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064 くくく?

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 今日は、宿の方に泊まっていた旅人や観光客が昼食をとり旅立っていった。
 14時が過ぎ『ファルの宿屋通り』の酒場は店を閉めはじめる。『ジルの店』も例外なく一度店を閉める。時間泊以外の部屋の掃除が後で待っているが、ひとまず先に大量の皿洗いに取りかからねばならない。

 水の張った浅い桶にたくさんの白い皿が沈んでいる。海綿に石鹸を擦りつけ泡立てお皿をゴシゴシと洗っていく。同じ形の皿が50枚はあると思う。
 水を触りながらの作業だが初夏だからとても冷たくて気持ちがいいし、お皿が綺麗になっていくのが楽しい。私は一心不乱にお皿を洗っていた。
 私の隣でそのお皿を綺麗に泡を洗い流しているのはニコだ。濯がれたお皿は後ろの水切りトレイに並べていく。
 それをミラとマリンが布巾で拭いていく。

 ニコは鼻歌を歌いながらお皿を綺麗に濯いでいる。不意にニコの鼻歌が途切れて隣の私に話しかける。
「ナツミ、手が荒れるようなら僕が代わるよ」
「大丈夫だよ。汚れがとれて楽しいし」
「でも、石鹸で手が荒れたりしたら困るでしょ? 女性なのに」
「手が荒れるのは男性も女性も関係ないよ。でも、ありがとう。今の所は大丈夫だし何だかお皿が綺麗になるのは楽しいし」
「そんなものかな? 調子が悪くなったらいつでもいいから教えてね」
 僕が代わるから、と付け足し再びニコは鼻歌を歌いはじめる。
 比較的声が高いニコは高音も軽々と出る様で中々心地の良い鼻歌だった。
 
「そういえばニコ、計算の勉強は続けているのか?」
 後ろにいたダンさんがニコに声をかけた。
「えっ」
 心地よい鼻歌が途切れ、ニコのひっくり返った声がした。思わずつるりとお皿を桶の水の中に落としていた。
「教えた事を寝る前にもう一度勉強しているか?」
 ダンさんが軽く笑いながら後ろの大きな作業台の側で丸い椅子に座ると、大きなボウルに入っていた、小さなインゲン豆に似た野菜の筋を取っていた。ダンさんの太い指が小さな豆の筋を丁寧に取り除く様子は思わず見つめそうになる。
「その……やりたいんですけど、眠たくて直ぐに寝ちゃって」
 出来ていません、と小さな声で呟きながら肩をすくめる。
「まぁ、疲れているとは思うが、自分で時間を作ってやっていかないと。いつまで経っても今のままだぞ」
 ダンさんが綺麗に筋を取り除きながら溜め息をついてニコの背中に言葉を投げる。
「そうですよね。折角教えてもらったのに済みません」
 確かにニコは一番下っ端なのもあるのだろうが、常に忙しそうにしている。朝から晩まで、掃除、炊事、洗濯、ウエイターの仕事では1日が終わるころにはヘトヘトだろう。
 それを理解しているからだろう、小さな溜め息をつきながらダンさんが「頑張れよ」と呟いていた。

「ねぇ、折角だから今の時間を使ったらどうかな」
 私は隣でお皿を握りしめ直したニコに声をかけた。
「えっ、どうやって。ここは台所だから書き取るものもないし、しかも僕はお皿洗いをしているのに」
 私の提案にニコが驚いて声を上げ私の顔を横から覗き込む。澄んだ赤い瞳が大きく見開いていた。
「うーん。そうだなぁ。ニコはまずお客さんの食事の合計金額が計算出来る事と、お代をもらってお釣りを渡す事が出来ればいいんだよね?」
「うん。そうだけど、それが中々出来なくて」
 ニコは苦笑いで洗ったお皿を水切りトレイに並べた。
「じゃぁ、先ずは九九でいいんじゃないかな」
「くくく?」
 首を傾げるニコだった。
 いや、それでは一つ多い。と私は苦笑いした。
「大丈夫だよ。九九は繰り返し声を出して覚えたらいいから。お皿を洗いながらで出来るよ」
 私は泡だらけの手の親指を突き出し笑った。
「うん?」
 私が何を言っているのか分からず、あやふやに頷くニコだった。

 後ろの方ではダンさんとお皿を拭いていたミラとマリンも首を傾げていた。


「ににんがし、にさんがろく、にしがはち──」
 先程一の段はスラスラ言える様になった。今度は二の段に挑戦だ。
 だが、やはり途中でつっかえてしまう。そこで助け船を出して進んでいく。
「ふぅ、何だか同じところでつっかえるような気がする。えっと、もう1回言うね?」
「うん」
 そう言ってニコはもう一度、二の段をはじめから言いはじめる。
 何故か後ろで、ダンさん、ミラ、マリンもブツブツ呪文を唱えるかの様に、ニコと同じ様に九九を口にしはじめる。
 私達は台所でひたすら九九を呟く謎の集団となりながら、皆無心に手を進める。

 通りがかったジルさんが訝しげに見つめ、その内容が計算である事に気付くと、ずっと立ち尽くして聞いていた。

 やがて皿洗いも終わった。
「よし。お皿洗い終了」
「うん。ナツミありがとう! 何か計算は楽しいね。歌の様に覚えるのって初めてだよ。これなら丁度皿洗いの時に覚えられるね」
 お皿洗い終了と共に九九の暗記もひとまず終了となった。
「歌う様に覚える? そ、そうかな」
 余り考えた事はないが、耳から聞きながら覚える方がどうもニコには合っているようだ。
「僕頑張って続けるよ。また教えてくれる?」
 首を傾げながら尋ねるニコ。男の子だけれどもまだまだ背も低いので可愛らしい。
「うん。もちろん。いつもお皿洗いは一緒にしているからその時に覚えようね」
「本当に?! やったぁ」
 ニコは嬉しそうに私の両手を握りしめた。
「えー。じゃぁ、あたし達もその時はお皿を拭くわ」
「そうねぇ、折角だし」
 すっかり九九を覚える気でいるミラとマリンだった。先程から呟いていると思ったら自分達も同じ事をしていたのか……
 水泳に続いて凄い進歩だ。
「じゃぁ、次は15分ほど休憩したら、長期滞在していた部屋の片付けを頼む。何か飲むか?」
 ダンさんも筋取りが終わったのか立ちあがって、私達に飲み物を勧めてくれた。
「やったぁ! あたしココがいいな~」
 ミラがバンザイをしてダンさんに伝えていた。
 ココって、あのエスプレッソみたいなやつだね。
 私は例のノアの別荘で酔っ払って暴言を吐いてしまった事件を思い出して慌てて首を振る。
「僕もココがいいなぁ」
「私はレモン水がいいです」
 ニコとマリンがそれぞれ手を上げて希望をダンさんに伝える。
 それだ! 私もレモン水にしよう。何となくココを回避してしまった。
「あ、私もマリンと一緒でレモン水を」
「じゃぁ、私はワインを頂戴」
「え?」
 私の後ろから抱きつく様にジルさんが急に飛び出してきた。
「また飲むのかお前は……」
 半ば呆れたダンさんが大きく溜め息をついている。
「一杯だけよ。食後のワインでいいでしょう?」
 ジルさんは手をヒラヒラさせてダンさんに飲み物を用意する様に促した。
「分かった。少し待ってろ」
 そう言うとダンさんはコンロに火をつけヤカンの水を沸騰させてはじめた。

「ところで、ナツミ。さっき教えていたのは、計算の方法かしら?」
「あ、はい。そうですけど」
 ジルさんに肩を抱かれたまま私は一つ頭背の高い彼女の顔を見上げる。
 ジルさんは髪の毛を耳の後ろにかけ直して、菱形のイヤリングを触っていた。
 瞳は弧を描く様に笑っている。
「なるほど。あなた達3人がそれを習っているの?」
 ミラとマリンそしてニコを見渡しながら尋ねる。
「そうです。僕が計算出来ないから教えてくれていて」
 ニコがジルさんに答えていた。
「厳密に言うと4人ですね。ダンさんもですけど」
 ミラが後ろで用意をしているダンさんの筋骨隆々の後ろ姿をチラッと見た。
「まぁ、ダンまで……教わる事はいいけれども、この事を『ジルの店』以外で声高に話すとか、他の店に教える事は絶対にしない様に」
「え! もしかして教えるのは、いけませんでした?」
 私は思わず声を上げてジルさんを見上げる。ジルさんは私の肩をポンと叩いて「違うわよ、そういう意味じゃないの」と首を振った。
「いいえ、店の仲間に教え合うのはいいわ。この間ナツミが泳ぎを教えたのも問題ないわよ。ノア達に教えるのもね。だけど、ライバル店や私が敵だとみなしている人には秘密だし教えてはいけないわよ。いい? 他の皆も気をつける様に」
「どうしてですか」
 単刀直入にミラが聞き返す。

 ああ、もしかすると──

 私が口をつぐんだのをジルさんが見つめて頭にポンと手を置いた。
「あら。ナツミは賢いから直ぐに分かったのね。『ジルの店』の仲間達が計算を覚え、そうねぇ他には……例えば文字を覚え、たくさんの知識を取り込める様になったら──それはとても良い事よ。他の店との差別が出来るし」
 そこでジルさんは一旦言葉を切った。
 私達が集中して聞いている事を確認して頷くと、続きを話しはじめる。
「だから「『ジルの店』のやつらは他の店と違う。だから店に行こう」と、良い評判につながる可能性がある。だけれども、忘れないで。私達は『ファルの宿屋通り』の『ジルの店』で生きているの」
 ジルさんが赤い唇を開いて皆を見つめてゆっくりと話す。
「あ……」
 マリンも気が付いた様で口を閉じてゴクンと唾を飲み込んだ。
「そう。軍人達が出入りする。賢くなる分だけ相手をする時に、話も分かるし意見も出来る様になる。きっと軍人達も会話が楽しくなる。女としてとかウエイターとしての距離以外の事で、彼らと親しくなる事は危険も増える。ただでさえ、情報流出は許されないから。だからこそ、気をつけて欲しいのよ」
 ジルさんの含んで聞かせる言葉に、ニコ、ミラ、マリン、私達は見つめ合い、最後にジルさんに向かって首を縦に振った。
「分かってくれたらそれでいいわ。もちろん、私も頑張って賢くなって欲しいと思うし、それに、泳げる様になるのも別に海で披露してもらってかまわないわよ」
 ジルさんは軽くウインクして笑ってくれた。
「それにしても遅いわね~もう、ダン! 私のワインだけでも早く出してよっ」
 ジルさんがバシバシ作業台を叩いてダンさんの後ろ姿に声をかける。
「うるさい。少しくらい待てないのか」
 ダンさんは沸騰したヤカンを慌てて止めると、ジルさんに怒鳴っていた。

「良かったわね。怒られるかと思ったけど」
「うん。流石ジルさんだね」
「僕もこの店で働けて良かったぁ」
 マリンとミラそしてニコが小さく呟いていた。
「うん。本当にそうだね」
 私はジルさんの広い心に感謝して小さく呟いた。
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