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029 溺れる

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 あっ、いい風。

 微睡みながら頬を撫でる風を感じた。気持ちがいい。十五分ぐらい眠ったら大分スッキリするかな。そう思い意識を手放そうとした時だった。

 バンッ! と大きな音を立てて、中庭に通じる渡り廊下のドアが開いた。

 中庭に大きく響いたその音に、噴水の縁でうたた寝していた私は驚いてバランスを崩す。
 もう少しで前回のダンさんに驚いた様に、噴水内に着地してしまうところだった。
 しかし、噴水の外に尻餅をつく。
「痛っ。ビックリした。え? な、何?」
 中庭のドア付近を見ると、肩で大きく息をするノアがいた。
「ノア?」
 ノアはこちらを見るなり、大きなスライドで駆けて来た。
「ナツミ!」
「は、はい!」
 大声で名前を呼ばれ、慌てて起き上がり姿勢を正す。

 ズンズン近づいているノアの顔は明らかに怒っており、アイスブルーの瞳がつり上がっている。突き刺さる様な視線に動けず噴水の真横で固まってしまう。ノアは私の前で止まると両手で私のシャツの襟元を締め上げる。

「な、何? 苦しいっ」
 上に引きあげられ、つま先立ちになる。
 苦しい中視線を上げると、ノアの顔が目の前に広がる。美しい顔が怒りで歪んでいる。

「……ザックに何をした?」
 王子様の様な雰囲気や声色は全くない。
 腹の底から響いてくる様な低い声に震え上がる。

「何って」
 ノアってこんなに怖かった?
 これじゃぁ、ヤンキー風ザックといい勝負だ。

 何をしたって言われても、むしろ昨晩何かされたのはこちらな様な気がするけれど。

「どうして一晩でザックがあんなクネクネになるんだ!」
「クネクネ……」
 確かにクネクネしていたかもしれない。スキップしながら出ていったって聞いたし。
「しかも、すっかりお前に骨抜きにされた様子で、お前の言う事を全て信じて、嘘は言わないとか言い出す始末だ!」
「そ、それは」
 約束をしてくれたからであって。そう告げようと、言葉を発しようとするが首を締め上げられ声が出ない。

 苦しい。誰か助けて!

 締め上げられて息が絶え絶えになった時、聞き覚えのある声が響いた。

「ノア! やめろ!」
 ザックが中庭に飛び込んできた。大きな声を上げて、駆け寄ってくるのがノアの肩越しに見える。

「チッ。ザックめ。ネロを任せたのにもう来やがったか」
 舌打ちをするノアが横目でザックを捉える。

 ひどく乱暴な言葉遣いだ。ノアの王子様像が音を立てて崩れる。

「何が任せただっ。ネロが益々腰を悪くするだろっ! 勝手な事をしやがって、腕を放せこの野郎!」
 ノアの呼び名がこの野郎になってしまうぐらい、ザックは怒っている。
 ザックはあっという間にノアとの間合いを詰める。
 私を締め上げていた両手をいとも簡単に振り払い、私とノアの間に割って入る。
「かはっ。い、息が、はぁ」
 息が出来る様になりザックの後ろに庇われながら、腰を抜かす様に座り込む。
「大丈夫か? ナツミ」
 後ろの私は振り向かないままザックが声をかけてくれる。
「ウン、だいじょう、ゲホッ、ゴホ」
 急激に息を吸ったせいで大きくむせかえってしまう。

 むせかえった声を聞いてザックが恐ろしく低い声を上げた。
「てめぇ……許さねぇ」
 ゴチンと音を立てて、ザックがノアのおでこに自分の頭を打ちつける。頭突きだ。
 しかし、呻く事なく二人はそのまま、おでこをつけ視線を逸らさずお互いを睨みつける。
 お互いが首元を締め上げる。

 仲の良さそうな二人だが、とてもそんな雰囲気ではない。

「俺はな「監視しろ」と言ったんだ。何処の誰だか分からない様な奴に、骨抜きにされて逆に情報を流すとか……どういう事だ!」
 ノアがザックの締め上げた首元を上下に揺さぶる。しかし、ザックは全く動じない。

「骨抜きにされたんじゃねぇ! 俺が自分の意志でナツミといるんだ。そんなに気に入らなければ、俺ごと監視すればいいだろ!」
 ザックもノアの首元を締め上げ前後に揺さぶる。力だけなら体が少し大きいザックに分がありそうだが──、すぐにバランスを立て直すノアだった。

 ああ、そうか。
 私の事を間諜ではないかと疑っているノア。
 それなのに、仲間だと思っていたザックが突然ノアを無視して私を監視するどころか、受け入れる事にしたのが気に入らないのだろう。
 ノアからしたらザックの行動が突然の裏切りに見えるはずだ。
 更に私は『ジルの店』でマリンと寝食を共にしているのだから気になるのは当たり前だ。

 このままではいけない。ちゃんと自分の事を話そうと、立ち上がった時だった。

 ノアが腕を外しザックに殴りかかろうと仕掛けた。
「この、ザック! いつも言う事を聞かないで──」
「うるっせぇ。何での言う事を聞かないといけないんだよ!」
 ザックが首をねじって、ノアのパンチを顔すれすれでかわした時だった──

「あ」
「あ」
「あっ!」

 私、ザック、ノアの順番で叫んだ。

 パンチをかわされバランスを崩したノアの先には噴水があり、踏ん張ったのも空しく背中から飛沫を上げて噴水に落ち込んだ。

「ぶはっ」
 背中を打ちつけ頭から噴水の水を被り、蓮の様なピンクの花と水草を蹴散らす。

「あっ、やべぇ!」
 声を上げたのはザックだった。
 先ほどの喧嘩している怖い顔から一転、口元を押さえて慌てる。
「え、やばいって?」
 何が? 見ると必死な顔をしてノアが噴水の水の中で両手と両足をばたつかせている。
「ヒッ! 水! 溺れる!」

「え、溺れる?」
  私は暢気な声を上げてザックとノアを見比べる。

「ああ、実はノア泳げなくて、くそっ、ノアっ! 大丈夫か」
「泳げない……」
 ザックが慌ててノアを掴んで引きあげようとするが、ノアが慌てすぎて上手く腕を掴めない。ノアの青い顔で必死な形相が水しぶきの間から見え隠れする。

「た、助け……」
 ノアの掠れた声が聞こえる。

 思わず私は──
「そこ足つくよ?」

「え」
 私の一声にノアは、両手両足でばたつくを止め、大人しくなる。

 ノアは噴水の中に長い足を折り曲げ尻餅をつき、水草と一緒に浮いている。

「何だ……足、つくんじゃねぇか……」
 ザックがヘナヘナのその場に腰を落とし、股を大きく広げてへたり込む。

「くっ、畜生!」
 ノアが青い顔から一転、今度は顔を真っ赤にして水面を叩く。ノアに寄り添う様に近寄ってきた水草を握りしめ悔しそうに呻いた。

「はぁ、驚いた……もう、そもそも、こんな小さな噴水じゃ溺れないよ? 普通は」
 私もザックの横でへたり込む。
「大丈夫か?」
 ザックが私の首回りを撫でて、何の痕もついていない事を確かめる。
「はぁ、大丈夫な様だな」
「うん。大丈夫だよ。でも……驚いたって言うか……」
 私は下から噴水の水でずぶ濡れになったノアを見上げる。

 ノアは顔を真っ赤にしたまま、私とザックに視線を移す。アイスブルーの瞳が不安そうに揺れいていた。

 そんなに水が怖いのか……しかし、諦めがついたのか、水を被って少しクールダウンしたのか、自嘲する様な溜め息をついた。

「ノ・ア!」
 ザックがしゃがみ込んだまま名前を呼んだ。
「何だよ」
 ノアが不満そうに声を上げる。
「ナツミに謝れ」
 私の肩を抱きながらザックはひと言告げる。

 ノアは噴水に入ったまま体育座りになり──

「……悪かった。ちょっとやり過ぎた」
 小さな声で謝ってくれた。頭にピンクの蓮の様な花をつけたままで。
 私は思わず吹き出してしまった。
「笑うなっ!」
 ノアの声が上から響くが益々止まらない。
「ふふ、ごめん。で、でも……へへ、あはは」
「フッ、ハハハ」
 私の隣のザックもとうとう笑い出してしまった。

「ザック! ノア! どうしたのよ~」
 中庭に雪崩れ込んでくるマリン、ミラ、ジルさん、そしてダンさんの声が遠くから聞こえた。
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