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最終章 迫る闇と誰かの幸福
4 『クラスメイト』と『彼氏』
しおりを挟む「──頼む、彩岐! あと一ヶ月だけでいいんだ!」
階段を駆け降り、全速力で走る汰一の耳に、そんな声が聞こえてくる。
辿り着いた外廊下で足を止めると、そこには教室から見下ろしたのと同じ光景が広がっていた。
袴姿の男子生徒──汰一よりも一回り大きい図体と太い眉毛が特徴的な、三年生の弓道部部長だ。
その部長が、蝶梨の細い腕を、無理矢理引っ張っている。
蝶梨は、明らかに怯えた表情をしていた。
「おい、彼女を離せ!」
汰一は、叫びながら駆け寄る。
気付いた蝶梨が「汰一くん!」と声を上げると、弓道部の部長は顔を顰め、
「あぁ? 何だオメー、部外者はあっち行ってな」
そう、威圧的な口調で言い返す。
しかし汰一は、怯むことなく近付き、
「部外者じゃありません。自分は彼女の……クラスメイトです。それに……」
──ガッ。
と、部長の太い手首を掴み、
「部外者であろうがなかろうが、こんな乱暴な真似をしているのは見過ごせない。今すぐこの手を離してください」
鋭い目付きで、射抜くように言った。
その眼光に気圧され、部長は「チッ」と舌打ちをしながら蝶梨の腕を離す。
「大丈夫か? 一体なにがあった?」
解放された蝶梨に小声で尋ねると、彼女は少し震えながら、
「弓道部の手伝いを辞める話をしたら、『そんなの認めない』って……」
そう、答えた。
状況から見て、そうではないかと予想していたが……この部長、蝶梨を辞めさせたくないらしい。
よほど強引に引き止められたのだろう、学校では凛とした佇まいでいるはずの蝶梨が、今にも泣きそうな顔をしていた。
汰一は煮えたぎるような怒りを覚えつつも、あえて冷静な声音で部長に言う。
「彼女は弓道部の正式な部員ではないはずです。それを、どうしてそこまで引き止めるのですか?」
それに、部長は少し動揺し、
「そ、それは……新入生の教育に手が回っていないからに決まっているだろ。顧問は弓道未経験者だし、俺たち三年と二年は元々数が少ないからな」
「入部から三ヶ月以上経っても外部から助っ人を呼ばないと回らないとは、部長さんの管理能力に問題があると公言しているようなもんですね」
丁寧な口調で放たれる煽り文句に、部員はこめかみをヒクつかせる。
「お、俺だっていろいろ考えながら後輩指導している! だが、みんなも彩岐から指導を受けたいと言っているし、部内の士気を下げないためにもう少しだけ手伝ってくれないかと頼んでいるんだ!」
そりゃあ、蝶梨を目当てに入部してきた連中がほとんどであろうから、彼女がいなくなれば士気もだだ下がりだろうな。
と、汰一は怒りを通り越し呆れ果てる。
「『もう少し』って、具体的にはいつまでを想定しているんですか?」
「夏休み中に、俺たち三年生の引退試合がある。せめてそれが終わるまでは彼女にいてほしいんだ」
そして部長は、汰一の後ろにいる蝶梨を覗き込むように背伸びして、
「なっ、彩岐。せっかくここまで一緒にやってきたんだ、俺の部活人生の最後を見届けてくれよ! きっと最高の結果を出すから!」
そう、目を輝かせながら言った。
どうやらこっちが本音のようだと、汰一は思う。
もしかしなくてもこの部長は、蝶梨に気があるのだろう。
だからこそ面倒見切れない程の部員を集め、助っ人として蝶梨を招いたのだ。
引退試合で良いところを見せて、告白でもするつもりでいたのかもしれない。それなのに彼女に「辞める」と言われ、慌てて引き止めようとしているのだ。
「でも、彩岐はそれを断ったんだよな?」
汰一が背後の蝶梨に尋ねると、彼女は頷く。
「うん。夏休みは生徒会の仕事もあるし、手伝いを続けることは難しい。でも、弓道部に指導者が不足しているのは事実。だから、うちの道場の知り合いに声をかけて、コーチを務めてくれる人を見つけたの。夏休みから来てもらうようお願いしたから、私が抜けても困らないって部長に話したんだけれど……」
蝶梨の言葉に、気まずそうに汗を流す部長。
彼女がここまで手を尽くしてくれているのに、この男は自分の欲望を満たすことしか考えていないようだ。
汰一は顎に手を添え、わざとらしく首を傾げる。
「ふむ……経験豊富な大人がコーチに来てくれるなんて、弓道部にとっては願ってもない話だと思うのですが、どうしてその話を突っぱねてまで彼女に固執するのですか?」
部長が「それは……」と口籠っている間に、汰一はぽんっと手を打ち、
「あぁ、なるほど。部長さんは、彩岐に『嫌がらせ』をしているのですね?」
ひらめいた、と言わんばかりの顔で、言った。
部長から即座に「はぁ?!」と声が上がる。
「ンなわけねぇだろ! どうしてそんな話に……!!」
「だって、考えてもみてくださいよ。彼女は、部員集めのために勝手に名前を使われた挙句、その新入部員の世話をさせられているんですよ? しかも『弓道部員が増えたせいで練習場所がなくなった』と他の部から相談を受け、生徒会役員としても対応に追われている。さらには、わざわざ手配したコーチの話を断られ、代わりにお前が来いと言われる始末。これを『嫌がらせ』と呼ばずに何と呼ぶのですか?」
語気を強め、言い切る汰一。
奥歯を噛みしめ黙り込む部長に、汰一は低い声で続ける。
「……自分の引退まで見届けてくれればいいって、随分と身勝手ですね。残される後輩たちのことは、どうでもいいのかよ」
「…………」
「蝶梨はちゃんと自分が抜ける穴を埋めようと、コーチの手配までしているんだ。そんな義理を立てる必要もないのに……その善意を拒否してまで、彼女に無理矢理手伝わせようとするなんて、『嫌がらせ』じゃなければ逆に許せない。仮に……」
──スッ。
と、汰一は鋭く目を細め、
「それらがすべて『好意』に基づいた行動だと言うのなら…………俺はあんたを、心の底から軽蔑する。部長という立場を利用し、周囲を巻き込み、彼女自身にも迷惑をかけて……そうまでして側にいようとするなんて、そんなの、好きな相手にやることじゃない」
切れそうな程に冷たい声で、言い放った。
部長はいよいよ返す言葉もなくなり、冷や汗を垂らしながら目を泳がせ……
やがて、「ふんっ」と鼻を鳴らすと、
「か、勝手な憶測でものを言うな! 俺はただ、彩岐に残ってほしいという後輩たちの希望と、辞めたいという彩岐自身の希望の間を取って『引退試合まで』と言ったまでだ! お前が言うような嫌がらせや、こっ、好意などによるものではない!!」
明らかに図星だが、ここまで言われては認めるわけにもいかないのだろう。部長は苦々しい顔のまま腕を組み、
「確かに、彩岐がわざわざ手配してくれたコーチの話を無下にしたのは悪かった。俺が去った後のことを考えれば、熟練の経験者に指導してもらえるのはありがたい話だ」
「そうですよね? よかった、部長さんは話がわかる方のようだ」
「あ、当たり前だろう。俺は弓道部がより良くなることしか考えていないからな」
よく言うよ。
というツッコミが喉まで出掛かるが、あと少しで丸め込むことができそうなので、汰一はぐっと堪える。
「その気概があれば、彼女が辞めた後も士気を下げることなく部員たちを牽引できそうですね。そういう時こそ、リーダーシップが試されるわけですから」
「ふん。お前みたいな部外者に言われずともわかっている」
「そういえば、夏休み中に大会などで功績を残した部活は二学期の始業式で表彰されますよね? たくさんの部員に囲まれながら、壇上でトロフィーを掲げる部長さんの姿は……それはそれはカッコいいんでしょうね」
汰一の言葉に、部長は宙を見上げる。どうやらその場面を想像しているらしい。
──いける。
汰一は確信し、トドメの一言を放つ。
「熟練のコーチからの指導を受け、ますますパワーアップした部長さんの活躍が見られるのを楽しみにしていますよ。な、彩岐」
突然話を振られ、蝶梨はビクッとするが、すぐに頷き、
「え、えぇ。弓道部のますますの活躍を期待しています。頑張ってください」
そう、クールモードな微笑を浮かべた。
定型文のような応援文句だが、部長は文面通りの意味で受け取ったらしく、瞳にヤル気を漲らせる。
「おうっ! 彩岐の期待に応えられるよう頑張るぜ! 新しいコーチの件、ありがとうな。彩岐がいなくなるのは本当に残念だが、時間がある時にはぜひ顔を見せに来てくれ。俺たちはいつでも大歓迎だから!」
蝶梨は否定も肯定もせず微笑だけを返すが、部長は満足げに頷き、
「よし! では、俺は練習に戻るとしよう! 彩岐、二学期の始業式を楽しみにしていてくれ!!」
ガッハッハ! と笑いながら、大きな歩幅でドスドス歩き、弓道場へと去って行った。
その後ろ姿を見届け……汰一と蝶梨は、無言で顔を見合わせる。
『気が変わって戻ってくる前に逃げよう』
口にせずとも目線で通じ合った二人は、弓道場とは反対の校舎へと退避する。
……が。
汰一は一度足を止め、校舎の二階──二年E組の教室の窓を見上げた。
忠克が、まだこちらを見ているのではないかと目を凝らすが……
そこに、もう忠克の姿はなかった。
「…………」
腹の中に黒い疑念が渦巻くのを感じながら、汰一は蝶梨の後に続き、校舎へと入った。
* * * *
「──ありがとう、汰一くん。助かったよ」
校舎内に逃げ込み、人気のない廊下の端まで来たところで、蝶梨はようやく安堵の表情を浮かべた。
しかし汰一は、未だ心配そうな顔をして彼女を見つめる。
「腕、大丈夫だったか? かなり強く引っ張られていたけど……痛まないか?」
その必死な表情に、蝶梨はふっと微笑んで、
「全然大丈夫だよ、もう痛くない。汰一くんが庇ってくれたから……嬉しかった」
頬を染め、はにかみながら言った。
それを見た汰一も少し気持ちが落ち着き、微笑み返す。
「大事に至る前に駆け付けられてよかったよ。あの部長、放っておいたらどこまで暴走していたか……」
「熱くなると歯止めが利かなくなる人だからね。汰一くんが説得してくれて本当に助かった。先輩相手に物怖じしなくて、その……カッコよかったよ」
恥じらいながら言う蝶梨に、汰一は嬉しさと照れ臭さから目を逸らす。
「蝶梨が腕掴まれているのを見て、頭に血が上っただけだ。蝶梨の名前を使って部員集めたり、生徒会の仕事増やしたりしているのを知っていたから……直接文句が言えて、ちょっとすっきりしたよ」
それに……
あれは『説得』と言うより、別の目標を与えて問題を先延ばしにしただけに過ぎないと、汰一は思う。
本当は、もっとキツく言ってやりたかった。
蝶梨を困らせやがってと、一発殴ってやりたかった。
しかし今は、あの"黒い獣"がいつ襲ってくるかわからない状況だ。
"堕ちた神"が身近な誰かに憑依している可能性もあるが……
同時に、汰一や蝶梨に恨みを持つ者が"付喪神"を生み出し、あの"獣"を放っている可能性もある。
これ以上、誰かの恨みを買うような真似は避けたい。
そう考えた結果、あのような波風の立たない着地点へ落ち着かせるしかなかったのだ。
それにしても自分勝手な野郎だったと、汰一が怒りを再燃させていると、
「……でも」
蝶梨が、遠慮がちに口を開き、
「……ああいう時は、『クラスメイト』じゃなくて…………『彼氏』だって名乗ってくれても、いいんだよ……?」
上目遣いで、そんなことを言うので。
汰一は「え゛っ」と声を上げ、顔を赤らめる。
その反応に、蝶梨は慌てて手を振り撤回する。
「な、なんてね。あのタイミングでそんなこと言ったら余計ややこしいことになっちゃうもんね。付き合っていることは、まだ秘密にしておこう」
まるで自分自身に言い聞かせるように言う蝶梨。
その表情は……心なしか残念そうに見えた。
もしかすると彼女は……自分と付き合っていることを、周囲に知らせたいと思っているのだろうか。
そう考えると、汰一は胸の奥が切なくなった。
こんな自分が恋人だなんて、彼女と釣り合わなすぎて公言するのが恥ずかしいと、そんな気持ちが少なからずあった。
きっと彼女も、自分と付き合っていることは隠したいはずだと、そう思い込んでいた。
だけど、彼女は……
こんな自分が『彼氏だ』と名乗ることを、望んでくれているらしい。
汰一は、蝶梨の手をそっと取ると。
先ほど部長に握られた手首を労るように包み込み、
「……次またあの部長に迫られそうになったら、その時は…………はっきりと言ってやるよ。『俺の彼女に手を出すな』、って」
瞳を真っ直ぐに見つめ、伝えた。
蝶梨は、驚いたように目を見開いた後……
嬉しそうな笑みを浮かべ、「うん」と頷いた。
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