北の屍王

伊賀谷

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第一章

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 八十八の一刀は空を斬った。
「ちっ」
 木の板を引っ搔く音。上の方だ。
 八十八は振り向いて、数瞬呆然となった。
「なんだい、ありゃあ」
 男は天井に張り付いていた。天井に手と足の爪を食い込ませて。張り付いてから少し後方に滑ったのか天井に幾本もの引っ搔き傷が走っている。
 それより八十八を驚かせたのは男の体が下を向いていることだ。手足があらぬ方向に曲がって天井に張り付いているのであった。
「そうかい。おまえが下手人だな」
 八十八は土方歳三からここ最近箱館で発生している殺しについて探索する密命を受けていた。その殺しは人間にはできないような無残な亡骸なきがらを残していたという。
 天井の男は耳まで裂けた口を大きく開いている。赤い空洞に犬狼のごとく二本の鋭い牙が生えていた。涎が床に落ちていく。
「間違いねえな。化物め」
 鼓舞するべく己に言い聞かせた。これまで数々の死地をくぐり抜けて来たおかげで取り乱さずにはいられる。八十八は深く呼吸をして刀を構え直した。
 ――斬れるのか。
 勝負は高い位置にいる方が有利だ。しかも相手は天井に張り付くことができるほどの膂力りょりょくがある化物。
 八十八は真上にいる相手を斬る剣術を知らない。
 飛び上がって斬りかかっても、相手が移動した場合に空中に浮いている状態では対応ができない。
 ――ならば。
 ここまでの思考は一瞬であった。
 八十八は瞬時にかがんで袴のすそまくりあげる。
 轟音。
 天井の化物の腹に赤い穴が穿たれた。
 絶叫。
 八十八の手には黒鉄くろがねの拳銃、コルト・ネイビーが握られていた。銃口や回転式弾倉からあがっている硝煙しょうえんの匂いが鼻をつく。
 八十八は右足の脛に拳銃を納める革袋をつねに帯びていた。
 化物が床に落ちた。
「ちえいっ」
 八十八が左手で刀を斬り上げた。化物の右肩が割れて血が噴いた。
 化物は壁、天井、床にでたらめに飛びつきながら玄関の方に退いて行った。
 八十八は拳銃の撃鉄を起こして化物に向けるが狙いが定まらない。白い硝煙がたちこめた廊下を走って化物を追う。
「死なねえのかよ」
 拳銃で撃ち、刀で斬っても化物は力強く動き続けている。
 化物が土間に降りてこちらを向いている。背後の戸は少し開いている。
 上がり框から八十八は化物を見下ろす格好になった。
「島田!」
「はいよ」
 この場に相応しくないのんびりした返事とともに、戸の開いた隙間から太い腕が伸びてきた。化物の着物の襟を握り込む。
「ふん」
 島田が気合とともに戸を破壊しながら化物を見世の外に引っ張り出した。
 柔術の背負い投げで島田が化物を脳天から大地に叩きつけた。
 野次馬たちから驚愕の声が上がる。
「死んだか」
 八十八は見世を出て、立ち上がった島田の横に並んで声をかけた。
 倒れた化物の首が折れ曲がっていた。
「死んだだろう」
 島田は相変わらずおっとりした口調でこたえた。
 しかし――。
 突如、化物は立ち上がり野次馬たちの人だかりを飛び越えて逃げ出した。
「あ!」
 慌てふためいて右往左往する人々が邪魔で、八十八はコルト・ネイビーを撃つことができない。
 見る間に化物は建物の壁を蜘蛛のようによじ登って屋根の向こうに消えていった。
「生きてるじゃねえか」
「だな」
 八十八の憤慨を島田は受け流す。
「奴が土方さんの言っていた下手人に違いねえ。山之上町で仕留めてやる」
「市中見廻りを使うかい」
「何人いる」
「山之上町の見廻りは十四人だ」
「よし。全員で探索しよう」
「はいよ」
 さっそく島田は小走りで去って行く。
「何か分かったら『あさひ屋』に報せをくれ」
 島田の背に八十八は声をかけた。島田はひらひらと手を振った。

 八十八は「あさひ屋」のやなの部屋の布団でうつ伏せに寝転がって煙管を吸っていた。普段から吸う習慣はないが、やなの部屋にいるときだけは時折吸うことがある。今のように考え事をするときが多い。
 やなは三味線の稽古をしている。次の音を探るようにゆっくりと爪弾かれる音色は、八十八にとって心地良い。
 ――わからねえ。
 島田魁と別れたあとに、八十八は「こまつ屋」の者にいろいろと聞いてみた。
 まず下手人は昨夜来た客であったという。これまでも幾たびか訪れていた馴染みの客とのことだ。
 殺された女は見世の遊女で下手人を客にとっていたらしい。男の方は見世で働いていた男だ。
 そして明け方にあの惨状が露わになったという。
 昨夜、遊女は下手人が化物だとは気づかなかったのだろうか。馴染みの客であるというから疑うことはなかったとしてもおかしくはない。もっとも、八十八が最初に見た時も普通の人間に見えたのだから、化物が正体を隠すことは容易なのかもしれない。
 ではなぜ昨夜、いきなり凶行に及んだのか。
 八十八は小さなうなり声とともに煙を吐き出した。
 あの化物。刀で斬っても、首の骨を折っても死ななかった。いや、そもそも最初から死んでいたように見えた。狐狸妖怪こりようかいの類としか思えない。
 ――狐憑きつねつき、か。
 くすり、とやなの笑い声が聞こえた。
「なんだよ」
「山野さんが珍しく真剣に考え込んでいるから」
「いつもは呆けているみたいじゃねえか」
 八十八も微笑んだ。
「でも山野さん、なんだか嬉しそう」
「そうかい」
「うん。いつもは何を考えているのか分からないし――」
 三味線を台に立て掛ける音。
「突然どこかへいなくなってしまいそうだし」
 少し淋しそうなやなの声に振り向こうと、八十八は煙管から灰を落とそうと雁首で煙管盆を叩いた。
「あ」
「どうしたの」
 八十八は仰向けになりながら上半身を起こす。
「ケウェ、って何か知っているか。アイヌの言葉だと思うんだが」
 今朝、「あさひ屋」の前の通りを歩いていた老婆を思い出していた。
「……知らない」
「そうか」
「お見世の人に聞いてみる。誰か知っているかも」
「そうだな。そうしてくれ」
 部屋の外から「ごめんなさいまし」と見世番の男の声がした。
「山野さま。新選組の方がお迎えにいらしております」
「そうか、すぐに行く」
 八十八はそそくさと立ち上がると、刀を腰に差しながら女ものの着物を羽織って襖を開けた。
 部屋を出たところで振り返ると、座ったままのやながこちらを見上げていた。
「また来る」
 やなの微笑みを残して八十八は早歩きで廊下を進んだ。
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