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031 腰がっ!
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変わりたい。そう願って私がここにたどり着いたのなら、この事に意味があるのなら。
私は隣に座るザックの手の温かさを感じながら、自分の胸を押さえた。
「ナツミの側に俺もいる事を忘れるなよ」
ザックが私の耳元で囁いてくれた。
「うん」
ザックの優しい言葉に嬉しくて頷く。
ジルさんも、ノアも、マリンも微笑んでくれている中で、鼻をすすりながらの涙声が聞こえた。
「グスッ。僕もとても素敵なナツミさんに会えて本当に嬉しいです」
ネロさんが涙ぐみながらベッドで横たわっていた。銀縁眼鏡の奥の濃いブルーの瞳が潤んでいる。
「はぁ。ありがとうございます」
感激してくれるのは嬉しいが、ネロさんとは初対面のはず。そもそも、ノアやザック達とどういう関係なのかな。ジルさんも知っている様だし。
「何でネロが嬉しがるんだよ」
ザックがテーブルに身を乗り出しながら、奥に横たわるネロさんを睨みつける。
まるで私をネロさんの視界から遮る様にして。
「あれ? そういう感動シーンなのかと思ったんだけど違った? 僕も乗っかってみただけなのに」
「あのなぁ、自ら推論を立てておきながら乗っかってみるて」
訳が分からないといった様子でノアが、壁に背をあずけたままこめかみを押さえた。
「まぁ、まぁ。それより、ジルさんに重要な事をお伝えしたいと思っていたんだよ~」
全く雰囲気の掴めないネロさんが涙を拭いながら、人差し指を立てた。
「重要な事?」
ジルさんが体をねじって、後ろに寝ていたネロさんに視線を送った。
「そうだなぁ、先ずは何処から話したらいいかな。うーん。ノアとザックが『オーガの店』に何故入り浸っていたのか、から話した方が良さそうだよね? ね、ノア、ザック?」
ネロさんがノアとザックに話をする様に促した。
「ああ、そうだな……」
ノアが改めてジルさんに向き直り、話し始めた。
ノアとザックの話は驚く事ばかりだった。
ノアの異母兄弟である一番上の兄さんで、アルさんが次のファルの領主を狙っている。しかし、どうやら周囲の人達はノアが領主になるべきだと考えている。
ノアには全くその気がないのだが、アルさんはノアに敵対心を燃やしている。これは昔からで、兄弟は何かにつけて比べられる。その為、アルさんはノアに対して風当たりが強い。やがてアルさんはノアの命まで狙う様になっていた。
アルさんは自分の財力を上げる為に、どうも奴隷売買に関わっている様でその中心なのが『オーガの店』らしい。
『オーガの店』は『ジルの店』と人気を二分する、公的に認められている酒場併設の宿屋だ。大抵の軍人達は一カ所お気に入りの常宿を決める事が多い。ノアとザックのお気に入りの常宿が『ジルの店』である様に、アルさんの常宿が『オーガの店』だそうだ。
ノアの命まで狙うというアルさんの行動を止めさせる為に、ノアとザックは『オーガの店』に潜入していた。常宿を『オーガの店』に変えた様に見て、内部から情報を得ようとしたのだ。
しかし、その隙をついて狙われたのがノアの恋人であるマリンだった。ノアの命は簡単に奪えない。だからその矛先を恋人に向けたアルさんは『ジルの店』に潜入させていた従業員を使ってマリンを毒殺しようと実行。マリンの食事に毒を少しずつ盛っていたらしい。最後に毒に犯されて体が弱っていたマリンを海に突き落として殺害しようとしたそうだ。それは私がちょうど助けた事になるが。
また、毒を盛った犯人は、捕まったものアルさんとの関係を白状させる前に牢屋内で毒殺されてしまったそうだ。
全てを無言で聞いていたジルさんは、最後に大きな溜め息をついた。
「毒を盛った従業員は最初からアルに従っていた訳ではないのかもね。途中からお金で買収されたと思うわ。だって、雇う時に大抵カンが働いて分かるはずなんだけど。とはいえ、マリンを危ない目にあわせたのは、私やダンの責任っていう事にもなるのね」
自嘲する様な微笑みを浮かべていた。
「いや、これは俺が巻き込んだものだ。ジルがそんなに自分を責める必要は」
「にしても、腹が立つ。アルのヤツ! 吊し上げてやらないと気が済まない」
ノアがジルさんを慰める言葉をかけた時だった。ジルさんの地の底から響く様な低いハスキーな声が響いた。眉を吊り上げジルさんの濃いパープルの瞳が獲物を狙う様に鋭かった。
「……そ、そうだな」
ジルさんの迫力に、ノアも言葉を失う。そんな中ノアは座るマリンの肩に手を置き何度か撫でた。
「マリン。済まなかった俺のせいで酷い目にあわせて。ずっと、体調が悪かったのは毒のせいだったんだ」
「大丈夫よ。もちろん、驚いたけど。私こそ、もっと気をつける様にするわ」
置かれた手に自分の手を添えると、マリンは見上げてノアに笑いかけた。
「ダンにも悪い事をしたな」
ザックがテーブルの中央を見つめながら、誰に言う訳でもなく呟いた。
「そうね少しダンも落ち込むかもしれないけど。今後の事もあるから食事の管理も考えないとね」
ジルさんが頷きながら、足を組み直した。
「ところで、ナツミさんの国には魔法がないとの事でしたが」
ネロさんが横になりながら銀縁眼鏡のブリッジを上げた。
「そうですけど」
私は答えながら、ネロさんの頭からつま先まで行ったり来たり、ジロジロ見てしまった。
まさか、ネロさんが話題の人であるアルさんと、兄弟だなんて驚くばかりだ。
しかも、ノアのお兄さんでもあるとは。
アルさんが長男で、次男がネロさん、そしてノアか。強烈な三人兄弟といったところだ。
「僕の分析では、マリンさんの現状の健康状態は溺れる前と比べると非常に良好です。これは、誰かがマリンさんの毒を解毒してくれたと考えています」
「はい」
「僕はその解毒をしてくれたのがナツミさん、あなたではないかと考えています」
「え、私が?」
私は驚いて声を上げる。
解毒ってどうやってするの。全く身に覚えがない。
「そうですよ~。あっ、僕は軍の魔法部隊にも属している者でして。日々、医療魔法について研究や実践を行っているんですが、マリンさんの血液を調べた結果その様な結論に至りまして」
「医療魔法って。私はそんな事出来ませんよ」
私はネロさんの結論に驚き思わず隣に座っていたザックを見上げる。
ザックは私の頭をポンポンと叩く。
「大丈夫だから、落ち着け。これはネロの推測でしかない。それにそうだとしてもナツミをどうこうする事はないから、安心しろ」
ザックは瞳を細め頭に置いた手をそのままスルリと頬まで落とし、親指で頬を撫でてくれた。
「う、うん」
何だかとても心強い。
ザックはゆっくり顔を近づけて私を勇気づける様に優しく囁く。
「ナツミが溺れたマリンを救ってくれたのはお前の知識なのは分かっている。だが、望む望まない関係なくファルの町がお前を必要としているなら、この世界に来た事で、新たな力が備わったのかもしれない」
「そんな事あるかな?」
私はザックの濃いグリーンの瞳を覗き込みながら困った様に首を傾げた。
「ああ、俺がついているから大丈夫」
ザックが少し顔を傾けてキスを仕掛けた時だった。
「おい、おい、おい。何でキスしようとしてるんだ」
気が付くとノアが座っているザックの後ろに回り込んでいた。
ザックの首の辺りの後れ毛を掴んで、後ろに引っ張る。
「イテッ、引っ張るな。元気づけようとしただけじゃねぇか」
ザックが後ろに引っ張られ、顎を上げて抵抗する。最後はブチッと音を立てて、ノアは数本のザックの後れ毛を抜いた。
「ギャァ」
「ドサクサに紛れて、本当にお前はどうしょうもないな。二人で盛り上がるのは後からだろう」
鼻息も荒くノアは吐き捨てる様に言うと、ザックの抜けた後れ毛を払った。
思わずザックのキスを受け入れようとした自分が途端に恥ずかしくなる。ザックってこういうところすぐにその気にさせてしまうし危ないったらない。
「ううっ」
ザックは首の後ろを片手で押さえると涙目で悶絶していた。
ああ、これは喧嘩が始まるかも。どうしよう。
私がザックの腕を握りしめた時だった。
「では、折角なので、僕で実験してみましょう!」
ベッドに横たわるネロさんが手を上げる。
「実験?」
「僕はこう見えて非常に虚弱体質でおっちょこちょいなのです」
ポリポリとほっぺたを照れた様にかく。
「はぁ」
今までのノアとザックのやり取りも全く意に介さず、改めて仕切り直すマイペースさにポカンとなってしまう。
「ネロ。虚弱体質とおっちょこちょいは関係がないだろ」
呆れた様なノアの声が聞こえたが、すぐにネロさんは返す。
「いいえ、昔から魔法の能力が強いばかりに、虚弱体質気味の僕は本当に苦労しているんです! 虚弱体質だからこうやって腰も悪くしますし、食事も食べ損ねてしまいます。更に、どんくさいのもあって、すぐにこの様に机の角にぶつけるんです」
おっちょこちょいの話は何処へ行ったのか。
虚弱体質だから腰が悪いのは分かったが、食事を食べ損ねるのは別の話なのでは? 迷走する会話だ。
ネロさんは私に向かって右手の甲を見せた。すると机の角にぶつけた割には直径五センチほどの青くなった内出血が広がっている。かなり痛そうだ。
「うわぁ。ネロの部屋で派手に手をぶつけていたと思ったが、もうそんな青タンになってんのか?」
ザックが驚いて声を上げる。どうやら先ほどぶつけたばかりらしい。
「これをナツミさんに治してもらえないかと思いまして!」
「ええ~そんな、無茶な」
私は呆れた様な声を上げる。だって、医療系の魔法なんて知らないし、もし備わっていてもどうやって使うのそんなの。
何の術も知らない私は途方に暮れる。
「まぁまぁ、こっちへ来てください! 試してみましょうよ」
横になりつつも鼻息が荒いネロさんが手招きをする。
私は隣のザックを見上げる。ザックも困った様に笑いながら、私を立たせてネロさんの寝るベッドの側に促してくれた。
ネロさんの横たわるベッドの側で私は跪く。
ネロさんはベッドの上で改めて、仰向けになって両手を胸の上に組んだ。
右手の甲の内出血はかなり痛そうだ。
近づいて分かったが、非常にネロさんは体の線が細い。同じ軍人とはいえ、ノアやザック達と比べると全くの真逆だ。首回りも細く白衣とシャツの下に覗く鎖骨が浮き出ている。胸の上で組まれた両手は男性らしく大きいが、指の節々がはっきりするほど細い。
肌は透き通るほど白く、ノアと同じプラチナブロンドだが、髪の毛はボサボサで、無造作に一つに縛られている。頬はカサついており、目の下もくぼんでいる様に見える。
一言で言えば、病人にも見える。とても軍人らしくない。
「今、軍人らしくないと思ったでしょう?」
「えっ。そ、そうですね。凄く痩せてるのでビックリしました」
私は正直に話す。
「ふふ。大変正直ですね。魔法部隊に属する者は僕の様に痩せていて、筋力も体力もあまりない。全て解明されていませんが魔法が使える分、体の力が奪われる様です。軍人らしくなくておかしいでしょう?」
「おかしくはないですが、あまりに痩せすぎだと心配になります」
そっと触れた二の腕は骨こそ男性の様に太いが、肉感をあまり受けない。
「優しいですねぇ~ナツミさんは。では、始めましょう。まず、その、マリンさんを助けた時と同じ様に、僕にしてもらえますか。海から上がってどうしましたか?」
銀縁眼鏡の向こうの瞳が閉じられる。何だか棺桶に入った人みたいだ。
「はい。まず海から海岸に来て、心肺蘇生として心臓マッサージと人工呼吸を」
「はいっ! ではお願いします」
「え」
「同じ様にお願いします! 心臓マッサージの後に人工呼吸とやらを」
ネロさんが目を閉じたまま、頬を赤く染める。口をタコの様に尖らせる。
これはセクハラなのでは。
「調子にのるなっ!」
ザックが私の隣に来てネロさんの手の甲を、しかも怪我をしている内出血の部分を抓った。
「痛いっ! ザック、酷い」
ネロさんはベッドの上で少しバウンドすると、涙目で抓られた手の甲をさする。
「この変態野郎が」
ザックがベッドに横たわるネロさんを上から睨みつけるが、ネロさんは何処吹く風だ。
「いやだなぁ~男はみんな変態だよ? ザックもあんまり変わらないでしょ。僕と同じで」
全く懲りていない様子。
「話が脱線しているぞ。早くしろ」
しびれを切らしたノアもザックの隣に並び溜め息をついた。
「もうノアはせっかちだなぁ。では、ナツミさん僕の手の甲に触れてください。そして、治れ~治れ~と念じてもらえますか?」
ネロさんは内出血している手の甲を私に差し出す。
そんな事をしても無駄だと思うけれど。だって私は魔法なんて知らない。
しかし、ネロさんはやらないと許してくれそうにない。
ひとまず効果が現れなければ諦めてくれるだろうか。
私は跪いたままネロさんの内出血になった手の甲を両手で押さえる。
骨張った手の甲で肉はあまりついていない。
女性並みに細い指に驚きつつ私は唸ってみせる。
「えーと、治れ~治れ~」
目を閉じてそれっぽく唸ってみせる。
全く治る様な気がしない。
治らなかったら、どうしたら良いのだろうこの雰囲気。
一抹の不安を覚える。
「うん、うん」
ネロさんが横になったまま満面の笑みで嬉しそうにしている。
数十秒経ってから私は両手を放した。
ネロさんは覗き込んでいるノアやザックの前に内出血していた手の甲を見せる。
「ほら! 見て、治って」
「ないな」
ノアが鋭い瞳を細くして、ネロさんの治っていない内出血を見つめていた。
「ええっ? そんなはずは──あれ?」
ネロさんが自分の手の甲を見て、一生懸命こすってみるが、やはり治ってはいなかった。
「何だ、ネロの読みは外れか」
ザックも覗き込んでヤレヤレと溜め息をついた。
「そうですよ。だって私の国ではそんな魔法なんてないですから」
少し期待した自分が恥ずかしかった。
もしかして治せるなんて奇跡的な事があったら……とも思わなかった訳ではないけれど。
恥ずかしくなって頬を赤くした。
「いいえ! そんなはずはないです! やはりここは全てを正しく再現しなければ!」
「きゃぁ!」
私はネロさんに抱きつかれた。
「さぁ、先ずは人工呼吸を……熱く僕と……」
そう言いながらネロさんは私の唇に自分のソレを重ねようとした。
熱く人工呼吸をかわした覚えは全くないのに。
それにしても油断していた。確かに線は細いが驚くほど強い力で引き寄せられる。
体は恐ろしく細いし腕の節々の骨も角張っているが、やはり男性なのだ。
肩幅も広くて驚かされる。
しかし、ネロさんはザックに襟首を掴んでベッドに引き戻される。
「この野郎!」
ザックが力一杯引き戻したせいで、ネロさんはベッドの上で体がバウンドした。
その時、ゴキッという音を聞いた様な。聞かなかった様な。
「ギャァ。腰がっ!」
海老反りになってネロさんは涙目で悶絶している。
「冗談も程々にしろっ。それに、そんなに力入れてねぇよ」
確かにザックはソフトな感じだったが、なんせ虚弱体質のネロさんの事だし。あんなに痛がっていた腰だから心配だ。
「ネロさん、ネロさん!」
私は慌てて悶絶するネロさん腰を片手でさすった。
「ううっ、痛い、痛い~」
泣き笑いの様な声を上げている。痛すぎて笑えるというヤツだろうか。
「確かに腰は昔から悪いんだ。ナツミ、大丈夫だから少し時間を置けば落ち着く。ちょっとネロは演技するところがあってな」
ノアもネロさんの様子を見ながら、腕を組んでいた。
こんなに信じてもらえないのも可哀相になってくる……
「でも……」
私は心配でネロさんの腰を両手で押さえた。
すると、突然私の手がぼんやり金色に光り、掌とネロさんの腰の辺りが少し熱を帯びた様に感じた。
あっ、この感じ。マリンを海で助けた時を同じだ。
そう思ったら、私は腰を抜かす様にその場に座り込んだ。
慌てたのはザックだった。
隣から私を抱え込むと、後ろに倒れ込むのを抱きしめて止めてくれた。
「ナツミ?!」
突然力が抜けた私を抱き留めたザックが驚いた声を上げる。
「お……」
私は思わず胃の部分を押さえる。これはもしや……
その時、ベッドの上で悶絶していたネロさんが飛び起きる。
まるでゴムまりの様にビヨンと飛び起き、ベッドの上で仁王立ちになる。
「わぁ!」
近くで覗き込んでいたノアが驚いて尻餅をついた。
ネロさんはベッドの上でバウンドした事により、銀縁眼鏡が鼻の下までずり落ちていた。
しかしそんな事は全く気にせず、両手を天に向けてバンザイをする。
「治りましたっ! 僕の腰が! 長年に亘りギックリとなる腰が!」
「えええっ?!」
これにはノア、ザック、マリン、ジルさんみんなが目を丸くした。
そして私は──
『ぐぅ~』
「え?」
ザックが私を抱きしめたまま、不思議そうに覗き込んだ。
「お、お腹が減りました……」
私は一気に減った胃をさすりながら情けない声を上げた。
「はぁ?!」
ザックの声と私のお腹が再び『ぐぅ~』っと鳴った。
「ややっ! もしかして、僕の腰を治した事でお腹が減ったのでは?! これは大発見ですよ。治す代償はやっぱり体力とは。しかし凄い、これだけの病を治してお腹が減るだけとは!」
ネロさんがベッドの上で小さくジャンプをくり部屋から返す。
「ええっ……何なのそれ。と、とにかくダンを呼ばないと! ダン! 食事の用意をお願い!」
ジルさんが慌てて部屋から駆け出した。
そんな、お腹が減る魔法なんて!
『ぐぅ~』
私は恥ずかしくて真っ赤になりながら、呟く代わりにお腹をならした。
私は隣に座るザックの手の温かさを感じながら、自分の胸を押さえた。
「ナツミの側に俺もいる事を忘れるなよ」
ザックが私の耳元で囁いてくれた。
「うん」
ザックの優しい言葉に嬉しくて頷く。
ジルさんも、ノアも、マリンも微笑んでくれている中で、鼻をすすりながらの涙声が聞こえた。
「グスッ。僕もとても素敵なナツミさんに会えて本当に嬉しいです」
ネロさんが涙ぐみながらベッドで横たわっていた。銀縁眼鏡の奥の濃いブルーの瞳が潤んでいる。
「はぁ。ありがとうございます」
感激してくれるのは嬉しいが、ネロさんとは初対面のはず。そもそも、ノアやザック達とどういう関係なのかな。ジルさんも知っている様だし。
「何でネロが嬉しがるんだよ」
ザックがテーブルに身を乗り出しながら、奥に横たわるネロさんを睨みつける。
まるで私をネロさんの視界から遮る様にして。
「あれ? そういう感動シーンなのかと思ったんだけど違った? 僕も乗っかってみただけなのに」
「あのなぁ、自ら推論を立てておきながら乗っかってみるて」
訳が分からないといった様子でノアが、壁に背をあずけたままこめかみを押さえた。
「まぁ、まぁ。それより、ジルさんに重要な事をお伝えしたいと思っていたんだよ~」
全く雰囲気の掴めないネロさんが涙を拭いながら、人差し指を立てた。
「重要な事?」
ジルさんが体をねじって、後ろに寝ていたネロさんに視線を送った。
「そうだなぁ、先ずは何処から話したらいいかな。うーん。ノアとザックが『オーガの店』に何故入り浸っていたのか、から話した方が良さそうだよね? ね、ノア、ザック?」
ネロさんがノアとザックに話をする様に促した。
「ああ、そうだな……」
ノアが改めてジルさんに向き直り、話し始めた。
ノアとザックの話は驚く事ばかりだった。
ノアの異母兄弟である一番上の兄さんで、アルさんが次のファルの領主を狙っている。しかし、どうやら周囲の人達はノアが領主になるべきだと考えている。
ノアには全くその気がないのだが、アルさんはノアに敵対心を燃やしている。これは昔からで、兄弟は何かにつけて比べられる。その為、アルさんはノアに対して風当たりが強い。やがてアルさんはノアの命まで狙う様になっていた。
アルさんは自分の財力を上げる為に、どうも奴隷売買に関わっている様でその中心なのが『オーガの店』らしい。
『オーガの店』は『ジルの店』と人気を二分する、公的に認められている酒場併設の宿屋だ。大抵の軍人達は一カ所お気に入りの常宿を決める事が多い。ノアとザックのお気に入りの常宿が『ジルの店』である様に、アルさんの常宿が『オーガの店』だそうだ。
ノアの命まで狙うというアルさんの行動を止めさせる為に、ノアとザックは『オーガの店』に潜入していた。常宿を『オーガの店』に変えた様に見て、内部から情報を得ようとしたのだ。
しかし、その隙をついて狙われたのがノアの恋人であるマリンだった。ノアの命は簡単に奪えない。だからその矛先を恋人に向けたアルさんは『ジルの店』に潜入させていた従業員を使ってマリンを毒殺しようと実行。マリンの食事に毒を少しずつ盛っていたらしい。最後に毒に犯されて体が弱っていたマリンを海に突き落として殺害しようとしたそうだ。それは私がちょうど助けた事になるが。
また、毒を盛った犯人は、捕まったものアルさんとの関係を白状させる前に牢屋内で毒殺されてしまったそうだ。
全てを無言で聞いていたジルさんは、最後に大きな溜め息をついた。
「毒を盛った従業員は最初からアルに従っていた訳ではないのかもね。途中からお金で買収されたと思うわ。だって、雇う時に大抵カンが働いて分かるはずなんだけど。とはいえ、マリンを危ない目にあわせたのは、私やダンの責任っていう事にもなるのね」
自嘲する様な微笑みを浮かべていた。
「いや、これは俺が巻き込んだものだ。ジルがそんなに自分を責める必要は」
「にしても、腹が立つ。アルのヤツ! 吊し上げてやらないと気が済まない」
ノアがジルさんを慰める言葉をかけた時だった。ジルさんの地の底から響く様な低いハスキーな声が響いた。眉を吊り上げジルさんの濃いパープルの瞳が獲物を狙う様に鋭かった。
「……そ、そうだな」
ジルさんの迫力に、ノアも言葉を失う。そんな中ノアは座るマリンの肩に手を置き何度か撫でた。
「マリン。済まなかった俺のせいで酷い目にあわせて。ずっと、体調が悪かったのは毒のせいだったんだ」
「大丈夫よ。もちろん、驚いたけど。私こそ、もっと気をつける様にするわ」
置かれた手に自分の手を添えると、マリンは見上げてノアに笑いかけた。
「ダンにも悪い事をしたな」
ザックがテーブルの中央を見つめながら、誰に言う訳でもなく呟いた。
「そうね少しダンも落ち込むかもしれないけど。今後の事もあるから食事の管理も考えないとね」
ジルさんが頷きながら、足を組み直した。
「ところで、ナツミさんの国には魔法がないとの事でしたが」
ネロさんが横になりながら銀縁眼鏡のブリッジを上げた。
「そうですけど」
私は答えながら、ネロさんの頭からつま先まで行ったり来たり、ジロジロ見てしまった。
まさか、ネロさんが話題の人であるアルさんと、兄弟だなんて驚くばかりだ。
しかも、ノアのお兄さんでもあるとは。
アルさんが長男で、次男がネロさん、そしてノアか。強烈な三人兄弟といったところだ。
「僕の分析では、マリンさんの現状の健康状態は溺れる前と比べると非常に良好です。これは、誰かがマリンさんの毒を解毒してくれたと考えています」
「はい」
「僕はその解毒をしてくれたのがナツミさん、あなたではないかと考えています」
「え、私が?」
私は驚いて声を上げる。
解毒ってどうやってするの。全く身に覚えがない。
「そうですよ~。あっ、僕は軍の魔法部隊にも属している者でして。日々、医療魔法について研究や実践を行っているんですが、マリンさんの血液を調べた結果その様な結論に至りまして」
「医療魔法って。私はそんな事出来ませんよ」
私はネロさんの結論に驚き思わず隣に座っていたザックを見上げる。
ザックは私の頭をポンポンと叩く。
「大丈夫だから、落ち着け。これはネロの推測でしかない。それにそうだとしてもナツミをどうこうする事はないから、安心しろ」
ザックは瞳を細め頭に置いた手をそのままスルリと頬まで落とし、親指で頬を撫でてくれた。
「う、うん」
何だかとても心強い。
ザックはゆっくり顔を近づけて私を勇気づける様に優しく囁く。
「ナツミが溺れたマリンを救ってくれたのはお前の知識なのは分かっている。だが、望む望まない関係なくファルの町がお前を必要としているなら、この世界に来た事で、新たな力が備わったのかもしれない」
「そんな事あるかな?」
私はザックの濃いグリーンの瞳を覗き込みながら困った様に首を傾げた。
「ああ、俺がついているから大丈夫」
ザックが少し顔を傾けてキスを仕掛けた時だった。
「おい、おい、おい。何でキスしようとしてるんだ」
気が付くとノアが座っているザックの後ろに回り込んでいた。
ザックの首の辺りの後れ毛を掴んで、後ろに引っ張る。
「イテッ、引っ張るな。元気づけようとしただけじゃねぇか」
ザックが後ろに引っ張られ、顎を上げて抵抗する。最後はブチッと音を立てて、ノアは数本のザックの後れ毛を抜いた。
「ギャァ」
「ドサクサに紛れて、本当にお前はどうしょうもないな。二人で盛り上がるのは後からだろう」
鼻息も荒くノアは吐き捨てる様に言うと、ザックの抜けた後れ毛を払った。
思わずザックのキスを受け入れようとした自分が途端に恥ずかしくなる。ザックってこういうところすぐにその気にさせてしまうし危ないったらない。
「ううっ」
ザックは首の後ろを片手で押さえると涙目で悶絶していた。
ああ、これは喧嘩が始まるかも。どうしよう。
私がザックの腕を握りしめた時だった。
「では、折角なので、僕で実験してみましょう!」
ベッドに横たわるネロさんが手を上げる。
「実験?」
「僕はこう見えて非常に虚弱体質でおっちょこちょいなのです」
ポリポリとほっぺたを照れた様にかく。
「はぁ」
今までのノアとザックのやり取りも全く意に介さず、改めて仕切り直すマイペースさにポカンとなってしまう。
「ネロ。虚弱体質とおっちょこちょいは関係がないだろ」
呆れた様なノアの声が聞こえたが、すぐにネロさんは返す。
「いいえ、昔から魔法の能力が強いばかりに、虚弱体質気味の僕は本当に苦労しているんです! 虚弱体質だからこうやって腰も悪くしますし、食事も食べ損ねてしまいます。更に、どんくさいのもあって、すぐにこの様に机の角にぶつけるんです」
おっちょこちょいの話は何処へ行ったのか。
虚弱体質だから腰が悪いのは分かったが、食事を食べ損ねるのは別の話なのでは? 迷走する会話だ。
ネロさんは私に向かって右手の甲を見せた。すると机の角にぶつけた割には直径五センチほどの青くなった内出血が広がっている。かなり痛そうだ。
「うわぁ。ネロの部屋で派手に手をぶつけていたと思ったが、もうそんな青タンになってんのか?」
ザックが驚いて声を上げる。どうやら先ほどぶつけたばかりらしい。
「これをナツミさんに治してもらえないかと思いまして!」
「ええ~そんな、無茶な」
私は呆れた様な声を上げる。だって、医療系の魔法なんて知らないし、もし備わっていてもどうやって使うのそんなの。
何の術も知らない私は途方に暮れる。
「まぁまぁ、こっちへ来てください! 試してみましょうよ」
横になりつつも鼻息が荒いネロさんが手招きをする。
私は隣のザックを見上げる。ザックも困った様に笑いながら、私を立たせてネロさんの寝るベッドの側に促してくれた。
ネロさんの横たわるベッドの側で私は跪く。
ネロさんはベッドの上で改めて、仰向けになって両手を胸の上に組んだ。
右手の甲の内出血はかなり痛そうだ。
近づいて分かったが、非常にネロさんは体の線が細い。同じ軍人とはいえ、ノアやザック達と比べると全くの真逆だ。首回りも細く白衣とシャツの下に覗く鎖骨が浮き出ている。胸の上で組まれた両手は男性らしく大きいが、指の節々がはっきりするほど細い。
肌は透き通るほど白く、ノアと同じプラチナブロンドだが、髪の毛はボサボサで、無造作に一つに縛られている。頬はカサついており、目の下もくぼんでいる様に見える。
一言で言えば、病人にも見える。とても軍人らしくない。
「今、軍人らしくないと思ったでしょう?」
「えっ。そ、そうですね。凄く痩せてるのでビックリしました」
私は正直に話す。
「ふふ。大変正直ですね。魔法部隊に属する者は僕の様に痩せていて、筋力も体力もあまりない。全て解明されていませんが魔法が使える分、体の力が奪われる様です。軍人らしくなくておかしいでしょう?」
「おかしくはないですが、あまりに痩せすぎだと心配になります」
そっと触れた二の腕は骨こそ男性の様に太いが、肉感をあまり受けない。
「優しいですねぇ~ナツミさんは。では、始めましょう。まず、その、マリンさんを助けた時と同じ様に、僕にしてもらえますか。海から上がってどうしましたか?」
銀縁眼鏡の向こうの瞳が閉じられる。何だか棺桶に入った人みたいだ。
「はい。まず海から海岸に来て、心肺蘇生として心臓マッサージと人工呼吸を」
「はいっ! ではお願いします」
「え」
「同じ様にお願いします! 心臓マッサージの後に人工呼吸とやらを」
ネロさんが目を閉じたまま、頬を赤く染める。口をタコの様に尖らせる。
これはセクハラなのでは。
「調子にのるなっ!」
ザックが私の隣に来てネロさんの手の甲を、しかも怪我をしている内出血の部分を抓った。
「痛いっ! ザック、酷い」
ネロさんはベッドの上で少しバウンドすると、涙目で抓られた手の甲をさする。
「この変態野郎が」
ザックがベッドに横たわるネロさんを上から睨みつけるが、ネロさんは何処吹く風だ。
「いやだなぁ~男はみんな変態だよ? ザックもあんまり変わらないでしょ。僕と同じで」
全く懲りていない様子。
「話が脱線しているぞ。早くしろ」
しびれを切らしたノアもザックの隣に並び溜め息をついた。
「もうノアはせっかちだなぁ。では、ナツミさん僕の手の甲に触れてください。そして、治れ~治れ~と念じてもらえますか?」
ネロさんは内出血している手の甲を私に差し出す。
そんな事をしても無駄だと思うけれど。だって私は魔法なんて知らない。
しかし、ネロさんはやらないと許してくれそうにない。
ひとまず効果が現れなければ諦めてくれるだろうか。
私は跪いたままネロさんの内出血になった手の甲を両手で押さえる。
骨張った手の甲で肉はあまりついていない。
女性並みに細い指に驚きつつ私は唸ってみせる。
「えーと、治れ~治れ~」
目を閉じてそれっぽく唸ってみせる。
全く治る様な気がしない。
治らなかったら、どうしたら良いのだろうこの雰囲気。
一抹の不安を覚える。
「うん、うん」
ネロさんが横になったまま満面の笑みで嬉しそうにしている。
数十秒経ってから私は両手を放した。
ネロさんは覗き込んでいるノアやザックの前に内出血していた手の甲を見せる。
「ほら! 見て、治って」
「ないな」
ノアが鋭い瞳を細くして、ネロさんの治っていない内出血を見つめていた。
「ええっ? そんなはずは──あれ?」
ネロさんが自分の手の甲を見て、一生懸命こすってみるが、やはり治ってはいなかった。
「何だ、ネロの読みは外れか」
ザックも覗き込んでヤレヤレと溜め息をついた。
「そうですよ。だって私の国ではそんな魔法なんてないですから」
少し期待した自分が恥ずかしかった。
もしかして治せるなんて奇跡的な事があったら……とも思わなかった訳ではないけれど。
恥ずかしくなって頬を赤くした。
「いいえ! そんなはずはないです! やはりここは全てを正しく再現しなければ!」
「きゃぁ!」
私はネロさんに抱きつかれた。
「さぁ、先ずは人工呼吸を……熱く僕と……」
そう言いながらネロさんは私の唇に自分のソレを重ねようとした。
熱く人工呼吸をかわした覚えは全くないのに。
それにしても油断していた。確かに線は細いが驚くほど強い力で引き寄せられる。
体は恐ろしく細いし腕の節々の骨も角張っているが、やはり男性なのだ。
肩幅も広くて驚かされる。
しかし、ネロさんはザックに襟首を掴んでベッドに引き戻される。
「この野郎!」
ザックが力一杯引き戻したせいで、ネロさんはベッドの上で体がバウンドした。
その時、ゴキッという音を聞いた様な。聞かなかった様な。
「ギャァ。腰がっ!」
海老反りになってネロさんは涙目で悶絶している。
「冗談も程々にしろっ。それに、そんなに力入れてねぇよ」
確かにザックはソフトな感じだったが、なんせ虚弱体質のネロさんの事だし。あんなに痛がっていた腰だから心配だ。
「ネロさん、ネロさん!」
私は慌てて悶絶するネロさん腰を片手でさすった。
「ううっ、痛い、痛い~」
泣き笑いの様な声を上げている。痛すぎて笑えるというヤツだろうか。
「確かに腰は昔から悪いんだ。ナツミ、大丈夫だから少し時間を置けば落ち着く。ちょっとネロは演技するところがあってな」
ノアもネロさんの様子を見ながら、腕を組んでいた。
こんなに信じてもらえないのも可哀相になってくる……
「でも……」
私は心配でネロさんの腰を両手で押さえた。
すると、突然私の手がぼんやり金色に光り、掌とネロさんの腰の辺りが少し熱を帯びた様に感じた。
あっ、この感じ。マリンを海で助けた時を同じだ。
そう思ったら、私は腰を抜かす様にその場に座り込んだ。
慌てたのはザックだった。
隣から私を抱え込むと、後ろに倒れ込むのを抱きしめて止めてくれた。
「ナツミ?!」
突然力が抜けた私を抱き留めたザックが驚いた声を上げる。
「お……」
私は思わず胃の部分を押さえる。これはもしや……
その時、ベッドの上で悶絶していたネロさんが飛び起きる。
まるでゴムまりの様にビヨンと飛び起き、ベッドの上で仁王立ちになる。
「わぁ!」
近くで覗き込んでいたノアが驚いて尻餅をついた。
ネロさんはベッドの上でバウンドした事により、銀縁眼鏡が鼻の下までずり落ちていた。
しかしそんな事は全く気にせず、両手を天に向けてバンザイをする。
「治りましたっ! 僕の腰が! 長年に亘りギックリとなる腰が!」
「えええっ?!」
これにはノア、ザック、マリン、ジルさんみんなが目を丸くした。
そして私は──
『ぐぅ~』
「え?」
ザックが私を抱きしめたまま、不思議そうに覗き込んだ。
「お、お腹が減りました……」
私は一気に減った胃をさすりながら情けない声を上げた。
「はぁ?!」
ザックの声と私のお腹が再び『ぐぅ~』っと鳴った。
「ややっ! もしかして、僕の腰を治した事でお腹が減ったのでは?! これは大発見ですよ。治す代償はやっぱり体力とは。しかし凄い、これだけの病を治してお腹が減るだけとは!」
ネロさんがベッドの上で小さくジャンプをくり部屋から返す。
「ええっ……何なのそれ。と、とにかくダンを呼ばないと! ダン! 食事の用意をお願い!」
ジルさんが慌てて部屋から駆け出した。
そんな、お腹が減る魔法なんて!
『ぐぅ~』
私は恥ずかしくて真っ赤になりながら、呟く代わりにお腹をならした。
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