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第二章 近づく距離と彼女の秘密
1-3 蝶と向日葵
しおりを挟む「…………」
「…………」
蛞蝓の存在に気付き、固まる二人。
ヒマワリには、蛞蝓が付きやすい。
今年はあまり雨が降らないためほとんど見かけていなかったのだが……よりによって、このタイミングで出てくるとは。
思いがけない形で水を差され、汰一は冷静さを取り戻す。
そしてそれは、蝶梨も同じのようで……
「な、なめくじ……」
と、赤かった顔を、一気に青白くさせていた。
汰一は、先ほどまでの悶々とした雰囲気を払拭するように一度咳払いをしてから、尋ねる。
「……虫、苦手なのか?」
「ううん、全然平気」
「…………」
「…………うそ。ちょっと苦手」
「だよな、顔にそう書いてある」
「……ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ。ちゃんと"素"を出せるようになってきたじゃないか。良いことだ」
そう微笑む汰一に、蝶梨は……
どこか恥ずかしそうに見つめ返して、
「……ありがとう」
と、呟くように言った。
どうやら彼女も落ち着いたようだ。
あのまま続けていたら……お互いどうなっていたことか。
欲に飲まれ暴走してしまったことを反省しながら、汰一は苦笑いする。
「何にせよ、芽を摘むのは蛞蝓をどかしてからだな」
「こ、殺しちゃうの?」
そう尋ねる蝶梨の声が、微かに震える。
その強張った表情は、蛞蝓に対する憐れみによるものなのか、それとも……
殺すことへの期待によるものなのか、汰一にはわからなかった。
物置小屋には蛞蝓撃退セットとして、塩水入りの霧吹きとつまむためのトングを常備しているので、いつでも駆除することができる。
だが……
「……蛞蝓の身体は、九〇パーセントが水分でできている」
汰一は、独り言のように語り始める。
「そこに塩をかけると、濃度を薄めるために体内の水分を排出し、浸透圧が働く。よって、身体が縮み……死に至る」
言いながら、彼女ならこんなことは知っていたかもしれないな、と思うが……汰一はそのまま続ける。
「日照り続きで、水を求めてここまで来たんだろう。それなのに、 身体中の水分を奪われて殺されるだなんて……可哀想だよな」
そして、汰一は園芸鋏の先に蛞蝓を乗せ……
静かに立ち上がり、歩き始めた。
汰一が向かったのは、先ほど腐葉土を取りに行った薄暗い校舎裏。
ここなら人目につくこともないし、理不尽に駆除される心配もない。
そう考え、校舎を囲うブロック塀の壁面に、蛞蝓をそっと降ろした。
蛞蝓は、コンクリートに含まれるカルシウムを好んで食べる。
ヒマワリの葉を食わしてやるわけにはいかないから……
「……悪いな、ここでおとなしく塀でも舐めていてくれ」
人語を理解しないのは百も承知だが、願望混じりにそう声をかけた。
塀を這っていく蛞蝓を見届けてから、汰一は踵を返す。
と、蝶梨が少し離れたところで、その様子を見ていた。
「……殺した方がよかったか?」
何故か、そんな問いが口から溢れる。
しかし、蝶梨は首を振って、
「ううん。これで良かったと思う」
そう答えた。
そして、薄暗い校舎裏で、その背中に西日を浴びながら、
「……やっぱり、刈磨くんの手は……優しいね」
と。
ふわりとした笑みを浮かべて、言った。
思いがけない言葉に、汰一は驚いて聞き返す。
「……手が、優しい?」
「そう。初めて見た時から、そう思ってた。だから…………」
……そう、何かを言いかけて。
しかし、すぐに口を閉ざし、
「……ううん、何でもない」
目を伏せ、小さく首を振った。
何を言おうとしたのか、言葉の続きが気になったが……
なんとなく、今はまだ聞くべきではないような気がして。
「……掴めそうか? 『ときめきの理由』」
代わりに、そう尋ねることにする。
蝶梨は、困ったように笑って、
「……まだ、もう少しかかるかも。だから……これからも付き合ってね、刈磨くん」
三つ編みにした髪を揺らしながら、そう言った。
それから、眩しそうに空を見上げて、
「……日が、長くなってきたね。いつ植えようか? こないだ言っていた、"ストレスパーパス"」
……と、凛とした声で言う。
それに、汰一は……
一瞬、「ん?」と考えて、
「……もしかして、"ストレプトカーパス"のことか?」
そう、聞き返す。
それは、今度一緒に植えようと約束した花の名前だ。
汰一の指摘に、蝶梨はびくっと肩を震わせ、
「そ……そういう名前だったっけ……?」
引き攣らせた顔を、みるみる内に赤く染めていく。
どうやら、花の名前を間違えて覚えていたらしい。
確かに長くて覚えにくい名称だが……彼女がそんな間違いをするなんて、初めて見た。
恥ずかしさに顔を赤らめ、目を泳がせ、おろおろする蝶梨。
その余裕のない表情が……やはり汰一には最高に可愛く感じられて。
もっと見たいと、つい追い討ちをかけてしまう。
「……彩岐も、見切り発車でモノを言うことがあるんだな。あまりにも自信満々に言うから、そういう名前の花があるのかと思った」
わざと感心したように言ってやると、蝶梨は眉間に皺を寄せて、
「……刈磨くん、手は優しいのに、口は時々意地悪だよね」
可愛らしい顔で睨みながら、悔しげに呟いた。
嗚呼、この表情。ほんとクセになる。
やはり俺には、加虐性愛者の気があるのかもしれない。
「……その顔、俺以外には見せない方がいい」
「え? な、なんで?」
「すっっごく、怖いから」
「うそ、私そんな怖い顔してる……?!」
「というのは冗談で」
「もうっ、揶揄わないでよ!」
「すまんすまん。でも、本当に……他には見せないでほしいかな」
「……え?」
だって、可愛すぎるから。
という真意を見せないまま、汰一は微笑んで。
花壇へ戻るべく、来た道を歩き出す。
「さて。残りの摘心をして、虫除けを撒こう。また蛞蝓が寄って来たら困るからな」
「ねぇ、私って顔怖い? 目つきとか気をつけた方がいいかな?」
「本当に冗談だって。正直、彩岐の睨み顔は……ぜんぜん怖くない」
「それはそれで、なんか悔しいんだけど!」
「じゃあ、俺相手にもっと睨む練習をすべきだな。いくらでも付き合うぞ」
「いいの? 刈磨くんのこと睨んじゃって」
「もちろん。むしろもっと睨み付けてほしい」
「……刈磨くんて、ひょっとして変態?」
「…………それは」
お互い様じゃないか?
という言葉が、喉まで出掛かるが。
汰一は、それを飲み込んで。
「…………そうかもな」
と、軽い口調で返しながら。
陽の当たる花壇へと、戻って行った。
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