朝敵、まかり通る

伊賀谷

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最終章

疾走

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 森の中から街道に向かって正雪と石松が駆けてくる姿を、お満はみとめた。
 少し前、お満は街道で鉄太郎が戻ってくるのを待っていた。
「お満さまー」
 正雪の声にお満は振り返った。
 市と石松もいた。
「あなたたち、なぜここに」
「水くさいではありませぬか。わたしたちは山岡先生のためには命すら辞さない覚悟」
「山岡さまはそれを承知で、あなたたちの命を守るために――」
 正雪は手を上げてお満の話をさえぎった。
「いやいや。このまま帰れば、わたしたちは次郎長親分に殺されちまいます。それこそ鬼童衆よりも恐ろしい」
 正雪は肩をすくめて身震いした。
「ところで先生は」
 正雪は小手をかざして辺りを見渡す。
 お満は観念した表情を浮かべた。正雪が鉄太郎に追いつく間に起きたことをお満は話した。牙刀院凶念がとういんきょうねんは鉄太郎が倒したことも。
 街道の端から広がる森を指差す。
「あの森の中で鬼童衆の最後の一人、太田垣蓮月おおたがきれんげつと立ち会っています」
「ふむ。ではさっそくわたしたちも」
 正雪たちは森に向かって駆けだした。
「山岡さまは尋常な立ち会いをしています。そして勝って戻ってくると約束しました」
 お満の声に振り向いた正雪は顔を上に向けて少しのあいだ、考える仕草をした。
「わたしたちはやくざもんですから。尋常な立ち会いなどは元より知ったことではありません。つまるところ喧嘩に勝てばいいのです」
 正雪は胸を叩いて明るく笑った。
「お満さま。ここで待っていてください。先生を必ず連れて帰ってきます」

 次郎長の子分三人が消えてからしばらくして、正雪と石松だけが駆けて戻ってきた。いや、石松がぐったりとした鉄太郎を抱きかかえている。
「ああ。山岡さま」
 お満が悲痛な声をあげた。
 鉄太郎の胸にはさらしが巻かれて、正雪が押さえている傷口からは今も赤い血が広がっていた。
「山岡さまは」
 お満は抱きつかんばかりに鉄太郎に近づいた。
「まだ息はあります。この先に府中ふちゅう宿があります。急ぎましょう」
 正雪は石松を連れて駆け出す。
「市さんは」
 お満が森の方を振り返る。
「鬼童衆の太田垣蓮月と立ち会っております」
「そんな……。山岡さまが勝てなかった相手に」
「市は次郎長一家最強の侠客です。わずかでも時間をかせぐことができれば御の字です。さあ――」
 お満はまだ佇んでいる。
「お満さま。わたしたちの使命はなんとしても山岡先生を駿府に送り届けることだということをお忘れなく」
 正雪にしては珍しく厳しい口調であった。
 お満が正雪を見て仕方なくうなずく。
 三人は鉄太郎を連れて街道を府中宿へと向かった。

 蓮月は珍しく、いや初めてと言っていいほどの焦りを感じていた。
 鎖鎌の攻撃は市にことごとく弾かれていた。
 蓮月の攻撃は相手の虚をつく先手を取り、優位に立つことを主眼しゅがんにおいている。
 対して市は生まれついて目が見えないので、相手の攻撃の出方でかたを感じ取ってから反撃する。いわばせんを取る剣術であった。
 蓮月にとって市はやりにくい相手である。
 さらに蓮月には予期せぬことが起きていた。
 ――水鏡が使えない。
 忍法水鏡は現象だけを言うと、時空を捻じ曲げることで相手の攻撃をはね返す忍法。蓮月を斬りつけた刀は己を斬ることになる。
 まさに完全無欠。
 ただ、忍法を発動する条件には相手が蓮月の双眸そうぼうに見入る必要があった。
 この一点において、此度こたびの立ち会い相手である市には水鏡が使えなかった。
 なぜなら、市は盲目であるから――。
 ああ、完全無欠の忍法水鏡は破られた。

 一方、市も四方八方から迫りくる蓮月の鎖鎌をかわすので精一杯であった。
 数度、思い切って間合いを詰めて居合で蓮月に斬りつけてみた。
 だが、刀は蓮月に触れることもできず、代わりに鎌の反撃を受けて傷を負っていた。
 蓮月は恐るべき達人であった。
 山岡鉄太郎が敗れるのもむべなるかな。
 ――どちらか一方の鎌だけでも動きを止めることができれば。
 それには命を捨てることを覚悟しなければならない。
 ――それは元より。山岡先生、生きてください。
 市はこの窮地にあってなお笑みを浮かべた。

 夕七ツ(午後四時)。
 昼間の明るさはなくなり、薄青い空気が漂う世界になりつつあった。
 東海道を四半刻しはんとき(約三〇分)ほど走った四人は府中宿に到着した。
 隠密であるお満は言わずもがな。正雪も必死であったのか意外にも速く駆けた。そして石松にいたっては二十貫(七十五キログラム)はある鉄太郎を負ぶったまま走り切った。
 府中宿――。
 駿河国するがのくにから遠江国とおとうみのくにを通じて最大規模の宿場町としてにぎわっている。
 また、江戸幕府初代将軍、徳川家康とくがわいえやすのお膝元だった町でもあった。
 正雪は中でも上等な宿を借りてきた。
 さっそく鉄太郎を部屋に運びこんで、布団に横たえる。
 お満と正雪が治療にあたる。
 刀で貫かれた傷口を焼酎で丁寧に洗い流した。
 お満が携行している忍び秘伝の軟膏を塗り、真新しいさらしを鉄太郎の体に巻きつけた。
 鉄太郎は青白い顔をして静かに眠っていた。
「これでは山岡さまが駿府に行くことはかないません」
 お満は沈み込んでいる。
 鉄太郎が動けるようになるまでに数日を要するであろう。だが、明日には駿府に到着する必要がある。
 お満が言うように、鉄太郎が約定どおりに駿府に辿り着くことは不可能であった。
「なんの! いざとなれば石松が負ぶってでも先生を駿府までお連れします。お満さまはご安心ください」
「お、お、お!」
 正雪と石松が勇ましい声をあげる。
 その時、お満がゆっくりと立ち上がった。あらぬ方向を見つめている。
「お満さま、どうしました」
「呼んでいる……」
「え」
 お満の脳内に幻の花の香りが蘇る。
 折れ曲がる小路を、幼い頃のお満が何者かに手を引かれていく。
 そしてお満にひれ伏す多くの異形の影……。
「朕を呼ぶのはたれじゃ」
「お満……さま……」
 正雪の声も耳に入らぬように、お満は滑るように部屋を出て行った。
 あまりのことにその姿を呆然として見送った正雪と石松は、じっとお互いの目を合わせた。
「石松、お満さまを追え」
「せ、せ、せ」
「わたしは市の様子を見て来る」
 二人は宿の主人に鉄太郎の面倒をまかせて、それぞれの方向に飛び出して行った。
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