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075 オベントウ大作戦 その5
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「それでは、アルさんと繋がりのあった凶暴な奴隷商人が、この裏町に隠れているっていう事なんですか?」
「そうよ、それでノア達は通常任務から離れて、奴隷商人とアルを捕まえる特殊任務になるわ。これは一部の軍人しか知らない任務よ」
「へぇ~さっすがノアとザックとあたしのシンね! 特殊任務なんて」
他の軍人達より一目置いているわねっ、と鼻息を荒くして付け足したのはミラだった。
「どのあたりが一目置いてるって言うんだよ!」
私はミラに思わず反論してしまった。
特殊任務だなんて言葉だけだと格好が良さそうだが、相手は奴隷商人でしかも凶暴ときている。そんな輩を相手にするのに。
「当然でしょ。隠れているのが裏町ならば、精通している三人だからこそ出来る仕事なんじゃないの? 裏町って言っても皆が皆協力的だとは限らないもの。でもさ、この三人だったら裏町でも信頼されているし。ねっ、マリン」
私の不安をよそにミラは胸を張りマリンに同調を求めた。
「そうね。きっと三人にしか出来ない仕事ね。裏町出身の軍人は数多くいるけれども、一番信頼されているのはザック達だしね」
突然話をミラから振られて驚いたマリンだったがミラと同じ様に頷いていた。
「そんな……」
私は暢気な二人を前に言葉を失うしかなかった。
お昼の片付けが終わった後、ジルさんから話があると呼び出された時間泊部屋で、私とマリン、ミラはそれぞれの反応を示していた。
昼間だが窓を閉め切り、部屋を明るくして聞いたジルさんの話は、私にとっては至極物騒な話だった。
アルさんが指名手配の様になっていて、更に次々関係のあった奴隷商人が殺されていると。最後に残った凶暴な奴隷商人達の生死を問わず捕まえなくてはならないなんて。
ベッドに座っているミラとマリンは特に疑問に思う事はない様だ。
平和な日本で過ごしていた私は一人だけ震え上がってしまった。
「それで、特殊に動くってどういう風になるんですか?」
私は一人だけ椅子に座り、テーブルの向かい側に座るジルさんに尋ねた。
「裏町でどう動くかについてはまだ分からないわ。とにかく、明日からは私の店で朝から晩まで一緒に働いてもらうわ」
「えっ。『ジルの店』で?」
それでは夜やっていた手伝いがメインで、本業の軍人業務がほったらかしという事では?
私はわけが分からず声をひっくり返した。
ジルさんは私の言葉に「心外だわねぇ」と言いながら、キセルに火をつけて煙を吐いた。
「そうよ。『ジルの店』でね。今後、オベントウを売りに貴方達踊り子が昼に町の方へ出向いていく事になるから、宿衛や護衛は人数が必要だと思っていたところよ。あの三人なら丁度いいわ。何もかも兼ねる事が出来てついているわ」
そして、赤毛を揺らしながらカラカラと笑った。
今、何て?!
私は勢いよく立ち上がり、テーブルに両手をついてジルさんの方に身を乗り出した。
「凶暴な奴隷商人が裏町に潜伏しているっていうのに、踊り子達でオベントウ売りに行く気ですか?!」
すっかり”お弁当”ではなく”オベントウ”になっている私だったがこれには驚いた。
この騒動がなくてもファルの町は、よそ者や女が一人歩くのは危ないと言われているのに。私だって未だに一人で歩く事が許されていない。『ジルの店』から外に出るなんて掃き掃除で表に少し出るぐらいしか出来ない。
その裏町に、自ら危険なところに飛び込むなんて狂気の沙汰だ。
「そうよ、裏町へオベントウを売りに行くつもりだけど?」
「そんな、もし」
「で、それが何か?」
ジルさんは私の言葉をかき消し、全く動じる事なくにっこりと笑う。
しかし、笑ったの口元だけで紫色の瞳は私を真っすぐ射貫いていた。言葉の後半は低い声で有無を言わさない、そういう様に聞こえた。
私はそれでもテーブルに身を乗り出したままジルさんと見つめ合う。
もし、踊り子達を危険な町に飛び込ませて、凶暴奴隷商人の人さらいにでもあったら──
ん? 凶暴奴隷商人? って、もしかして。
私が小さく息を呑んだ事が分かったジルさんは、更に不敵に笑った。
それが狙いなのか! 私はジルさんの微笑みに開いた口が塞がらなかった。
「もう。ナツミ止めなさいよ。ジルさんの考えに反対は出来ないんだから」
「そうよ。それにジルさんに反発したら『ジルの店』にいられなくなってしまうわよ」
長い間見つめ合う私とジルさんに、焦ったミラとマリンが慌ててベッドから立ち上がる。
「ジルさん。踊り子達でのオベントウ売りは──」
奴隷商人達をあぶり出す囮で、ザック達を護衛につかせて一気に捕まえる。もしくは始末をさせるつもりなのですか?
私はそう言おうと息を吸ったが、全てを言う事は出来なかった。
私の後半の言葉は、立ち上がったジルさんに遮られた。
顎をグッと掴まれてジルさんの顔が目の前に広がる。
結構な力で引き寄せられ、ジルさんの紫色の瞳が”みなまで言うな”と指図する。
「……そうよ。分かってくれて嬉しいわ。私は賢いナツミが大好きよ」
ジルさんは身を乗り出して頬にチュッとキスをくれた。離れていく時に品の良いムスクの香りを残して。
私はゆっくり椅子に座ると、ベッドから立ち上がったミラとマリンが左右の肩に手を置いた。
「ナツミ。大丈夫だって、ジルさんだって考えがあっての作戦よ。そうね、これはオベントウ大作戦よ!」
微妙にダサいネーミングをつけるミラが私を落ち着かせようと笑う。
「そうそう、いつもジルさんの考えは凄いんだから。それに、護衛にノアやザック達がついてくれるなら大丈夫よ!」
マリンまでもが私が怖がっていると思い込んで肩をさすってくれた。
「オベントウ大作戦って……」
私が怖がっているのは護衛がつくとかつかないとかではない。
どうして二人は気が付かないの。ジルさんの話は私達を囮にするって事だよ。
ザック達が『ジルの店』つきになったのは、私達を使って残党の奴隷商人をおびき寄せ始末をするつもりだ。
それは護衛につく彼等にとっても危険な事になるのだ。
なんだかとんでもない事になりつつあると私は溜め息をついた。
しかし、これがこの世界の現実なのだろう。
奴隷売買が飛び交うまだ物騒な男尊女卑な世界──
私はザックと共にいたいと思うならこれは決意をするしかない。
ジルさんだって、囮にするとは言えこの世界で途方に暮れた私を助けてくれたのだからここで私も踏ん張らないと。
深呼吸をする様に溜め息をついた。
覚悟を決めて挑まないと。
深呼吸をした為、私が落ち着いたと思ったのはミラとマリンの様だった。
「ナツミ大丈夫よ。ザックが護ってくれるから」
「そうよ。ザックは凄く強いんだから」
二人はザックがどれほど凄いかを説明してくれる。
「あ、ああ……うん。そうだね。それは、信じてるよザックの事」
もちろん信じている。今の深呼吸は信じている信じていないとは、意味が違うのだけれどな……
私はそう感じてあやふやに返事をした。
それから、ジルさんが再び白い煙を吐いた。
「ナツミ、その目。決意の表れが分かるわ。覚悟が出来た様ね」
ジルさんは私が何を考えているのか全てお見通しの様だ。
凄いなぁこの人は、色々な事を想定しているのだろうが、抜かりがないと言うか、何と言うか。
「……もちろん、ジルさんの事も信じているからですよ」
この世界に放り出されてジルさんが助けてくれなければ、この場所で働く様に言ってくれなければ、私はどうなっていたか分からない。だから感謝を込めて笑った。
「あら、元海賊を信じるなんてナツミも狂気じみているわね」
「そうですかねぇ」
「そうよ。ナツミがここまで理解が早いなんて私も思ってなかったもの。まぁ、海賊だろうとなかろうと、女だって覚悟が大切よね?」
そう言ってバチンとウインクを派手にしてくれた。それから私とジルさんは顔を見合わせてクスクス笑い合った。
その様子を不思議そうな目でミラとマリンが眺めていた。
ジルさんと笑い合った後、私はどうしても分からない事があり尋ねてみる。
「ところで、どうして軍の情報をジルさんは知っているんですか? もしかして、軍の偉い人から協力してもらう様に要請があったとか……ですか?」
今のザック達の任務話やアルさんの状況などはどう考えても大きな秘密のはずなのに。なんで、ジルさんは知っているのだろう。そして、どうして協力するのが『ジルの店』なのだろう。
となると、軍とも関係しているジルさんは凄い人物なのだなぁ。私は驚いて声を上げる。
「要請なんて……ナツミは、面白い事を言うわね。まぁ、持ちつ持たれつってヤツよ」
ジルさんは瞳を細めてクスクス笑った。
「面白い事ですか?」
そんな風に聞こえる様なところが何処かにあっただろうか。私は首を傾げてしまった。
「あれ? ナツミに言っていなかったっけ」
ミラが私の横で声を上げる。
「何を?」
私は首を傾げてミラに尋ねる。
それから、時間泊の部屋にいるにも関わらず耳打ちでミラが教えてくれた事実に、私は驚いて大声を上げた。
「なぁ、やっぱりあの冷徹野郎がジルの男って未だに信じられないんだけど」
ノックもせずに入って来たザックは、ノアが使っているベッドの上に腰掛け仰向けになると唐突に呟いた。
ノアは軍の寮に戻って荷物をまとめていた。
そこへ、荷物をまとめ終えたザックが訪れた。ザックも小さな革袋を手にしていた。
多少の着替えや必要な日用品は『ジルの店』に移動していた様なので、非常に小さくまとめられていた。
「お前なぁ。ノックもせずに入って来て今更な事を……」
「だって。部屋のドアがこのぐらい開いてたから入っていいと思って」
ザックが仰向けになったまま、隙間の様子を教えてくれた。
「それでもノックしろよなぁ」
「いいじゃねぇか別に。昔、女と寝ている最中だって平気で出入りしていただろうが」
「お前なぁ、今度ナツミの前でその事バラすぞ」
「止めろよなぁ」
「じゃぁ、ノックしろよな」
「へいへい」
何とも無意味な会話を続けながらノアは黙々と荷物を片付けている。
軍の寮部屋も『ジルの店』の時間泊の部屋と大差はない。机とベッドぐらいしかない部屋だ。唯一違う事は愛しい相手がいるかいないかぐらいだった。
無意味な会話をしながら、ジルの相手である冷徹野郎──カイ大隊長の事を思い出す。
男前で家柄も良い為早い時期から結婚と言われていたのに結局四十を過ぎているが未婚。未だに沢山の女から声をかけられる様だが、浮いた話は特に聞いた事もない。
昔はあのレオ大隊長と町の女を二分していたと聞くが。
それはもみ上げ長めの二重巨人であるレオ大隊長の話なので、定かではない。
まぁ、どちらもモテているのは今も同じだが。レオ大隊長は所帯があるのでそう派手に遊び歩く事もなくなった。
寡黙で冗談も通じるいい男。しかし、敵に回せば恐ろしい男だと噂で聞く。
軍の人間関係の中でも陥れようとする奴等が左遷や消されたという物騒な話もある。あの上品なムスクの香り。毎回ジルが纏っているのだから相当ジルと一緒にいる時間が長いのだろう。しかし、二人揃っているところを見た事がない。
そしてその事は誰も触れようとしない。何故か触れてはいけない様な気がする。
恋人同士なのですよね~と、誰か聞いてくれないか?
そもそも、気軽に聞けない雰囲気なのは何故なのだろう。
二人共いい年のはずだし、別に軍人と店の女主人が恋人同士だといけない法律や規定などはないのに。
ん? ジルって何歳だっけ……ザックが考えを脱線させた時だった。
「まぁ『ファルの宿屋通り』にある店を情報屋として使うってのは軍人が昔からしている事だしなぁ。二人の関係は公になっているも同然だと思うが」
「そうだけどさぁ、何か想像できねぇ。あの冷徹野郎が恐ろしい最大級カンの良い女から、ベッドの上で搾り取っているのか搾り取られているのか……」
「お前なぁ。変な想像するな、俺にもうつるだろ」
ノアは革袋を背負うとベッドに寝転ぶザックを上から覗き込む。
「悪い……エサの話を聞いた時は思わず飛びかかりそうになってな。それであの冷徹野郎に何か一泡吹かせてやれないかと色々考えているうちに、な」
ザックはやるせなさそうに溜め息をついた。
エサとは──ナツミやマリン、ミラ達を町に繰り出させて囮にする話の事か。
「まぁな。それは俺も同感だが」
誰が恋人を好き好んで囮にする事に抵抗なく協力できるものか。
だが、アルの件も絡んでいるのでノアは酷く抵抗する事が出来なかった。
自分達と同じファルの町の住人が、奴隷として売られる可能性があるならそれは阻止せねばならない。
ノア達は煮え湯を飲まされる気分で『ジルの店』に向かう事になる。
「マリンやナツミ、ミラにも話をしないとなぁ」
ノアは寝転ぶザックの右手を引っ張り上げながら呟いた。
「そうだなぁ、ジルからはだいたい話は伝わっているだろうが……」
まさか囮に使われるとは思っていないだろう。
協力してもらえるかどうかは、ノア、ザック、シン達がそれぞれの恋人へ説明しなくてはならなかった。
きっとそれでも、優しくて逞しい彼女達は微笑みながら頷くのだろうが──
こんな事を言い出す恋人をどう思うかと考えると、それはそれで何と酷い男なのだろうと思う。
だが、既にナツミがその事を理解していた事が分かり、男三人が目を丸める事になるのは数時間後だった。
「そうよ、それでノア達は通常任務から離れて、奴隷商人とアルを捕まえる特殊任務になるわ。これは一部の軍人しか知らない任務よ」
「へぇ~さっすがノアとザックとあたしのシンね! 特殊任務なんて」
他の軍人達より一目置いているわねっ、と鼻息を荒くして付け足したのはミラだった。
「どのあたりが一目置いてるって言うんだよ!」
私はミラに思わず反論してしまった。
特殊任務だなんて言葉だけだと格好が良さそうだが、相手は奴隷商人でしかも凶暴ときている。そんな輩を相手にするのに。
「当然でしょ。隠れているのが裏町ならば、精通している三人だからこそ出来る仕事なんじゃないの? 裏町って言っても皆が皆協力的だとは限らないもの。でもさ、この三人だったら裏町でも信頼されているし。ねっ、マリン」
私の不安をよそにミラは胸を張りマリンに同調を求めた。
「そうね。きっと三人にしか出来ない仕事ね。裏町出身の軍人は数多くいるけれども、一番信頼されているのはザック達だしね」
突然話をミラから振られて驚いたマリンだったがミラと同じ様に頷いていた。
「そんな……」
私は暢気な二人を前に言葉を失うしかなかった。
お昼の片付けが終わった後、ジルさんから話があると呼び出された時間泊部屋で、私とマリン、ミラはそれぞれの反応を示していた。
昼間だが窓を閉め切り、部屋を明るくして聞いたジルさんの話は、私にとっては至極物騒な話だった。
アルさんが指名手配の様になっていて、更に次々関係のあった奴隷商人が殺されていると。最後に残った凶暴な奴隷商人達の生死を問わず捕まえなくてはならないなんて。
ベッドに座っているミラとマリンは特に疑問に思う事はない様だ。
平和な日本で過ごしていた私は一人だけ震え上がってしまった。
「それで、特殊に動くってどういう風になるんですか?」
私は一人だけ椅子に座り、テーブルの向かい側に座るジルさんに尋ねた。
「裏町でどう動くかについてはまだ分からないわ。とにかく、明日からは私の店で朝から晩まで一緒に働いてもらうわ」
「えっ。『ジルの店』で?」
それでは夜やっていた手伝いがメインで、本業の軍人業務がほったらかしという事では?
私はわけが分からず声をひっくり返した。
ジルさんは私の言葉に「心外だわねぇ」と言いながら、キセルに火をつけて煙を吐いた。
「そうよ。『ジルの店』でね。今後、オベントウを売りに貴方達踊り子が昼に町の方へ出向いていく事になるから、宿衛や護衛は人数が必要だと思っていたところよ。あの三人なら丁度いいわ。何もかも兼ねる事が出来てついているわ」
そして、赤毛を揺らしながらカラカラと笑った。
今、何て?!
私は勢いよく立ち上がり、テーブルに両手をついてジルさんの方に身を乗り出した。
「凶暴な奴隷商人が裏町に潜伏しているっていうのに、踊り子達でオベントウ売りに行く気ですか?!」
すっかり”お弁当”ではなく”オベントウ”になっている私だったがこれには驚いた。
この騒動がなくてもファルの町は、よそ者や女が一人歩くのは危ないと言われているのに。私だって未だに一人で歩く事が許されていない。『ジルの店』から外に出るなんて掃き掃除で表に少し出るぐらいしか出来ない。
その裏町に、自ら危険なところに飛び込むなんて狂気の沙汰だ。
「そうよ、裏町へオベントウを売りに行くつもりだけど?」
「そんな、もし」
「で、それが何か?」
ジルさんは私の言葉をかき消し、全く動じる事なくにっこりと笑う。
しかし、笑ったの口元だけで紫色の瞳は私を真っすぐ射貫いていた。言葉の後半は低い声で有無を言わさない、そういう様に聞こえた。
私はそれでもテーブルに身を乗り出したままジルさんと見つめ合う。
もし、踊り子達を危険な町に飛び込ませて、凶暴奴隷商人の人さらいにでもあったら──
ん? 凶暴奴隷商人? って、もしかして。
私が小さく息を呑んだ事が分かったジルさんは、更に不敵に笑った。
それが狙いなのか! 私はジルさんの微笑みに開いた口が塞がらなかった。
「もう。ナツミ止めなさいよ。ジルさんの考えに反対は出来ないんだから」
「そうよ。それにジルさんに反発したら『ジルの店』にいられなくなってしまうわよ」
長い間見つめ合う私とジルさんに、焦ったミラとマリンが慌ててベッドから立ち上がる。
「ジルさん。踊り子達でのオベントウ売りは──」
奴隷商人達をあぶり出す囮で、ザック達を護衛につかせて一気に捕まえる。もしくは始末をさせるつもりなのですか?
私はそう言おうと息を吸ったが、全てを言う事は出来なかった。
私の後半の言葉は、立ち上がったジルさんに遮られた。
顎をグッと掴まれてジルさんの顔が目の前に広がる。
結構な力で引き寄せられ、ジルさんの紫色の瞳が”みなまで言うな”と指図する。
「……そうよ。分かってくれて嬉しいわ。私は賢いナツミが大好きよ」
ジルさんは身を乗り出して頬にチュッとキスをくれた。離れていく時に品の良いムスクの香りを残して。
私はゆっくり椅子に座ると、ベッドから立ち上がったミラとマリンが左右の肩に手を置いた。
「ナツミ。大丈夫だって、ジルさんだって考えがあっての作戦よ。そうね、これはオベントウ大作戦よ!」
微妙にダサいネーミングをつけるミラが私を落ち着かせようと笑う。
「そうそう、いつもジルさんの考えは凄いんだから。それに、護衛にノアやザック達がついてくれるなら大丈夫よ!」
マリンまでもが私が怖がっていると思い込んで肩をさすってくれた。
「オベントウ大作戦って……」
私が怖がっているのは護衛がつくとかつかないとかではない。
どうして二人は気が付かないの。ジルさんの話は私達を囮にするって事だよ。
ザック達が『ジルの店』つきになったのは、私達を使って残党の奴隷商人をおびき寄せ始末をするつもりだ。
それは護衛につく彼等にとっても危険な事になるのだ。
なんだかとんでもない事になりつつあると私は溜め息をついた。
しかし、これがこの世界の現実なのだろう。
奴隷売買が飛び交うまだ物騒な男尊女卑な世界──
私はザックと共にいたいと思うならこれは決意をするしかない。
ジルさんだって、囮にするとは言えこの世界で途方に暮れた私を助けてくれたのだからここで私も踏ん張らないと。
深呼吸をする様に溜め息をついた。
覚悟を決めて挑まないと。
深呼吸をした為、私が落ち着いたと思ったのはミラとマリンの様だった。
「ナツミ大丈夫よ。ザックが護ってくれるから」
「そうよ。ザックは凄く強いんだから」
二人はザックがどれほど凄いかを説明してくれる。
「あ、ああ……うん。そうだね。それは、信じてるよザックの事」
もちろん信じている。今の深呼吸は信じている信じていないとは、意味が違うのだけれどな……
私はそう感じてあやふやに返事をした。
それから、ジルさんが再び白い煙を吐いた。
「ナツミ、その目。決意の表れが分かるわ。覚悟が出来た様ね」
ジルさんは私が何を考えているのか全てお見通しの様だ。
凄いなぁこの人は、色々な事を想定しているのだろうが、抜かりがないと言うか、何と言うか。
「……もちろん、ジルさんの事も信じているからですよ」
この世界に放り出されてジルさんが助けてくれなければ、この場所で働く様に言ってくれなければ、私はどうなっていたか分からない。だから感謝を込めて笑った。
「あら、元海賊を信じるなんてナツミも狂気じみているわね」
「そうですかねぇ」
「そうよ。ナツミがここまで理解が早いなんて私も思ってなかったもの。まぁ、海賊だろうとなかろうと、女だって覚悟が大切よね?」
そう言ってバチンとウインクを派手にしてくれた。それから私とジルさんは顔を見合わせてクスクス笑い合った。
その様子を不思議そうな目でミラとマリンが眺めていた。
ジルさんと笑い合った後、私はどうしても分からない事があり尋ねてみる。
「ところで、どうして軍の情報をジルさんは知っているんですか? もしかして、軍の偉い人から協力してもらう様に要請があったとか……ですか?」
今のザック達の任務話やアルさんの状況などはどう考えても大きな秘密のはずなのに。なんで、ジルさんは知っているのだろう。そして、どうして協力するのが『ジルの店』なのだろう。
となると、軍とも関係しているジルさんは凄い人物なのだなぁ。私は驚いて声を上げる。
「要請なんて……ナツミは、面白い事を言うわね。まぁ、持ちつ持たれつってヤツよ」
ジルさんは瞳を細めてクスクス笑った。
「面白い事ですか?」
そんな風に聞こえる様なところが何処かにあっただろうか。私は首を傾げてしまった。
「あれ? ナツミに言っていなかったっけ」
ミラが私の横で声を上げる。
「何を?」
私は首を傾げてミラに尋ねる。
それから、時間泊の部屋にいるにも関わらず耳打ちでミラが教えてくれた事実に、私は驚いて大声を上げた。
「なぁ、やっぱりあの冷徹野郎がジルの男って未だに信じられないんだけど」
ノックもせずに入って来たザックは、ノアが使っているベッドの上に腰掛け仰向けになると唐突に呟いた。
ノアは軍の寮に戻って荷物をまとめていた。
そこへ、荷物をまとめ終えたザックが訪れた。ザックも小さな革袋を手にしていた。
多少の着替えや必要な日用品は『ジルの店』に移動していた様なので、非常に小さくまとめられていた。
「お前なぁ。ノックもせずに入って来て今更な事を……」
「だって。部屋のドアがこのぐらい開いてたから入っていいと思って」
ザックが仰向けになったまま、隙間の様子を教えてくれた。
「それでもノックしろよなぁ」
「いいじゃねぇか別に。昔、女と寝ている最中だって平気で出入りしていただろうが」
「お前なぁ、今度ナツミの前でその事バラすぞ」
「止めろよなぁ」
「じゃぁ、ノックしろよな」
「へいへい」
何とも無意味な会話を続けながらノアは黙々と荷物を片付けている。
軍の寮部屋も『ジルの店』の時間泊の部屋と大差はない。机とベッドぐらいしかない部屋だ。唯一違う事は愛しい相手がいるかいないかぐらいだった。
無意味な会話をしながら、ジルの相手である冷徹野郎──カイ大隊長の事を思い出す。
男前で家柄も良い為早い時期から結婚と言われていたのに結局四十を過ぎているが未婚。未だに沢山の女から声をかけられる様だが、浮いた話は特に聞いた事もない。
昔はあのレオ大隊長と町の女を二分していたと聞くが。
それはもみ上げ長めの二重巨人であるレオ大隊長の話なので、定かではない。
まぁ、どちらもモテているのは今も同じだが。レオ大隊長は所帯があるのでそう派手に遊び歩く事もなくなった。
寡黙で冗談も通じるいい男。しかし、敵に回せば恐ろしい男だと噂で聞く。
軍の人間関係の中でも陥れようとする奴等が左遷や消されたという物騒な話もある。あの上品なムスクの香り。毎回ジルが纏っているのだから相当ジルと一緒にいる時間が長いのだろう。しかし、二人揃っているところを見た事がない。
そしてその事は誰も触れようとしない。何故か触れてはいけない様な気がする。
恋人同士なのですよね~と、誰か聞いてくれないか?
そもそも、気軽に聞けない雰囲気なのは何故なのだろう。
二人共いい年のはずだし、別に軍人と店の女主人が恋人同士だといけない法律や規定などはないのに。
ん? ジルって何歳だっけ……ザックが考えを脱線させた時だった。
「まぁ『ファルの宿屋通り』にある店を情報屋として使うってのは軍人が昔からしている事だしなぁ。二人の関係は公になっているも同然だと思うが」
「そうだけどさぁ、何か想像できねぇ。あの冷徹野郎が恐ろしい最大級カンの良い女から、ベッドの上で搾り取っているのか搾り取られているのか……」
「お前なぁ。変な想像するな、俺にもうつるだろ」
ノアは革袋を背負うとベッドに寝転ぶザックを上から覗き込む。
「悪い……エサの話を聞いた時は思わず飛びかかりそうになってな。それであの冷徹野郎に何か一泡吹かせてやれないかと色々考えているうちに、な」
ザックはやるせなさそうに溜め息をついた。
エサとは──ナツミやマリン、ミラ達を町に繰り出させて囮にする話の事か。
「まぁな。それは俺も同感だが」
誰が恋人を好き好んで囮にする事に抵抗なく協力できるものか。
だが、アルの件も絡んでいるのでノアは酷く抵抗する事が出来なかった。
自分達と同じファルの町の住人が、奴隷として売られる可能性があるならそれは阻止せねばならない。
ノア達は煮え湯を飲まされる気分で『ジルの店』に向かう事になる。
「マリンやナツミ、ミラにも話をしないとなぁ」
ノアは寝転ぶザックの右手を引っ張り上げながら呟いた。
「そうだなぁ、ジルからはだいたい話は伝わっているだろうが……」
まさか囮に使われるとは思っていないだろう。
協力してもらえるかどうかは、ノア、ザック、シン達がそれぞれの恋人へ説明しなくてはならなかった。
きっとそれでも、優しくて逞しい彼女達は微笑みながら頷くのだろうが──
こんな事を言い出す恋人をどう思うかと考えると、それはそれで何と酷い男なのだろうと思う。
だが、既にナツミがその事を理解していた事が分かり、男三人が目を丸める事になるのは数時間後だった。
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