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カナリーイエローの花車
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散り色褪せた桜の木、——が小さな川を挟んで土手に立ち並び、風に煽られ残った花びらが一つまた一つと水面を揺らすその隙間に翔太は落ちていた。翔太は見ている。カメラアプリを起動したスマホ越しに、陽の光を余すことなく受け止めようと若葉たちが生え始め、背を伸ばして久しい下草たちに大量の羽虫が群がり、キョロキョロと首をかしげた小鳥は浅瀬で水を舐める、水は自分へ向かってゆったり流れる、ひゅっと鋭く吹いた風は均衡を崩され目の前に写り込んだ花びらの一枚に瞼を閉じる。シャッターの切れる音だけが耳に残り、盗み取ったという感情がどこかで芽生える予感よりも先に翔太は、きれいだと思った。ロードを終えたスマホは違う風景を写していた。
スマホの画面を閉じて尻ポケットに入れ、帰ろうと欄干から手を離して横を向いたのと杖をついた老婆が通りすぎていくのとはほとんど同時だった。ごめんなさいねと言っても申し訳なさそうな様子のない老婆が「もう少し早ければねぇ」名残惜しそうに呟いた。こちらを向いて微笑んだ顔のしわが不思議な存在感を放った。
「見ない顔だねぇ。観光かい」
「いえ、まあ」
「それならちょうどいい」
人の良さそうな笑みを浮かべた老婆に宗教勧誘でもされるのではないかという不安が翔太の頭に過ぎった。就職して引っ越した一年目だけでも三件、チラシも含めれば七件の勧誘があり、幸せになれる壷を買わなければ不幸が訪れるとか、特製のアルミホイル帽子を被らなければ5Gの電波に洗脳されるとか、神様とは無関係に思えるそれらはちょうどこの老婆と同じような笑みをしていた。
「いえもう帰るので」
老婆の顔から目線を外し歩き出そうとするも「あの山の奥にね」老婆は逃がさないとでも言うように翔太の影をコツンと杖で踏む。
「小さな神社があってね。途中のハイキングコースを行って、立ち入り禁止の看板の方を通るとうこん桜が一本だけ。ぜひ行ってごらんなさい」
翔太がよく分からないまま「はあ」と返事をすると、老婆は満足したのか来た道を戻って橋をおりていく。カツコツと鳴る杖の音が遠くなっていくその背中が、しばらく翔太の脳裏に残った。
地図アプリを開いて老婆の言っていた神社の位置を確認した翔太は橋を渡りきり、道沿いに歩いていくと石造りの鳥居に辿り着いた。鳥居の先はすぐ階段になっており、見上げたところで灯篭のように並んだ木々の枝葉に遮られ、どこまで登ればいいのか見当もつかない。一段また一段と登っていくたびに足を引く後悔が体を重くしていく。
二度の踊り場を越えて膝についた手からじわりと汗が滲む。学生の頃からランニングと筋トレを欠かしたことがないことは翔太の密かな誇りだっただけに、年々身に沁みて分かる体力の衰えが歯がゆかった。「こんにちわ」と声がした。顔を上げた翔太の横をハイキングといった装いの三人家族が通りすぎていく。両親の挨拶に倣って四、五歳くらいの女の子が「こんにちわ!」無垢ではつらつとした元気な声を出す。絶え絶えの息の合間を縫って「こんにちわ」強い光に当てられた影のような擦れた声を絞り出した。左手にはさきほどの親子が来たハイキングコースに分岐する道が手招きしている。その道に入り人に踏み固められた雑草も生えていない土の上の緩やかなカーブと上り坂を歩きながら翔太は、何をしているんだろうと思った。
翔太は工場のラインに新規設備を導入するため出張に来ていた。設備の搬入も設置も動作確認も計画通り無事に終わり、事前に作成していたプログラムでの試験運転をチェック項目の上から順にこなしていたら予期せぬエラーが発生した。対処法はマニュアルにも載っていない、納期も休日前の残り一日、顧客側の担当者や上司と相談して試行錯誤したが足は出て、工場側はゴールデンウィーク明けからラインの稼働を開始する計画だったので、翔太は土日の休日を返上することになった。一日半の休日出勤の末に問題は解消したものの帰宅する気になれなかった心が、荷物を駅のコインロッカーに詰め込んでスマホと財布だけを翔太に持たせ彷徨わせている。大型連休中の世の中にスーツ姿の男が一人でこんなところにいるという場違い感が疑問の核を形成していた。
看板があった。木製の板材に「この先関係者以外立ち入り禁止」と白地に赤文字で書かれたラミネート加工された紙が貼られている。翔太は先に進んだ。誰かに見られていないか、この先に看板を立てた人がいて怒られるのではないか、言い訳ばかりが頭を巡るも足を止めるには至らない。小さい頃に仏壇に供えられたおはぎを盗み食いをして、神様から天罰が下るなどと祖母から途方もない因果を絡めて怒られたことがあった。雷の日にへそを出していると取られる、夜に口笛を吹くと蛇が出てきて食われる、遅くまで起きていれば鬼に攫われ、悪いことは全部神様が見ていて罰をあたえる。そんなことが起こるはずはないと子どもながらに信じていなくとも、同時に罰当たりという認識はあり、性懲りもなく供え物の粒あんのおはぎをパクリと食べるときはいつも脈拍が早くなりすぎて味わう余裕がなかった。それが神様を信じている根拠に他ならないことを自覚したのは翔太が社会人二年目になった最近のことだった。
途中で道はなくなった。背の低い雑草を踏みつけ翔太は進む。木々の濃さに春の日差しは翳りを見せた。頭に付いた蜘蛛の巣を取り、目の前でしか認識できない小さな羽虫を手で払う。青い匂いのする静謐な洞窟だった森は突然光を通した。
翔太はうこん桜の木を見つけた。下草たちは太く伸びた一本の木を取り囲み頭を揃えてひれ伏している。枝の一本一本が空間に尾を引き降りしきる陽光の雨をどれも余すことなく拾い上げる。葉は透け、花は光の反射と屈折とを繰り返し、ダイアモンドを思わせる輝きを放つ桜の木は神聖そのものだった。翔太は光の中に気が遠くなるほどの一歩を踏み込んだ。冷凍保存された体が解凍される心地よさに包まれる。子供の頃に抱えていたはずの無邪気な幸福感に再び満たされ、涙の出る前兆が胸の奥から湧き上がる。一羽のすずめが翼をばたつかせて枝の一つに止まった。すずめは枝の上を二、三回跳ねて花に寄る。首をかしげて花柄からもぎとり、くちばしの先に花びらを咲かせた。翔太はそれを風車で遊んでいる子どものようだと思った。さながら、カナリーイエローの花車といった光景に翔太はポケットからスマホを取り出しカメラアプリを起動する。一つ目の桜の花がくちばしから落ちるよりも先にもう一つの花を咥えたすずめを、翔太は写真に収めた。子どもの頃に紫色の踊子草の蜜を吸っていたことが不意に思い出される。このすずめもどんな味なのか気になったのかもしれない。翔太も桜の木へと近づく。ラーメンを食べ終えた客がすぐに席を空けるようにすずめはどこかへ飛んでいった。
記憶の中の踊子草の蜜は甘かった。期待して、うこん桜の花を取りすずめを真似て蜜を吸う。
ちょっぴり甘くてちょっぴり苦い。翔太は口をすぼませふっと花を吹き出した。
山の奥から薄暗い雲がまばらに這い出して来る。雲の隙間から落ちてくる紗のように布かれた陽の光だけでは宝石に劣ることのないうこん桜の木の輝きを保つことはできない。気温が下がり、まくっていたワイシャツの袖を下ろす。雨の匂いがした。もう一つ吸った蜜の味も変わることはなかった。
駅に着くころにはぽつりぽつりと雨が降り出していた。暗証番号を打ち込んだコインロッカーからスーツケースとリュックを取り出し背負う。スーツケースの持ち手を伸ばしてガラガラと引きながら改札を通り、ホームの椅子に腰かけ電車を待つ。思い出として堆積した過去は硬く小さく固まり宝石のように美しく型取られる。未来とはどれを思い出にするか選択できる権利だ。構内アナウンスに伴い時刻通りに電車が到着した。風を受け、汗の乾いた体には肌寒い。ジャケットを着た翔太は電車に乗り込んだ。
スマホの画面を閉じて尻ポケットに入れ、帰ろうと欄干から手を離して横を向いたのと杖をついた老婆が通りすぎていくのとはほとんど同時だった。ごめんなさいねと言っても申し訳なさそうな様子のない老婆が「もう少し早ければねぇ」名残惜しそうに呟いた。こちらを向いて微笑んだ顔のしわが不思議な存在感を放った。
「見ない顔だねぇ。観光かい」
「いえ、まあ」
「それならちょうどいい」
人の良さそうな笑みを浮かべた老婆に宗教勧誘でもされるのではないかという不安が翔太の頭に過ぎった。就職して引っ越した一年目だけでも三件、チラシも含めれば七件の勧誘があり、幸せになれる壷を買わなければ不幸が訪れるとか、特製のアルミホイル帽子を被らなければ5Gの電波に洗脳されるとか、神様とは無関係に思えるそれらはちょうどこの老婆と同じような笑みをしていた。
「いえもう帰るので」
老婆の顔から目線を外し歩き出そうとするも「あの山の奥にね」老婆は逃がさないとでも言うように翔太の影をコツンと杖で踏む。
「小さな神社があってね。途中のハイキングコースを行って、立ち入り禁止の看板の方を通るとうこん桜が一本だけ。ぜひ行ってごらんなさい」
翔太がよく分からないまま「はあ」と返事をすると、老婆は満足したのか来た道を戻って橋をおりていく。カツコツと鳴る杖の音が遠くなっていくその背中が、しばらく翔太の脳裏に残った。
地図アプリを開いて老婆の言っていた神社の位置を確認した翔太は橋を渡りきり、道沿いに歩いていくと石造りの鳥居に辿り着いた。鳥居の先はすぐ階段になっており、見上げたところで灯篭のように並んだ木々の枝葉に遮られ、どこまで登ればいいのか見当もつかない。一段また一段と登っていくたびに足を引く後悔が体を重くしていく。
二度の踊り場を越えて膝についた手からじわりと汗が滲む。学生の頃からランニングと筋トレを欠かしたことがないことは翔太の密かな誇りだっただけに、年々身に沁みて分かる体力の衰えが歯がゆかった。「こんにちわ」と声がした。顔を上げた翔太の横をハイキングといった装いの三人家族が通りすぎていく。両親の挨拶に倣って四、五歳くらいの女の子が「こんにちわ!」無垢ではつらつとした元気な声を出す。絶え絶えの息の合間を縫って「こんにちわ」強い光に当てられた影のような擦れた声を絞り出した。左手にはさきほどの親子が来たハイキングコースに分岐する道が手招きしている。その道に入り人に踏み固められた雑草も生えていない土の上の緩やかなカーブと上り坂を歩きながら翔太は、何をしているんだろうと思った。
翔太は工場のラインに新規設備を導入するため出張に来ていた。設備の搬入も設置も動作確認も計画通り無事に終わり、事前に作成していたプログラムでの試験運転をチェック項目の上から順にこなしていたら予期せぬエラーが発生した。対処法はマニュアルにも載っていない、納期も休日前の残り一日、顧客側の担当者や上司と相談して試行錯誤したが足は出て、工場側はゴールデンウィーク明けからラインの稼働を開始する計画だったので、翔太は土日の休日を返上することになった。一日半の休日出勤の末に問題は解消したものの帰宅する気になれなかった心が、荷物を駅のコインロッカーに詰め込んでスマホと財布だけを翔太に持たせ彷徨わせている。大型連休中の世の中にスーツ姿の男が一人でこんなところにいるという場違い感が疑問の核を形成していた。
看板があった。木製の板材に「この先関係者以外立ち入り禁止」と白地に赤文字で書かれたラミネート加工された紙が貼られている。翔太は先に進んだ。誰かに見られていないか、この先に看板を立てた人がいて怒られるのではないか、言い訳ばかりが頭を巡るも足を止めるには至らない。小さい頃に仏壇に供えられたおはぎを盗み食いをして、神様から天罰が下るなどと祖母から途方もない因果を絡めて怒られたことがあった。雷の日にへそを出していると取られる、夜に口笛を吹くと蛇が出てきて食われる、遅くまで起きていれば鬼に攫われ、悪いことは全部神様が見ていて罰をあたえる。そんなことが起こるはずはないと子どもながらに信じていなくとも、同時に罰当たりという認識はあり、性懲りもなく供え物の粒あんのおはぎをパクリと食べるときはいつも脈拍が早くなりすぎて味わう余裕がなかった。それが神様を信じている根拠に他ならないことを自覚したのは翔太が社会人二年目になった最近のことだった。
途中で道はなくなった。背の低い雑草を踏みつけ翔太は進む。木々の濃さに春の日差しは翳りを見せた。頭に付いた蜘蛛の巣を取り、目の前でしか認識できない小さな羽虫を手で払う。青い匂いのする静謐な洞窟だった森は突然光を通した。
翔太はうこん桜の木を見つけた。下草たちは太く伸びた一本の木を取り囲み頭を揃えてひれ伏している。枝の一本一本が空間に尾を引き降りしきる陽光の雨をどれも余すことなく拾い上げる。葉は透け、花は光の反射と屈折とを繰り返し、ダイアモンドを思わせる輝きを放つ桜の木は神聖そのものだった。翔太は光の中に気が遠くなるほどの一歩を踏み込んだ。冷凍保存された体が解凍される心地よさに包まれる。子供の頃に抱えていたはずの無邪気な幸福感に再び満たされ、涙の出る前兆が胸の奥から湧き上がる。一羽のすずめが翼をばたつかせて枝の一つに止まった。すずめは枝の上を二、三回跳ねて花に寄る。首をかしげて花柄からもぎとり、くちばしの先に花びらを咲かせた。翔太はそれを風車で遊んでいる子どものようだと思った。さながら、カナリーイエローの花車といった光景に翔太はポケットからスマホを取り出しカメラアプリを起動する。一つ目の桜の花がくちばしから落ちるよりも先にもう一つの花を咥えたすずめを、翔太は写真に収めた。子どもの頃に紫色の踊子草の蜜を吸っていたことが不意に思い出される。このすずめもどんな味なのか気になったのかもしれない。翔太も桜の木へと近づく。ラーメンを食べ終えた客がすぐに席を空けるようにすずめはどこかへ飛んでいった。
記憶の中の踊子草の蜜は甘かった。期待して、うこん桜の花を取りすずめを真似て蜜を吸う。
ちょっぴり甘くてちょっぴり苦い。翔太は口をすぼませふっと花を吹き出した。
山の奥から薄暗い雲がまばらに這い出して来る。雲の隙間から落ちてくる紗のように布かれた陽の光だけでは宝石に劣ることのないうこん桜の木の輝きを保つことはできない。気温が下がり、まくっていたワイシャツの袖を下ろす。雨の匂いがした。もう一つ吸った蜜の味も変わることはなかった。
駅に着くころにはぽつりぽつりと雨が降り出していた。暗証番号を打ち込んだコインロッカーからスーツケースとリュックを取り出し背負う。スーツケースの持ち手を伸ばしてガラガラと引きながら改札を通り、ホームの椅子に腰かけ電車を待つ。思い出として堆積した過去は硬く小さく固まり宝石のように美しく型取られる。未来とはどれを思い出にするか選択できる権利だ。構内アナウンスに伴い時刻通りに電車が到着した。風を受け、汗の乾いた体には肌寒い。ジャケットを着た翔太は電車に乗り込んだ。
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