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第二章 イエスマンの呪い
否定形で全肯定
しおりを挟む線香から揺蕩う儚い煙に、おりんの澄んだ音が重なる。
雷華と未空はそれぞれ一本ずつ線香を立て、静かに手を合わせた。
そして、顔を上げて振り返ると、
「……あんた、一人暮らしだって言ってたわよね? けど、ここはおばあちゃん家だとも言っていた。おばあちゃんはどうしたの?」
再び、雷華が尋ねる。
矢継ぎ早な質問に、未空は慌てて止めに入る。
「雷華。失礼だよ、よそのお家の事情を詮索するようなこと……」
しかし海斗は、まるで気にしていない様子で、
「いや、鮫島が疑問に思うのも無理はない。話が矛盾しているからな。けど、どっちも本当なんだ。ここは俺のばあちゃんの家だけど、俺が一人で暮らしている家でもある」
と、やはり矛盾を孕んだ言葉を返す。
「それじゃ答えになってない。ちゃんと説明して」
雷華の否定的な返しに、今回ばかりは未空も同意だった。
高校生の海斗がどうして一人暮らしをしていて、祖母の家だと言いながら祖母は同居しておらず、何故パンの耳を格安で手に入れないといけないような極貧生活を強いられているのか、気にならずにはいられなかった。
疑問たっぷりな二人の視線を受け、海斗は困ったように後ろ頭を掻き……
「……悪い。確かに答えになっていないな。じゃあ、つまらないだろうけど簡単に話すよ」
そう言って、自身の生い立ちを語り始めた。
「俺が小二の時……両親が、亡くなった。交通事故で、車の後部座席に乗っていた俺だけが助かった。以来俺は、母方の祖父母の家……つまり、ここで暮らすことになった」
平坦な口調で語られる、凄惨な過去。
雷華の顔に、聞いてしまったことへの後悔と申し訳なさが滲む。
しかし、海斗は構わず続きを語る。
「その二年後にじいちゃんも病気で死んで、俺はばあちゃんと二人暮らしになった。明るくて優しくて、料理上手なばあちゃんだった。『つるや商店街』にもたくさん知り合いがいて、一緒に買い物に行くとなかなか立ち話が終わらなくてな。けど……そんなばあちゃんが変わったのは、俺が小六になってすぐだった」
ザアザアと強まる雨音。
海斗は、一つ一つを思い出すように語る。
「ある日、ばあちゃんに印鑑の場所を聞かれたんだ。探しても見当たらないって。でも、いつもしまっている戸棚に普通に入っていたんだよ。あるじゃないかって見せたら、『こんなところに隠すな!』って怒られた。たまたま忘れていただけかと思っていたら、似たようなことが何度も続いた。あれがない、これがないと騒いで、見つけてやると『隠すな!』と怒る。その内、俺のことを『泥棒』だとか『詐欺師』だとかって呼ぶようになった」
「それって……」
察したらしい未空に、海斗は頷く。
「そう、認知症だ。けど当時の俺はまだ小学生で、そんな知識もなかったから、俺が悪いんだと……俺がばあちゃんの機嫌を損ねたんだと、自分を責めることしかできなかった」
言葉を失う未空。
海斗は、やはり淡々と続ける。
「そうしてばあちゃんは、日に日に認知症を悪化させていった。学校の担任が家庭訪問に来た時、ばあちゃんの異変に気付いてくれるまで、俺はそれが病気だってことを知らずに過ごしていた。それからばあちゃんは介護施設に入ることになって、俺も中学入学と同時に養護施設に入った。でも、ばあちゃんと暮らしたこの家を守りたくて、高校生になるのを機に施設を出て、先月から一人暮らしを始めたんだ」
海斗は、シミの目立つ天井を見上げる。
「……両親の残した財産はそれなりにあるが、大学には入りたいし、ばあちゃんもいつどうなるかわからない。だから、極力節約することに決めた。自炊するため『つるや商店街』で買い物をしていると、驚いたことに八百屋の大将が俺を覚えていて、声をかけてくれた。ばあちゃんと通っていた時はまだ小学生で、背も随分低かったんだけどな。それで、いろいろあって一人暮らししていることを話したら、すごく心配して、商店街全体で俺を気にかけようと動いてくれた。本当に、ありがたい話だよ。俺にとって『つるや商店街』は、藍山市の中で一番自慢したい場所なんだ。温かくて優しくて……家族のいない俺にとっては、商店街のみんなが親戚みたいなものなんだ。……以上が、鮫島の質問に対する答えと、この調査テーマを提案した理由だ。長くなってすまなかった」
その言葉を結びに、海斗は話を終えた。
雨は、依然としてトタン屋根を叩いている。
「……おばあちゃんは、元気なの?」
なんとも言えない沈黙を破ったのは、雷華だった。
正座をしたまま、窺うように海斗に尋ねる。
彼は微笑みながらすぐに頷き、
「あぁ、ピンピンしてるよ。と言っても相変わらずボケてるから、会いに行っても『誰だ?』って言われることもあるが……身体だけはめちゃくちゃ元気だ」
その返答に雷華が否定で返す前に、今度は未空が口を開く。
「こんなこと言ったら失礼かもしれないけど……温森くんが人の意見に同調しちゃうのって、おばあさまのことが関係していたりするのかな? 認知症になったおばあさまに否定され続けたことがトラウマになっている、とか……」
それを聞いた瞬間、雷華も察したように目を開く。
海斗は自嘲気味に笑って肯定する。
「たぶん、というか、間違いなくそうだろうな。小学生の俺にとって、たった一人の肉親に否定されるのはすごく怖いことだった。だから、否定されたら同調して、全部肯定していた。『そうだね、俺が悪かった』って言っておけば、ばあちゃんもそこまで荒れなかったから……そうやって編み出した逃げ技みたいなものが、今も抜けずに残っている、と言ったところかな」
そして、海斗は雷華に視線を向ける。
「……というわけで。鮫島に指摘された通り、なんでも肯定するのは俺の悪い癖なんだ。そのせいで、面倒な詐欺に遭ったり、同級生にパシリにされたこともある。けど、この癖のおかげで鮫島と会話できたるようになったから、悪いことばかりじゃないとも思っている。肯定するのは悪いことじゃない。むしろ誰も傷付けなくて済む。元々自分の考えを主張するのは苦手だし、これからも……」
……と、そこまで話したところで。
「……良いわけ、ないでしょ」
雷華が、はっきりとした口調で、否定する。
「肯定するのは悪くない? 誰も傷付けない? だから、これからもこうして、自分の意志や主張は後回しにして、とりあえず他人を肯定し続けようと思うって、そう言いたいの?」
「雷華、やめなよ」
未空が止めようとするが、雷華は聞かない。
立ち上がり、海斗の方へヅカヅカと歩み寄り、その胸ぐらをガッと掴むと、
「そんなの『肯定』じゃない。ただの『その場しのぎ』よ。否定された悲しみは、『はいはいそうだね』って肯定すれば無かったことになったの? 違うでしょ? 行き場を無くして、あんたの心に溜まっていくだけだったはずよ」
「雷華、もうそれくらいに……」
「おばあちゃんには言えなかったかもしれない。けど、だからってこれからも同じでいいわけない。否定されてもヘラヘラ笑って、自分だけが我慢していればいいなんてこと、あるわけない。少なくともあたしは……っ」
ぐっ……と。
雷華は、綺麗な顔を切なげに歪めて、
「……ちゃんと向き合いたいと思っている人に、本心を隠して表面的に肯定されても……全然嬉しくない。むしろ傷付く。だから、『肯定すれば誰も傷付けない』なんて嘘。大切な人ほど、違うと思ったら『違う』って、嫌だと思ったら『嫌だ』って言わなきゃダメなの。じゃなきゃ、自分も周りも傷付けて……あんた、ずっと独りのままよ?」
そう、真っ直ぐに言った。
あまりに真っ直ぐすぎて、海斗は目を逸らすことができなかった。
目の前にあるガラス玉のような瞳に、呆けた自分の顔が映っている。
剥き出しのまま突き付けられた雷華の言葉は、無遠慮に海斗の心へ突き刺さった。
しかし、不思議と痛みはなかった。
むしろ、己の心を凝り固めていたしこりが、彼女の言葉によって粉々に破壊されたような、奇妙な心地良さを覚えていた。
雷華の言う通りだった。
周りに適当に同調し、傷付いていないふりをしていた。
しかしそれは、相手ときちんと向き合っていないとも言える。
深い関わり合いを持つことを恐れ、表面的な付き合いばかりをしてきたせいで、これまで本当の意味で『友だち』と呼べる存在ができたことはなかった。
結局海斗は、他人の否定を肯定することで、自分自身を否定し続けていたのだ。
そんな彼の在り方を、雷華は否定した。
それは、裏を返せば海斗自身の意志を肯定したことに他ならない。
彼女の言葉は、表面的には全てを否定しているように聞こえる。
しかしその内面では、相手を真っ直ぐに見据え、全面的に肯定しようとしている。
雷華は、自分とは正反対。
だからこそ、海斗は……
彼女と、ちゃんと向き合いたいと思った。
「……鮫島」
海斗は、自分の胸ぐらを掴む彼女の手に、そっと自分の手を重ね、
「……ありがとう。なんだか魔法が解けたような気分だ。これからは『その場しのぎ』じゃなく、自分の本心に従って話そうと思う。ちゃんと……誰かと向き合いたいから」
そう、目を逸らさずに、言った。
直後、雷華は顔から湯気をぼっと噴き出し、慌てて手を離す。
「は、はぁ?! お礼言われる筋合いなんてないし!」
「いいや、お陰で目が覚めたよ。呪いのせいで、気持ちとは裏腹に否定してしまう鮫島だからこそ言える言葉なんだろうな。愛のある否定だった」
「あ、あああ愛なんてないわよ! ばっかじゃないの?!」
「あぁ、すまん。烏滸がましい言い方をした。『思いやり』と言うべきだったな」
「思いやりもないってば! 呪いのままにただあんたを否定しただけ! だから……嫌だと思ったら、すぐに離れてくれて構わないんだからね!」
……今のセリフは呪い半分、本音半分、といったところだろうか。
否定の裏に込められた彼女の本心に少しずつ見分けがつくようになった海斗は、やはり穏やかに微笑み返す。
「……わかった。本当に嫌だと思ったら言うよ。鮫島と、ちゃんと向き合いたいからな」
臆面もなくそう言われ、雷華は「う……」と顔を赤くし、逃げるように未空の背中へと隠れた。
それを、未空は困ったように振り返る。
「あはは。よかったね、雷華」
「別によくない!」
「もー。素直じゃないんだから」
肩を竦める未空。
海斗は居住まいを正しながら、あらためてこう切り出す。
「それで……イエスマンな俺が、イエスマンなりにプレゼンした『つるや商店街』を調査する案は、承認してもらえそうか?」
しかし、それに未空が返答するより早く、
「却下!」
雷華が、未空の後ろからひょこっと顔を覗かせ否定した。
今回は呪いによる反射ではなく、本気なようだった。
「どうしてだ。何が気に入らない?」
「気に入らないんじゃない。根本的にあそこはダメなのっ」
「だからどうして」
「どうしてもこうしてもないわよ! だってあのパン屋は…………『ハンマーヘッド』は、あたしのお母さんがやってるお店なんだから!!」
……という。
衝撃の事実を告げる雷華の叫びが、狭い平家に響き渡った。
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