘でガードねぇ。小学生の時それで遊んでたなぁ」
「水鉄砲とか?」
「そうそう。まあ結局みんな傘を捨てて特攻するからびしょ濡れになるんだけどね」
「洗濯とか大変そー」
「帰ったらよく怒られてたよ」
「あなたでも怒られることあるんだ」
「たくさんあるよ。でも君の方こそ怒られることなんてそうそうないんじゃない?」
「私の場合は、怒られるより困らせるだから」
「失礼します。ご注文のキウイサワーです」と店員さんが入ってきた。私は少しだけ残っていたパインサワーを飲み干してグラスを返し、キウイサワーのグラスを受け取った。
「想像つかないなぁ。どんなことで困らせたの」
「えー、恥ずかしいんだけど」
「今さらだって」
「んー、幼稚園に通ってた頃なんだけどね」
その当時、私は好きな男の子がいた。それが初恋だったと気が付いたのはずっと後のことだけれど。
すごく明るくて、元気が良くて、面白くて、優しい。かけっこも一番速かったし、演劇も堂に入った主役を演じていた。きっと私以外の子も彼を好きだったに違いない。そんな子と私は両想いになって、好きだと言い合っていた。
思い返すだけでめちゃくちゃ恥ずかしい。若気の至りと悟るには幼かったことが唯一の救いだろう。
そんな満たされていたある日、その子の転園が決まった。親の仕事の都合らしかった。当然、私は泣いた。私も一緒に行くと喚いた。一日中、次の日も、また次の日もむくれたままだった。
別に親同士で交流があったわけでもなかったのだが、せめてもの情けと、引っ越す直前にその子に家に行きお見送りをさせてもらった。そこで私はまた泣きじゃくって、嫌だとせがみ地団駄を踏んだ。
彼はそんな私の口を自身の唇で塞いだのだ。
私は何がなんだか分からず押し黙り、大人たちは温かい目で二人を見守っていた。彼は私の手を取り「またね」と言って微笑んだ。
その時の表情は年月とともに色褪せもはや、輪郭すら捉えることができないけれど、でも、彼の言葉と握ってくれた手の心地よさはいつまでも残っている。それを思い出すたびに、振り切れない罪悪感が心を掠めていくことも。
「かっこいいなぁその子。少女漫画の主人公も顔負けのイケメンだ」
彼はどこか悔しそうに、照れ臭そうに笑った。
「まあ、その子とはそれっきりだけどね」
「そうじゃなかったら僕はここに座っていないだろうね」
「そうだね」言って私は笑って見せた。
お店を出た時には二十一時を過ぎていて、けれど夜の時間にはまだ少し早すぎるきらいがあったから、私たちは二軒目の居酒屋に入ってお酒と少しのおつまみで時間を潰した。雨はすっかり上がってしまっていた。
彼は酔うと眠くなるからと、二軒目ではあまりお酒を飲まなかったので、私もそれに倣った。
二十二時も後半になってくると人はもう疎らになっていて、代わりとばかりに、奇抜な目に痛い蛍光色が華やいでいる。男も女もそういう時間で、灯りに誘われる虫のように、人々は次々と建物の中に吸い込まれていく。例にもれず我々もその中の一組であるわけだが。
彼の前戯は少々長い。もちろん気持ちはいいし、彼なりに配慮してくれているのが分かるのは素直に嬉しかったりする。けれど、じれったくて、早く挿れて欲しいと思わなくもない。……挿れたら挿れたで果てるまでが割と早いので、それを気にしているのだろうとも。そんなところで可愛いと感じてしまうわけだから、私の中でも方針が定まっていなかったりする。
エッチのあとは決まってシャワーを浴び、二人でお風呂に入るのだ。湯のぬくもりに包まれながら背中に感じる彼の体温、抱きしめられる腕や手の充足感といったらない。ついつい顔がふやけてしまい、彼の方を振り向けばいつでもだらしなく笑ってしまうのだ。そこでキスしてもらうことがまた、私を満たしてくれることを彼も知っている。
ベッドに入って向かい合う。彼の二の腕に頬をくっつけ、背中に自分の腕を回し、彼の胸の中に頭をうずめる。
何事かを二人で話すけれど、酔いと眠気で内容などない。ただそこに二人でいるということが重要で、それだけで私は満たされていく。
いつの間にか眠っていた。彼も眠っている。
うすぼんやりとベッド脇の灯りに照らされて、彼の顔の輪郭が寝ぼけ眼に仄かに映った。彼が微かに目を開けているのが分かった。私よりも寝ぼけているのだろうな、と思って彼のお腹に指を這わせてみた。
彼は小さく笑ってまた目を閉じる。
その笑みはまた、君っぽいな。
私は朝から乾ききっていないビニール傘を広げて、会社の屋根の下から歩き出す。急な残業のせいで駅まで走らなければ到底間に合いそうもないから、早歩きだ。
帰路に着くだけの人々も急いでいるのか気配りが足りていない。水たまりを踏んだ車がしぶきを上げて、跳ねた水滴は歩道へと乗り上げた。私は咄嗟に傘を車道に向けて倒し、水滴を防ぐ。立ち止まった私にぶつかったおじさんの傘から滴る雨水が私の肩を滲ませた。
微かに残った水滴を払い、私はまた駅まで歩き出した。
「ごめんね、遅くなって」
電車に乗って約束していた駅で彼は待っていた。スマホを眺めながら、でも時折、人が流れてくると改札の方に目を向けて確認する。それを遠目で見ただけで、申し訳ない気持ちよりも嬉しい気持ちが勝って、彼の下に駆け寄った。
「大丈夫。明日休みなんだから、ゆっくり行こう」と言って彼はいつも笑うのだ。つまり私の卑屈は直らない。
自然とつながれた手に引かれて、雑談と雨粒の転がる音を交えてお店に入った。個室はあるけどなんでもないただの居酒屋。学生たちが憧れるような社会人のデートにはもっぱら相応しくはないけれど、私たちにとっては分相応というもの。思い出があれば憧れなんて覆るのだ。
いつものメニューを頼んで、いつも通り頼んだことのない品を冒険と称して一品だけ注文し、適度に酔いを回していく。ホタテとキノコのバターソテーは当たりだった。
「今日さ、来るとき車が踏んだ水が跳ねてさ、立ち止まって傘でガードしたらおじさんとぶつかって、結局逆側が濡れちゃったんだよね」
「傘でガードねぇ。小学生の時それで遊んでたなぁ」
「水鉄砲とか?」
「そうそう。まあ結局みんな傘を捨てて特攻するからびしょ濡れになるんだけどね」
「洗濯とか大変そー」
「帰ったらよく怒られてたよ」
「あなたでも怒られることあるんだ」
「たくさんあるよ。でも君の方こそ怒られることなんてそうそうないんじゃない?」
「私の場合は、怒られるより困らせるだから」
「失礼します。ご注文のキウイサワーです」と店員さんが入ってきた。私は少しだけ残っていたパインサワーを飲み干してグラスを返し、キウイサワーのグラスを受け取った。
「想像つかないなぁ。どんなことで困らせたの」
「えー、恥ずかしいんだけど」
「今さらだって」
「んー、幼稚園に通ってた頃なんだけどね」
その当時、私は好きな男の子がいた。それが初恋だったと気が付いたのはずっと後のことだけれど。
すごく明るくて、元気が良くて、面白くて、優しい。かけっこも一番速かったし、演劇も堂に入った主役を演じていた。きっと私以外の子も彼を好きだったに違いない。そんな子と私は両想いになって、好きだと言い合っていた。
思い返すだけでめちゃくちゃ恥ずかしい。若気の至りと悟るには幼かったことが唯一の救いだろう。
そんな満たされていたある日、その子の転園が決まった。親の仕事の都合らしかった。当然、私は泣いた。私も一緒に行くと喚いた。一日中、次の日も、また次の日もむくれたままだった。
別に親同士で交流があったわけでもなかったのだが、せめてもの情けと、引っ越す直前にその子に家に行きお見送りをさせてもらった。そこで私はまた泣きじゃくって、嫌だとせがみ地団駄を踏んだ。
彼はそんな私の口を自身の唇で塞いだのだ。
私は何がなんだか分からず押し黙り、大人たちは温かい目で二人を見守っていた。彼は私の手を取り「またね」と言って微笑んだ。
その時の表情は年月とともに色褪せもはや、輪郭すら捉えることができないけれど、でも、彼の言葉と握ってくれた手の心地よさはいつまでも残っている。それを思い出すたびに、振り切れない罪悪感が心を掠めていくことも。
「かっこいいなぁその子。少女漫画の主人公も顔負けのイケメンだ」
彼はどこか悔しそうに、照れ臭そうに笑った。
「まあ、その子とはそれっきりだけどね」
「そうじゃなかったら僕はここに座っていないだろうね」
「そうだね」言って私は笑って見せた。
お店を出た時には二十一時を過ぎていて、けれど夜の時間にはまだ少し早すぎるきらいがあったから、私たちは二軒目の居酒屋に入ってお酒と少しのおつまみで時間を潰した。雨はすっかり上がってしまっていた。
彼は酔うと眠くなるからと、二軒目ではあまりお酒を飲まなかったので、私もそれに倣った。
二十二時も後半になってくると人はもう疎らになっていて、代わりとばかりに、奇抜な目に痛い蛍光色が華やいでいる。男も女もそういう時間で、灯りに誘われる虫のように、人々は次々と建物の中に吸い込まれていく。例にもれず我々もその中の一組であるわけだが。
彼の前戯は少々長い。もちろん気持ちはいいし、彼なりに配慮してくれているのが分かるのは素直に嬉しかったりする。けれど、じれったくて、早く挿れて欲しいと思わなくもない。……挿れたら挿れたで果てるまでが割と早いので、それを気にしているのだろうとも。そんなところで可愛いと感じてしまうわけだから、私の中でも方針が定まっていなかったりする。
エッチのあとは決まってシャワーを浴び、二人でお風呂に入るのだ。湯のぬくもりに包まれながら背中に感じる彼の体温、抱きしめられる腕や手の充足感といったらない。ついつい顔がふやけてしまい、彼の方を振り向けばいつでもだらしなく笑ってしまうのだ。そこでキスしてもらうことがまた、私を満たしてくれることを彼も知っている。
ベッドに入って向かい合う。彼の二の腕に頬をくっつけ、背中に自分の腕を回し、彼の胸の中に頭をうずめる。
何事かを二人で話すけれど、酔いと眠気で内容などない。ただそこに二人でいるということが重要で、それだけで私は満たされていく。
いつの間にか眠っていた。彼も眠っている。
うすぼんやりとベッド脇の灯りに照らされて、彼の顔の輪郭が寝ぼけ眼に仄かに映った。彼が微かに目を開けているのが分かった。私よりも寝ぼけているのだろうな、と思って彼のお腹に指を這わせてみた。
彼は小さく笑ってまた目を閉じる。
その笑みはまた、君っぽいな。
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