朝敵、まかり通る

伊賀谷

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第四章

妖剣士

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 血飛沫を上げながら倒れた金嶽剛斎かなだけごうさいの背後に、尻もちをついた姿の月ノ輪紅之丞つきのわこうのじょうがいた。
 頭から剛斎の血を浴びていた。
「旧幕府方の勝ち。これで五対三」
 お満が鉄太郎の横に立って、立会人として勝負の結果を宣言した。
「うむ。恐ろしい男だった。おれ一人では勝てなかったかもしれぬ」
 そう言った時に、鉄太郎は倒れた剛斎がわずかに動いたので目を向けた。
 真ん中から断ち割られた剛斎の口が血泡けっほうをこぼしながら動く。
「目覚めよ……紅之丞……、さすればおぬしに勝てる者はおらぬ……」
 紅之丞はよろめくように身体の前に手をつき、片膝立ちになる。
「おい、この青瓢箪あおびょうたんはどうするよ。こいつも鬼童衆の一人だろう」
 五寸釘が近づいて行ってから、鉄太郎たちの方に振り向いた。
「ふうー」
 紅之丞が刀を抜いていた。その刀身は剛斎の血で染まり、赤く光っていた。
 鉄太郎には紅之丞の口から白い呼気が吐き出されたように見えた。
「五寸釘、気をつけろ!」
 思わず声をかける。
 紅之丞が刀を斬り上げた。だが、五寸釘とは二間(三・六メートル)は離れている。
「そんな離れたところで刀を振ってどうするよ。あ、着物に血がかかっちまったじゃねえか」
 五寸釘は着物の左肩のあたりを見ている。
「うっ」
 五寸釘の動きが止まる。
 左肩から鮮血が噴きあがった。
「なにい!」
 五寸釘が崩れるように倒れる。
「てめえ。な、なにをした」
 鉄太郎たちは駆け寄る。
「来ちゃいけねえ。気をつけろ、これは忍法だ」
「なんだと」
 鉄太郎は立ち止まった。
「八瀬忍法紅落花くれないらっか――」
 月ノ輪紅之丞はゆらりと立ち上がる。
 先ほどまでの緩んだ様子は消え、め付ける目は三白眼で凄絶な気配を身にまとっている。
 ――どのようにして二間も離れた五寸釘を斬ったのか。
 鉄太郎は息を飲んだ。
 すでに市が紅之丞と対峙していた。
「市、気をつけろ」
 鉄太郎が声をあげた時には、市は居合抜きから数合、紅之丞と斬り結んだ。
 市の瞬息の斬撃を、紅之丞はすべて受け切った。
「かなり速いが。これならどうだ」
 紅之丞が右足を引いて半身はんみになって突きを繰り出す。
 こちらも瞬息の突き。それも一回ではなく二回、三回と連撃だ。
 市は刀で受けきることができず、身体をなんとかかわす。
 しかし、右肩や左脇腹のあたりを少し斬りつけられている。
 その間、紅之丞はうっすらと笑みすら浮かべている。
 ――まずい。
 鉄太郎は、市と向かい合っている紅之丞に斬りつけた。
 紅之丞は片手で握る刀で受けた。
 鉄太郎の腕に痺れが走った。速さだけではなく、力強さもある剣力けんりょく。月ノ輪紅之丞が尋常でない剣の使い手であることを実感した。
 紅之丞はにやりと笑う。
「山岡鉄太郎。ふむ、噂通りかなりの太刀筋ではあるが。弱い弱い」
 紅之丞が鉄太郎の刀を押し返す。
 体格的には紅之丞より一回りは大きな鉄太郎の身体が、いともあっさりと数歩下がらざるを得なかった。
 紅之丞は刀を大きく振って、鉄太郎たちを退かせた。
 そして刀の切っ先を鉄太郎、市、正雪、石松、と順に向けた。
「待っておれ。一人ずつ始末してくれる」
 鉄太郎にはその言葉が偽りではないことが分かる。
 ――どうする。
 紅之丞は足元にうつ伏せに倒れている五寸釘に目をやった。
「まずは念のためにこの男に止めを刺しておくとするか」
 右足で五寸釘の身体を仰向けにさせた。
 五寸釘の口はいつもの釘――五寸釘を咥えていた。ただし先端を紅之丞に向けて。
 歯で五寸釘を噛みながら、口をつりあげて喜悦の笑みを浮かべていた。
「む」
 紅之丞が訝しい目を向けた時には、五寸釘が頬を膨らませて釘を吹き飛ばしていた。
「が!」
 紅之丞が左目を押さえる。その左目に五寸釘が突き刺さっていた。
 だが、紅之丞は走った。お満の方に。刀を持たない左手でお満の腕を掴んだ。
 刀を持った右手は釘の刺さった左目を押さえている。
「近づけばこの女を斬る!」
 紅之丞が絶叫する。
「まて。お満、いや、益満休之助は立会人だぞ」
 鉄太郎は仲間たちが動こうとするのを制する。
「わたしを捕らえても無駄です」
 お満が紅之丞に言う。
 忍びであるお満が逃げ出せないところを見ると、紅之丞の手は鉄環のようにお満の腕を絞めつけているのであろう。
「そうかな。あながち無駄ではないようだぞ。見よ、彼奴きゃつらは動けぬではないか」
 紅之丞はもともと金嶽剛斎の血を頭から浴びている。その上に自分の左目から血が滴って凄絶な形相になっていた。
 その紅之丞の姿と、お満が捕らえられている状況に、鉄太郎たちは誰一人として動くことができない。
「うふふ。この女はいただいていく。無事に返してほしくばこちらからの言伝ことづてを待て」
「なんだと」
 鉄太郎はかすれた声を出すのが精一杯であった。
「貴様ら百を数えるまでそこを動くなよ」
 紅之丞はゆっくりさがって行き、次第に駆ける速さで杉並木の街道を小田原宿の方に去って行った。
 鉄太郎は月ノ輪紅之丞とお満の姿が消えたのを見届けてから、五寸釘に駆け寄った。
 正雪たちも集まって来る。
「せ、先生……」
「五寸釘、何もしゃべるな」
「先生。あいつが……刀から飛ばす血に気を付けてくだせえ……」
 五寸釘はゆっくり目を閉じた。
 鉄太郎があらためると、五寸釘はすでに息をしていなかった。
 先ほどは死力をふり絞って口から五寸釘を吹いたのであろう。
 その死顔は満足そうな笑みを浮かべていた。
「五寸釘、すまぬ」
 鉄太郎は片手拝みでしばらく瞑目した。
「お気になさらずに。これがわたしたちの仕事です。先生を無事に駿府に届けるために、すでに命は捨てています」
 正雪の言葉に鉄太郎は何も返すことができなかった。
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